上 - みる会図書館


検索対象: アマゾン河の博物学者
496件見つかりました。

1. アマゾン河の博物学者

音などが、教会堂における盛大な宗教的な礼拝のほかに、 ハの南の国ぐにで、これ さらにつけ加えられる。ヨーロッ に似た儀式を見たことのある人びとには、ただそれが、熱 帯の華麗な自然の真ただ中で、とり行なわれているのだと いうことを除けば、おそらくここの行事に格別とりたてて 言うほどのことはないであろう。しかしながら、私にとっ ては、すべてが珍しく、その上、人びとの儀礼の風変わり なところがナ こくさん見られてひとしお興味深かった。祭 は、諸聖人にゆかりの様ざまなできごとの年祭か、キリス トの一生における重要な事績を祝ういずれかである。独立 すでに述べたような、私がまる十八ヶ月間も過ごした。 ( フラジル国の国史の上で重要な事件に関係した、 以後は、・ ラの話を終わる前に、これまでごく簡単に触れただけの、 住民の習俗と、近郊の動物に関係ある、二、三の問題をさ多くの祝祭日がこれに加えられたが、しかしそのいずれも らに詳しくここに説明しておく必要があろうかと思う。一半ば宗教的な性質を帯びたものである。一八五二年に至り、 八五九年頃のパラの貿易と、改善された生活事情について祭日があまり多くなりすぎたため、貿易産業の上に色いろ の支障が生じてきたということで、そのうちの比較的重要 は、この本の終わりのほうで語られるはずである。 でないものを、いくつか廃止するために、ブラジル政府は われわれが滞在を開始して、初めの数週間の間に、この 日 町の人びとの時間と心のおおかたを占有する、あの宗教上ローマのカトリック総本山から、必要な認可をとりつけた 祝 ののお祭がいくつか催された。これらは素晴らしい行事であ上で、やむなくこれを削減した。こうして残 0 た多くの祝 教った。数千という人びとが参加して、街まちを練り歩く趣祭日もまた、鉄道や汽船が導入され、人びとの商業への関 宗 心がたかまるにつれて、しだいに重要性が減少しつつある 向をこらした行列、軍隊の行進、花火の爆音さらに軍楽の 第三章一 宗教上の祝祭日・ーーマーモセット科の猿 蛇ーー昆虫 0 、

2. アマゾン河の博物学者

さな掘立て小屋をわれわれのために建ててくれた。その下は、水の下に入ってしまうぎりぎりのところである。この に私とカルドーゾは ( ンモ , クを吊 0 た。しかしわれわれことから誰しも、亀は産卵場所を常にあらかじめ考慮に入 は、夕食が終わった後も、まん中に一瓶のラム酒を置いてれて選択しているものと思うであろう。しかしこれは、動 砂の上に横になり、カレ。ヒラの話を楽しく聞いて夜半過ぎ物における生得的な習性が、意識的予見と同し結果をもた らす多くの事例のほんのひとつに過ぎない。夜半から夜明 まで眠らず、静かな時を過ごした。 、 ( ンモックから起けまでが最も忙しい時間である。亀は広い水掻きのある後 私は寒さにふるえながら夜明け前に き出した。夜間砂からの大きな熱の放散があるために、砂脚で、細かい砂に穴を掘る。それそれの場合、最初に来た 島は明け方に向か 0 て温度が下がり、気象学的には最も寒ものが約三インチの深さに穴を掘り、数にして約一二〇ケ ほどの卵を産み、その上に砂をかぶせる。二番目のものが、 冷な場所となる。カルドーゾと他の人びとはすでに亀の監 視についていた。監視人はその仕事のために、彼らの寝泊その前の穴の上にさらに産卵する。このようにあらゆる穴 、つばいになるまで産卵が続けられる。ひとつの砂島に 1 トのところがし りする場所の近くの高い木の上、約五〇フィ に足場を作り、そこ〈の昇降は木質のつる植物で大ざ 0 ば大群をなして、常に集まる全体の亀の産卵は、ま 0 たく中 に作られた梯子によ 0 ていた。彼らはこの監視塔から亀が断されることがなか 0 た場合でも、一四 ~ 一五日以内には 上が 0 てくる状況を観察し、その結果から産卵が続けられ終わらない。すべての産卵が終わ 0 た時、亀たちが掘 0 た た日を確認した上で、 = ガの人びとに対する亀漁の解禁日その部分 ( プラジル語でタバレイロ竃 ba 一。まといわれる ) は、 砂が少しばかりかき乱されている程度の痕跡によって、産 事を設定するための情報を監督官に提供しているのである。 卵されない場所との区別がかろうじて可能である。 の亀は夜のうちに水から上がって来て産卵する。邪魔するも 日の出と共に私は仲間に加わるために出かけた。私のア 監のが何もない時は、大きな群れをなして、砂島の中央の最 島も高い所にはい上がる。もちろんこれらの場所は、卵が砂マゾンにおけるいくつかの散策の思い出は、この冷たい朝 砂 の熱でふ化する前に、異常な氾濫で川の水位が上昇した時の海のような、白い砂浜の海の上を歩いたこれよりも、も 319

3. アマゾン河の博物学者

樹上生活型の翅目昆虫 が、樹上生活型になってくるもうひとつの事例を、ここに 提供しているからである。つまりそこは、はかり知れない 地質学的時間が経過する過程で、森林でおおわれた土地に 対する、緩慢な適応を動物相に方向づけるような、ひとっ の環境なのである。

4. アマゾン河の博物学者

が、リアス L 統の地層の中に化石となって埋没してい われわれは大変道草をした。そして夜明けになってもまだ 行 る魚竜 lchthyosau 「一の遺骸を私に思い起こさせた。私は保 森に達せず、砂の上を歩いていた。砂はこの早朝の時間に のは、はだしの足に非常に冷めたかった。物が見分けられる存状態のよい骨骼のある場所のひとつに目じるしをつけて 'a ようになって、われわれがそこに見たものは、砂島の表面おいて、次の日これを取りに行った。この標本は現在大英 工を点々と色どる小さな黒い物体であった。これは孵化した博物館に保管されている。またジャガーの足踏がたくさん ばかりのアイユッサ亀で、彼らは少くとも一マイルの距離砂の上にあった。 章 太陽が川下はるかかなたの樹木の上に顔を出したので、 を、まったく偏ることなく一直線に水に向かって匍い出し て行くところであった。この種類の子亀は、胸甲の両側のわれわれは森に入った。一行はその後すぐ二手に分われ、 私はペントの率いる組について行くことにした。彼はエガ 縁が盛り上がっていることによって、大亀およびトラカジ の大工で、森の事情にも明かるい主要な人物である。少し ヤのそれと区別できる。この縁のために匍った後の砂上に は、二本の平行線が描かれる。この小さな亀のロの中は砂ばかり歩いたところで、その周囲に草を生やし、綺麗な暗 、、小さな湖の岸に突き当たった。水 色の水を湛えた美しし でいつばいであった。これは孵化してから、上に載ってい る数インチの砂の層を、表面まで匍い上がる過程で、砂を面には水蓮の群落の厚い層が浮いていた。それから泥質の かむためである。彼らの頭を反対の方向に向けて砂の上に入江、すなわち湖に流入する水路を横切った。そして自分 おいても、ふたたび遠く離れた川の方に一定して向きを変たちがレスティンガ、つまり二つの水域の間に横たわる陸 えることを観察し得たのは、興味深かかった。われわれは地の舌 ( 岬 ) の上にいることがわかった。われわれはこれら また、砂にうずもれたいくつかのオオカイマンの骨骼を見のいずれかひとつを見失わないようにしておれば、道に迷 つけた。若干は硬化したもので、またあるものはほとんど う心配はなく、それ以外注意すべきことは何もなかった。 完全に骨骼たけになってしまっていた。それらは青色の泥森は下層林がほとんどなかったので、通り抜けは容易であ 層の代わりに、細かい砂に埋もれているという相違はある いくらも行かないうちにムトウン Mütum 、すなわち 342

5. アマゾン河の博物学者

ているのであった。 われわれは、船を岸から遠のかせようと手を貸して、綱を 二十二日の夜、月が霧のかかった暈をかぶって現れた。 長く繰り出した。うまく離れることのできた堅牢な船は、 水気を含んた風が吹い われわれが寝につくと、勢のいい、 岸辺からはるか遠くの激流の中へ落ちて行った。ジョワキ て来て、風とは反対方向の川の上に、黒雲の山が盛り上が ンは船がその突っ先をぬけ出る時、第一斜檣づたいに機敏 って来た。私はこれは大雨になるが、それでもみなが大急 に泳ぎついた。たまたま倒木の心配のない傾斜した粘土の ぎで船室にかけこむくらいのことだろうと、たかをくくっ岸にいたことが、われわれに幸いしたのだ。数ャ 1 ド先の 水際が切り立って、・ほろぼろの土でできているところでは、 ていた。男たちは、堅い粘土質の川沿いの樹に、船を繋い でおいた。そして晩飯がすむと、みな揚け甲板の上にごろその軟弱な土壌の大部分が、その上の森林もろとも押し流 されていた。巻き起こる騒ぎは、かくして嵐の恐怖をます ごろと横になって早くも眠ってしまった。十一時頃私は、 ます大きくした。 恐ろしい唸り声に目を覚した。暴風が突如として対岸から 風の猛威は、一時間ばかりで弱まったが、豪雨は翌朝の 吹きまくって来たのである。クベルタはしたたか粘土の岸 三時頃まで続いた。空はほとんど絶え間なしに、青白い稲 へほうりつけられた。ペンナはびつくりして起き上がり、 トロヴォアーダデンマ trovoada de cima ( そら、川上から狂風が来たそ ) と大声で叫光りに照らし出され、雷鳴は引っきりなしに左右に轟いて いた。われわれの衣類も 、ハンモックも、荷物も、板の間 んだ。われわれはハンモックを下ろし、それから全員で船 を通して漏れてくる水で、完全にぐしょぐしょに濡れてし がこなごなにならないようたち回った。月は沈んだ。里い まった。朝が来てすべてが静寂に戻った。しかし不透明な 雲の幕が、どす暗い森林や川の上に広がった。すさまじい どんよりした雲の塊が、空一面に広がっていて、実に気も 風雷鳴が頭上で炸烈して、どしゃぶりの雨が降り出した。ジ の ョワキンは丈夫な棒を持って、溺れるような水しぶきの中心も減入るような、荒涼たる風景の上に、一種憂鬱な影を 阯を岸へ跳び移り、クベルタを何とかして、ある小さな突出なげかけていた。こうした西方からの狂風は、下アマゾン 部を回してぬけさせようと試みた。い ~ つまう甲板のにうの のこの中央部では、乾季が明ける頃、いつもあるものとさ かさ 155

6. アマゾン河の博物学者

第 4 章ートカンティンス川とカメタ 4 プい三一「ニ 長い棒の先に、丈夫な水掻きが て人家を訪ねた。こうした家は川岸にも、大きな島じまに 木質のかずらでしばりつけたも もたくさん建っていた。これらの家は低地の木の杭の上に、 のである。男たちは、船の前部高く簡単な骨組だけをこしらえ、ウブスーヤシの葉で屋根 についている、アーチ型の覆い をふいただけという、きわめて未完成の外観を呈していた。 の上に、二、三枚の荒けずりの厚板をおいて作りつけた、 家を建てるのに、もうひとつの椰子、すなわちアサイヤシ 少し高い甲板の上に陣取って、船尾の方へ背をむけて漕ぐ E ミミ、 0 、ミ、ミミがもつばら用いられる。この椰子の幹の のである。われわれは午前六時に出発した。そして陽の落外部は、角のように硬くて強靱である。これが細い板に挽 ちる頃、カメタを後にしてから、ずっと船を進めてきた川 き割りされ、大部分の壁と床をはるのに用いられる。居住 の西側の水道が、まん中のさらに広い水道と合して、それ者たちの話では、この西水道は、晴天の季節の中頃には、 とそこでひとつの広い水面をなしているところに達した。 ほとんど乾き上がるけれど、四月、五月の氾濫の最高時に ここでは、たくさんの島が、きれいにきちんと二列に並ん は、川の水は家の床まで来るということである。川底はど で、この大河を三つの水道に分けていた。ゅ 0 くりと進みこも砂で、この地方はま 0 たくの健康地である。人びとは ながら、われわれはモンタリアを使 0 て、時折陸に上が 0 す 0 かり満ちたりて、幸福そうに見えた。とはいえ、怠情

7. アマゾン河の博物学者

第 3 章ー めであろう。彼らの集まる日陰の場所を、根気よく探すと、 ノ 4 いろんな科の種を、何百と見つけることができる。隠角類 すなわち食肉性昆虫を、広びろとした、日が照りつけると マム 4 ソウ川 ころでよ、 冫いくら石の下や何かを探してみても無駄である。 ロト クア / 普通、英国や、そのほかの温帯の国ぐにに多い、この面白 マュ い仲間の地上生活型は、。、 , ラの近郊では少なく、事実、私 ぐ姿をかくしてしまう。またけばけばしい色彩の多様な蜘はたった四、五種見ただけであった。いク つまう純粋の樹上 蛛の数も、いささか注目に価するものであった。ある種は性のものはむしろ多かった。これと反対のことが、北緯度 葉柄の付け根に体を折りたたんで止まり、花の蕾に似せ、 で起こっていて、そこでは大多数の属や種が、もつばら地 餌食となる虫を欺していた。最も異様な形をした蜘蛛は、 上生活型である。樹上生活型のものは、肢の構造によって アクロンマ属。、ミの一種で、これは長さ一インチ半区別される。これらは、枝や葉によじのぼり、ぶら下がる もある湾曲した二本の真鋳色の針を、腹の先から突き出し ことができるように、広い、海綿状の蹠節と、鋸歯状の爪 ている。大きな巣を織るけれども、この奇怪な付属器は、 を備えている。地上生活型の甲虫の顕著な稀少性は、疑い 見たところ仕事の邪魔にはま 0 たくならない。しかしそのもなく、蟻と白蟻が多いためである。これは日陰の場所に 用途は何であるのか、私にははっきりわからない。 は地表一インチごとに生息していて、鞘翅目の幼虫を撲絶 鞘翅目昆虫、すなわち甲虫類は、最初は大変少ないので してしまうことも間違いないようである。その上これらの オしカ A 」田 5 っこ。 ナこの表面上の稀少性は、他の赤道直下活発な虫は、甲虫と同様の機能を有している。したがって の国ぐにではどこでも認められている事実であるが、おそ甲虫の存在は不必要にな 0 てくる。食肉性昆虫の大部分が らく太陽熱が強すぎるため、ヨー 0 〉パではあれほど顕著登攀型であるということは、興味あることである。なぜな なものになっている、あの直射光線下での生活が難しいた らば、この事実は、赤道アメリカにおいては、動物の形態

8. アマゾン河の博物学者

ス銀貨ほどの大きさの木の葉が、蟻に見捨てられて、通路 よく調べてみると、それに使われた土というのは、非常に 細かい砂礫からな 0 ていて、その上、漆喰も使わずに固めのうえに、しかもどのコロ = ーからも少しずつ離れた場所 られており、しかもいくつもの小さな斜堤頂や小塔の列をに、うず高く積 0 ているのを見た。こうした葉の山は、翌 形成していることがわか「た。それらの色が、付近のそれ日また行 0 て見ると、いつもきれいに片づけられていた。 と異なっているのは、それがかなり深いところから連び上そののち、私は彼らの仕事の様子を観察する機会をたくさ ん持った。彼らは群れをなして木に登るが、それらはすべ げられた下層土でできているためである。この蟻たちがこ て小型働き蟻である。それそれが木の葉の上にのって、鋭 の土饅頭の上で働いているのを見かけることはごく稀で、 利な鋏のようなその大顎で、上側にほとんど半円形の切り 入口はおおむね閉ざされている。時たま何か特別の工事が こみを入れ、それからその端を大顎の間にはさんで、ぐい なされる時に、回廊は開けられる。入口は小さくて無数に ある。大きな塚になると、主要回廊に達するためには、実と引いて切り離す。時折その葉を地面にすべり落すことが に多くの掘割道が必要であろう。ところで、私は小型の塚ある。そのために他の蟻がこれをリレー式に運び去るまで、 の円屋根の部分をうまく取り除くことができた。そしてそそこに小さな堆積ができるわけである。しかしたいてい各 自が、自分の切り取った葉をくわえて行く。そしてみなコ の多くの小さな入口が、深さほぼ二フィートのところで、 ロニーに帰るまで同じ道を通るために、彼らの通路はたち ひとつの広い、直径四 ~ 五インチもある、綿密に仕上げら まちのうちに、つるつるにはげ上がってしまい、一見して、 れた回廊、すなわち坑道に集中していることを発見した。 サウバ蟻が、おびただしい量の木の葉を切り取「て運び草の上につけられた車輪の跡かと思われる。 忙しいこの小さな働き者たちの大群が、この仕事に熱中 道去るという習性は、昔から博物学の書物にも記載されてい 蟻ることである。彼らがこの仕事をしている時、ちょうどそしているところは、きわめて興味ある光景である。ただ困 ったことに、彼らはわざわざ栽培植物をねらってこれを食 の行列は、生の木の葉の大群が行進しているように見える。 サ 害する。この蟻は一属ことごとく植物加害種であると同時 所どころで私は、どれもみな円形に切り取られた、六ペン はさみ

9. アマゾン河の博物学者

第 12 章ーエガの付近の動物 ある。生物体、各自に登 た っ 録されたすべての変化を 、刀 下繭 正確にその上に記録して れの 垂蛾 いるのである。さらに、 諸特徴が明確であるのは、多分に翅の上の同じ色彩の紋様は一般に、大きな規則性をもって、 生物体におけるすべての変化の外種の血縁の程度を示している。自然の法則は、すべての生 面的の表現が誇張されていること物体に対して共通であらねばならないから、この蝶という 一群の昆虫から得られた結論は、全生物世界に適用される と、その構造、形、そして色彩な はずである。それゆえ上調子で軽薄な典型として選ばれた どの入り組んだ翅が、著しく平面 的であることに負っている。昆虫生物である蝶の研究は、軽蔑されるどころか、他日、生物 の翅は、多くの解剖学者が信じて科学の最も重要な分野のひとっとして、その価値が見直さ いるように、胸部に存在する呼吸れるであろう。 開口部の周りの皮膚が、巨大な形 蟻のことを述べる前に、 工ガで発見されたある蛾の幼虫 まゆ に広がったものである。こうした たちが、繭を作る際の特異な習性と、作られたその繭につ 膨張した部分は、微小な羽毛、す いて、少しばかり書き記しておきたい。その第一の事例は、 なわち鱗片でおおわれ、きまった紋様に彩色されている。 私が今までに見たことのある昆虫の営繭の技量では、最も そしてこの紋様は、それそれの種が生息する周囲の条件の美事なもののひとつである。大きさはほぼ雀の卵ぐらいで、 わずかな変化にも対応して変わっている。すなわち自然は、 淡黄色か薔薇色、いずれかの絹糸でつむがれた、粗い網目 これらの伸び広がった膜の上に、あたかも銘板に彫りつけの繭である。しばしば森の中の狭い小路のほとりで見られ、 ひも るのと同じように、種の変異の物語を書き記しているので突き出た葉の最尖端から長さ五 ~ 六インチの丈夫な絹の紐

10. アマゾン河の博物学者

ということであった。そのひとつ、マカコ・プノゴ Macaco かなり以前のことであるが、最近になってようやく、政府 ス オ prego 、すなわちフサオマキザルの一亜種 Cebus ~ ぶこ g はこれまでの、手におえない未開人たちの馴化を目的に、 マ 、 (=C. 斗ミこが、最も厚かましい泥棒で、そのでた 、り ここに一人の住民監督官を置いた。しかしながら、これは らめでせつかちなやり口で、むしり取るやら折り取るやら、 ス かえって内陸の諸水流に臨んだ人跡稀れな故地に、彼らを ビ食べるより余分に荒しまわり、その上、森へ引き揚げる時追いやることにしかならなかったようで、すでに多くの家 にはまた手に持てるだけ、腕に抱えられるだけ持ち去って族が引き揚げてしまっていた。普通の栽培樹木や草木の欠 ン 行く。もうひとつの可愛、 しい小さなリスザルのほうは、そ ゾ 如は、村の様子を寒ざむとみす・ほらしいものにしていた。 アの場で食べられるだけ食べたら満足する。幅の広い、軟か私はそのあばら屋のひとつに入ってみたが、そこには数人 い緑の木の葉の天蓋からもれる、予期せぬ陽の光が、ちらの女が炊事仕事をしていた。天井の低い部屋のまん中で焚 そ - フよう 章ちらときらめく簇葉の上では、様ざまな美しい昆虫が日なれていた火の上で、大きな魚の切身をいくつか焼いていた。 はらわた 第 たぼっこをしていた。それからまた青草の上では、優雅な、その腸が床の上に散らかっていたが、女たちは平気でそ はんみよう 長い足を持った斑猫の一種、オドントケイラ・エグレギアこへ子供といっしょにしやがみこんでいた。彼女たちは臆 0 ミ。。。安。ミがたくさん駆け回り、飛び回っていた。病で、表情は疑い深く、体は蚊除けのため黒い泥で汚なく 一月八日、われわれはここを出発、九日の午後ムラ族イ塗りたくっていた。子供たちは裸であったが、女たちは、 ンディアンの住む、みす・ほらしい小さな部落、マタリ Ma ・裾のまわりをぼろぼろに裂いて、ある種の樹の皮から作ら tari に着いた。ここでまた船をとめて上陸。この村には二れる染料のムリシ mur 一 x 一で、しみ状に染めた腰布をまとっ 〇戸ばかりの、かろうじて建っているような泥小屋があっ ていた。そのなかの一人は、猿の歯で作った首飾りをつけ たが、背後の豪奢な森林とは裏腹に、これはいかにも打ちていた。家財道具としてほとんどなく、隅に吊った草を編 捨てられたという感じであった。これらインディアンの一 んで作った二つの汚れたハンモックのほかは、がらんとし 団は、ここの放棄された伝導本部跡に居住し始めたのは、 ていた。普通、家の裏にあるあのマンディオカ小屋も、そ 180