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検索対象: アマゾン河の博物学者
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1. アマゾン河の博物学者

ぎあったけれども、砂島ではいかなる無作法も見なかつつ たい何の魚かと、輪の中の者に質問をなげかける。これに 畩た。酒盛りは小屋の近くで行なわれた。そこにはもっと真対して輪の中の者は答えなければならない。答え終えると 3 面目な = ガの市民、すなわち妻や若い娘たちを連れて来て人の輪に突進し、うまく逃げおおせたらこれで一段落する。 近 のいる男たちがみな、長い。 ( イ。フを大真面目にくゆらしながそれを逃がした者が、今度は中央の場所につかなければな 工ら ( ンモックに坐り、この大騒ぎを楽しそうに眺めていた。 らない。行進と合唱はそれからふたたび始められる。この 夜半に向かって、悪ふざけや笑いの繰り返される合間に、 ようにしてこの遊戯は幾時間も幾時間も続けられる。たい 章 、トウビ語が用いられるが、時としてポルトガル語で歌 しばしば砂島の奥深いジャングルを、餌を求めて徘徊するてし ジャガーのしわがれた咆哮を聞いた。若者の中には、数人われ、そして語られた。踊りの細部はしばしば変わった。 のギター奏者がいた。そしてそのひとりはなかなか根気強魚の名前が輪の中の者によって呼ばれる代わりに、動物や 花、あるいはその他のものの名前が、中央に新しく据えら い弾き手で、音楽は絶えることがなかった。 若者たちの間で、最も人気のある遊びはビラⅡプラセイれた者に与えられた。これはその人間にふさわしいあだ名 ャ Pira ・ purasséy 「 a すなわち魚踊りと言われるもので、現在を思いっかせるよい機会でもあった。何か特別に壺を突い ではたぶん多少は修正されているであろうが、これはイン た素晴らしいあだ名が出た時は、どっと笑い声が上がった。 ディアン本来の古くからの遊びのひとつである。これは魚 このようにして、たとえば非常にひょろひょろ細長い青年 にたとえた仲間のひとりを中央に残し、若い男女が入り混はマゴアリ、すなわちシロエンビコウと呼ばれた。漫画風 じって輪を作り、一列縦隊になって円形に進む。楽器をな に描かれた一種の魚を思わせる横顔の、涙もろい灰色の眼 らすものはこれに合わせて演奏し、単調な、しかし大変美をした男は、ジャラキ Jarak 一という魚の名前を頂戴した。 しい合唱が混声で歌われる。この歌詞は先導者の役をつと これはまことに的を得たしゃれだと考えられた。きらきら める仲間のひとりによって、一定の形に即興される。これ輝く眼と褐色の髪を持った、小さなマメルコの少女はロー が終わるとみな、手をつないで、彼、あるいは彼女がいっ ザ・ブランカ Rosa branca 、すなわち″白バラ″という、大

2. アマゾン河の博物学者

ことができたのは、大きな喜びであった。この大きさ、色、雌は冠毛と肉垂の痕跡を持っているだけで、雄より全体に 行 からす 畩外形は英国で普通に見られる烏に似ている。しかしその頭 くすんだ色をしている。この鳥は上アマゾンの平原、とく のは長い裸の羽柄を持った、長く曲が 0 た毛のような羽の冠にイガポの森に限って分布しているようで、リオ・ネグロ 'G 毛で飾られている。これを立てた時、頭の上に開いた日傘 川の東では発見されていない。 工の形にかぶさる。そしてまた。ヘルリーヌのような光沢のあ べントとわれわれの仲間は、この鳳冠鳥以外、別に狩猟 るはがね色の羽の、厚い東の形をした変わった飾りを、その対象となるような物は、事実何も発見できす、失望のま 章 の頸から下げている。これは長い肉質の丸く出張った袋、 まここで引き返すことにきめた。森の縁に達したところで、 すなわち突出物の上に生えた羽毛である。標本を作るため木陰に坐って食事を取った。みなそれそれ少量のファリニ にその皮を剥す過程で発見したことであるが、異常に発達アと、魚の油揚げ一切れ、焼いた亀を小さな袋に入れて持 したこの突出物は、気管と発声器官に連結している。この って来ていた。われわれは正午に他の隊と落ち合うはずで 鳥の異様に深みのある、大きなそして長く続く笛に似た鳴 あったが、一時まで待っても彼らは誰も現われなかった。 き声は、疑いもなくこの器官のこうした構造に負っている事実彼らは一 5 二時間早く小屋に帰 0 ていたのである。わ のである。この変わった鳥のインディアン名をウイラⅡ れわれは砂島を横切り、野営地に向かって出発した。ここ ンペウ Uirå・ mimbéu 、すなわち横笛を吹く鳥というのは、 には障害物となるようなものは何もなかった。雲ひとつな その声の調子を言い当てたものである。わずかな時間静か い空から、太陽は風によってその熱が和らげられることも にしていたところ、幸いに、これが鳴き出してその声を聞 なしに、一日中照り輝いていた。そして砂はわれわれの裸 くことができた。鳥は止まり木に止まって、傘の形をした 足ではその上を歩くこともできぬほど、熱せられていた。 冠毛を広く拡け、その光沢のある胸の肉垂を膨張させ波打最大限に鍛えられた仲間たちの足の裏も、この燃えるよう リコニア属 たせながら、その甲高い鳴き声を発し、そしてその度に頭な砂には耐えられなかった。走ってみたり、ヘ をゆっくりと前方に下げた。われわれは雌雄一対を得た。 植物の冷たい葉で、足の周りを包んでみたり、いろいろ試 344

3. アマゾン河の博物学者

で広がっている。高い樹ぎの突き出た大枝から、天然の花の老人は、とあるところで私を陸に上げて、パシウバ揶子 湾 2 なづ 4 は 一環や花綵が吊り下げられていた。そして無数の様ざまなっ の根を見せてくれた。根は地面の上に伸びていて、幹から ジ る植物が、水際をおおいつくしていた。中でもとくにツリ たくさんの足を地表に張り出し、あたかも樹は竹馬にでも とガネカズラ属の植物が大きな華かな色どりの花乗っているかのように見えた。そしてある老木では、その を飾りつけていた。人間の業では、自然がここで造りなし根の中で人一人が垂直の幹を頭上にして、直立することが カ たような調和のとれた、樹木の美しさを整えることはとうできた。木の幹の方はまったく平滑であるが、真直ぐな棒 章 ていできないであろう。おおむね、椰子が低相林の大部分のような根には、堅い棘が散りばめられ、いっそう風変わ 第 ートある を形成していた。それらのいくつかは、六〇フィ りな外観を呈していた。この奇妙な代物の目的は、おそら いはそれ以上もその細い幹をそびえ立たせていた。そしてくすでに述べた板根と同じようなものであろうーーーすなわ われわれと空の間で、ひとむらの下に垂れた鳥の羽のようち、隣の木の根との競合で、地下に根を伸ばすことができ な葉が、ゆれ動いていた。いずれの場所よりも、はるかに ないために、地上に伸びた根によってその償いを果たして この土地にたくさん生えているパシウバ Pashiüba と呼ば いるのである。大気中に含まれる大量の湿気と栄養分が、 れる椰子の一種、イリアルテア・エクンリザ 7 ュミ、き 0 ・ またこれらの発育に適しているのかもしれない。 導はとくにわれわれの眼を惹いた。これは一番高い椰 家に帰ると、ペッエルが日中の暑い時間に、近所の開墾 子の仲間のひとつではない。なぜならば、充分に成長した 地で昆虫を集めておいてくれた。親切な主人たちは、五時 ものでも、おそらく四〇フィート以上にはならないであろ頃コーヒーを一杯御馳走してくれた。それからわれわれは う。葉は多少垂れ下がる程度で、葉片は他の椰子よりもは 帰途についた。われわれは、終わりの一マイルほどは暗闇 るかに幅ひろである。したがって、この種の椰子のいくっ の中を歩いた。このあたりの森林は日中でも薄暗い。しか かが持っているような羽毛状の外観は呈していない。しか し私はその夜、まさかこのような真暗闇の中を歩くとは思 しそれでもなお、それは特有の美しさを持っていた。案内ってもいなかったので、何も準備はしていなかった。みん 1 12

4. アマゾン河の博物学者

こうした旅行では、乗客は自分自身で食糧を調達すること出した。肉は立方形に厚切りされ、各自が十数回そこそこ になっていた。なぜならば、重たい貨物、すなわち彼らがを長い棒にさした。火が焚かれ、木の串は地上につきささ い 0 しょに持 0 ている荷物の料金以外は、無料た 0 たかられ、焼くために炎の上に斜めにたてかけられた。雨がずー っとシトシトと降っていた。火の回りの地上に散乱した内 茶 である。ポルトガル人と私は、豆、砂糖、ビスケット、 などの若干の贅沢品を持 0 て来ていた。しかしわれわれは臓や、粘液にひきつけられて刺蟻が群らが 0 ていた。肉は 非常に粗悪な豚肉の味に多少似ていた。しかし、赤味の部 二人の仲間と水先案内人に、それらを分けてやることをほ 分の間にある厚い脂肪の層は緑色をしており、不快な魚臭 ぼ義務づけられてしまっていた。そして船旅の三分の一が 終わる前に、これらの品の小さな貯えのおおかたはなくなを持 0 ていた。大型の個体で、体長はほとんど一〇フィ ートあった。マ トに達し、一番広い部分で胴回りが六フィ っていた。代わりに彼らが捕って来たものは何でも分けて ナティーは普段よく見られているのにかかわらず、インデ もらえた。時に彼らの収穫はきわめて少なかった。なぜな ィアンたちの鈍重な驚異の念と好奇心とを、かろうじてか らば、水位の高い季節には、入江とどこまでも続く水溜り や、あるいは湖の間に横たわる低地が、主流からの水できたてる数少ない動物のひとつである。魚に似た水生哺乳 あふれ、そのあたりの水域は一〇倍に広が 0 て、魚が分散動物であるが、その胸に子供をかかえて哺乳するそのしぐ さが、いささか大変奇妙なものとして、彼らに印象づけて してしまうために、これを取ることが大変困難になるから いるようである。それは仰向けに横たえられていたから、 である。しかしながら、たいていの日は彼らは二、三匹の 一素晴らしい魚を下げて来た。彼らは一度、ア「ゾンナテ広い円形の頭と鼻ずら、先細りした体、そしてなめらかで ティー T 、ミ。。ぎ : ミ (=vacca ミュき ) を銛で獲って来厚く鉛色の皮膚を持った動物は、暗いなめらかな石を塑材 にして、人間の姿に形づくられたエジ。フトの墓のミイラの ンた。このマナティーを獲物に持って来た時、われわれはそ 石棺を私に思い起こさせた。 の日を完全に休みにした。舟を六 ~ 七時間とめておいて、 ア ひどい食事、監禁同様の船の生活、たびたびのどしゃ降 みなのものがその皮をはぎ、料理を手伝うために森に繰り 271

5. アマゾン河の博物学者

た状態で生息している。亀とアイユッサは数日かけて自力しいことではない。その用心にカルドーゾと私は、弾をこ トラカジャは居残めた銃を傍に砂の斜面に坐っていた。しかしお互いがかろ ではい出し、そして主流に逃げ出すが、 うじて認識できるほど、あたりは真暗であった。夜半に向 っているために、簡単に原住民に捕られ食べられてしまう。 普通これを捕えるには、日中数時間にわたって水面を棒でかって嵐がわれわれの周りに集中し出した。水上から吹い 徹底的に叩く。この作業は獲物を水から追い出す効果があていた弱い風は、太陽が沈んでからは止んでしまった。す る。しかしトラカジャが出て来るのは、打ち出しに続いてべての星がおおい隠されるまで、厚い雲がむくむくと湧き 夜を待ってからである。仲間のインディアンたちは、この上がってきた。青白い稲妻の閃光が、黒い塊の真中にきら 仕事にたくさんの時間を取られた。夜が来ると、彼らと監めき始めた。われわれはもう充分待ったと思うがと、私は 視人は、はい出して来たトラカジャをすぐ捕まえられるよ カルドーゾにそれとなく言って彼に煙草をすすめた。ちょ うに、水際に並んで間隔をおいて配置された。カルドーゾ うどその時、パタバタという速やかに動く音が砂の上でし た。とっさにわれわれ二人は、銃をつかんで立ち上がった。 と私は夕食後出かけ水溜りの端に陣取った。 こうしてわれわれは、いろいろと煩雑なことをしたわり何であれそれが、傍を通り過ぎるようであった。すぐその には、たくさんのトラカジャを捕えることはできなかった。後、黒い物体が、われわれのいる砂の谷間の、反対側の斜 その理由は一部、その夜の暗さに負っている。そして一部面を別の方向に動いて行くのが見えた。われわれは発火の は、自分たちはそんなことをしなかったと、異議を申し立用意をした。まず誤ってインディアンを射たないよう、 ケムヴァイラ ててはいたが、疑いもなく監視人たちが、すでにほとんど Quemvai lå? ( そこへ行くのは誰か ? ) と、大声で叫んだの 取りつくしてしまっていたためである。獲物を待ち伏せては幸いであった。それは無ロな監視人のダニエルであった。 ャ 、る司よ沈黙を守らなければならない。話は小声でしなけ彼は私たちにラボーサ Rap 。がここを通る足音を聞かなか ラればならない。獲物を求めて徘徊するジャガーが出て来そったかと控え目に聞いた。ラボーサとは野生の大の一種で、 非常に長い先細りした鼻づらをし、体に黒に白の斑点を持 うなところで、焚き火もなしに夜を過ごすのは、あまり楽 321

6. アマゾン河の博物学者

たく変わらない平和な規則正しい日課にしたがって、私は だ露にぬれている時に、水浴のために歩いて川へ下りて行 私の研究に従事した。私の旅の記録は、毎日の採集品に関った。午前中はいつも森で五 ~ 六時間採集をして過ごした。 する、覚え書きよりはさらに少し多めに、長い間書き続け森との境界は家から歩いてわずか五分ほどのところにあっ られた。私はエガでは乾燥した広びろとした小住宅を持っ た。三時から六時までの午後の暑い時間と、雨の日は、標 た。一番大きな部屋を仕事と研究のために当て、ここに大本の作製とラベルっけ、記録作り、解剖、写生に当てた。 きな机をおき、参考用の少しばかりの図書類は、荒削りの私はしばしば漕ぎ手のインディアンの少年といっしょに、 木の箱に入れて棚に並べた。標本を乾かすための籠は、こ 小さなモンタリアで短時間水上の探索も行なった。隣人た れをねらって下りて来る蟻を防ぐために、苦い植物の油をちは私がここで生活した最後の日まで、あらゆる種類の動 たつぶりしみ込ませた紐で、からつるした。鼠類は紐の物の、とくに昆虫の新しい種や、変わった形をした標本を 半分ほど下の部分に、クヤを逆向きにつけて鼠返しとした。次から次へと持ってきてくれた。 新しく採集したものと以前のものと比較するために、私は もちろん一ヨーロッパ人の住居としては、場所の快適さ 各種の雌雄と変種を含む私用のコレクションの大部分を、 に対する障害はいろいろとあった。しかし、これらはこの いつも手許に持っていた。私の家の内外は、商売をしてい 本の読者がたぶん想像しているような性質のものではない。 る原住民の家主によって、年にほぼ一回水漆喰で塗装され野生動物に襲われる危険はほとんどなかった。善良な、異 た。床は張られず土間のままであった。換気は申し分なく、 邦人に対する無礼な行為など稀な国において、原住民から 外気に対しても、その上時に雨も同様軒下の壁の最上部の の危険を考えるのは間違ったことだと、わざわざ反駁する 隙間から、また戸口の広い割れ目から自由に入ってきた。 のも馬鹿げていよう。しかしながら、ジャガーがある晩わ び の住居はこのように粗造りではあったけれども、私はこの家れわれの村に現れた。それはまったく異常なできごとに思 で ガで過ごしたたくさんの幸福な日びを、今楽しく追想するのわれた。人びとは鉄砲や弓矢を持って飛び出したほどの大 である。私はだいたい太陽と共に起き、草の生えた道がま騒ぎをしたが、結局、動物は逃走し、その後そうした話は ねずみ 279

7. アマゾン河の博物学者

思わなかったであろう。ある朝私は日の出前に、大砲の轟ルほど離れて、川のいつぼうの側から、進行中の崩壊の様 のきに似た常ならぬ音で眼をさました。私はこの時、船室の子を望見した。コロセウムほどの大きさの、たぶん高さ二 ートばかりの樹木を含む、森林の大きな塊が前後 ガ最上部でひとりで寝ていた。あたりは非常に暗かった。私〇〇フィ 一の仲間はみな眠 0 ていた。それで私は寝たままじ 0 と耳をに揺れて、次から次〈ま 0 さかさまに水中に倒れ込んでい すました。音はかなり遠くから聞こえて来た。それから私た。崩壊のあるごとに、それによって引き起こされた波は、 ゾ またもろい土の岸辺にもどって来ては、大変な力でその下 マを飛び立たさせたほどの、ガラガラとくずれ落ちる恐しい 上 音が続けざまに起こった。私が先ず思いついたことは、そ部を削り取り、次の森林の落下を引き起こしていた。地崩 章れは地震ではないかということであった。な・せならば、それの広がった川岸の線の長さは一 ~ 二マイルあった。しか しそのはずれの部分は、われわれの視界からは、その間に 第の夜はそよとも風が吹いておらず平穏であったが、広い丿 面は大変に波立っており、船はひどく揺れていたからであ横たわる島のために隠れて見えなかった。それはまさに壮 る。そのあとすぐ大きな爆発が起った。明らかに前のもの大な眺めであった。落下するごとに水煙が上がった。ひと よりずーっと近かった。爆発はそれから次つぎと続いて起っの場所における震動は、それからはるかに離れた他の樹 塊の崩壊を誘発していた。このようにして崩壊は続いた。 こった。ゴロゴロと雷鳴に似た轟音が前後に鳴り響いた。 今、身近に近づいて来るかと思うと、また遠のいて行った。やがては終わるであろうというかすかな予想を祕めながら、 突然の轟音は、しばしば途切れ途切れに続いた。あるいは前後左右に揺れていた。日の出から二時間、われわれの船 また長く尾を引く鈍いガラガラという音がした。二回目のが視界の外に滑り出した時も、崩壊はなお進んでいた。 爆発で、操舵席のそばで、高いびきで寝ていたヴィセンテ は起き上がり、あれは地崩れだと私に言った。しかし私は 船が本流を避けて通れるように都合よく横たわっている、 たくさんの狭くて小さな側流のひとつであるアラウアナⅡ かろうじて彼の言うことが信じられただけである。駁ぎが 約一時間ほど続いたころ夜が明けた。われわれは約三マイ イ Arauåna-i 循環支流を縫うようにして二十二日に通過し 276

8. アマゾン河の博物学者

ここの植生は、その大きな見事な羽状をした硬い葉を、 ・フルクロスとなった。それから二時間ほど午後の厳しい炎 ン レいきなり地表からもたけている、茎のない椰子、すなわち暑の間休息を取った。この豊かな土地における動物の多種 ン クルア Curuåと呼ばれるクルマー ・ピランカ 0 ミ (= 多様なことは、植物のそれに劣らず、驚嘆に値するもので サ 当ミミ ) s c 、ミ s が多く、そのため一種独特の景観を呈あった。一日のうちでも暑い盛り、仲間の者たちが眠って 8 している。この椰子の実は、ココヤシによく似ていて、核 いる間に、寝ころんで動物たちの行動を観察するのも楽し の中にミルクを持ってはいるが、形ははるかに小さい。こ い仕事であった。時折、草深い場所に小さな群れをなして いのあたり、そして事実、道沿いにはすーっと、雨季には棲んでいる、つやつやした黒の羽毛のある鳥、アヌー Anü たていの日にわれわれはジャガーの足跡を見た。しかしな と呼ぶオオハシカッコウ属 C き、の群れが、カンポ がらサンタレンでは、夜分家で ( ンモックに横になってい の方から、樹から樹を渡りながら、互に呼び合って、一羽 おおはし る間に、 このウーツ フという大きな声を時どき聞き、どこ また一羽とやって来ることがあった。また巨嘴鳥のヒムネ か家の近くに潜んでいるのに違いないとはわかっていたが、オオ ( シの一亜種ミミ、。 s ミミが一羽、樹の幹の裂 ついそわれわれはこの獣の姿を見かけたことはなかった。 け目や割れ目を覗き見ながら、木の枝づたいにまたその上 私にとって最上の猟場は、し つぼうが険しい丘の陰になをだまりこくって、びよんびよんと跳び回ったり、走り回 っている谷の一部分で、その丘の斜面は、下方の沼沢地か っていた。群れを作らない鳥たちの声が、荒野の遠くから ら成る谷と同じように、壮麗な森におおわれていた。われこだましていた。時たま、むつつり屋の絹羽鳥が、見事な われはいつも、まず蟻のいない、 水辺にも近 い、小さな開緑色と薔薇色の胸を見せて、低い木の枝に身動きひとっせ 墾地で休息をとることにしていた。めいめい異なる方向のず、小一時間もじっと止っているのを見ることがあった。 体長二フィ 森の中を駆け回って、骨の折れる朝の猟をすませた後で、 ートくらいの、大きなでっぷりした、原住民た われわれはここに集まり、地べたに座っておいしい食事をちがジャクアル Ja 。 ua 「 6 と呼んでいる蜥蝪の一種テイウス した。二枚の幅の広い野生。 ( ナナの葉が、われわれのテー ・テグエキシム T ま、 e ミミが、しんとした真昼時に、 210

9. アマゾン河の博物学者

えざる 始まった。主たる鳴き手は、何といっても吼猿だ。このも トレートのカシャサを、湯呑茶碗へ半分ずっ取ってアプレ ス オ abre 、すなわち″ロあけ〃というのをやった。それからピ のすごい不気味な咆吼は、宵闇がわれわれのまわりにせま マ ラレクと豆とべーコンをシチュ 1 にした食膳につくのであるにつれて、這いよってくる寂寥感をいやが上にも深めた。 、り スる。一週間に一、二度は、鶏と米を食べた。日没後の夕食すぐその後、実に多種多様な螢が現れて、樹木のまわりを ビには、日が暮れてから、男たちが捕って来た新鮮な魚に、 飛び交っていた。夜のふけるにつれて、森の中は、雨蛙の きりぎりすばった 一しばしばありつくことができた。午前中、正午までは、涼時折鳴く声か、螽撕や蝗虫のすだく単調な声のほかは、何 力しくて心地よかったが、午後はそれこそ、特に普段よくあもかも静まりかえってしまう。 マ アるあの薄明かるい、雲行きの怪しい日などは、暑さはほと 二十日とそれに続く二日間は、風が不安定なままに、船 んど耐え難いまでになった。そうなるとわれわれは帆の陰はほんのわずかしか進めなかった。今年の乾季は非常に短 章にうずくまるか、船室の ( ンモックへ下りて行くかした。 かかった。例年アマゾン河のこのあたりでは、乾季は十一 甲板の上で、あの太陽の吐き気を催すような熱気にわが身月にちょっとした驟雨の降る合間はあるが、七月から一月 をさらすよりも、半ば息の詰まる思をするほうがむしろま まで続く。川は最高水位より三〇 ~ 三五フィ 1 トは減少す しであった。われわれはたいてい九時頃にはその日の旅をるのが普通であるが、それが今年はたった二五フィートほ 終わり、夜間船をとめておけるような安全地点を決めた。 どしか減らなかった。その上十一月の雨は止む間もなく降 涼しいタ方の幾時間かは、またえも言われぬものであった。 り続く恐れがあった。気候が乾燥すればするほど、東風は 真赤に燃えた太陽が突然地平線の下に沈むと、笛を吹くよっのるのである。それが今はまったく吹かず、午後になっ うになくアカハシリュウキュウガモ e 、ミき 0 き ( 日き s ) てほんの数時間、ただ申し訳程度に静かに吹くだけである。 こんごういん ミミミミや、鸚哥や、しわがれた叫び声をあげる金剛鸚私はこれまで、この大河と言えば太陽が最高に照り輝いて ねぐら 哥の群れが、ひとつがいずつ餌場から塒へ、頭の上を飛ん いる時の様子しか見たことがなかったが、今まさに、暴風 で行った。するとやがて獣たちのしばしの間のタの合唱が雨の時は、これがどんなになるのか、この目で見ようとし 巧 4

10. アマゾン河の博物学者

っ森の渉猟者であるけれども、この開拓植民地をめぐる美 川の岸で休み、そしてその気分をさわやかにしてくれる水 のしい森は、あたかも私が熱帯の国に最初に上陸した時のよで、一回に一時間も水浴びをするのを、私の一人歩きにお恥 流うな、大きな喜びを与えてくれた。村のある台地は、そのける毎日の日課としていた。こうした時間は今や私の最も 、り 片側はほとんど一マイルにわたって森の中に広がっている楽しい思い出の中に残っている。広い森の中の道は、私が 工が、他の側は道のそばから低地への下り坂がすぐ始まって先に述べたように、数日の旅行のできる距離まで内陸へ続 いた。丘は森に囲まれた沼沢の多い牧場の方向に急に傾斜 いていた。そこにはトウクナ族と他のインディアンたちが、 章 していて、その中を狭い曲がりくねった小道が、その底に ほとんどその原始的な状態で、散在する個々の家に、ある 氷のような冷たい水の流れる小川が、涼しい木陰の多い峡 ウロ いは集落単位で住んでいた。最も近い部落はサン・。ハ 谷へ下りる坂に続いていた。真昼の頭上の太陽は、このロ から約六マイルのところにあった。すべての流れの岸辺に マンチックな場所の暗い深部にまで射し込み、草葉の茂る は、椰子の葉でふいたトウクナ族の住居が、みな木の葉の ′川の岸とその綺麗な砂の縁を照らし出していた。そして茂る荒野に半ば埋もれて点在していた。散在する家族は最 そこには、たくさんの緋と緑と、そして黒色の羽を持った も涼しい日陰の多い、奥まった場所を住居に選んでいた。 風琴鳥と、明るい色彩の蝶が散光の中を飛び回っていた。 私はしばしばこれら小屋の近くで、アマゾンの森では群 きらめく大小の谷川が、豪奢な森をほとんどあらゆる方向を抜いて、最高に素晴らしい歌い手のレアレジョー Rea 一 e ゑ に横切っていた。そして藪の中を歩いている司こ、 ド冫たえすすなわちォルガン鳥といわれるウタミソサザイ 0 ミ・ ちょろちょろと流れる小川と湧き出る泉に行き当たるほど、 nus ミ ( 目 C. 3 ミ s ) の声を聞いた。その風変わりな この地方は充分に湿り気が与えられていた。小川のいくっ鳴き声を不意に初めて耳にした時の、その印象は、人間が かは、砂地のそして小石の多い川底の上を流れていて、そ歌っているのではないのだろうかとつい思ってしまうほど の岸は、すべて想像し得る限りの最も壮麗な植生によって の声であった。歌の好きな少年が、藪の中で木の実を集め 飾られていた。私はこうした速やかに水の流れる綺麗な小 ながら、きっと気分を引き立てるために短い調べを歌って