っ森の渉猟者であるけれども、この開拓植民地をめぐる美 川の岸で休み、そしてその気分をさわやかにしてくれる水 のしい森は、あたかも私が熱帯の国に最初に上陸した時のよで、一回に一時間も水浴びをするのを、私の一人歩きにお恥 流うな、大きな喜びを与えてくれた。村のある台地は、そのける毎日の日課としていた。こうした時間は今や私の最も 、り 片側はほとんど一マイルにわたって森の中に広がっている楽しい思い出の中に残っている。広い森の中の道は、私が 工が、他の側は道のそばから低地への下り坂がすぐ始まって先に述べたように、数日の旅行のできる距離まで内陸へ続 いた。丘は森に囲まれた沼沢の多い牧場の方向に急に傾斜 いていた。そこにはトウクナ族と他のインディアンたちが、 章 していて、その中を狭い曲がりくねった小道が、その底に ほとんどその原始的な状態で、散在する個々の家に、ある 氷のような冷たい水の流れる小川が、涼しい木陰の多い峡 ウロ いは集落単位で住んでいた。最も近い部落はサン・。ハ 谷へ下りる坂に続いていた。真昼の頭上の太陽は、このロ から約六マイルのところにあった。すべての流れの岸辺に マンチックな場所の暗い深部にまで射し込み、草葉の茂る は、椰子の葉でふいたトウクナ族の住居が、みな木の葉の ′川の岸とその綺麗な砂の縁を照らし出していた。そして茂る荒野に半ば埋もれて点在していた。散在する家族は最 そこには、たくさんの緋と緑と、そして黒色の羽を持った も涼しい日陰の多い、奥まった場所を住居に選んでいた。 風琴鳥と、明るい色彩の蝶が散光の中を飛び回っていた。 私はしばしばこれら小屋の近くで、アマゾンの森では群 きらめく大小の谷川が、豪奢な森をほとんどあらゆる方向を抜いて、最高に素晴らしい歌い手のレアレジョー Rea 一 e ゑ に横切っていた。そして藪の中を歩いている司こ、 ド冫たえすすなわちォルガン鳥といわれるウタミソサザイ 0 ミ・ ちょろちょろと流れる小川と湧き出る泉に行き当たるほど、 nus ミ ( 目 C. 3 ミ s ) の声を聞いた。その風変わりな この地方は充分に湿り気が与えられていた。小川のいくっ鳴き声を不意に初めて耳にした時の、その印象は、人間が かは、砂地のそして小石の多い川底の上を流れていて、そ歌っているのではないのだろうかとつい思ってしまうほど の岸は、すべて想像し得る限りの最も壮麗な植生によって の声であった。歌の好きな少年が、藪の中で木の実を集め 飾られていた。私はこうした速やかに水の流れる綺麗な小 ながら、きっと気分を引き立てるために短い調べを歌って
ドリト 0 、、ミミ・ s ミミ = ( ⅱト . GO ミ i) ョ ( チドリ 0 = 0 暑ミ、ユ ( 日 0 = 0 、ミ、ユミや、白しナ がいないだろうかと思って、随分探して見た。これは蜂鳥 ドリ F 、 0 こ s ~ 、ミ e = 01 ミのように、 い尻尾のシロエリ の中でも最も綺麗な種のひとつで、頸のまわりに金緑を刷 その羽毛に白い色合いをかなり持っていないと、種の区別 、た、長い、白い羽毛の髪飾りをつけている。しかしなが ができない。アマゾン地方には、蜂鳥の種類はさほど多く ない。同じ緯度の間にあっても、アンデス山脈の多様に変 化した谷間に比べれば、変化のないこの森の平原には、種 の数ははるかに少ないのである。この蜂鳥の仲間は、形態 と習性の二点から、二つの群れに分けられる。ひとつはま ったく森の日陰に生息するものが入り、他は開けた日の照 る場所に好んで出るものが含まれている。森林生息種の = 雀 ミ ( シ ( チドリ亜科 Phaeth0 「 ninae は、めったに花には見 られない。しかし彼らは驚くべき速さで藪をかいくぐり、 ・」ミと 木の葉の表を、裏を縫いながら、葉についている虫を探し ている。もうひとつの ( チドリ亜科 T 「 ochilinae は、切り 開かれた場所だけに限られたものではなく、花の咲いてる 樹のある場所であれば、森の中へも入って行く。そしてま た、花の見られる日の照る空地にも降りてくる。ただそれ 蛾も森が普通よりまばらな場所に限られるので、非常に高い Ⅳ森や、うす暗がりの低地や、島などにはめったに姿を見せ ない。私はかって、この地方で捕れたことがあると聞いて 、こ、ンロカザリハチ 10 フ
上げた中に残っていた。私が本書の第二章で書いた、ウナなければならなくなるであろう。 の近くの私の好きな小道へ案内してもらうために、私はニ グロの少年を雇わなければならなかった。新しく切り開か 一八五九年六月ニ日ーーっいに私はニュ ーヨーク行の北米 れた場所は古い森の道を、おおかた消し去ってしまってい 貨客船のフレデリック・デミング Frederick Demming 号に た。わずか数エーカーほどの壮麗な森が、ウナの近くに自乗船、パ ラを後にした。おそらく永遠に。 この合衆国航路 然の状態のまま今なお残っていた。市の反対側の精米所へ は、英国に着くには最も快適な行程であると同時に最も速 の古い道の近くでは、数十人の山男たちが政府に雇われて、 かった。私の厖大な個人のコレクションは、全部を失うこ パラから二五〇マイル離れた隣の県の首都マラ = ャンへ通との危険を軽減するために、三つの別べつの船で送られた。 ずる広い車道を、森の中に切り開いていた。そしてこれは六月三日の夕方、私は自分が心から愛し、そしてその探検 壮大な古い森の道のほとりにあった、寂しく人里離れた場のためにかく長い年月を捧げたところの栄光の森の最後の 景観を、船上からほしいままにした。私が思い起こす、私 所を完全に破壊してしまった。しかしながら数年のうちに は、新しく成長したつる植物が、この新しい道路ぎわの裸にとって最も悲しかった時間は、つぎの夜マメルコの水先 になった木の幹をおおいつくし、繁茂した灌木が、道に緑案内人がわれわれを砂州から離れた、陸地の見えないとこ ろにおいて帰って行ってしまった時であった。船は河口の の外縁を形作るであろう。そしてそれはかってそこに古い 道があったように、美しい森林の中の道路となるであろう。中に錨を下し、風の出るのを待っていたのであるが、私は かく多くの楽しい思い出の土地と、私をつなぐ最後の絆が しかしこれからは博物学者は、一八四八年にはそのような 断ち切られるのを感じた。彼らの土地の魅力を充分に知っ 近くに存在していた壮麗な森の景観を発見するためには、 ケムヴァイバ 物町からさらに遠くまで行かなくてはならないであろう。そているパラの人たちは、 "Quem vai Pa 「 a ( 。 ) Para pa 「 a" ( パ 国してウオレス氏と私がパラの近郊でなしとげたような、大ラに行くとパラの人になってしまう ) という頭韻的な諺を持っ きなコレクションを作るためには、以前にもまして骨折らている。私はかってしばしば、そうしたパラに住みついた 423
って来た。これは翼で、と私はそう思うのだが、奇妙な、 ノラから約一二マイル離れた森のまん中の、とあ われは、。、 る入江の岸にある、アプトン U 「 ( 。 = というアメリカ人紳士どこか小さな木製のガラガラを鳴らすような音をたてて、 の持 0 ている、マゴアリの精米、製材所まで、二度長途の時どき道を横切「て飛ぶ小鳥である。 なお、一マイルか一マイル半も行くと、森の様子が変わ 遠出を試みた。私は、この遠出の折のできごとを少しばか り始め、いよいよわれわれは原生林に踏み入ったことを知 りお話して、さらにこうした奥地の入江や森の、博物誌と る。その光景は、すでに私が述べたあの湿潤地のそれとは 住民に関する、一段と興味ある観察結果を述べることとし まったく違っていて、土地はどちらかと言えば高くて起伏 最初の辰行では、この水車場〈は、陸路を取 0 た。そのがあり、長い、幅の広い葉をつけた湿地性の樹は少く、樹 と樹はだいぶ離れているのにかかわらず、下層林がなかっ 岸に建物のある入江のイリティリ一「三「一川は、別のもっと た。この無人境を貫いて、七 ~ 八マイルも道が続いていた。 大きな入江のマゴアリ川を通して、パラ川と連絡している このまったく同じ隙間のない森林が、マラニャムとその他 ので、水路でも行けるが、これでは約二〇マイルの遠回り 冫ノラの南と東、ほば三〇〇マイルにわ になる。われわれはインドロをつれて、夜明けに出発した。の方向に、聞けま、。、 道はナザレを出ると、すぐ森の中に突入した。したが 0 てた 0 て、ず 0 と広が 0 ているということである。窪みのと ゞト日こさえぎられていて、その冷たく ころは、どこも道カ / 丿ー われわれは数分とたたぬ間に、木陰につつまれてしまった。 町に近いもとの森は、昔切り払われたか、間引かれたかして黒ずんだ、木の葉で汚れた流れには、木の幹の橋が架 地面には、例の如くヒカゲノカズラ属の植 たのであろう、しばらくの間再生林が続いていた。その森かっていた。 林は若木や、棘のある灌木の茂みや、あるいはつる植物が寄物がい「ばいに生えており、なおその上は、植物の残骸 (débris) の塊や、厚い枯葉の被層でふさがれていた。いろ りかたま「て生えているために、濃密で通り抜けられなか いろな木の実がほうぼうにちらばっていた。そしてその中 燥った。こうした雑木林には、蟻と蟻鳥が群れていた。それ さや 乾 からまた咽喉をブップッとふくらませる鳥の一種がよくやには様ざまな種類の豆類があって、それらの莢のいくつか
ジャガー追跡 黒色の虎すなわちジャガーに遭遇する、ちょっとした冒険の境に達すると、その隣接地をなす広葉の草が、濃密に生 い茂った塊の中にもぐり込んで行ってしまった。彼が作っ を経験した。干あがってぬかるんだ長い岸に沿って、われ われが全速力で船をこいでいた時、インディアンたちが突た隙間を通して中をのそいて見たが、われわれの剛気はこ ジャウリビシュナ ェクイジャウアレテ の時まででもう冷えてしまっていた。これ以上彼を追って 然興奮した大声で、 Ecui Jaua 「 eté; Jauaripixüna 一 ( 見ろ、ジ ャガーだ、黒いジャガーだ / ) と叫んだ。前方を見ると水際で草藪の中に入って行くことは賢明であるとは考えられなか った。黒色の虎は、エガの付近にいる斑入りの型よりも個 ジャガーが静かに水を飲ん 体数は多いようである。狩りのためにこれを探し出す最も でいるのが見えた。カルド ーゾは操舵手にすぐ舟を岸確かな方法は、インディアンたちを勢子に使 0 て、彼らの につけるよう命じた。われ一連の叫び声によ 0 て獲物を、狭いレスティンガ「 すなわち氾濫期でもその近くまで来る氾濫から隔離された、 われが陸に上がるまでに、 森の中の乾いた場所へ追い出すことである。われわれは夜 ジャガーはわれわれに気が 面つき、森に向けて引き返しの一〇時に = ガに帰着した。 つつあった。取るものもと われわれは十月六日にエガを発って、第二回目の旅に出 りあえず、われわれはとっ ビさに銃を手に追跡した。私た。カルドーゾの今回の旅の主な目的は、未成熟の亀の生 息する森の中の水溜りをいくつか調査することであった。 の銃は二連銃で、そのいっ こく少数 ぼうには ( 〇・一八インチ森の中に隠れて存在する水域の確かなありかは、・ の経験をつんだ猟師が知っているだけである。その一人で の散弾 ) が、他方には最小 散弾が装填されていた。ジ名前をペドロ Ped 「。というマメルコを、われわれはエガか 3 らいっしょに連れて行った。途中シムニ島に立ち寄り、さ ャガーは速度を早め、森と
るのだと考えられる。なぜならば、彼らの森の中の自然のしえないであろうが、彼らも群れを作り、たくさんの異な る科に属するたくさんの別の種が、昆虫類を追跡、また探 家より、教会のほうが、捕食動物の襲撃からは安全である しながらいっしょになって行動している。昆虫を狩るこれ ということを、彼らは知っているようだからである。 鳥類ーー。 = ガ地方で発見されるより興味深い鳥についてらの鳥がいっしょに大きな帯となって進む光景は、少なか らす奇異なことで、これは若干記載する価値がある。 は、そのいくつかをすでに解説した。はじめて上アマゾン 家や村の近くの森の中につくられた狭い小道に沿って、 河の森にやって来た人びとが、思い当たる最初の事実は、 鳥類の普遍的な稀少性であろう。事実、森の中でも、最も鳥を求めて猟をしていても、数日の間たくさんの鳥を見る ことなしに過ぎてしまうことがある。しかし藪や木立のつ 豊富な最も変化に富む地域を、まる一日探し回っても、一 羽の鳥さえ見つけられなか 0 たということを、私はしばしきるところで、時おり突然に群が 0 て現れる、鳥たちの大 ば経験した。でも、この国には数百種にの・ほる鳥類が生息群に遭遇すゑおそらく数百羽にの・ほる鳥たちが一様に、 しており、そしてその多くは、個体数においても比較的豊あらん限りの敏捷さで動き回 0 ている。ー、、・・雀の大きさに きつつき 富である。そしてまた、そのうちの幾つかは、綺麗なそのも達しないものから、烏ほどの大きさの啄木鳥やオ = キバ 羽毛のゆえに人目をひいている。この明白な稀少性の原因シリ科 D 。「。。。 la 「ミ月の鳥たちは、木の幹を走りの・ほり、 ひたぎ 1 ) しきどり ふうきんちょう は、彼らの生息場所とな 0 ている数千マイルに及ぶ森林の風琴鳥、蟻鳥、蜂鳥、鶲、五色鳥が、木の葉や下枝の間を 性同一性と、濃密な枝葉の繁茂の中に求むべきであろう。こ飛び回 0 ている。ざわめく雑踏はひとときの無駄もなくカ 稀の国の鳥は少なくとも、最も容易に発見される季節には群を合わせて移動しているが、それそれは自分自身のために れを作 0 ている。しかし果実を常食とする種類は、ある種樹皮、葉、枝の間で餌を探し求めるのに懸命である。五色 る おの野生の果実が実る時たけにしか見られない。そしてそう鳥は前進する行手に横たわる木に作られた、白蟻の粘土の 川した木が確かに生えている所を知るためには、長日月の経巣をくまなく訪ね回っている。数分のうちに鳥たちは飛び 工 験が必要である。食虫性の鳥もまた群居性であるとは想像去り、森の小道は見捨てられてもとの静けさに立ち戻る。 373
, の内部はていた。入江には、鴨、鸛、雪白色の鷽の群れが住みつき、 ロである水道は、ここでも非常に狭かったが、日 行 クロビタイアマドリのチリンチリンというムロ唱とともに、 かなりの規模に広がっていた。それは周囲数マイルに及ぶ いんこ 湖を形成していると、敢て言い切って間違いではなかろう。 鸚哥の騒々しい鳴き声が、通り過ぎるごとに聞かれた。本 こうした驚きに対しては、私はすでにおおむね心準備はで流の辺岸で、生い茂る森の中の重苦しい静寂を味わい、動 工きているのだが、この場合は大変不意をつかれた思いであ物ひとつ見かけなかった後だけに、われわれにとって、こ った。われわれは単調な川岸に沿って一日中、櫂を漕いでれはまことに楽しい感動であった。 章 進んだ。われわれの前にある荒涼としたソリモンエス川は、 カルドゾと私は、、 月舟を出して開拓者のひとりを訪ねる ここではその幅は三 ~ 四マイルあり、その泥水は激しくう ために湖を横断した。そして再び本船に帰る途中、また湖 ねっていた。われわれは土質の堤の間に見える、小さな割 の真中あたりにあった頃、突然われわれが進んで行きつつ れ目に到着、その両側にすつぼりと陰を落して吃立する森あった方向にスコールが発生した。そのためずーっとわれ の壁にはさまれた、暗くて狭い入江をそこに発見した。そわれは、浸水の大きな危険の中に置かれた。風は天幕も茣 してそこを入って二〇〇 ~ 三〇〇ャードしたところで、輝蓙も吹き飛ばし、水を泡立て、非常な高さまで波しぶきを くばかりの水面が視界に飛びこんできたのである。カヤン吹きあげた。幸いにわれわれの舟は、舳先に向かって具合 べ湖の景色は、まさに絵のように美しかった。湖の両側に よくせり上がり、素晴らしくよくできていたので、上手に 見える土地は高く、黒すんだ森に包まれていた。そしてこ 舵を使って、波が上がる時、大波に頭を向けるように操っ こかしこ整地された緑の平地の真中に、白く塗られた壁をて、あまり水をかぶることなく、それを避けることができ 持った開拓者の家がこれに変化を与えていた。なだらかに た。そして日没時にイガリテに帰り着いた。その夜は一五 起伏する陰鬱な森とはきわだって対照的に、湖の上に水上マイル離れたクル・ ( ル cu 「 uba 「 6 島の砂丘で野営するため、 庭園のように浮ぶたくさんの小島に生えた森は、生き生きそれから全速力で向かった。そして一〇時に砂島に到着し とした輝く緑と、心を引き立てるような明るい簇葉を見せた。川の水は今や傾斜した岸の上まで急速度に上昇しつつ 356
けさは、心に残る不安な気持をいっそう深める。原住民にをひとっ唱えてからでないと止まらない。これをやるのに、 はいつもクルピラ curup 一 ra という野生の男、あるいは森の彼は新しい椰子の葉を一枚もぎ取って、それを編み、輪に バ仙人がっきもので、彼らの説明のできない音は、みんなこ作「て、路上の木の枝に下げていた。 章れが出すのだとしている。なにぶん神話といっても、知識 六時間も歩き続けて、やっとのこと、われわれは目的地 第の未発達な時代に、人間が自然現象を説明するために考え に着くことができたが、最後の一、二マイルはまた再生林 出す理論などは、誠に素朴なものである。要するにクルピ の中をくぐった。工場は大規模な建物群で、数エーカーも ラは神秘的な存在で、しかもその属性は地方によって異なある広びろとした開拓地に、見た眼に美しく建てられてお り、一定していない。時には、それは長い蓬々とした毛でり、どこもかしこも永遠の森に囲まれていた。 われわれは おおわれ、樹林の中に棲んでいる、オランウータンの一種監督のリーヴェンズ氏にこの上もなくねんごろに迎え入れ であると記載されている。またある時は、裂けた足を持ち、られた。この人は土地の興味ありそうなところというとこ 真赤な顔をしているとも言われている。彼には妻子があり、ろはみんな見せてくれ、その上、近所でも鳥や昆虫の採集 そして時どきマンディオカを盗みにロサ「月 a 、すなわち開に絶好の場所へ案内してくれた。工場はずいぶん以前に、 拓地へ下りて来ることがある。私は一時、マメルコの若者あるプラジル人の金持が建てたものであったが、すでに数 を雇っていたことがあるが、この男の頭の中は、この土地年アプトン氏の所有になっていた。話によれば、例の暗色 の伝説や迷信でいつばいであった。彼はいつも私といっしの皮膚の革命主義者たちが、。ハラを襲撃する準備をしてい ょに森へ出かけた。事実、私は彼を一人で森にやることは たとき、ここを占領したが、ここの機械類や建物にはいさ できなかった。それに今言ったような妙な音がひとつでも さかの損傷も加えられなかった。というのも彼らのリーダ しようものなら、彼はおびえ上がって、ガタガタとふるえ ーたちが、彼らの戦うのは、ポルトガル人とその一党に対 るのが常であった。彼は私の後にうずくまって、帰らせてしてであって、他の外国人に対してではないのだと言った くれと言う。彼の恐怖はクルピラから彼を守るための呪文ためだということである。
大きさと、たくましい枝振りで、そして樹皮もよく似てい とも人びとには耕作地を柵で囲むという考えがないらしい。 ン レ彼らは囲いを作るのは大変面倒であると言う。丈夫な垣をた。ここには雄大な椰子がひとつ、非常にたくさん生えて いて、この地方の目立った特徴をなしていた。これは・ハカ ン作ることは確かに困難な仕事である。なぜなれば虫の加害 ・デ・アゼイテ 9 き 3 ミ s 、 s で、原住民たちが を受けることのない、この目的に利用できる樹木は、わず 。ハカバ Bacåba と言っているものの一種であった。高さは四 8 かに二、三種類しかなく、それらは森の中に遠く離れて、 広範囲に散在しているからである。 ートに達する。樹冠は光沢のある 〇フィートから五〇フィ 牧草地は博物学者にとっては、あまり獲物の豊富な土地暗緑色をして、奇妙に扁平な、圧しつぶされたあたかも団 ではなかったが、その境の森は生命にあふれていた。ここ 扇のような形をしている。つまり葉が両側ともにほとんど に生息する珍しい昆虫は、あらゆる目にわたり、それらの同じ平面に並んでいるのである。東風が数ヶ月の間、昼夜 個体数と種数に至っては、まさに驚嘆に価するものであっ の別なく猛烈な勢で吹き渡るあのカンボで、私がこの樹を た。帯のように続く森を、開拓者たちの家から家に通する、 最初に見た時、私はこの樹冠の形は、たえず吹く風のため たくさんの小道が横切っていた。土地は湿っていたが、他に、一様に葉を放射することが妨げられるためであると思 の場所のように樹木はあまり高くなく、その樹冠もそう密った。ところがその生長する面は、常に必すしも風の方向 に茂り合っていなかった。だから陽の光も熱も自由に地面とは一致していない。そして風の当たらない森に生えてい に届き、その下層林は処女林よりはるかに変化に富んでい る木の樹冠の形も同じである。年の暮に向かって熟して来 た。私はここほど多種類の矮性の椰子類が、い っしょに生る、この素晴らしい椰子の実は、原住民たちから大変賞味 えているところを未だかって見たことがない。可愛い小型されている。前の章で述べたあのアサイヤンと同じように、 種で、その中には高さ五フィ ートもなく、たくさん実をつ彼らは果肉の上皮をすり落してそれを水に混ぜ、結構な飲 けたクサスグリの一房ほどもない、丸い実の小さな房をつみ物をこしらえている。実の重さは一房で三〇 ~ 四〇ポン けているのがあった。数種の森林樹は、英国の梛のような ドもある。この飲み物は、ちょっと見るとミルクに似てい 202
二マイルばかりは、わずかな登りと の森の帯をぬけ、一、 長したもので、アマゾン河の沖積平原の一部ではないと、 ン なっている。草地はそれからその堤の上に丈の高い繁茂し レ私が考えるのは、これがためである。土壌は一種粗い砂利 くつかの小川の流れる広い谷あ まじりの砂地で、所どころで露出しているその基層は、おた森を一面にかぶった、い いに向かって、徐々に傾斜している。これを越えて、一連 そらく流域の他の地方にあるあのタバティンガ粘土の下に 章 横たわっているものと、まったく同じ組成の、砂岩性の礫の丘のつながりが、人跡未踏の内陸へと、眼の届く限り遠 トくら く伸びている。これらの丘のいくつかは木が生え、また裸 岩から成っているものと思う。表面は約一フィ の一様の高さの、牧草には不向きな、細長い毛ばだ 0 た草のままの長い尾根となっているか、あるいはまた、谷間か らいきなり盛り上がった、孤立した円錐状の峰をなしてい で敷きつめられている。木の生えている部分は、ちょうど 緑の牧場のまん中にある矮林のように見えるので、原住民る。一番高いものでも、たぶん川の水位から一、〇〇〇フ トを越えることはないであろう。サンタレンから約一 たちはこれをイリャス・デ・マト lhas de mato 、すなわち 五マイルのところにあって、そこで南方への視界を遮断さ ジャングルの島といっている。この名前は言うまでもなく、 せているセーラ・デ・ムルアル Serra de Murua 「 6 という名 それらが周囲の平坦な草の毛氈から、くつきりと島の形に 境を画された、引き締ま 0 た輪廓を有していることに由来高い丘は、アルメイリンの近くの、あの一連の丘と同じよ するものである。そうしたジャングルの島じまは、よそのうに、頭部が切り取られた。ヒラミ ' ド状をしている。美し いこの土地の広がり全体を支配しているものは、完全な静 森と同じように多肉質の寄生植物に重くたわわとなり、あ 寂である。サンタレンの住民は、内陸のことは何ひとっ知 るいは木質の登攀植物にからみつかれた種々様ざまの木か っていない。それどころかそのようなことには、好奇心な ら構成されている。これらの島じまと様子のよく似た、し たがって同じように鮮やかな縁どりを持った、茂った一帯ど少しも感じていないらしい。町から出るいくつかの小道 が、カンポを横切って、この土地のどちらかといえば、貧 の細長い森が到るところの川の近くに平行して、走ってい る。カンポを横切って行くと、町から出た道は、この水辺しい部類の住民たちが所有する、四、五マイル離れたある もうせん 194