もそれほど名を残していないようですが、能楽は盛んだったし、能面を打つ人はいたはずです。 もしも能面から写楽の絵が生まれたことが証明されれば、おもしろいと思いますが : しものがありますよ。以前、ある彫刻家にデッサンを : たしかに、彫刻家のデッサンは、ゝ ) いただいたことがありますが、そのときはそうでもなかったものが、後で人にいわれて見直して しものでした」 みると、なかなか普通では描けない、いゝ ・ : ただ、それが写楽だといわれても、安達氏には返事のしようがなかったようだ。 だれか能面に詳しい人にあたってみなければならない。できれば面打ちをする人に会ってみた 私は旧知の観世栄夫氏をたよって観世流の銕仙会に連絡を取ることにした。 八月九日、私は銕仙会の本部で能面打ちを専門とする谷口明子氏と会うことができた。この日 は、観世流が秘蔵する伝来の能面を、その能楽堂で虫干しをする年に一度の日ということで、室 町時代から伝わる名品をじかに拝観する機会に恵まれた。願ってもないことであった。 ひんやりとした静けさのなかで、天井を向いてずらりと並んだ古い能面は、私に強烈な印象を 与えた。数えるほどの観能の経験もない私には、能面についての知識もほとんどない。だが、人 と人が膝を接して対座するような近さで、こうして能面と対していると、能舞台を観衆の一人と して観るときの、舞手の顔としての能面とはまたちがった、能面そのものの独自の息づかいが伝 わってくるようであった。 谷口氏は、私の荒ただしい話を聞きながら、能の世界に引き寄せてじっくりと考えの糸を撚り
数冊を仕立て候て諸君の賢覧に奉入此末造功の費を御助被下候て今度金一一百疋宛御入鐵被下 度奉存候、左候はゞ板刻を急ぎ候て出来次第御入銀被下御方々へ右兵談一一部宛進呈可仕候、 扨小子は遠鄙に在之候を板刻の諸用を調度仕候故、直に諸君に奉謁子奉告事不能候、因て東 都の心友手塚市郎左衛門、梯沼寛一一郎、森島次郎、工藤平助、藤田祐甫の五人に托し候て右 御入銀の取次を相願候事に御座候、御入銀の御方々右五人の内催寄の者候はば即ち板刻の處 に相届申候事 板刻日数積りの事 〇一人にて彫る所紙一枚に大概一日半掛り也、海国兵談の総紙数三百五十枚にて御座候得ば、 一人にて是を彫候得ば元日より大晦日まで休みなしに彫候て九百日採り申候、一一人にて彫候 得ば四百五十日掛り、四人にて彫候得ば一一百一一十五日掛り、八人にて彫候得ば一百十三日に 彫終り申候、 然るに前文に述候如く小子無息清貧にて御座候得ば、エ人を多く用る事不能候、徒に只一人 を用て彫しめ候故九百日を積まざれば此書の彫刻成就不仕候、是他なし、一一十六両の金なき が故にて御座候、願くは諸君憤りを賜ひ御入銀被下候てせめては板刻の業而己も半年にして 終らせ玉へかし、小子性命難計が故に其功を急候事胸に火の煽が如くにて御座候故に辱を不 顧して参勤告候 林子平謹言 1 18
とてあらぬさまにかきなせしかハ長く世に行れず一両年にして止む」という一一一一口葉を、黒雲母摺が 世に受け入れられ損ねた記述と解釈することになった。クルトはこれを当然のこととした。なぜ ならば、彼が用いた斎藤月岑の『増補浮世絵類考』には、冒頭に「写楽天明寛政年中の人」と 明記してあったのだから。 最初から述べているように、クルトの間違いは制作年だけではなく、なによりも作品制作の順 序をまったく逆に捉えたことにあったが、その終着点としての黒雲母摺大首絵に対するクルトの 解釈を紹介しておく。 すでに当時、黒雲母摺大首絵は現在と同じく合計一一八点全部の存在が知られていた。クルトは これを一人像一一三点と二人像五点にわけ、前者は少なくとももう一点以上、つまり数の良い二四 点はあり、二人像ももっとあったのではないかと想像していた。そして、この大首絵シリーズの 全体が一つの物語、日本人の国民的ドラマ竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」に拠っていると考えた。 クルトは情熱を傾けて赤穂浪士たちの苦節の一部始終を紹介し、大首絵に登場する一人一人の役 者の役どころを想定している。もしもクルトが考えたとおりであったとしたら、江戸歌舞伎興行 楽界と版元蔦屋重三郎はなんともたいへんな冒険を敢行したことになるわけだ。ちょっと想像して 斎みると楽しくはなる。 東 もちろんそんなことはあり得なかった。寛政六年の歌舞伎の記録には、確かに「仮名手本忠臣 一蔵」の上演が記されている。だが、それは河原崎座一座の九月興行であって、出演俳優も市川鰕 第 蔵、四世岩井半四郎など寛政五年十一月からの一年間河原崎座に所属した役者だけであった。
一人の人間として写楽を考えるとき、どこか彼には近代人ではない一面があったように私には 感じられる。もちろん、近代人であろうとなかろうと、写楽は写楽だが。 「写楽は遠近法を理解していたか ? 」 奇妙な設問のようだが、当時の浮世絵師について語るときには自然に出ておかしくない問題で ある。第三期の「中島和田右衛門の家主身代りの地蔵」など、はたしてどうか疑問である。「大 童山土俵入」 ( 三枚続 ) の場合にはまず、完全に遠近法の意識はない。すでに勝川春英 ( 「寛政四 年幕内土俵入」 ) など、存分に浮き絵の手法を取り入れているのに対して、写楽は問題にもして いない感じである。そういう点では、一筋縄ではいかないのが写楽だと思う。 個人としての近代人ということならば、やはり写楽ではなく、北斎、そしてその後に続く人間 としての河鍋暁斎などを考えるべきであろう。 絵画、浮世絵版画の世界にこの波が打ち寄せないはずはない。写楽はそのもっとも実直な表現 者であったように思われてならない。私にはこうして見えはじめていた寛政という時代の絵姿の 全体こそが魅力である。 中世と近代ルネッサンスの狭間 2 。 6
浮世絵版画を単なる美術品ではなく、江戸の社会情報のパッケージとして見るというのは、例 の三代広重の「近江八景全図」で身につけた手法だった。そういう目で見ると、この「大童山土 俵入」からは、どんなことが読み取れるだろう。 左右にいる五人ずつ、計一〇人の力士たちの名前と顔は、どのように対応するのだろう ? 彼 ら一〇人は、いったいどのような基準で選ばれたのだろうか ? 最初に浮かんだ疑問はこの二点 だった。左上端の宮城野という名前の文字が、オリジナルの二点ともに半分以上欠けていること も不思議だった。 ここから始まった追跡は、思いがけない発見を私たちにもたらした。発見の基礎は、当時のカ 士たちを描いた相撲錦絵をできるだけ沢山見てみようと、可能なかぎり努力したことにあった。 中央の図で土俵入りをする大童山を左右から見守る一〇人の力士たちの順序は、次のとおりで ある。 玉垣陣幕 雷電花頂山 【右図・東方】和田ヶ原 【左図・西方】宮城野 九紋龍勢見山 谷風達ヶ関 寛政六年十一月十七日
かった。今田洋三氏はその理由を「多分、危険なる書と市兵衛は見たのであろう。あるいは森島 中良著書の刊行で手一杯だったのかも知れない」と述べている。当時、申椒堂須原屋からは「朝 鮮談」「紅毛智恵洋」「西洋奇譚」「万象雑爼」「農工カぐるま」と森島中良の著書が続々出版さ れる計画であったことが明らかにされているからだ。 『海国兵談』の出版こそ引き受けなかったが、申椒堂須原屋市兵衛と森島中良、そして林子平の 三者が深く結ばれていたことは十二分に推定できる。この推定が間違っていないことはその次に 三人の上にのしかかった三者三様の重圧によって明らかになる。 寛政四年五月、林子平は『海国兵談』出版の故に処罰された。同時に『三国通覧図説』も絶版 に処せられたばかりか、「須原屋市兵衛もまた身上に応じ重過料を課せられたのである。同じ年 に、林子平から心友の一人にあげられていた森島中良は、蘭学者石井庄助と共に松平定信の家臣 に加えられたのである。心友であり、おなじく心を世界にむけていた二人は、一人は処罰されて 生涯をかけた著作をうちくだかれ、一人はうちくだいた権力者の家臣に加えられる、こうした権 力者の悲しい暴力を自らの身にうけながら、市兵衛の先進的な出版業は没落へと近づいていくの 郎である」 ( 今田洋 = I) 。前述した須原屋市兵衛による森島中良の後続出版計画も、この結果であろ 重う、日の目を見なかったと推定されているのだ。 蔦 章 第 123
さて、ところで、林子平は本当に「取り留めもない風聞や推察」で「異国より日本を襲う可能 性がある」ことを主張したのだろうか。もちろんそんなことはない。 有名な大黒屋光太夫・磯吉ら三人の伊勢漂民をともなったロシアの使節アダムラクスマンが 蝦夷地、北海道野付郡平糸村のバサラン沖に現れたのは、『海国兵談』絶版・板木没収、林子平 彫るならば九〇〇日かかるが、八人の彫師を雇うことができるなら一一三日で完成すると訴えて 上里春生『江戸書籍商史』はこの林子平の「見積書全文」を紹介したあと、最後に次のように 述べて巻を閉じている。 「子平の予約出版加入の勧告書の全文は以上の通りであるが、斯く苦心し告白し勧誘したにも拘 らず、予期のやうに彫師八人を使用することは出来なかった。結局一人を雇って僅かに仕事を継 続しなければならなかったので、たうど、一千六十日を費し、真に一日千秋の思ひでやっと是を 完成することが出来た。けれ共間もなく、『其方儀假令利慾に不致候共一己の名聞に拘り取留も 無之風聞又は推察を以て異国より日本を襲候事可有之趣奇怪異説等取交著述致し』たる云々とい ふので蟄居を仰付けられ、板木版本をすっかり没収された」。 林子平の「東都の心友」 120
この「板木屋仲間取極発端」に始まる「仲間新古記録帳」が、寛政一一年十一月以後に書き起こ されたとすると、ではなぜ、その時期からかということが問題になる。 「仲間新古記録帳」と題するからには、板木屋たちの仲間が成立していたからこそ「記録帳」が 良作り始められたのだと考えるのが一つの判断だ。とすると、板木屋仲間組合が正式に公認された 重寛政三年二月四日以降ということになる。だが、すでに見てきたような記録のされ方から判断す 蔦 ると、それよりも少し前、寛政一一年十一月、板木屋仲間の再興を願いでた時点の直後からと考え 二られるのではないか。 第 まさに前述の蔦屋重三郎らの事件、松平定信による寛政の出版取り締まりに直接原因したこと グだと思えてくる。 「板木屋仲間取極発端」は、前例の発端を書き記しているのだ。この判断を裏付けるのは、すで に冒頭の「板木屋仲間取極発端」の一項で板木屋の当事者として願いでた人物六人が、寛政一一年 十一月の願い出人とまったく同一人たちであることである。彼ら六人は寛政二年から一周り ( 十 一一年 ) 以上前、厳密にいえば十三年も前の安永六年にすでに板木屋仲間の代表格であった。私は、 この文書は寛政一一年十一月以降に書き起こされはじめたものと推定した。 奉行所、版元、板木屋のかけひき 167
日間の相撲の全記録もあった。この記録をもとにし 〇〇やや 0 やや〇やや て問題の「大童山土俵入」三枚続に描かれた力士た 9 や・・や 0 〇やや 分 ちを検討することで、私たちの疑問を解く糸口が見 8 や 勝〇〇〇〇や 分 7 えてきた。 や・勝細や〇勝や 6 〇や〇や〇〇〇 大童山を見つめる一〇人の力士は、どういう基準 5 〇や〇〇〇〇勝・や でここに選ばれたのだろう。私たちは十日間の星取 表 分分分 4 〇〇 や〇・〇汾り 取り表を見ながら検討を進めた。 3 〇や〇〇〇や〇 〇・星 考えられる理由をあげてみた。①番付順、②人気 分 順、③この場所の勝ち星順。だが、具体的に検討し 〇や〇〇〇や〇〇〇〇 てみると、このどれも妥当性をもたない。たとえば、 日 原 山 野①番付順だとすると、西方の花頂山、達ヶ関、宮城 名幕紋垣見田風電項ケ城 士 陣九玉勢和谷雷花達宮野は余りにも下位すぎる。②人気順だと、まず東の カ 東方 西 方 横綱大関の小野川がいない。③勝ち星順も、好成績 の上位力士に千田川などがまだまだいて、なりたたない。せつばつまって、この一〇人を含めた 上位力士の全星取表を作ってみるところから問題が解きほぐされていった。この一〇人全員が出 場した日が、ただ一日だけあったのである。それは、この寛政六年の十一月冬場所の二日目だっ じつは、ここまでの一〇人の力士の出場日については後になって、私たちよりも早く、相撲史 0
肌色つきの「大童山土俵入」三枚続をもとめて、さまざまな調査をするうちに、私たちはこの 三枚続の絵そのものに、大きな興味を抱きはじめた。 「大童山土俵入」三枚続に描かれた大童山文五郎は、寛政六年 ( 一七九四 ) 十一月、本所回向院 の大相撲に突然登場した、当時数え年七歳の子ども力士である。 天明から寛政にかけて、秋田に長く滞在した江戸の国文学者、津村正恭の「雪の降道」による と、長瀞村熊野堂門前に生まれた文五郎は、二歳のときすでに身長三尺八寸、体重八貫七百匁に なっていた。代官から二人扶持の手当てを授けられていた。 「これを聞つけて見興ずる人、日ごとにたへず、その村にも茶屋などあまた出来てにぎはしき 所となりぬ、此子みんとて入くる人々、物かづけあたふるまゝ、今は親もゆたかになりてあり わたると見えたる人のものがたりし」 と、「雪の降道」には記録されている。有名な天明の飢饉に苦しみぬいた直後のことだ。 写楽の相撲絵をめぐって