人物 - みる会図書館


検索対象: 写楽よみがえる素顔
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1. 写楽よみがえる素顔

これまで、私はかなりの時間をかけて版元蔦屋重三郎の仕事とその周辺を追ってきた。見えて きたのは、寛政という時代の、堅固な江戸幕藩体制の底のほうから沸きあがってきた新しい風で あり、この国を取り囲む四囲の海原のかなたから聞こえてくる海鳴りの音であった。 同時に、その新しい動きを、あるときにはその先頭に立たされ、またあるときには取り囲む 人々に埋もれながら着実に形づくられてきた出版という仕事の、想像以上に現代と共通した仕組 みの意外なほどのおもしろさも見えてきた。そこには、自らの表現を求めて苦闘するさまざまな 人物の姿があった。 そして、私はその人々のなかにあって、いままで予想していたよりも、かなりな程度に余裕の ある蔦屋重三郎の素顔が見えてきたように思った。よく財産半減の刑を受けた後の蔦屋重三郎に は、「起死回生」の努力があったということがいわれるが、それをいうならば、むしろ宿屋飯盛 こと石川雅望が重三郎の墓碑に書き残した「志気英邁 ( まい ) 、細節を修せず」という人柄をも 東洲斎写楽の手法 172

2. 写楽よみがえる素顔

きた。その結果、歌舞伎役者三世瀬川富三郎が書いた「諸家人名江戸方角分」という古文書に、 江戸八丁堀地蔵橋の住人として国学者村田春海とならんで「号写楽斎」なる人物が記録されてい ること、「重修猿楽伝記」および「猿楽分限帳」という徳川幕府の公式能役者名薄などによって、 寛政年間の能役者のなかに斎藤十郎兵衛なる蜂須賀家お抱えの能役者が実在したことなどなどが 証明されたのである。「浮世絵類考」達摩屋五一本の「栄松斎長喜老人の話」も、前後して広く 紹介された。一九九三年に出された内田千鶴子著『写楽・考』 ( 三一書房 ) はよくその詳細を伝 えている。 写楽捜しの帰結は、こうした実証的な調査と研究によってどうやら徐々に元の『増補浮世絵類 考』の阿波の能役者斎藤十郎兵衛説 ! こ近づきつつあるようにも見える。もちろん、各別人説の論 者の多くは、断固として自説を守りつづけている。 最終的な結論。 まどうであれ、こうして一九二〇年代以来花咲いた写楽捜しの議論は、決して無 駄ではない。、 江戸時代でも特異な光彩を放った天明から寛政という一つの時代のさまざまな事象 と人物像を、現代に色鮮やかに蘇らせるという大きな役割を果たしたことに間違いはないと思う 楽のだ。 斎以上は、思いがけず私自身深入りすることになった、写楽をめぐる最近までの論議のごくごく 東あらましである。 章 第 9

3. 写楽よみがえる素顔

新たな写楽板木発見の可能性 ここまでが一九八七年当時の写楽の板木をめぐる調査と発見の状況だった。その後は、これ以 上板木にこだわることから、写楽について新しい情報を引きだすことは無理だろうという思いが 強かった。ところが最近になって、すでにいまから七、八〇年前にこうした写楽板木への関心を きっちりと示している人々がいたこと、運が良ければ、これからまったく新たにオリジナルの写 楽板木が現代に姿を現す可能性があることがわかってきた。 教えてくれたのはユリウス・クルトである。今回、クルトの『写楽』の翻訳をして、初めて知 ったことだ。クルトはこう圭日いている。 「きわめて幸運な偶然のおかげで、これら浮世絵の中の一点、それも戸無瀬役の小佐川常世の 楽肖像画の古い版木が何枚か、我々のところに残されていたのである。サザビーズ・オークショ 斎ンは一九一三年に、名前を明かさないパリ在住の人物が所有する四枚の版木を市場に出した。 東 その内容は次のとおりである。 章 表側 裏側 第 一、落款と発行所印の付いた輪郭板。黒。 写楽とは別の浮世絵。

4. 写楽よみがえる素顔

『紅毛雑話』出版に先立っ天明四年、竹杖為軽の戯作者名で黄表紙『万象亭戯作濫象』 ( 政美画 ) 、 『従夫以来記』 ( 歌麿画 ) を出したのを皮切りに、以後天明七年まで竹杖為軽あるいは森羅万象亭 の名で毎年欠かさず黄表紙を刊行している。これは写楽Ⅱ斎藤十郎兵衛の実在を追跡して話題に なった内田千鶴子氏もその著書『写楽・考』のなかで注目しているところだが、中良に代表され る蘭学者たちと蔦屋重三郎との間の距離は意外なほどに近いものだった。 新宿で煙草屋を営んでいた町の文人平秩東作も申椒堂須原屋市兵衛と耕書堂蔦屋重三郎とをつ なぐもう一人の人物だ。平賀源内の親しい友人であり一九歳の大田南畝を須原屋市兵衛に紹介し たともされているが、彼もまた狂歌本『狂歌百鬼夜狂』 ( 天明六年 ) を編むなど蔦屋重三郎の執 筆陣として欠かせない存在だった。 要するに寛政三年の山東京伝・蔦屋重三郎に対する取り締まりと、翌四年の林子平・須原屋市 兵衛に対するそれとは文字どおり一体・一連のものであったと解される。硬軟うらおもてに、蘭 学者と戯作者が呼び起こした海外世界の新知識と、武士・町人の階級の垣根を取り払った自由な 思考形態の風ーーーそれに対する泰平の幕藩体制の側からの明確な意思表示であった。 郎当事者の筆禍をこうむった著者たちと蔦屋重三郎、須原屋市兵衛両版一兀ばかりでなく、周囲の 重人々、とりわけ版一兀仲間の関心と懸念は大変なものだったろう。私自身のささやかな経験からし 蔦 . ても、現代でも、言論統制や出版取り締まりに対する出版人の反応は、表面に現れるよりもずつ 一一と鋭敏である。仲間内の情報交換、暗黙の協力も行われていたと想像される。 第 明和、安永、天明と続く蘭学隆盛と戯作者活躍期の諸人物像、その織りなす糸のおもしろさは、 12 5

5. 写楽よみがえる素顔

クルトの『写楽』によって衝撃的に写楽への関心を呼び覚まされた人々は、次には、そのクル 楽トの議論にさまざまな疑問を抱くことになる。しかも、その疑問はクルトの議論を完全に読みこ 斎なしたうえでのものではなく、大多数は英訳版やその要約、紹介文を元にしてのものだった。 東「クルトは写楽を『ヴェラスケス、レンプラントと並ぶ世界の三大肖像画家の一人』として紹介 一した人物としては評価されるが、彼の結論は疑問だ、なぜなら、彼は作品の制作順序で決定的な 第 間違いをしている : : : 」というのが大方の認識であり、それがその後の「写楽捜し」、写楽論の できわめて大きいものがあるという思いが私には強い。 じつは、写楽出現二〇〇年の一九九四年秋、このクルトの『写楽』は、わが国に初めてその全 体像を明らかにした。ドイツでの初版出版からじつに八四年後のことである。たまたま機会を得 て私はこのクルトの『写楽』の翻訳に携わり、はじめて『写楽』の全文を克明にたどることがで きた。このことを通して私が得たクルトとこの本の印象は上述の誤りにもかかわらず、まったく 違ったものであった。 だか、このことはいずれ章を改めてまっとうに述べることにしたい。 ここではつい昨日までの 「写楽捜し」の経過のあらましを一通りたどることが必要なのだから。 クルト以後の「別人説」

6. 写楽よみがえる素顔

が決して馬鹿にならないことを考えたのだ。 だが、ここにはそうした掛け値はまずないとみてよい。それは当時、林子平とその『海国兵 談』の原稿が置かれていた状況から判断できると考えるのである。 たしかに林子平は自分で書いているとおり、「遠鄙」仙台に住む「無息・清貧者」であった。 が、彼をとりかこむ人々は江戸にあって当代の文芸をリ 1 ドしている学者であり文人であった。 林自身の前の著書『三国通覧図説』を出版した申椒堂須原屋市兵衛も、ひととおりの版元ではな 同志というほうがふさわしい人物であったと思う。 須原屋市兵衛は『海国兵談』の出版こそ引き受けなかったが、林子平が自費ででも出したいと いうときに、それを応援しなかったはずはない。「見積書」文中「口上之覚」の第三項に「右の 如く千部を仕立候事其不少候、因て書肆を招て千部を仕立候、値の大略を計画せしめ候、其大数 左の如し」の「書肆」が、須原屋市兵衛であるということは、十分にありうるのだ。かりにそう でないとしても、その「書肆」が、林子平に対して、過度な経費をふつかけるということはあり 得ないと見てよい 私はこの「海国兵談見積書」の数字を寛政初年の江戸出版業界の第一の基礎数字として信頼に 重値すると考えてよいと思う。 蔦 章 第 127

7. 写楽よみがえる素顔

役の性根を求めるだらうが、私たちはかけるべき能面をまへにして想を練る。この仕事を『面の 位をとる』といふ」。能面は、歌舞伎役者にとっての、単なる「抜き書き」ではない上演台本に あたるというのだ。 谷口氏も、面打ちの立場から、能役者と能面のかかわりについても貴重な体験談を語ってくれ 「だから私たちは、能面を彫るときも面の裏を表と同じくらい大事に彫るのです。能面は、裏を 見て表がわかるように彫らねばなりません。強い面の裏は荒く、カンナ目、彫り痕を荒々しく残 すように、優しい女面などは、裏もやはり細かく彫ります。 最終的に、能役者は能面を裏から見るのですから」。 舞台に上がる前の能役者は、自分の顔に付けるべく手にとって能面を見つめる。先代金剛巌の 言葉どおりだ。そのとき、彼が見ている面は、ただの能面ではない。自分が演ずる人物の顔であ る。自分の役造りの核心を担うものとして見つめているのだ。舞台に立ったとき、能役者は自分 の素顔にひたと接している能面が、周囲のすべての人々にどう見えているかを意識している。 こし や、意識すらしないことが大事なのかもしれない。なぜなら、それは、もう一人の自分ともいう 才 とべき「役」の顔なのだから。 時 クルトはこの点の理解が曖昧だった。 = 一長い旅のあげくに、思いがけずなじみ親しんだ旧知の土地にひょっこり辿りついたような感じ 第 がしないでもない、写楽は阿波の能役者、斎藤十郎兵衛であるという場所に。 191

8. 写楽よみがえる素顔

第一章東洲斎写楽 役者の紋を確認したうえで、クルトは当時彼が知ることができた写楽の全作品について、 次のような項目について検討していく。 、判型。大判、間判、細判の区別。 、構図。人物のサイズ、全身像か、半身像 ( 大首絵 ) か。 、背景の描き方、舞台のさまざまな装置、大道具の有無。基礎 ( 床面 ) の描き方、基礎の線 ( 役者が立っている床面と背景との境界の線 ) の有無。 、落款の種類、写楽画と東洲斎写楽画の区別。 、人物の背景の彩色の仕方、黄つぶし、雲母摺 ( 白雲母、黒雲母 ) など。 、細判の場合、構図、人物の組み合わせから判断しての続き絵の選定。 b•o 、こうしたことを総合したうえでの、外題 ( 芝居の内容 ) 、ドラマの推定。 からまではいかにもドイツ合理主義的だし、当然の作業である。が、最後のにつ いては、クルトは決定的に情報が不足していた。彼が頼りにしたのは、日本人の国民的ド ラマ「仮名手本忠臣蔵」と「菅原伝授手習鑑」、「妹背山婦女庭訓」などごく限られた演 目だったようである。 クルトによる写楽の絵の分類 ( 作品目録 ) 。 クルトはⅡの検討項目によって区分した絵を、彼が考えた写楽の作品制作順に並べ、そ の制作年代を推定した。次のとおりである。 「写楽画」落款。

9. 写楽よみがえる素顔

現なのだと思う。 しばしば引き合いに出される歌川豊国と、同じ役者を描いた写楽の作品「三世沢村宗十郎の大 岸蔵人」で比較してみよう。写楽の大首絵の目が持っ瞼の太い線、眼球のほぼ真ん中にくるりき よろんと置かれた黒目は、豊国の「役者舞台之姿絵きの国や」のいかにも人臭い感情を込めた 目と好対照だ。大岸蔵人は仇討ちを助ける裁きの義人という役どころだとされている。激情にか られるよりも理性の平衡感覚が先に立つ人物と思われるが、その目を表現するに際して、豊国は 人間的なバランスを採る ( そういう意味でまさに「写実」だ ) のに対し、写楽は「裁き」という 役どころの極端な強調を選んでいるといえるのではないか。 写楽がこのような選択をするには、なんらかの根拠があったはずだ。私は、次のような想像を する。 写楽がその大首絵を描くにあたって、実際に舞台を観たことはいうまでもない。スケッチもし たかもわからない。が、同時に写楽はなによりも、そこに登場する人物たちが劇のなかでどんな 役回りを演じているかを確認することに注意を集中した。写楽の内面では、その人物が動きだし 能た瞬間から、立役か敵役か、「実事」か「どうけ」か、それにふさわしい能面が見えはじめてい とた。彼の目は、能面の目を、その役者の顔のなかに再生させることで成立した : 時 これはあくまでも私の想像である。「写楽がそんな機械的な段取りで、あの役者絵を描くはず 三かない」という批評も、当然あろう。だが、能面は、まさにその役どころを象徴するものとして 第 作られ、用いられているはずだ。そして、歌舞伎も能も、劇としての根はただ一つなのである。

10. 写楽よみがえる素顔

はリアルな舞台化粧用の「目張り」の反映で お 白馬あって、決してそれ以上ではない。あくまで 町坂もそれらの目は、リアルな表現のワクのなか 祇での表現である。 松ところが、写楽は違う。まったく別の原理 △市 で描かれた目である。写楽の描く目、とくに 市 世」第一期の大首絵の人物たちの目は、それまで 、な のどの浮世絵師にもなかった写楽独特の目だ。 そして、決してそれは人間の目のナチュラルなスケッチを土台にしたものではない。あくまでも 極端なデフォルメ、誇張である。たとえば、写楽が描いた「三世佐野川市松の祇園町の白人おな よと市川富右衛門の蟹坂藤馬」の市松と富右衛門の目を見るがよい。もちろん目以外の描線のお もしろさも写楽独特のものであり、人物の個性を簡潔ないく本かの線で描きだす才能に満ちたも のだが、目の描き方にはそれらを遙かに超えた強烈な線そのものの主張がある。この線はなんだ ろう。 歌舞伎役者の顔、メ 1 キャップの「目張り」の濃い線が、前提であることはいうまでもない。 だが、写楽以前の誰も、その目をこのような太く単純化した線で表現したことはなかった。 写楽の目は、それまでの日本画、浮世絵の伝統的な目の描き方とはまったく別系統の描法であ る。 182