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検索対象: 写楽よみがえる素顔
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1. 写楽よみがえる素顔

大座敷を訪れ、美人たちを前にして踊っている図だ。おもしろいことにこの絵には大童山の変わ り絵がある。三枚続の中央の一枚だけが、写真のように大童山が饅頭を食べている図に替わって いる。大童山の背後では番頭風の男が、女の前に大きな紙を広げて説明をしている様子。紙には 「羽州村山郡長瀞村大童山文五郎寅七才丈三尺五寸七分目方拾九〆目余」とはっきり読 める。いずれも蔦屋版だ。絵の出来具合、とくに遠景の座敷の奥が床の間の前者と屋外風景の後 者の違いから、大童山のほうが後から差し代えられたものと推定される。 大童山、寅七才ということは、寛政六年である。この年の大童山プームがどれほど盛りあがっ ていたかは、「さればこの冬の評判は、大童山といふ七歳の大角力、山下といふ六十六歳の若女 形にとどめたり」という評判記『役者人相鏡』によく表れているが、この大童山人気に蔦屋重三 郎はいち早く写楽の「大童山土俵入」 ( 三枚続 ) と間判の「大童山の土俵入」をぶつつけた。同 時に、吉原の女衆のまっただなかに座る大童山という趣向で長喜の「万歳踊り」 ( 三枚続 ) を急 遽作り変えたものと推定される。ついでにいうと、大童山プームには、ほかの版元もそれぞれ馴 染みの絵師を総動員して競合した。鶴屋喜右衛門は歌麿 ( 大童山とおひさ、おきた ) と春英 ( 大 童山と谷風 ) 、西村屋は春英 ( 大童山と山うば ) 、若狭屋与一は豊国 ( 大童山と谷風 ) 、江崎屋吉兵 衛は勝川春山 ( 大童山とだるま見立て ) といった具合である。つまり、蔦屋重三郎は写楽に続い て長喜に大童山を描くことを委嘱したのであり、そのとき長喜が競争者ではなく共同者として写 三楽を意識しなかったはずはなく、なんらかの連絡すらあったと考えても無理ではないのだ。 横道が長くなってしまったが、この時期の長喜と写楽、そして蔦屋重三郎の関係は、ほかのど 19 ラ

2. 写楽よみがえる素顔

これらの写楽板木が本物であったとすると、問題は右のリスト二番目の「大童山土俵入」三枚 続・中図の大童山の肌色の板木である。安達氏によればここには色はついていないはずの場所で ある。 世界に現存する「大童山土俵入」三枚続は、すでに板木との照合をすませた中右瑛氏所蔵の一 組のほかには、熱海のäO< 美術館所蔵のものだけ、つま二組しないとされている。いま一 枚、中央の大童山の絵のみは相撲博物館が所蔵している。したがって、中央の大童山に限ってい えば世界ド三枚るわけだ。私たちは時間をかけてその一点一点を自分の目で確かめてみたが、 事実、どれをみても大童山の肌にば色・はまうたくつけられておらず、紙の白さをそのまま生かし た浮世絵の伝統的な手法で大童山をひきたたせている。 だが、一方で、大童山の肌にづげみべぎ肌色色ジ ( ポストン美術館から厳としてその存 在を主張しているのである。 ほかに本当に「大童山土俵入」の本物は存在しないのだろうか。 私たちは、世界中に手を伸ばして肌色つきの大童山を捜し求めたが、これはついに発見できな かった。しかしその過程で、ヨーロッパ浮世絵研究の重鎮ジャック・ヒリャー氏の紹介を得た私 たちは、ニューヨークに住む相撲浮世絵の優れた研究家ローレンス・・ビックフォード氏と連 絡を取ることができ、氏のこの問題に対する意見を知るとともに「大童山土俵入」三枚続の復刻 版「高見澤版」の存在に出あった。ビックフォ 1 ド氏もこれまでの安達氏の見解と同様、大童山 の恥〉色ばついていないはずだという。だが、そのビックフォード氏が友人の所蔵だと写真

3. 写楽よみがえる素顔

相撲絵に対する蔦重の手法も、共通して いる。蔦屋が出している相撲絵には、つね 風になんらかの物語性への意図が感じられる。 谷 大童山もそうだが、同時期か少し前かと思 山 童われる春英の「両国橋を行く力士たち」 ( 三枚続 ) にしても、はるかに筑波山を背 絵 ' 版景に、力士たちとともにどことなく寛政の 三美人を思わせる女性を配した構図である。 未刊に終わった大童山と谷風を中心にし た一〇枚の版下絵のシリーズは、相撲絵の分野に対して、なんとかして新しい物語性、そしてパ ノラマのおもしろさを導入しようと考えた蔦屋重三郎の意図を感じさせるものだ。前にも述べた が、残念ながらこの相撲版下絵のうち小林文七の手元にあった九枚は関東大震災で焼失し、中央 に位置する「大童山と谷風」の一枚だけが現存する。 かってこの貴重な版下絵をじっくり見る機会があった。そのとき所蔵者に指摘されて興味をも ったのは、その版下絵の谷風の顔の、眉の下から口元までのちょうど中心部分だけが、一度描か れた後で紙を張って手直しをされていたことであった。その修正ぶりは、何度も薄く引きなおさ れた鼻の線といい、穏やかに子ども力士大童山を見る目つきといい、真の「自然の写し」を求め て苦心していた絵師写楽の目と手を、強く感じさせるものだった。ここにはもはや第一期の大首 212

4. 写楽よみがえる素顔

業以外の目的に使用したとしたら、バラバラの状態になり、「絵本東都遊」のため板ット として明治までることはなかったにぢかいない。享和一一年以後に何者かが為にする目的をもっ て写楽の色板木を新たに作ったとしたら、写檪、の板のほうがこのようにバラバラの状態で、しか もこれほど断片的に残されているはずがない。 以上のようなことから、写判色ヤ、少なくとも享和一一年以前に彫られたものであることは 疑いようがないと考える。享和二年 ( 一八〇一 l) といえば、写楽が活躍した寛政六 5 七年 ( 一七 九四—五年 ) からわずか六、七年しかたっていない。まさにこれは、本物の写楽の板木である。 参考までに、ポストン美術館でのこれらの版木の整理番号を記録しておく。 ・ 11 / 5179f 「大童山土俵入」三枚続・左図雷電の肌色 裏は「東都遊」下ノ九 ( 肉色 ) ・ XQ.) 一 11 / / 〔 010b0 イ・ 1 ・ 「大童山土俵入」三枚続・中図大童山の肌色 裏は「東都遊」中ノ五 ( ねずみ色 ) 楽・ S11 / 5179C 「大童山土俵入」三枚続・右図の紅色 斎 裏は「東都遊」下ノ九 ( 黄色 ) 洲 東・ / 5167b 「大童山土俵入」三枚続・右図のねずみ色 章 裏は「東都遊」中ノ五 ( 紅色 ) 第

5. 写楽よみがえる素顔

寛政六年 ( 一七九四 ) 秋、数え年七歳の文五郎は親元を離れ、江戸でデビュ 1 する。大童山を 引き受けたのは伊勢ノ海部屋だったという研究もある。寛政六年十一月、晴天十日間、本所回向 院の境内で開かれた大相撲に、大童山は番付に張り出前頭として附出され、特別ショーの主役と して登場した。これが大変な評判になった。その証拠に、大童山を主人公にした相撲絵を描いた のは、写楽だけではない。歌麿、長喜、春英、春山、初代豊国そして十返舎一九と、当時の有名 な浮世絵師たちがこぞって描いている。 大童山文五郎、この時の身長三尺七寸九分 ( 約一一五センチ ) 、体重一九貫余 ( 約七一キロ ) 。 それが、約五か月後の寛政七年三月、深川八幡境内での春場所では、身長三尺九寸九分、体重一一 一貫八〇〇目と、さらにひとまわり大きくなっていた。以後、大童山は約十年間にわたって、一 人土俵入りを務めた。文化一一年 ( 一八〇五 ) 春場所には、十七歳で正式に東前頭五枚目に附出さ れ、文化九年冬場所、おなじく東前頭五枚目で引退している。 引退後は江戸下谷広徳寺町に居を構え、「七年モグサ」を売り、大繁盛したと伝えられている。 文政五年 ( 一八二一 I) 十二月二〇日、三五歳でなくなり、当時の文人墨客の墓が多い蔵前の框寺 楽に葬られた : 斎 洲 東 章 第

6. 写楽よみがえる素顔

アダチ版画研究所は、先代の安達豊久氏以来、写楽版画の完 全復刻を目指し、父子一一代のカで実現した。写楽の浮世絵を制 作者の目と手で追体験した現代の職人の集団である。その現代 の版一兀安達氏にとって、この発見はショックだった。 なぜなら、浮世絵関係者の誰しもがそうであったように、写 楽の板木があるなど想像もしていなかったことであり、しかも、 木氏自身が書いているように板木の山のなかから最初に出てきた 色写楽の板木が、これまでの数十年の調査と研究の結果父子で作 入りあげてきた「写楽画『大童山土俵入』三枚続の大童山の肌は 山 童からである。アダチ版画研究所の写楽復刻に注いだ努力は生半 可なものではない。世界中に散らばっている写楽の絵を一点ず っ追い求め、精密な写真に撮り、可能なかぎり現物を手にして プロの眼で見つめ、原作がどんな色版を重ねて作られたかを判 断し、そのとおりに新しく板木を彫って復刻版を作る : : : たい へんな根気、執念の積み重ねであった。その一角が、目の前の 一枚の古い板であっさりと否定されかねないことになったので ある。

7. 写楽よみがえる素顔

さて、この一〇人がここに選ばれた理由はなんだろうか。 ニ日日、 直冖を山 この時から私の両国通いが始まった。もちろん両国国技館である。国 漑 ,. 町 ( = をみ響第当技館には日本相撲協会が運営する相撲博物館がある。当時の責任者はか っての名横綱・栃錦の先代春日野親方だった。ここには「大童山土俵 入」三枚続の中央図、大童山をはじめ大量の相撲錦絵が所蔵されている。 異速何度目かの訪問で、私は酒井忠正著『日本相撲史』上巻 ( 日本相撲協 えを石 勝会発行、べースポール・マガジン社発売、昭和三一年 ) の存在を知った。 付じっくりと紐解いていくと、じつに詳細を極めた大著である。一九四五 秀「、「三勝年、敗戦の直後、大鉄傘という言葉で親しまれたかっての両国国技館は 営、、引・分顰第野 ~ 印アメリカ占領軍に接収されて、相撲協会は即刻退去しなければならなか やそれ以前からの大量の相撲資料があったが、 った。館内には明治、い 容赦なく屋外にほうりだされて雨風に晒されるままになったという。ご す瀬円物」・洋目 山引ー分上い一ー宿 日くわずかの人々がそこから残せるだけのものを残し、それが現在の相撲 楽 博物館の基礎となったという話を聞いた。そうした苦労のなかで、国技 の名にふさわしい歴史を戦後十年の歳月をかけて編みあげたのが、『日 ↓いよ 0 滝ノを、 - 中ム山 東 本相撲史』上巻であった。 章 田ャ曽アを一 ここには江一尸時代の番付一覧ばかりか、場所ごとの星取り表も克明に 第田注 記録してあった。もちろん寛政六甲寅年十一月の本所回向院境内での十 ふー 9

8. 写楽よみがえる素顔

浮世絵版画を単なる美術品ではなく、江戸の社会情報のパッケージとして見るというのは、例 の三代広重の「近江八景全図」で身につけた手法だった。そういう目で見ると、この「大童山土 俵入」からは、どんなことが読み取れるだろう。 左右にいる五人ずつ、計一〇人の力士たちの名前と顔は、どのように対応するのだろう ? 彼 ら一〇人は、いったいどのような基準で選ばれたのだろうか ? 最初に浮かんだ疑問はこの二点 だった。左上端の宮城野という名前の文字が、オリジナルの二点ともに半分以上欠けていること も不思議だった。 ここから始まった追跡は、思いがけない発見を私たちにもたらした。発見の基礎は、当時のカ 士たちを描いた相撲錦絵をできるだけ沢山見てみようと、可能なかぎり努力したことにあった。 中央の図で土俵入りをする大童山を左右から見守る一〇人の力士たちの順序は、次のとおりで ある。 玉垣陣幕 雷電花頂山 【右図・東方】和田ヶ原 【左図・西方】宮城野 九紋龍勢見山 谷風達ヶ関 寛政六年十一月十七日

9. 写楽よみがえる素顔

第一章東洲斎写楽 第ル第 だが、この企画は下絵の段階で中断された。寛政七年一月九日、 大童山と並ぶもう一人の主役、名横綱谷風が、この年江戸市中に流 行した風邪にかかって急逝したのである。 谷風の死は、天明から寛政にかけて隆盛を誇った江一尸相撲に一つ の区切りをつけるものとなったようである。 写楽もまた谷風の死に先だってか、あるいはおくれてか、筆を折 り、私たちの前から姿を消した。その筆跡をいま私たちの前にある 下絵「大童山と谷風」に残して。

10. 写楽よみがえる素顔

その何枚かに最初の持ち主が書きこんだ「寛政 六甲寅年」という文字によって一七九四年であ るとい一つことはクルトにも知られていた。問題 カ 怪は写楽の制作の始まりの時期だった。 ここでは、今日「大童山の怪力」という題が 大 つけられた大童山の大判一枚絵が決定的なヒン トになった。この絵に摺りこまれた「羽州村山 郡長瀞村産高サ三尺九寸九分大童山文五郎 卯ノ八才目方一一拾壱貫五百目余はら三尺九寸まハり」という文字は、写楽の作品の書添えと して当時知られていた唯一の例だった。クルトはこの書添えのなかの「卯」という文字に注目し た。卯年が何年であるかは暦を見ればわかるー ここまではよかった。だがここでクルトは大きな間違いをしてしまった。「卯ノ八才」を「卯 年生まれの八才」と解釈したのである。卯年は一七八三年だ。卯年に生まれて数え年八才という ことは、七年後を指し示している。つまり一七九〇年にこの絵が描かれたことを意味している、 と考えたのである。残念ながら「卯ノ八才」は「卯年に八才である」というのが事実であった。 一七八三年から一回り、十二年後の一七九五年のことだったのである。 クルトは、写楽の制作期間を七四ページの表のように一七八七年 ( 天明七 ) から一七九四年 ( 寛政六 ) と広げてしまった。そして、根本資料である「浮世絵類考」の「あまりに真を画かん