「大童山土俵入」三枚続の色板木の謎に始まって、「写楽が現れた日」を特定するまで、私たち の写楽追跡は、相撲絵という土俵を中心にして進められてきた。いま一つの仕事も、やはり相撲 に関係している。 かって明治から大正にかけての浮世絵商であるとともに、代表的なコレクターでもあった小林 文七の手元に、写楽が描いた相撲版下絵九枚があったが、関東大震災で灰になってしまったとい うことは、以前から知られたことだった。現在では、その版下絵は、写真版で見ることができる ばかりである。 楽これとは別に、一九七四年 ( 昭和四九年 ) 、ロンドンの競売会に有名なべべ 1 ル・コレクショ 斎ンの一部が出品され、その一点として写楽の版下絵 ( 正確には下絵 ) 「大童山と谷風」が出され 東て、日本人コレクタ 1 坂本五郎氏の手に落札されたことが知られていた。 一写楽の時代の力士たちが二人ずつ着物姿で描かれた、都合一〇枚のこれら版下絵は、昭和十年 第 代の研究が基礎になって、写楽の真筆であるとは必ずしも言い難いという通説が成立していた。 院境内まで短時間内に往復しなければならない。木挽町から本所までの道のりを具体的に検討し たうえで、これは不可能だというのが、私たちの結論だった。 一〇枚続きの相撲版下絵
出発点となった。 さらにそのうえに、斎藤月岑の『増補浮世絵類考』が残した「俗称斎藤十郎兵衛居江戸八 丁堀に住す阿波侯の能役者也」という記録まで、その信憑性を疑われるに至ったのである。そ の論拠は、そもそも斎藤月岑は写楽よりはるかに隔たった後代の人であり、その記述になんら根 拠となる事実がないということであり、さらに、当時、どこを捜しても「江戸八丁堀」に斎藤十 郎兵衛なる能役者が住んでいたという記録などないではないかということであった。 こうして第一一次世界大戦をはさんで戦前 ( 大正末年から昭和初年 ) と戦後 ( 昭和三〇年代から つい最近まで ) 、二つのピークをなしながら「写楽捜し」は百花繚乱の賑わいを見せたのであっ 「写楽は誰だ ? 」という問いは、さまざまな人物を写楽に充てさせることになった。その数はざ っと数えても三〇を超え、四〇におよぶともいわれる。ここではその代表的なものを、対比でき る図像の例およびその大まかな理由とともに列挙しておく。 歌舞妓堂艶鏡 艶鏡・中山富三郎 ( 提唱者ュリウス・クルト ) 写楽・中山富三郎の宮城野 一九一〇年、写楽の価値を初めて世界的に紹介したクルトは、阿波の能役者斎藤十郎兵 衛こそ写楽だったが、あまりに写実的な画風を歌舞伎役者に恨まれていったん姿を消し、 寛政八年、歌舞妓堂艶鏡と名を変えて再登場したと主張した。写楽と艶鏡の画風の共通性、
ることができない。 私たちの申し入れを聞いたとき、井口氏の念頭に浮かんだのは、先輩の故富田幸次郎元東洋部 長 ( 岡倉天心の後継者として知られる ) の「日本からきた人を大切にしなさい」という言葉だっ たと、後になって述懐されたものである。井口氏を動かしたもう一つの要因があったようにも思 う。おなじ浮世絵に関することでも版画そのものではなく、板木といういわば職人の仕事の対象 にこだわった私たちの希望に、美術品の修理の専門家がもっ職人の心が動いたのだ。 昭和六〇年 ( 一九八五 ) 六月、許可を得た山口卓治プロデューサーは初めてポストン美術館収蔵 庫に眠っていた板木に対面した。収蔵庫の棚に荒縄で縛って積んであった板木の総数は五〇〇枚 を超えており、大多数はビゲロー ・コレクション (reserved) と指定してあった。板木の一枚一 枚にはナンバーがふられ、美術館のコンピューターにも番号は記録されていたが、それらがどん な絵の板木であるかはほとんど不明で、コンピューターのデータも空白のままだった。 板木に彫られた絵の内容を板木だけから判断することは、専門家でなければできることではな 。山口プロデューサーがポストンからもちかえった写真資料は、日本浮世絵協会の菊地貞夫理 楽事長 ( 当時 ) とアダチ版画研究所の専門家の検討に委ねられた。その結果、これらの板木のなか 斎には一枚ものの錦絵の板木だけでなく、どうやらこれまで誰も予想してなかった葛飾北斎の狂歌 東絵本の名作「隅田川両岸一覧」などの古い板木が系統的に保存されているらしいということがわ 一かってきた。 第 翌昭和六一年 ( 一九八六 ) 春、日本から菊地貞夫氏とアダチ版画研究所の中山吉秋、おなじく
という意思をもっていたことが明らかになった。 明治十五年 ( 一八 八一 D 、エドワード・モース、アーネスト・フェノロサとともに初めて日本 を訪れたビゲローは、以後七年間にわたって日本に滞在し、日本研究と日本美術の蒐集にあたっ た。その滞在最後の頃、彼はこれら浮世絵板木を少なくとも二度に分けて購入し、ポストン美術 館に送ったのである。「このオリジナルの板木を使ってポストンで新しい版をおこすことが可能 です。いささか高い買い物ですが、しかしこれはたいへんな掘り出し物です」とビゲローは手紙 に書いていた。岡倉天心がポストン美術館東洋部に着任したのはそれからわずか五年後の一九〇 四年であり、このときビゲローはポストン美術館理事の一人になっていた。板木発見のときにポ ストン美術館にあった大量の和紙は、あるいはビゲローと岡倉天心が、ポストン美術館の新版を 摺りだすために用意したものだったのではないかとも想像されるのである。 以上のような経緯で、日本への板木の一時帰国は無事実現した。もう一つの壁は、およそ二〇 〇年前の古い板木で、はたして本当に新版を摺ることが技術的に可能かという問題だったが、こ れはアダチ版画研究所の職人たちの工夫と腕で見事にクリャーすることができた。 楽こうして昭和六二年 ( 一九八七 ) 一月、色鮮やかに復活した北斎狂歌絵本三部作ほかは、はる 斎ばる里帰りをして再度の役目を果たした五二七枚の板木と並んで、「ボストンで見つかった北斎 東展」と題して東京・たばこと塩の博物館をはじめ全国で公開された。同時にこの全記録は 一からテレビ・ドキュメンタリーとして放送された。ポストン美術館は完成した北斎狂歌絵本をは 第 じめ全作品を「昭和丁卯年正月十五日摺刷、ポストン美術館版」として公刊し、世界の主要美術
クルトの歌舞伎と歌舞伎興行に関する知識・情報はあまりにも一般的過ぎた。写楽の役者絵を 全体として解明するには、決定的に情報不足であった。 それでもクルトの『写楽』は、世界的に衝撃を与え、日本にも強烈な影響を与えた。だが、も しもドイツでの刊行から間を置かずにその全容が日本に紹介されたならば、歌舞伎界の常識から して「忠臣蔵」の一事だけからでも、クルトは集中砲火を浴びることになったのではないだろう カ そうはならなかったことが、よかったかどうかはわからない。だが、この破綻は遅かれ早かれ 明らかになってくる。事実、大正から昭和前半にかけてクルト批判はご承知のように決定的なも のになっていく。 ゝ 0
ることなどである。摺られた版画だけを手本にして復刻版を作るとき、どんな色板木の組み合わ せで復元するかは、制作者の判断によって微妙に変化するらしい。サイズのずれは昭和の初め頃 の湿式写真で撮影したオリジナルの写真版 ( の湿版 ) を、直接板木に張りつけて、それを彫る方 式では決して例外ではないことだったらしい。 そうした条件はあったとしても、「迫真」を理想とした高見澤版が、大童山に肌色をつけてい るということは、彼らが手本にしたオリジヂ - ルに肌色がづい - てい、たど摠定する大ぎな根拠となり うる。だが、復刻の手本として、どんなオリジナルを参考にしたかについてはまったく手がかり は残されていない。 さらに、もしも高見澤版が、直接にオリジナルにあたって制作したものではなく、写真版など を手本にして復刻したとすると、高見澤版だけで肌色つきのオリジナルがかって存在したとする 。冫。しカ宀はし だが、オリジナルのための肌色板木がポストン美術館に現存していることは疑うべくもないの ポストン美術館の写楽版木は、アダチ版画研究所の仕事に対しても、大きな宿題を投げかけて いる。本当の答えはまだ出ていない :
啓蒙書を皮切りに、これまでにあげた先人の研究に加えて当時の出版物である黄表紙、洒落本や 滑稽本などの解説書、あるいはこれらの作品を収めた古典文学全集などの解説・解題をやみくも に辿る以外になかった。それはまともな地図も持たずに、不案内の土地を歩き回るのに似て、し ばしば袋小路に入りこみもした。しかし、こうして歩き回り、そこここで拾いあげた求める実数 の断片をノートに記録していくうちに、どうやら諸文献に紹介されている出版データの実数の断 片が、みな、限られた幾種類かの原典をもとにしているらしいことが判ってきた。 そうした時に出会ったのが昭和五年 ( 一九三〇 ) に出版タイムス社から出版された上里春生著 『江戸書籍商史』 ( 一九六五年に名著刊行会からの復刻本もあり ) である。 江戸時代初期から幕末までの出版の歴史を史料にあたって的確に記述し、東西の出版傾向から 版元による問屋株式仲間の成立、それに対する幕府当局の統制、許認可の移り変わりまで、江戸 出版史の全容が示されており、最後の「出版行程」では、私が求める具体的な事実が本の製作過 程にしたがって述べられている。
一九二〇年代から三〇年代、大正から昭和にかけて、クルトに刺激を受けた写楽研究は少しず っ実証の度を深めていった。ヨーロッパのケシュラン、ヴィニエⅡ稲田、フリツツ・ルンプ、三 〇年代に入るとアメリカのヘンダースンⅡレドウなどによって各地に散在していた写楽作品の調 査とそれにもとづく研究が進み、日本でも、大正九年 ( 一九二〇 ) の松方コレクションのフラン スからの帰着、その後の公開が大きなきっかけとなって仲田勝之助、井上和雄、吉田暎一一、楢崎 宗重などが着実に研究成果を挙げた。 楽もちろんクルトが多くのページを割いて試みた歌舞伎役者の家紋の確認などは日本の浮世絵研 斎究家には当然の前提だった。写楽に限らずその周囲の浮世絵師の研究、そしてとくに同時代の歌 東舞伎史の精密な研究の進展は、すでに述べたクルトの歌舞伎に関する情報不足を補い、写楽の作 一品の制作年代に関するその大きな誤りを訂正して、写楽の活躍の時期が「浮世絵類考」がいうと 第 おり寛政六年から七年のわずか十か月足らずであることを立証した。 逆転の真因、クルト以後
ととし、以後、現代の読者にわかりやすく話を進めるために、私の計算はすべて「文」という最 低単位に換算して考えることにする。なぜなら、今日の「円」とゼロの数が比較的に似た桁で計 算が進められるからだ。 ついでに、もう一つ、では一体、その金額はいまの円に直してどれくらいの価値があるかとい うもっとも直接的な疑問にも、一応の答えを出しておかねばならない。よく、浮世絵一枚の値段 三 x 八 ) の一六文だったなどといわれるが、本当のところどうなの は、蕎麦一杯と同じ二、 カ ? ・ 明治以降は『値段の明治大正昭和風俗史』などという本もあって、結構わかるものだが江戸時 代となると、これがなんともたよりない。物の値段を物差しにする以外にないので、結局、江戸 時代の武家の給与の基準である米の値段 ( 「石」が単位 ) によると決めたのだが、さて、一石と いうのは現在の米価でいくらにあたるかとなると、これまたやっかいだった。そもそも、昔と今 とでは、米の計り方のそもそもが異っている。石は容積だが、いまは目方のキログラムだ。 問い合わせた結果、一石は一五〇というのが、お なじみの米屋さんからの広報部まで、 よその換算数値だと知った。ただし、米屋の計算では、かっては一石一四〇としたものらしい。 今日の「円」になおすと ? 146
秋も深まったうららかな一日、私は、湘南、大磯の谷口氏の仕事場兼住居を訪ねた。大磯駅ま で出迎えてくださった谷口氏にしたがって、松並木が残る旧東海道を東にしばらく歩くと、歌舞 伎ではお馴染みの曽我十郎の愛人、虎御前が石になったといい伝えられている、有名な虎が石の 前を過ぎる。そこから間もないところに、谷口氏の質素な仕事場はあった。 夏の銕仙会での虫干し以来である。「写楽と能面のことは考えていたのですが、具体的にどの 絵がどの能面にとなると、なかなか難しいですね」といいながら、さっそく奥から出して示され 能たのは『観世家伝来能面集』 ( 檜書房、昭和一一九年 ) という古い写真集のなかの、女面「小夜姫」 の写真であった。鎌倉後期の人で、世阿弥に「女面の上手なり」といわせた龍右衛門の作とある。 時たしかに、ややうつむき加減のその女面の表情は「四世岩井半四郎の乳人重の井によく似ていま = 一す」と谷口氏がいうとおりだ。 第 私は、考えつづけてきた能面の目の造り方を尋ねた。谷口氏は自作の能面を何点も取りだして、 能面の目、写楽の目