るなら巨大な系統樹を描くことができるはずのものである。晩年、この「浮世絵類考」の研究に 執念を燃やした故北小路健氏の調査によると、氏が調べあげた写本の総数はじつに一五八種にの ばっていた。最初にこのうちの一本、龍田舎秋錦編『新増補浮世絵類考』が印刷物として複製公 ノ ) のこととされ、活字本の最初 刊されたのは江戸時代最後の年、慶応四年 ( 明治元年、一八六、 は明治一一一一年 ( 一八八九 ) の前記龍田舎秋錦編『新増補浮世絵類考』 ( 博文館 ) および同年刊の 本間光則編『増補浮世絵類考』 ( 畏三堂 ) であった。 このいわば「浮世絵類考」の成長の過程で、写楽の項に加筆された事項の大略を列挙すると、 次のようになる。 享和一一年 ( 一八〇一 D 、山東京伝追考、「写楽、是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに 真をかゝんとてあらぬさまに書きなせしかは長く世に行はれす一両年にて止ム」とあ って、ここでは写楽の項に特段の補記はない。 文化十一一年 ( 一八一五 ) 、加藤玄亀 ( 曳尾庵 ) 補記、「しかしながら筆カ雅趣ありて賞すべし」 楽文政四年 ( 一八二一 ) 頃、式亭三馬補記、「三馬按写楽号東周斎江戸八丁堀ニ住ス僅ニ半年 斎 余一何ハル、ノミ」 洲 八三一 l) 頃、達摩屋五一本、「写楽ハ阿洲侯の士にて俗称 東文政四年—天保四年 ( 一八二一 5 章 を斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話那り周一作洲 ( 周ハ一ニ洲ニ作ル ) 」 第 天保四年 ( 一八三一 l) 、溪斎英泉再編 ( 「无名翁随筆」一名「続浮世絵類考」 ) 、「五代目白猿幸
四郎后京十郎と改半四郎菊之丞富十郎広次助五郎鬼治仲蔵の類を半 身に画」 天保一五年 ( 一八四四 ) 、斎藤月岑『増補浮世絵類考』、「天明寛政年中ノ人俗称斎藤十郎 兵衛居江戸八丁堀ニ住す阿波侯の能役者也号東洲斎廻りに雲母を摺たるもの 多し」 以上はすでに述べたとおり、写本から写本を重ねた「浮世絵類考」のいわば巨大な系統樹のあ ちらこちらにほっりばつりと補われた「補記」を抽出したものだ。したがって、この一つ一つが ここに並べたように時代順に整然と積み重ねられた情報ではない。が、ともあれ、こうした情報 は、最後の斎藤月岑の『増補浮世絵類考』に至って集大成されたと考えても間違いではない。繰 り返しになるがその全文を記しておこう。 〇写楽天明寛政年中ノ人 俗称斎藤十郎兵衛居江戸八丁堀ニ住す阿波侯の能役者也号東洲斎 歌舞妓役者の似顔を写せしがあまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかハ長く世に 行れず一両年にて止む類考 三馬云僅に半年餘行るゝのミ 五代目白猿幸四郎后京十郎と改半四郎菊之丞富十郎広治助五郎
で珍本屋を営んでいたというから、朱書きの筆者としての資格は十分ある。 ・ : この本は三馬の補記を加えし本より記したりと見ゅ蔵前の 内田氏は、五一本の巻末にも「・ : 書估田中長次郎か蔵せしを購得」と朱書きしてあると報告している。これは達摩屋五一が書いた 可能性がきわめて高い。私は五一本に直接接していないが、もしもこの朱書きと写楽の項の朱書 きの筆跡が同一であれば、長喜老の話を聞いたのは、達摩屋五一その人と考えてまずよいと思う。 内田氏が「不明」とした「周一作洲」は、「周は一に洲と作る」と読んで間違いない。「東周 斎」は「東洲斎」だ。 内田氏の『写楽・考』が発表されたとき、新聞の書評などでは「これで写楽の謎は解決した」 というような評もあった。だがそれにしては、その後今日までの論議は一向に「解決」を前提と した次の段階に進もうとはしてこなかった。 なぜだろうか。 あえて言わせていただくならば、第一には、内田氏は前述のとおり遠慮がちすぎた。それに加 えて写楽の周囲に吹きはじめていた海外の風を示す内田氏のさまざまな傍証。 こ見られる若干の疑 能問が、まっとうな議論をとまどわせた。ヨーロッパ絵画との関連を示唆するのは視野の広い卓見 とといえるが、無理もある。たとえば「大童山土俵入」三枚続がレンプラントの集団肖像画「トウ 時ルプ博士の解剖学講義」などをヒントにして描かれたのではないか ? というような内田氏の見 三解だ。相撲絵で土俵上に人々の視線が集中する例は、写楽以前に春英や春好など勝川派の相撲絵 第 のなかにいくらでもあげられる。 197
めに応えた豊国の仮の名だという説。東洲は「豊国」に通ずる。 清政・江戸紫娘道成寺四世岩井半四郎の白拍子野分 鳥居清政 写楽・四世岩井半四郎の乳人重の井 ( 提唱者中右瑛 ) 美人画の名手鳥居清長の息子清政は十一歳になるやならずで非凡な画才を示したが、鳥 居家の相続問題に絡んで寛政五年、わずか十七歳で絵筆を折らされた。写楽出現はその翌 年だ。写楽とは浮世絵への思い断ちがたかった清政の仮名だった。清政の数少ない雲母摺 役者絵を写楽と比較すれば手の描線などじつによく似ている。 によけい 如圭・海女姿の芳沢いろは 9 流光斎如圭 写楽・天王子屋里虹一一世山下金作の仲居 ( 提唱者一一一隅貞吉 ) 天明から文化年間にかけて大坂で役者絵を描いた流光斎如圭は、それまでの役者絵の定 形を破り、実写を特色にしていた。写楽研究に大きな業績を残した吉田暎一一も写楽の「天 王子屋里虹」は流光斎に似ると指摘した。流光斎の師匠松好斎半兵衛も写楽だとされたこ とがある。写楽に上方絵の影響を見る意見である。 長喜・高島屋おひさ ( 柱絵・部分 ) 楽川栄松斎長喜 写楽・四世松本幸四郎の肴屋五郎兵衛 斎 ( 提唱者福富太郎 ) 東 同時代の美人画絵師栄松斎長喜の作品に、画中の美人がもっ団扇に写楽の「松本幸四郎 章 の肴屋五郎兵衛」の鏡絵が描かれた一点がある。これは単なる遊びではないはず。長喜は 第 写楽が消えた後の寛政八年に名前を子興と改めるが、その理由もなにやらありそうだ。と
楽 写 斎 洲「卯ノ八才」クルトの誤解 章 第 燕に出会ったときであった。写楽は石燕の「自然の写し」という結論に、弟子の歌麿を超えて迫 っていった。 写楽は当初の細判役者絵のなかから、真の写実主義、真の「自然の写し」には不用な背景、大 道具類を廃して人間そのものの肖像画の実現を追及していく。ついには人物が立っている床面と 背後の立面との境界、「基礎の線」までもなくし、その肖像画は、あたかも空間にふわりと浮か びあがっているかのような構図に到達する。同時に、彼は、 5 、大判二人立ちシリーズに白雲母 摺を試みる。浮世絵版画で初めての試みだった。そして、これを機に「写楽画」に代えて「東洲 斎写楽画」という落款を使用するようになる。その先に全身像から半身像へと脱皮したあの黒雲 母摺大首絵があるのだ このような視点に立てば、あの初期作品「尾上松助」の芸術的な無能さ加減はむしろ当然のこ とだったのである。クルトの考えた写楽の最終到達点、歌舞妓堂艶鏡の作品についてのその考え の展開ぶりについていうならば、よくできたドラマ、芸術小説を創作するクルトの作家としての 才能を指摘する以外にない。 制作年代についてのクルトの判断は次のようなものだった。大判黒雲母摺大首絵の制作年が、 ラノ
の絵師よりも密接であったと考えられるのだ。そのうえで「高島屋おひさ」の柱絵も描かれるの である。だから、「長喜が写楽の素性を知っていたこと」についていえば、達摩屋五一本上段朱 書きのいう「写楽は阿州侯の士にて俗称を斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話」は、歴 史的経過の側からすればほとんど間違いないことだ。 問題はその達摩屋五一本に朱書きの書きこみをした、つまり長喜老人の話を聞いたのは誰かに ある。内田氏の調査によってこの本は式亭三馬の補記、つまり「三馬按写楽号東周斎江戸八丁 堀ニ住ス : : : 」の入った「浮世絵類考」を文政末年から天保か弘化の間に何者かが写本し、それ が蔵前の書估田中長次郎の手を経て達摩屋五一 ( 『燕石十種』の編集者達摩屋無物翁 ) に渡り、さ らに国学者小中村清矩 ( 幕府和学講習所講師から東京帝国大学教授となった ) の手一兀に収まってい たものと推定されている。朱書きはこの過程で行われた。内田氏も指摘するように斎藤月岑が天 保十五年に著したとされる「阿波俟の能役者也号東洲斎 : : : 」を月岑とは別にほば同時にか、 もしかしたら月岑よりも早く「長喜老の話」として記している。ということは、この朱書きの主 は長喜生存中に長喜と会った人物でなければならない。 長喜の没年ははっきりしていない。文化年間まで読本の挿絵などで存在が知られているが、そ れ以後いつまで生きていたのか。「三馬按 : : : 」の補記の入った「浮世絵類考」が書かれたのは 文政四年頃とされているから、朱書きも、記入されたのはその時以後だが、朱書きの内容を筆者 が知った ( 長喜老の話を聞いた ) のは、それよりいくら前の時点でもよいはずである。達摩屋五 一は、文化十四年 ( 一八一七 ) から慶応二年 ( 一八六六 ) まで江戸四日市 ( 日本橋西河岸四日市 ) 196
寛政六年 ( 一七九四 ) 秋、数え年七歳の文五郎は親元を離れ、江戸でデビュ 1 する。大童山を 引き受けたのは伊勢ノ海部屋だったという研究もある。寛政六年十一月、晴天十日間、本所回向 院の境内で開かれた大相撲に、大童山は番付に張り出前頭として附出され、特別ショーの主役と して登場した。これが大変な評判になった。その証拠に、大童山を主人公にした相撲絵を描いた のは、写楽だけではない。歌麿、長喜、春英、春山、初代豊国そして十返舎一九と、当時の有名 な浮世絵師たちがこぞって描いている。 大童山文五郎、この時の身長三尺七寸九分 ( 約一一五センチ ) 、体重一九貫余 ( 約七一キロ ) 。 それが、約五か月後の寛政七年三月、深川八幡境内での春場所では、身長三尺九寸九分、体重一一 一貫八〇〇目と、さらにひとまわり大きくなっていた。以後、大童山は約十年間にわたって、一 人土俵入りを務めた。文化一一年 ( 一八〇五 ) 春場所には、十七歳で正式に東前頭五枚目に附出さ れ、文化九年冬場所、おなじく東前頭五枚目で引退している。 引退後は江戸下谷広徳寺町に居を構え、「七年モグサ」を売り、大繁盛したと伝えられている。 文政五年 ( 一八二一 I) 十二月二〇日、三五歳でなくなり、当時の文人墨客の墓が多い蔵前の框寺 楽に葬られた : 斎 洲 東 章 第
業以外の目的に使用したとしたら、バラバラの状態になり、「絵本東都遊」のため板ット として明治までることはなかったにぢかいない。享和一一年以後に何者かが為にする目的をもっ て写楽の色板木を新たに作ったとしたら、写檪、の板のほうがこのようにバラバラの状態で、しか もこれほど断片的に残されているはずがない。 以上のようなことから、写判色ヤ、少なくとも享和一一年以前に彫られたものであることは 疑いようがないと考える。享和二年 ( 一八〇一 l) といえば、写楽が活躍した寛政六 5 七年 ( 一七 九四—五年 ) からわずか六、七年しかたっていない。まさにこれは、本物の写楽の板木である。 参考までに、ポストン美術館でのこれらの版木の整理番号を記録しておく。 ・ 11 / 5179f 「大童山土俵入」三枚続・左図雷電の肌色 裏は「東都遊」下ノ九 ( 肉色 ) ・ XQ.) 一 11 / / 〔 010b0 イ・ 1 ・ 「大童山土俵入」三枚続・中図大童山の肌色 裏は「東都遊」中ノ五 ( ねずみ色 ) 楽・ S11 / 5179C 「大童山土俵入」三枚続・右図の紅色 斎 裏は「東都遊」下ノ九 ( 黄色 ) 洲 東・ / 5167b 「大童山土俵入」三枚続・右図のねずみ色 章 裏は「東都遊」中ノ五 ( 紅色 ) 第
とがよく窺えるし、クルトの仕事を高く評価している点では私の考えとほとんど変わらない。 「浮世絵類考」をめぐる諸研究の成果を広く見渡し、新しい資料を実証的に積みあげ、駆使して いる点も大変なものだ。だが、正直なことをいわせてもらうと、残念なことに、結論は余りにも クルトに引き寄せられてしまったように思えてならない。その結果、他の写楽についての諸議論 とは逆に、クルト以後の実証的な研究成果の多くを否定せざるを得ないことになった。そもそも 第一期から第四期という写楽の作品の制作順序自体がふたたび総否定されるのだが、それに代わ る独自の「作品目録」の鮮明なイメージがついに浮かんでこないのである。 「あちらも悪いがこちらも良くない、中庸を取ることが大切」などというつもりはないが、やは り、クルトも含めて、過去ほとんど一世紀になんなんとする、大きな研究の蓄積の全体は、無視 できないのではないだろうか。 私もクルトの全文を読むことによって、その大きな誤解、欠陥にもかかわらず、彼が写楽の作 品そのものから感じとった感動、写楽が拠って立ってきたところを掴みとろうとする情熱、能楽 と歌舞伎という日本演劇の一一つの存在を、わからないながらもダイナミックに捉えて写楽の表現 と結びつけようとした意欲などなどに、大きな刺激を受けた。 能楽と歌舞伎の間にあったのは対立だけではなく、ジャンルとして一足早く成立した能楽に対 する歌舞伎の側からの親近感もあったはずだ。いまは、そうしたことを含めて、もう一度、東洲 斎写楽と能役者斎藤十郎兵衛の意味を考えはじめねばならないときではないだろうか。 そのために、私たちには八〇年の年月を費やしての大迂回作戦が必要だったらしい。 202
ハテ地 ある。脇には奴 ( 凧 ) もいて「おいらも凧なら貴様もたこ、合わせて二たこ三たこたこ、 ロでも何でもないことであったよなア」「何の事はねえ、金毘羅様へ入った泥棒が金縛りという もんだ」という暗示的なやりとりが書きこまれている。 一九は写楽が活躍していた寛政六年秋頃は、版元蔦屋に住みこんでいたとされ、この黄表紙は そ′ 4 イノ その約一一年後、写楽が姿を消した翌年の寛政八年の出 クレふ 版であることから、右の絵・文ともに謎を含んだもの りとして注目されているわけである。 ーっ、 / 第′の 夕、いっ このほかにも写楽の消息を伝えるかと思わせる資料 ャスハ 1 一一方は皆無ではない。シカゴ美術館が所蔵する扇面図「お 一山多福」 ( 合羽摺、写楽画の落款入り ) や、同じく扇面図 初「老人図」 ( 落款はやはり写楽画 ) あるいは東洲写楽 ら 5 てノ、 絵印」「月見図」扇面なども存在すると伝えられ、論者 うれりりを々 , ま 7 い くノ よ′ によってはそのいずれかを自説の重要な論拠とするこ ( & 暫ともあるが、これ以上立ち入ることは止めておく。 蔵写楽に関する直接情報の源は、以上のほかは写楽の 斎朝効 こーんのいさ ~ めワーー 作品一四〇余点と、一〇点に満たない版下絵および関 東大震災で焼失したと伝えられる五世市川団十郎 あ乃の E ・ 4 ・・ 0 んド・、 0 ィー、」 ーわキ , 内・ ( お上レ、 「暫」の肉筆画および九枚の相撲版下絵の写真に限ら