めに いましをされるということになったらしい。一度ある絵のために使用された色版が、そ の絵の製作が一段落すると 0 お圃を訓引、叫て・一・・一度、・三度のお役目を果たした。その結果、ポス トン美術館から出てきた板木でも、色板木のなかにはもうこれ以上薄くなれば板そのものが割れ てしまいそうなほどに、再利用を重ねたものが何枚もあったのである。 こうしたことを考え合わせると、右の歌麿の「難波屋おきた」や、写楽の「大童山土俵入」の 色板木も、よくぞ残ったといわねばならない。想像を広げれば、もしかしたら北斎狂歌絵本の色 板木には、かってはその上にもっと数多くの歌麿や写楽の絵の色版が彫られていたかもしれない のである。 だが、板木、とくに色版木がそれほど簡単に削り去られて再利用されるものなら、問題の写楽 の色板木だって、いっ彫られたかわからないではないかという疑問も出よう。 そういう疑問に答えるために、念のためにこれら板木の由来を整理しておく。 「絵本東都遊」のための板木一八三枚が、完全に揃った状態でポストン美術館に保存されるよう になったのは、これを・・ビゲローが一八八九年 ( 明治一三年 ) に東京で手にいれ、その直 後にボストン美術館あてに送りつけたときからのことである。ビゲローは、これを一九一一年に 正式にポストン美術館に寄贈している。ポストン美術館では、以後一九八七年までなんら手を加 えることなく慎重に保存しつづけてきた。 ビゲロ 1 がこれらの板木を手にいれた一八八九年以前はどうであったか。 享和一一年 ( 八〇一の「絵本東都遊」制作以後、もしもこの板木を「絵本東都遊」を摺る作
板木を実際に調べてみると、このことははっきりと裏づけられた。もともと狂歌本「東遊」の ために彫られた墨板木は、一頁ごとに狂歌と絵が組み合わされて「見開き」 ( 一丁袋とじ二頁と すればその背中合わせ ) を構成していたのだが、「絵本東都遊」では、狂歌の文字だけの頁が切 り取られてなくなり、絵の頁を二頁ずつ副え木をして組み合わせ、袋とじ一丁として摺るように なっているのだ。ポストン美術館からもたらされた「絵本東都遊」の初版本の墨線と板木から摺 りだしたものを突き合わせてみても、びったりと一致する。間違いなく一九〇余年前の初版以来 の板木である。 念のために説明しておくと、墨板木は墨一色で輪郭線のみを描いたもの。アダチ版画研究所 の話でも、多色摺の浮世絵版画を制作する際に決定的に重要なのがこの墨板木で、これさえちゃ んとしていれば浮世絵版画はいくらでも摺りだせるという。 「絵本東都遊」は上中下三冊本で、そのための板木は墨板木一一六枚三六丁分 ) 、色板木一五七 枚、合計一八三枚であった。 そして、この「絵本東都遊」のための色板木の裏に、写楽の絵の色版四点が潜んでいたのだ。 楽が、その報告をする前に、ほかの二種の北斎の狂歌絵本「東都勝景一覧」と「隅田川両岸一 斎覧」の板木についても語っておく必要がある。 東まずは「東都勝景一覧」。 章 これは寛政十一一年 ( 一八〇〇 ) に「東都名所一覧」という題名で出版され、後に「東都勝景一 第 覧」と改題されて普及した狂歌絵本である。「絵本東都遊」とちがってこちらは最初から多色摺
業以外の目的に使用したとしたら、バラバラの状態になり、「絵本東都遊」のため板ット として明治までることはなかったにぢかいない。享和一一年以後に何者かが為にする目的をもっ て写楽の色板木を新たに作ったとしたら、写檪、の板のほうがこのようにバラバラの状態で、しか もこれほど断片的に残されているはずがない。 以上のようなことから、写判色ヤ、少なくとも享和一一年以前に彫られたものであることは 疑いようがないと考える。享和二年 ( 一八〇一 l) といえば、写楽が活躍した寛政六 5 七年 ( 一七 九四—五年 ) からわずか六、七年しかたっていない。まさにこれは、本物の写楽の板木である。 参考までに、ポストン美術館でのこれらの版木の整理番号を記録しておく。 ・ 11 / 5179f 「大童山土俵入」三枚続・左図雷電の肌色 裏は「東都遊」下ノ九 ( 肉色 ) ・ XQ.) 一 11 / / 〔 010b0 イ・ 1 ・ 「大童山土俵入」三枚続・中図大童山の肌色 裏は「東都遊」中ノ五 ( ねずみ色 ) 楽・ S11 / 5179C 「大童山土俵入」三枚続・右図の紅色 斎 裏は「東都遊」下ノ九 ( 黄色 ) 洲 東・ / 5167b 「大童山土俵入」三枚続・右図のねずみ色 章 裏は「東都遊」中ノ五 ( 紅色 ) 第
の絵本として計画された。この本も新しく板木から摺りだした墨版と初版本の墨の輪郭線とはち ゃんと一致している。間違いなく初版以来の板木である。 興味深いのはこの本の奥付の部分だ。現存する板木では「画工北斎辰政彫工安藤園紫 寛政十一一庚申年正月開版江戸日本橋通一丁目須原屋茂兵衛全下谷池ノ端仲町須原屋 伊八天保十一庚子年九月求版大阪心斎橋通博労町角河内屋茂兵衛」となっている。とこ ろがこの奥付のうち「寛政十一一庚申年 : : : 」以下の部分はじつに巧みに埋め木をして彫りなおし てある。この部分を初版にもっとも近いと推定されるポストン美術館所蔵の「東都勝景一覧」刊 本およびフランス・パリ の個人所蔵の「東都名所一覧」刊本で見ると、ともに「寛政十二庚申正 月開版御江戸本丁筋北江八丁目通油町書林蔦屋重三郎板」となっている。さらに、おなじ 寛政十一一年正月開版でありながら、蔦屋重三郎、須原屋茂兵衛、須原屋伊八の三名が版元として 名を連ねている刊本もあり、また「文化十一一乙亥年九月求版尾張名護屋永安寺町菱屋金兵衛 版」と奥付に記された「東都勝景一覧」も現存している。 これらどの刊本も本文について検討してみると、板木の上でみられる微妙な彫りの調子や板木 についたぎもズ跡にいたるまで完全に共通している。こうしたことから、最初「東都名所一 覧」の名で蔦屋重三郎から出版されたこは、まもなく「東都勝景一覧」と改題され、蔦屋と 須原屋茂兵衛、須原屋伊八の三者の合板 ( 共同出版 ) でも売りだされた後、文化十一一年 ( 一八一 五 ) 古屋版元菱屋金兵衛の手で摺られ、さらに肉河内屋茂兵衛のもとで摺られた。そし ・コレクションに収まったものであるらしい。 て明治になって最終的に太平洋を渡ってビゲロ 1
「絵本東都遊」のため色木四裏面に彫られていた。「絵本東都遊」は、寛政十一年 ( 一七 九九 ) に蔦屋重三郎 ( 二代目 ) の耕書堂から刊行された狂歌絵本「東遊」のなかから北斎の絵の みを集めて再編集し、その絵に色を加えた絵本であり、享和二年 ( 一八〇一 l) におなじく蔦屋が 発行したものである。 彩色用の色板木が新たに彫られたのはこの享和一一年かその前年にちがいない。そのために蔦屋 に残されていた胡い楓再利用ざれだし回い」推定される。写楽「大童山土俵入」三枚続のため の色版木も、この再利用の対象になったわけである。再利用の証拠は、この写楽の版だけでなく、 同様の状態で歌麿の「難波屋おきた」、同「三保の松原道中」、同「庭中の涼み」や、栄松斎長 喜「初日の出」などのための色版が「絵本東都遊」色版の裏面に存在していることにも表れてい る。いずれも寛政年間、初代蔦屋重三郎版の有名な浮世絵である。 なぜこんな無造作なことが起こったのか。浮世絵版画制作の現場では板木は貴重品である。伊 豆あたりの海風にさらされて育った大島桜の材木がシオボクと呼ばれて珍重された。とくに 墨板木は、版画の生命線であるとして、ポストン美術館の板木が発見されるまでは片面だけに彫 楽られるものという伝承が信じられていたほどだ。この伝承は、前述のとおりポストン美術館の北 斎斎の狂歌絵本の墨板木の裏面に、歌麿や豊国などの絵の墨版が彫られていたことで覆された。逆 東にいえば、当時であってもすでに材料の板そのものが高価で貴重だったことの証明になるともい 一える。 第 ところで、墨版と違っ色板木のほうは、板が貴重であればあるほど、その時々の出版物のた
館、研究機関に贈呈した。 写楽とは少々遠い話のようだが、もう少しポストン美術館の板木の話を続けたい。なぜなら、 これらの板木の大多数が、写楽と深くつながった版元、蔦屋重三郎の元にあったものだからであ り、しかも、この板木のなかに、これまでの日本における写楽研究ではまったく視野のうちに入 っておらず、思いもしていなかった写楽の絵の板木が含まれていたからである。 ポストン美術館にあった北斎の狂歌絵本三部作の板木は、およそ二〇〇年前に作られたと書い たが、本当だろうか ? その証拠はどこにあるのだろうか。本来ならばまずそこから確認してお く必要があるはずだ。私たちは三つの狂歌絵本を古い順に並べて検討してみた。 もっとも早く作られたのは「絵本東都遊」の板木である。 記録によれば、「絵本東都遊」はもともとは寛政十一年 ( 一七九九 ) 蔦屋重三郎の耕書堂蔦屋 から狂歌本「東遊」と題して出版された一冊本中の葛飾北斎の挿絵がとくに好評だったらしく、 そのなかから北斎の挿絵だけを抽出・再構成し色彩を加えて、享和一一年 ( 一八〇一 I) に「絵本東 都遊」として刊行されたものとある。だとすると、いわゆる墨板木は寛政十一年、色板木のほう は享和一一年か、あるいはその少し前に彫られたことになる。 ニ〇〇年前という証拠
勝川春潮紫絵「てうじや内せんざん・あふぎや内扇野」、「高島おひさと相撲取り」、「七福 神遊興図」三枚続の右図「扇屋容野」、同・左図「松葉屋若菜」 勝川春英「両国橋を行く力士たち」三枚続の右図、同・左図 栄松斎長喜「青楼仁和嘉」中版二丁掛け図、「青楼きぬぎぬ」三枚続の右図、「青楼正月二日 年礼仕着小袖模様正写之図」三枚続の右図 百川子興 ( 長喜の別名 ) 「船遊び」三枚続の右図、同・中央図 歌川豊国「松本幸四郎・瀬川路考」、「中村大吉と岩井喜代太郎」 この十四点の絵は、いずれも寛政年間から享和年間に蔦屋重三郎の店が出版した浮世絵である。 「隅田川両岸一覧」は墨板木一一六枚、色板木一七八枚、計二〇四枚。 「絵本東都遊」と「東都勝景一覧」の初版が蔦屋であり「隅田川両岸一覧」の墨板木の裏にも蔦 屋版の墨線が彫られている。ということは、これらポストン美術館から発見された板木の主要部 分が耕書堂蔦屋重三良と 、いかに深く関係したものだったかを物語っている。そうしたなかで写 楽の板木が登場する。 写楽板木の発見
摺師の仲田昇の両氏がポストン美術館を訪れた。一同は東洋部の井口氏とともに収蔵庫の板木を キ丁し 輪郭線をあらわす板木 ) む全制 ~ ぞ -0 易 0 撕のだ ' すことにした。摺りには、かって岡倉天心が日本 で買い入れて美術館に保存されていたという大量の和紙の一部が使用された。こうして五〇〇枚 を超える板木の全容が私たちの前に明らかになった。 摺りだされた絵から判明したことは、これらの板木の主要部分は寛政の終わりから文化年間の 初めにかけて出版された葛飾北斎の狂歌絵本三部作「隅田川両岸一覧」、「絵本東都遊」、「東都 勝景一覧」のための、墨板木に加えて彩色用の色板木までセットになった完全な揃いの板と、文 政七年 ( 一八二四 ) 刊の絵手本「北斎模様画譜」の墨板木で、一七九〇年代から一八〇〇年代初 頭に出版された初版の板木に間違いないということだった。しかも、慎重に扱えば、およそ二〇 〇年近い年月を経た現在でも、もう一度あらたに摺ることが可能だという。大きな発見であった。 約二年間、私たちはこのポストン美術館の板木に熱中した。一〇〇年近く美術館の収蔵庫に眠 っていた板木を日本に里帰りさせ、その板木でもう一度北斎の名画を現代に蘇らせようという計 画だった。い くつもの障害があった。最大の壁は、これらの板木が寄贈者ウィリアム・ビゲロ 1 の遺志によって美術館外への持ちだしが一切禁じられていたことだった。まさにこの問題がボス トン美術館の理事会で検討されようとしていたその矢先、板木がここに収まった経緯を調べてい た私は、幸運にも一八八九年三月一日付けの寄贈者ビゲローの手紙を、美術館の資料室から発見 した。この手紙によって、ビゲロー自身がこの板木で、いずれポストン美術館新版を出版したい
さて、ところで、林子平は本当に「取り留めもない風聞や推察」で「異国より日本を襲う可能 性がある」ことを主張したのだろうか。もちろんそんなことはない。 有名な大黒屋光太夫・磯吉ら三人の伊勢漂民をともなったロシアの使節アダムラクスマンが 蝦夷地、北海道野付郡平糸村のバサラン沖に現れたのは、『海国兵談』絶版・板木没収、林子平 彫るならば九〇〇日かかるが、八人の彫師を雇うことができるなら一一三日で完成すると訴えて 上里春生『江戸書籍商史』はこの林子平の「見積書全文」を紹介したあと、最後に次のように 述べて巻を閉じている。 「子平の予約出版加入の勧告書の全文は以上の通りであるが、斯く苦心し告白し勧誘したにも拘 らず、予期のやうに彫師八人を使用することは出来なかった。結局一人を雇って僅かに仕事を継 続しなければならなかったので、たうど、一千六十日を費し、真に一日千秋の思ひでやっと是を 完成することが出来た。けれ共間もなく、『其方儀假令利慾に不致候共一己の名聞に拘り取留も 無之風聞又は推察を以て異国より日本を襲候事可有之趣奇怪異説等取交著述致し』たる云々とい ふので蟄居を仰付けられ、板木版本をすっかり没収された」。 林子平の「東都の心友」 120
写楽板木の第一の発見者は、アダチ版画研究所の安達以乍牟氏 ( 現アダチ伝統木版画技術保存 財団理事長 ) だった。一九八六年の初秋、ポストン美術館からはるばる送られてきた北斎の「絵 本東都遊」の板木を、一枚一枚点検しているさなかのことであった。 ご存知の方も多いと思うが、アダチ版画研究所は江戸時代以来の浮世絵木版画制作の技術をい まに伝える数少ない現代の版元の一つである。ポストン美術館の板木の調査の最初からかけがえ のない専門家としてこの仕事に参加し、ポストン美術館の委嘱を受けて、いよいよ北斎狂歌絵本 の「昭和版」摺刷に取りかかろうとしていたところだった。この時のことを安達氏自身、次のよ うに書いている。 「・ : ・ : 版木は大部分が絵本用である。絵本は数枚の絵で構成され、一枚の絵には複数の版木が 使われている。一枚一枚板を取り出して、後日使用しやすいように絵柄別に整理した。 日常版木を持っと両手に持って、くるりと廻し、両面を見る癖がある。このときも無意識に 廻していた。見慣れぬ風景画の部分図の裏に、見覚えのある人物の部分図を見た瞬間、『大童 楽山』と声になりかけた。いや、そんなはずはない、『大童山土俵入』の身体の部分には色が内 斎っていないはずだ。父が戦災で焼失した復刻にも、戦後作った時もまた、私が美術館に : 」 ( ポスト 東ある原画を参考に作らせて頂いた、今の版にも、大童山の身体に色版はない。 章 ン美術館で発見された「大童山土俵入」の色版木・同展覧会図録より ) 第