江戸時代 - みる会図書館


検索対象: 写楽よみがえる素顔
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1. 写楽よみがえる素顔

『北越雪譜』の出版費用など この「海録」とほば同時期の証言として、同様にしばしば取りあげられるのは曲亭馬琴の⑦書 簡および⑧「近世物之本江一尸作者部類」に記されたデータであろう。が、その前に江戸時代後期 の名著『北越雪譜』をめぐるもう一つの見積を紹介しておきたい。 ⑥山東京山書簡 ( 鈴木牧之宛『北越雪譜』出版見積 ) は天保元年 ( 一八三〇 ) 九月に山東京山 ( 京伝の弟 ) が越後塩沢に住む鈴木牧之にあてて、その『北越雪譜』出版に必要な予算を示した ものである。『北越雪譜』は江戸時代日本人の自然に対する実証的観察の高い水準を見事に示し た鈴木牧之の名著として知られるが、牧之が描いた精妙な雪の観察図に添えた説明の文章は、山 東京山が手を入れ、京山は同時に江戸での出版の世話にもあたっていた。以下はこれまた上里春 生著『江戸書籍商史』が紹介する京山書簡の出版費用見積だ。 重 屋 蔦雪談初編全部一一冊を五十張 ( 丁 ) と見て其内に、 一一〇畫 ( 細畫、中畫 ) 共一一十五張 ( 一張の刻料細畫中畫ならし金三分として此金十七両三分 ) 第 〇筆耕二十五張 ( 一張の刻料金一分二朱として此内金八両一分二朱 ) ったと考えられるのに対して、江戸相場を示している。 139

2. 写楽よみがえる素顔

松平定信のいわゆる寛政の改革の後とはいえ、歌舞伎の世界では田沼時代の華やかな風潮が色 濃く跡をとどめていた。つい先頃のバブル経済末期の姿に似て、華やかさは表層へ表層へと濃度 を強めていた。役者の給金が興行主の経営を圧迫する事情は、これまた最近のプロ・スポーツ界 の選手の年俸とオーナーの関係に似ていたと考えてもよさそうだ。 天下の台所といわれた大阪、上方の比重はいまよりもはるかに大きく、歌舞伎界でも江戸と上 方の役者の往来交流が盛んだった。それも西高東低のニュアンスが強く、毎年のように上方の役 者が江戸に下っていた。写楽登場の時代、寛政五、六年を見てもこのことがいえる。伊原敏郎著 『歌舞伎年表』 ( 岩波書店、一九六〇年 ) にその跡をひろってみると、寛政五年の中村座正月興行 に、三世沢村宗十郎 ( 下り宗十郎 ) 、山下萬菊 ( 下り萬菊 ) 、下り山下民之助と立てつづけに三人 の名前が上がっている。寛政六年には山下金作、榊山三五郎、荻野半左衛門、ついで中村野塩 ( のしほ ) 、片岡仁左衛門の両名が上方から江戸へ下っている。後者については、落首に「上方に いらぬ片岡仁左衛門のしほをつけて江戸へ進上」とあったと記録されている。これに対して江 戸から上方へ上ったのは寛政六年八月の「粂太郎大坂上り」というただ一例だけである。 楽上方から下ってきたのは役者だけではない。有名な狂一 = ロ作者並木五瓶も寛政六年に大阪から江 斎戸へきているし、人だけでなく、寛政五年四月、三世沢村宗十郎が中村座の「仮名書東かゞみ」 東で見せた「ぶん廻し」は江戸での廻り舞台の始めだった。「紙屑籠」に「蜂の巣の由良之助、手 を組て思入あって、其ま、宗十郎を舞台にてプン廻す。見物恟りして驚く。此廻し舞台公大坂 第 より九二重といふ人、江戸者にて、宗十郎に附て下り、大坂舞台の通りにしてぶん廻す事を見せ

3. 写楽よみがえる素顔

きた。その結果、歌舞伎役者三世瀬川富三郎が書いた「諸家人名江戸方角分」という古文書に、 江戸八丁堀地蔵橋の住人として国学者村田春海とならんで「号写楽斎」なる人物が記録されてい ること、「重修猿楽伝記」および「猿楽分限帳」という徳川幕府の公式能役者名薄などによって、 寛政年間の能役者のなかに斎藤十郎兵衛なる蜂須賀家お抱えの能役者が実在したことなどなどが 証明されたのである。「浮世絵類考」達摩屋五一本の「栄松斎長喜老人の話」も、前後して広く 紹介された。一九九三年に出された内田千鶴子著『写楽・考』 ( 三一書房 ) はよくその詳細を伝 えている。 写楽捜しの帰結は、こうした実証的な調査と研究によってどうやら徐々に元の『増補浮世絵類 考』の阿波の能役者斎藤十郎兵衛説 ! こ近づきつつあるようにも見える。もちろん、各別人説の論 者の多くは、断固として自説を守りつづけている。 最終的な結論。 まどうであれ、こうして一九二〇年代以来花咲いた写楽捜しの議論は、決して無 駄ではない。、 江戸時代でも特異な光彩を放った天明から寛政という一つの時代のさまざまな事象 と人物像を、現代に色鮮やかに蘇らせるという大きな役割を果たしたことに間違いはないと思う 楽のだ。 斎以上は、思いがけず私自身深入りすることになった、写楽をめぐる最近までの論議のごくごく 東あらましである。 章 第 9

4. 写楽よみがえる素顔

重 齷本一冊の製作費総額 章 第 現在の米の値段を一〇四〇〇〇円とすると、一石一五〇は六万円、一升で六〇〇円である。 江戸東京博物館の案内書によると、江戸時代の庶民にとっての物価の目安となったのは銭一〇 〇文で物がどれくらい買えるかという基準で、これを百相場といったという。平常の時、銭一〇 〇文で米は一升買えたそうだから、現代の米価に直すと銭一〇〇文は六〇〇円である。前にあげ た一両四〇〇〇文という換算をそのまま適用すれば、一両は一一万四〇〇〇円だ。ただし、江戸時 代の米相場にも、常に変動があった。寛政時代を考えても、直前の天明一一、三年からの有名な大 飢饉で米の値段には極端な高値もあった。 他方、米一石を一両とする例もある。となると、一両が六万円だ。百相場の一一万四〇〇〇円か ら、一石一両の六万円まで、ちょっと幅がありすぎるが、これくらいでとどめておこう。 蔦屋重三郎の経営規模を考えるために始めた試みだが、これからの数字を実感をもっための目 安という程度に、以上の数字を頭に入れておいていただきたい。 これから先は、具体的に、出版 のための各費目の数字を検討し、それをもとに、本を作るための直接原価を出し、そこから蔦屋 の年商を推定していくことになる。 蔦屋の年商推計というゴールに到達するまでの作業は、い ささかならず辛気臭い作業だった。 147

5. 写楽よみがえる素顔

蔦屋重三郎の経営実態を掴むために当時の出版費用を知ろうと、その基礎になる数字をさがす 作業は、予想以上に幅広く進んだ。だが、当惑するのはその数字をどう実感するかである。江戸 時代の通貨から遠く隔たった現代の私たちには、金一両と金一一朱がどのような関係をもっている か、金一両は銀に換算するといくらになるのか、「文」という単位はどうなのか、考えてみると わからないことが多すぎる。 でも、この関係、換算の方法をもたないと、これまでせつかく調べることができた資料がなん 郎の意味ももたないことになる。江戸時代の通貨制度を知ることが必要だ。 重当時の通貨は、金と銀の二本立てで組み立てられていた。金貨の単位は両と一分、二朱、銀貨 蔦の単位は匁で数えた。これに補助貨幣の銅 ( 鉄 ) 銭を数える際の文という単位もあった。結局三 一一つの種類があることになる。どうやら金は関東、銀は関西で力があった、というニュアンスも感 第 じられるが、これはあくまでも臭いのようなものであやしげだ。実際は関東、関西どちらでも、 蔦屋の年商を推計する 143

6. 写楽よみがえる素顔

江戸時代の出版文化の実情を伝える解説や研究書は決して少ないとはいえない。 ことに近年の 江戸再評価、一種の江戸プームともいえる雰囲気も加わって、ひところに比べると盛況を呈して 重いるといっても良いようだ。だが、さて二〇〇年前の出版に際しての右のような各費目の実数が 蔦 いくらいくらだったかということを具体的に知ろうとなると、これはそうそう簡単なことではな 章 二カ十」 第 旅なれない素人仕事の私がまがりなりに当時の実数を掴むに至るまでには、ごくごく一般的な 八から一一までの項目を合わせたものが、発行部数に応じて変動する比例費部分だ。 一一「題簽料は今日の本の制作にはない項目で少々説明を要する。題簽は和装本に独特のもの で、表に書名や順序数などを表示するため表紙とは別の紙または布片に印刷したうえで本表紙に 貼り着けたもの。最初は簡明な文字のみが普通だったが、天明・寛政の頃からは、洒落本をはじ め後の合巻など、カラーの絵を摺りこみ、粋を凝らしたものが作られるようになった。そういう 意味で一応項目を建てた。ただし以後必要のないかぎり除外する。 一冊の版本が製作されるための過程と、要する費用の項目はできた。では、その実数はどうか。 これが大問題である。 『江戸書籍商史』という文献

7. 写楽よみがえる素顔

啓蒙書を皮切りに、これまでにあげた先人の研究に加えて当時の出版物である黄表紙、洒落本や 滑稽本などの解説書、あるいはこれらの作品を収めた古典文学全集などの解説・解題をやみくも に辿る以外になかった。それはまともな地図も持たずに、不案内の土地を歩き回るのに似て、し ばしば袋小路に入りこみもした。しかし、こうして歩き回り、そこここで拾いあげた求める実数 の断片をノートに記録していくうちに、どうやら諸文献に紹介されている出版データの実数の断 片が、みな、限られた幾種類かの原典をもとにしているらしいことが判ってきた。 そうした時に出会ったのが昭和五年 ( 一九三〇 ) に出版タイムス社から出版された上里春生著 『江戸書籍商史』 ( 一九六五年に名著刊行会からの復刻本もあり ) である。 江戸時代初期から幕末までの出版の歴史を史料にあたって的確に記述し、東西の出版傾向から 版元による問屋株式仲間の成立、それに対する幕府当局の統制、許認可の移り変わりまで、江戸 出版史の全容が示されており、最後の「出版行程」では、私が求める具体的な事実が本の製作過 程にしたがって述べられている。

8. 写楽よみがえる素顔

は値段もおとし候へども紙とすりと仕立の料にて是を何程にうる故に、其節に至りては利分合巻 に倍す」とも書いている。 京山は越後の人鈴木牧之に対してその『北越雪譜』の解説原稿の代筆者の立場だけでなく、江 戸における牧之の著書出版の代理人兼指南役をもって自ら任じていたようである。 『江戸書籍商史』には、右の他に京山が鈴木牧之に対して「書肆への入銀料五両」が必要だと伝 え、それはじつは自分 ( 京山自身 ) への合巻同様の作料にあてるべきものという意味のことを白状 した事実も紹介されている。 鈴木牧之の側も京山を大いに頼りにして『北越雪譜』のほかにも読本向きの原稿などを送りつ け、それに対して京山が当時の出版取り締まりの状況や手続きを説明する書簡もある。 ⑦曲亭馬琴書簡と⑧曲亭馬琴「近世物之本江戸作者部類」。曲亭馬琴はいうまでもなく江戸末 期を代表する読本作家滝沢馬琴の号である。とにかく筆一本で生き抜こうとした馬琴は、手紙の なかでしばしばその苦労を具体的な数字入りで述べ、また、⑧「近世物之本江戸作者部類」でも 出版経費について数字を入れている。時間的には少々後の時代にまたがるので、そのうち、ここ 郎に関連するものだけを随時取りあげていくことにしたい。 重「近世物之本江戸作者部類」の「三馬、一九」の項は次のように洒落本のおおよその姿を紹介す 蔦 「体裁は半紙二つ裁ち、一巻の丁数三〇、多くとも四〇頁。仮名文字のみで、絵は略画風が多 第 一頁あるかなし。製本は『唐本標紙』 ( 略装 ) 、土器色なる切ッケ。彫は、一枚 ( 一丁 ) の彫 141

9. 写楽よみがえる素顔

その全体を、アウトラインだけでも示しておかなければ、それ以後の私の議論の信頼度が疑われ ると考えたのだが、とにかく、砂漠のような数字数字の連続で、「結局のところ写楽は誰か、蔦 屋重三郎はどんな役割を果たしたのか」という結論を求める読者の希望に答えるには、余りにも 道のりが遠すぎると考えた。そこで、私の旅の全記録は別の機会に発表することとし、ここでは 中間項は大幅に省略して、結論の数字だけを示しておくことにする。 まあ、それでもほんの少しはこのタクラマカン砂漠の砂嵐のような味けなさの臭いも嗅いでお くつもりで、しばらくお付き合いいただきたい。 たとえば原稿料 ( 潤筆料 ) の項。 そもそもはっきりした基準などなかった江戸時代のことである。そのなかでわかったデータと しては、西鶴が、「好色浮世踊」六冊の執筆を版元池野屋一一郎右衛門と約束し、前銀三百匁を受 け取ったという記録があったのをご記憶と思う。元禄時代のことだが、時間を無視して計算すれ ば、三〇〇 x 六六・七で二〇〇一〇文になる。次に、山東京伝が「手段逼物娼妓絹篦」を出した とき、肴代一両 + 潤筆料 ( 一部につき ) 金一—二分を受け取ったという記録もある。これは合計 四〇〇〇文 + 一〇〇〇—一一〇〇〇文。また、「大礒風俗仕懸文庫」が稀代の大当たりをした ( 両 者とも問題の寛政三年の洒落本三部作で手鎖五〇日の刑を受けた筆禍事件の時のことだ ) ので版元 蔦屋重三郎が金三分 + 遊里歓待で謝意を示したとの記録もある。これは三〇〇〇文プラス・アル フア。以上のデータは上里春生の『江戸書籍商史』が示したものだ。 「娼妓絹」と「仕懸文庫」の一件については、寛政一一一年の「奉行所吟味始末書」にも資料が残

10. 写楽よみがえる素顔

謎の浮世絵師・東洲斎写楽は寛政六年 ( 一七九四 ) 五月、有名な黒雲母摺の背景に独特の表情 をした役者大首絵をもって突然のデビューをした。いまから丸二〇〇年前のことである。 版元 ( 出版社 ) 耕書堂蔦屋重三郎の手で江戸市中の大向こうを唸らせる出現を果たした写楽は、 以後わずか十か月の間に、百数十点の作品を残して、ふたたび彗星のように神秘の闇のなかに消 えてしまった。 写楽に関するほとんど唯一の記録文書、大田南畝原撰、笹屋邦教増補といわれる「浮世絵類 考」 ( 寛政二年〈一七九〇〉頃に大田南畝が原撰。寛政十二年〈一八〇〇〉、笹屋邦教が「古今大和 絵浮世絵始系」を補筆 ) には、 「写楽歌舞妓役者の似顔を写せしがあまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかハ長 く世に行れず、一両年にして止む」 と書かれているが、すでに江戸時代の頃から、その不思議な出現と消滅の姿は人々の関心を呼ん 写楽捜しの始まり