由良哲次『総校日本浮世絵類考』 ( 一九七九年、画文堂 ) 鈴木敏夫『江戸の本屋』上下 ( 一九八〇年、中央公論社 ) 鈴木俊幸「蔦屋重三郎出板書目年表稿」上・下・補正 ( 一九八一 5 八三年「近世文芸」肪、 3 川瀬一馬『入門講話日本出版文化史』 ( 一九八三年、日本エデイタースクール出版部 ) 小池正胤他編『江戸の戯作絵本』一—四、続巻一一 ( 一九八〇 5 八五年、社会思想社 ) 太田記念美術館学芸部編『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』 ( 一九八五年、浮世絵太田記 念美術館 ) 中野三敏『江戸名物評判記案内』 ( 一九八五年、岩波書店 ) 鈴木淳「鈴屋集の開板」 ( 一九八六年、「国学院大学日本文化研究所紀要」 ) 田中優子『江一尸の想像力』 ( 一九八六年、筑摩書房 ) 井上隆明『江戸戯作の研究』 ( 一九八六年、新典社 ) 定村忠士『いま、北斎が甦るー浮世絵版画が摺りあがるまで』 ( 一九八七年、河出書房新社 ) 新日本古典文学体系『米饅頭始・仕懸文庫・昔話稲妻表紙』 ( 一九九〇年、岩波書店 ) 小路健校訂『板木屋組合文書』 ( 一九九 = 一年、日本エデイタースクール出版部 ) 中野三敏『内なる江一尸近世再考』 ( 一九九四年、弓立社 ) 立川焉馬著、吉田暎一一翻刻『歌舞妓年代記』 ( 一九二六年、歌舞伎出版部 ) 220
ともあれ、まず写楽に関する歴史的な資料にあたってみよう。 写楽についての記録は、前記「浮世絵類考」の記述を軸にしてあとに続く人々、浮世絵版画の 歴史に関心をもっ絵師や文人が、かすかな写楽の消息・伝聞を「浮世絵類考」の写楽の項に加筆 することを中心にして少しずつ増やされた。 そもそも「浮世絵類考」という書物は寛政初年の大田南畝の原撰本をもとにして、写本につぐ 写本、それに写本をする個々人の書きこみ・増補が積み重ねられたもので、その写本の系統を辿 可能な夢ということになる。 もっとも一人の浮世絵師の全作品を一堂に集めるなど、作品総数が一四〇余点と限られた写楽 だからこそ考えられるのであって、歌麿であれ北斎、広重であれ、長年にわたって活動しつづけ た他の絵師ではそもそも不可能なことといってよい 夢であるにせよ、写楽についてだけこうしたことが話題になるのは、やはり写楽の特異な出現 と消滅ぶりに原因がある。 写楽はなぜこれほど作品が少なく、短い期間しか活動しなかったのか。写楽はいつ、どこの生 まれか、亡くなったのは : : : そもそも写楽とは何者か ? 「浮世絵類考」の成長過程
第二の理由は、浮世絵版画の出版に蔦重が本格的に乗りだしたのは『画本虫撰』や『潮干のつ と』などの狂歌絵本に素晴らしい才能を示した喜多川歌麿に集中的に美人画を委嘱した寛政初年 以降のことと考えられるからだ。もともと私がこうした問題に深入りすることになったのは、寛 政六、七年の写楽の出現を考えることからだった。写楽出現に先立って蔦屋を襲った出版取り締 まり事件も寛政一一年から三年にかけてのことである。これらのことがらを最低限カバ 1 する時期 として、寛政初年からを選んだわけだ。 むろん、蔦重の企業としての経済状態、身代を追跡するうえで、それ以前の事業が無縁である はずはない。 が、目標は「当たらずといえども遠からず」である。ここは、概略を掴むことで満 足しなければならない。 さて、次は蔦屋が刊行した出版物の範囲である。 版元蔦屋重三郎は、いったいどんな分野でどれだけの出版物を刊行しているのだろう。すでに あげた鈴木氏の「蔦屋重三郎出版書目年表稿」は、蔦屋重三郎の研究に欠かせない基礎資料だが、 あわせて太田記念美術館の『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』 ( 一九八五年 ) の「耕書 堂・蔦屋重三郎版本総目録」も参考にしつっその出版物を検討することにした。 ただし右の資料は版本についてのリストであって、一枚物の浮世絵版画はその対象とはしてい いろいろ調べてみるが、どうやら版画についてのそうした目録あるいは年表はまだ完備し ていないらしい。結局もっとも単純で原始的な方法、これまでに刊行された現代の浮世絵全集の 106
るなら巨大な系統樹を描くことができるはずのものである。晩年、この「浮世絵類考」の研究に 執念を燃やした故北小路健氏の調査によると、氏が調べあげた写本の総数はじつに一五八種にの ばっていた。最初にこのうちの一本、龍田舎秋錦編『新増補浮世絵類考』が印刷物として複製公 ノ ) のこととされ、活字本の最初 刊されたのは江戸時代最後の年、慶応四年 ( 明治元年、一八六、 は明治一一一一年 ( 一八八九 ) の前記龍田舎秋錦編『新増補浮世絵類考』 ( 博文館 ) および同年刊の 本間光則編『増補浮世絵類考』 ( 畏三堂 ) であった。 このいわば「浮世絵類考」の成長の過程で、写楽の項に加筆された事項の大略を列挙すると、 次のようになる。 享和一一年 ( 一八〇一 D 、山東京伝追考、「写楽、是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに 真をかゝんとてあらぬさまに書きなせしかは長く世に行はれす一両年にて止ム」とあ って、ここでは写楽の項に特段の補記はない。 文化十一一年 ( 一八一五 ) 、加藤玄亀 ( 曳尾庵 ) 補記、「しかしながら筆カ雅趣ありて賞すべし」 楽文政四年 ( 一八二一 ) 頃、式亭三馬補記、「三馬按写楽号東周斎江戸八丁堀ニ住ス僅ニ半年 斎 余一何ハル、ノミ」 洲 八三一 l) 頃、達摩屋五一本、「写楽ハ阿洲侯の士にて俗称 東文政四年—天保四年 ( 一八二一 5 章 を斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話那り周一作洲 ( 周ハ一ニ洲ニ作ル ) 」 第 天保四年 ( 一八三一 l) 、溪斎英泉再編 ( 「无名翁随筆」一名「続浮世絵類考」 ) 、「五代目白猿幸
あるいは『増補浮世絵類考』の斎藤月岑の記述を読めば、もっと詳しいことを知りたいと思うこ とはあっても、月岑の記述そのものをそれ以上疑うものはいなかった。だが、クルトの『写楽』 は状況を一変させてしまった。それは、単にクルトによって写楽の評価が大きく変わったという ことを意味したのみではない。クルトの論文自体のなかに「写楽捜し」の炎を燃えあがらせる火 種が見え隠れしていたのである。 火元となった理由 クルトの『写楽』は、一九一〇年当時としては資料の蒐集ぶり、その整理の仕方、論理の展開 のどこをとっても最大限に精密なものであった。写楽の作品そのものについては、前記のとおり ヨーロッパで集めうるかぎりの作品のデータをフルに使っていた。当然、写楽は何者かというこ とは、クルトにとって重要なポイントであったが、すでに執筆当時、私が冒頭に紹介した写楽に 関する「浮世絵類考」関連のデ 1 タのほとんどを完全に掌握していたと見てよい。クルトは明治 一三年 ( 一八八九 ) 出版の『増補浮世絵類考』 ( おそらくは畏三堂版 ) を読み、斎藤月岑の記述を きっちり踏まえていたのである。「浮世絵類考」関連以外の写楽についての情報、式亭三馬の 「稗史億説年代記」も、栄松斎長喜の「高島屋おひさ」の柱絵もちゃんとクルトの視野のなかに あった。それどころか後者、「高島屋おひさ」の柱絵のことなどは、このクルトの『写楽』で初
高橋克彦『謎の絵師写楽の世界』 ( 一九九一一年、講談社 ) 内田千鶴子『写楽・考』 ( 一九九三年、三一書房 ) 山口桂三郎編著『写楽の全貌』 ( 一九九四年、東京書籍 ) ュリウス・クルト著、定村忠士・蒲生潤一一郎訳『写楽』 ( 一九九四年、アダチ版画研究所発行、アー トディズ発売 ) 曲亭馬琴撰『近世物之本江戸作者部類』 ( 一九〇九年、博文館「温知叢書」 5 所収 ) 山崎美成『海録』 ( 一九一五年、国書刊行会 ) 上里春生『江戸書籍商史』 ( 一九三〇年、出版タイムス社 ) 世界名画全集日本『浮世絵の世界』 ( 一九五九年、平凡社 ) 高橋誠一郎『新修浮世絵一一百五十年』 ( 一九六一年、中央公論美術出版 ) 日本古典文学全集町『洒落本・滑稽本・人情本』 ( 一九七一年、小学館 ) 吉田暎一一『浮世絵事典《定本》』上中下 ( 一九七四年、画文堂 ) 小路健「『浮世絵類考』論究」 ( 一九七一—七六年、「萠春」連載 ) 今田洋三『江戸の本屋さんーー近世文化史の側面』 ( 一九七七年、日本放送出版協会 ) 浜田義一郎『川柳・狂歌』 ( 一九七七年、教育社 ) 高見澤たか子『ある浮世絵師の遺産・高見迷治おばえ書』 ( 一九七八年、東京書籍 ) 鈴木重三『絵本と浮世絵』 ( 一九七九年、美術出版社 ) 219
すでに『歌麿』 ( 一九〇七年 ) 、『春信』 ( 一九一〇年 ) を出版し浮世絵と浮世絵師の研究を着実 に進めていたクルトは、写楽をそれ以前の浮世絵師とは異次元の世界から「役者絵」の分野を開 拓した不世出の、そして悲劇の肖像画家として情熱的に紹介した。 一九一〇年当時、クルトの手元には、今日現在わかっている写楽の作品一四二点のうちおよそ 九〇点以上の作品の資料 ( 現物または写真版 ) があり、一〇〇点をはるかに越える作品の存在を 確認していたようだ ( クルト『写楽』一九一〇年初版序文 ) 。世界的な肖像画家として描きだした クルトの『写楽』は、欧米のジャポニスムに大きな反響を生みだした。この本の出現でヨーロッ パの浮世絵市場での写楽の価格は急騰し、写楽は浮世絵展覧会に欠かせない絵師の一人となった。 この新しい大きなうねりは、当然、日本へも打ち寄せてきた。瀬木慎一氏は、日本で最初にク ルトの『写楽』を読んだのは、野口米次郎、永井荷風あたりと推定している。長年アメリカ ( 野 ロ米次郎 ) やフランス ( 永井荷風 ) での生活体験をもった人間の視野の広さを感じさせる事実だ。 クルトの『写楽』を読んで最初に書かれた論文は荷風の「浮世絵と江戸芸術」 ( 大正三年、一九 一四 ) ということで、これは大正九年に出版された『江戸芸術論』に収められている。およそこ 楽のあたりから、日本でのいわゆる「写楽捜し」がそろそろ始まってくる。 斎なぜこの頃からか。 東日本でも欧米でも、クルトの『写楽』が現れるまでは、写楽は誰か ? という問いはそれほど 一重要な疑問ではなかったと考えられる。そもそもそんな疑問が生まれること自体がなかったとい 第 ってもよかろう。かりに写楽について知りたいと考える変わり者がいたとしても、「浮世絵類考」
たしかに、ずっと昔から写楽Ⅱ斎藤十郎兵衛説は気になりつづけた見解であった。前節までに 述べてきた能面と能役者の議論の背後に、以前からの斎藤十郎兵衛説が影を落としていなかった などといえば、大嘘になる。 前にも紹介したとおり、阿波藩お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛が、八丁堀に実在していたこと については、中野三敏氏、そして内田千鶴子氏の『写楽・考』によって立証済みであった。問題 は、その斎藤十郎兵衛が、本当に写楽であることの証明、斎藤十郎兵衛があの「写楽の絵を描い た」と自ら述べるか、確実な第三者が「描いていた」と証言するか、あるいはまた、斎藤十郎兵 衛が写楽であるということを証明するなんらかの証拠、証言が現れるかがなければ、証明の最後 の輪が完結しないことであった。 じつは、この点もほとんど解決していたはずだ。『写楽・考』で内田千鶴子氏は遠慮がちに、 天理大学図書館で見出された『達摩屋五一本浮世絵類考』を紹介して、次のように書いている。 「写楽の項は、『神宮文庫本浮世絵考証』に記してある最も古い浮世絵類考の記述と三馬按記 が中心として構成されている。 栄松斎長喜老人の話 192
四郎后京十郎と改半四郎菊之丞富十郎広次助五郎鬼治仲蔵の類を半 身に画」 天保一五年 ( 一八四四 ) 、斎藤月岑『増補浮世絵類考』、「天明寛政年中ノ人俗称斎藤十郎 兵衛居江戸八丁堀ニ住す阿波侯の能役者也号東洲斎廻りに雲母を摺たるもの 多し」 以上はすでに述べたとおり、写本から写本を重ねた「浮世絵類考」のいわば巨大な系統樹のあ ちらこちらにほっりばつりと補われた「補記」を抽出したものだ。したがって、この一つ一つが ここに並べたように時代順に整然と積み重ねられた情報ではない。が、ともあれ、こうした情報 は、最後の斎藤月岑の『増補浮世絵類考』に至って集大成されたと考えても間違いではない。繰 り返しになるがその全文を記しておこう。 〇写楽天明寛政年中ノ人 俗称斎藤十郎兵衛居江戸八丁堀ニ住す阿波侯の能役者也号東洲斎 歌舞妓役者の似顔を写せしがあまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかハ長く世に 行れず一両年にて止む類考 三馬云僅に半年餘行るゝのミ 五代目白猿幸四郎后京十郎と改半四郎菊之丞富十郎広治助五郎
蔦屋版の浮世絵を見る。世界の美術館が収蔵している代表的な浮世絵名品中の蔦屋版三五〇— 四〇〇点が、『浮世絵聚花』、『秘蔵浮世絵大観』などの美術全集に収載されている。作品として は、もちろん各地の美術館に重複して存在するものもある。しかし、おおよその数の見当はつい てきた。なかでもっとも多いのは、やはり写楽と歌麿である。 この自分でもよくわけのわからないような作業のなかから、私にはいつのまにか、写楽と歌麿 の描いた浮世絵世界の茫漠としたそれぞれの姿が形造られていったようだ。 私はこれと平行して、一方では前章までに概説した蔦重の台所の検証を進め、もう一方ではさ まざまな写楽別人説の私なりの再整理を試みていた。最近の諸説のなかでは、やはり内田千鶴子 『写楽・考』にまとめられた写楽・斎藤十郎兵衛説の実証的な解明が、い くつかの無理な議論と 思われる部分を感じながらも記憶に残っていた。 これらの作業が重なって進んでいた一九九四年七月のある日、私のなかにふと、一つの「仮 定」が浮かんだ。 「あの写楽の描く顔は、能面からヒントを得たのではないか」。 特徴はないか。 写楽の描く顔と能面