クルトの歌舞伎と歌舞伎興行に関する知識・情報はあまりにも一般的過ぎた。写楽の役者絵を 全体として解明するには、決定的に情報不足であった。 それでもクルトの『写楽』は、世界的に衝撃を与え、日本にも強烈な影響を与えた。だが、も しもドイツでの刊行から間を置かずにその全容が日本に紹介されたならば、歌舞伎界の常識から して「忠臣蔵」の一事だけからでも、クルトは集中砲火を浴びることになったのではないだろう カ そうはならなかったことが、よかったかどうかはわからない。だが、この破綻は遅かれ早かれ 明らかになってくる。事実、大正から昭和前半にかけてクルト批判はご承知のように決定的なも のになっていく。 ゝ 0
だが、第二次大戦後のわが国での写楽研究の大勢は、この能役者という視点をほとんど完全に 否定したところで進められてきた。バランスの取れた諸説検討で、私も大いに教えを受けた瀬木 慎一氏の『写楽実像』もこの点では決定的に能役者否定の見解であり、とくにクルトがその議論 の中心にすえて能役者、能面との関連を論じた部分については、それを激しく批判して次のよう に斬って捨てる。 「クルトのような日本を良く知っていない外国人が、写楽の絵を能面から類推したり、エイゼ ンシュタインのような人が構成主義的に分析したりしたのは、たしかに、見当ちがいというべ きだが、そのような錯誤を誘発するエキセントリックな要素は、写楽の芸術的態度そのものに 内在していたのである : : : 」 「 : : : 歌舞伎役者の顔を、能面から類推するのは、見当ちがいであり、また、歌舞伎のメーキ ャップを忠実に再現したその肖像を、反リアリズムと規定するのは、根本的な誤解といってい 。むしろ、日本と日本人とについての無智から発したこの観察とは反対に、写楽の基本的性 格はリアリズムなのであり、このことは浮世絵の発達史に即しても明白であろう」 クルトは、たしかに写楽の役者絵を能面から類推している。だが、反リアリズムとはいってい ない。むしろ全体の文脈でいうならば、歌麿も放棄した石燕のいう「自然の写し」を求める道を ひたすら辿って、その到達点として大首絵を産みだしたと考えているのだ。写楽の目の線を、 200
そして、この危機を克服する「起死回生」の企画こそあの一四〇余点の写楽の錦絵出版であっ たというのが、大方の説であることは、これまたご承知のとおりである。 おおまかな流れとしては、これはこれで間違いないといっても良かろう。だが、ちょっと待っ てほしい。 そもそも寛政三年に「身上半減の闕所」の処分を受けたというが、蔦屋重三郎の身上はではど れほどのものだったのだろう。以前にも、おなじ身代半減でも、一軒の家をきりもりするのに精 一杯の人間がその財産を半分に削られる場合と、何十億の資産を擁した男がそれを半分にされる のとでは、受ける打撃はまったくちがうと、疑問の形でこのことを指摘したことがある。さらに また、写楽の一四〇余点の錦絵が、蔦屋の出版全体のなかでどれほどの比重をもっていたかも、 一般的には、蔦重は歌麿や写楽の錦絵 ( 浮世絵版画 ) の版元として有名だが、元来は問題の山 東京伝の洒落本のように、さまざまな大衆的な読物の出版者として大を成してきた版一兀である。 私は、なんとかしてこの蔦屋重三郎の出版者としての全容を、できるだけ確実な数字の形で描 郎きだすことができないものだろうかと考えるようになった。 重もしも、こうした蔦屋の経営規模の全体像が、少しでも具体的かっ実際的に数字の形でデータ 蔦化できるならば、これまでの蔦重観になんらかの新しい光を投げかけるにちがいない。さらにい 一一えば、それによって、蔦屋と写楽の関係についても、なにか見えるところがあるのではないだろ 第 103
この写楽の疑問を解くには、写楽の内側からと外からと、両面から迫る必要があると思う。そ のように出現した写楽自身の内面的な必然性があるはずだ。同時に一方では、そのように写楽を 導いた外からの要請もあったにちがいない。 内から、写楽自身の必然性という面でいうならば、写楽には、クルトが考えたような、近代画 家としての成長の過程をとる必然性がなかったと考えるべきではないだろうか。 クルトが考えた画家としての成長の過程とは、西欧ルネッサンス絵画から近代絵画への成長発 展のプロセスを下敷きにして、その中での一人の画家の芸術的完成を構想したものだったと私に は思われる。そこにあるのは近代芸術家の誕生と形成のイメージである。 だが、写楽という浮世絵師には、こうした近代画家としての修業と自己形成の道とは別の、造 形的表現力獲得の道があったのではないだろうか。 考えてみると、これまでの写楽論議は、みな、クルトの写楽観を否定しながら、「芸術家写楽」 のイメージを描く点では、クルトと同じように考えていたのではないだろうか。「写楽にも、修 業時代があったにちがいない。その修業時代、写楽の初期作品がどこかにないか。それがあれば、 もっと明確に写楽の像を描くことができるのに : 成長過程を説明できない写楽は、いよいよミステリアスな存在になっていく。 しかし、写楽の成長過程は、近代的な画家の誕生とは別の場所にあった、だから、写楽だと考 えるべきではないかというのが、いまここまで来て、おばろげながら私が到達した結論だ。これ 以上の断言はいまの私には早すぎる。その前に、写楽の制作を大きくリードした、外側からの要
そして、彼はこれら作品群の制作順序を、背景まで細かく描きこんだ細判全身像を写楽の最初の 達点としてのかってないリアルな大首絵が「あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしか ば」という世評、とくに肝心の歌舞伎役者たちにうとまれることになって、いったん姿を消した のだと考えた。歌舞妓堂艶鏡は、その写楽が今一度絵師としてチャレンジしたときの名前である としたのだ。 初版『写楽』から十一一年後の大正十一年 ( 一九二一 l) 、クルトはその間に新たに発見された写 楽の作品のデータを加えて、より一層充実した改定第一一版を出版する。まさにその頃から、クル トに刺激されて始まった写楽研究は新しい段階を迎える。日本でも役者絵の総合的な研究ばかり か、歌舞伎そのものの実証的な調査と研究が進み、写楽の役者絵の一点一点が寛政何年の何座の なんという舞台から取材したものであるかが実証的に確かめられ、今日私たちが写楽の第一期か ら第四期と区分している制作順序が明らかにされていった。 クルトが結論とした写楽作品の制作順序は、事実とはまったくといってよいほどに逆であった。 この点に関するかぎりクルトは完全に間違っていたのである。 写楽の真価を世界に紹介したあのクルトが、肝心なところで決定的な間違いをしていたという 事実は、人々の「写楽捜し」への関心を高める第二の要因になっていたと私は考える。 おことわりしておくが、私には以上のようなことのみをもってクルトを評価するつもりはまっ たくない。クルトが写楽研究、いや日本文化研究のうえでもっている意味は、もっと別のところ
私自身は、もともとは写楽よりも北斎などのほうに関心があったが、右のような構図がみえて きたいま、あらためて写楽に強く牽かれている。 最初の考えでは、本書は「写楽と蔦屋」という書名でまとめる予定だった。蔦屋重三郎に代表 される江一尸時代の出版の、技術的、経済的な仕組みに興味があり、浮世絵版画もその一環として みることから、いささか新しい視野が開けるのではないかと考えていたからだ。しかし、ここで は「蔦屋の年商を推計する」の項にご覧のとおり、ごく結論的なことがらを述べるにとどめざる を得なかった。本来は、年商の金額推定の土台となる、細かな出版プロセスの各段階での費用と その算定の根拠を、詳細に解明したいと計画していたが、専門的すぎるという心配もあって大幅 に省略した。いずれ、機会をみてまとめたい。 写楽にしても版元蔦屋にしても、この仕事を進めるについては、アダチ版画研究所および新発 足のアダチ伝統木版画技術保存財団の安達以乍牟氏、中山吉秋氏をはじめとする皆さんの好意に みちた協力は不可欠だった。現在開催中の「写楽と歌麿展」の準備やクルト『写楽』の翻訳など で、いやおうなしに写楽と直面する環境を与えてくれたプンユー社の山口卓治氏の尽力も大きか った。突然飛び込んだ銕仙会、そして能面作者谷口明子氏にも大変お世話になっている。原稿完 成を硬軟とりまぜた激励で推進してくれたアートディズの宮島正洋氏と大塚香さん、版元・読売 新聞社出版局の諸氏、すべての皆さんに、心からお礼の気持ちを捧げたい。 一九九四年十一月 定 村 忠 士 217
活作業に立ち会ったことは、二〇〇年前の版本製作の実際を想像するうえでかけがえのない経験 」っ一」 0 私はあの直後、アダチ版画研究所の全面的な協力にバックアップされて、『今、北斎が甦る 浮世絵版画が摺りあがるまで』 ( 河出書房新社、一九八七年 ) をまとめた。浮世絵の世界にか かわりをもってほとんど最初の仕事だったが、アダチ版画研究所スタッフの親切な教えに導かれ て、私は浮世絵版画および版本の完成までの製作プロセスの基本を、摺を中心にして具体的に描 くことができた。 それは現代の出版印刷の過程、とくにオフセット印刷で一冊の本を製作する過程と、ほとんど 同じといってよい手順を踏んでいた。現在と二〇〇年前の違いは、かっては版下をもとに桜の板 の上に彫師が熟練した腕で文字や図像を彫りあげていた製版過程を、今日では写真技術を駆使し てフィルムの上に光学的・化学的手段により進めていることと、やはり熟達した摺師が水性の絵 具 ( 顔料 ) を使って、精妙な水の力を利用してバレンで紙の上に印刷していた印刷過程を、今日 では油性のインクを使い、平版なり輪転なりの印刷機械で印刷するという二点のみといってよか った。原稿の人稿から製版、印刷、製本の手順についていえばほとんど変わるところがない。 重余談めくが、この出版印刷という過程について考えてみると、一一〇〇年前と今日よりも、現在 蔦 からつい目の前の近未来、いや、現在進行中の出版技術の変化のほうが、はるかに激しく大きい 一一のではないかという気がする。コンピューターを駆使した編集から印刷までの流れ、文字・図像 9 第 ばかりか音声・映像までを取り入れ、電波や光ファイバーなどの技術と組み合わせた情報伝達手
絵に見られた、あの能面の目の強烈な線はない。そのかわりに文字どおり写実的な筆致で慎重に 運ばれた目の線があった。 大童山が登場し、横綱谷風がいて、かっ未完に終わったこの版下絵が描かれたのは、少なくと も寛政六年十一月半ばから、谷風が不慮の風邪にかかってこの世を去った寛政七年一月までの間 のことと考えられる。だとすると、この版下絵の谷風の顔の手直しには、この年五月に始まった 歌舞伎役者絵、つまり第一期の写楽の大首絵の筆さばきからほとんど第四期に至るまでの写楽の、 画家としての苦闘が凝集されているのではないか。 東洲斎写楽の登場にあたっては、なんといってもあの第一期大首絵の能面の線に対する蔦屋重 三郎の慧眼があったと思う。出版の決断をしたのは蔦重であった。 この能役者絵師・写楽についてのこれまでの議論を整理し、写楽の絵の内面に立ち至った分析 として記憶に残るのは、浮世絵八華 4 『写楽』 ( 平凡社、一九八五年 ) のなかの辻惟雄氏のエッ セイ「写楽はみつかるか ? ある架空の問答」だ。「三世沢村宗十郎の大岸蔵人」の役者の見開 いた目と、手に持った扇に描かれた観世水の模様との共鳴現象の指摘など、能役者絵師・写楽を 能考えるときにはきわめて示唆的である。 だが、もしかりに、あの第一期大首絵の表現が、今日私たちが感じるような画家・写楽の自覚 代 時的な表現ではなく、能役者・写楽の直観的な表現であったとしたら、次の時点では第一期大首絵 三で描いた能面の目とは違った、本物の役者の目、人間の目をどう写すかは改めて写楽の課題とな 3 第 ったのではないか。能面の「白目のなかに置かれた墨」は、観客にとっては舞台の上でこそ自殀
版元蔦屋重三郎と絵師東洲斎写楽の関係を想像させる、興味深い資料がある。寛政六年十一月 の江戸三座の顔見世番付である。 前記の「写楽の役者絵とクルト」で、当時の江戸歌舞伎の危機的な状況については概説した。 そのときに寛政五年の顔見世番付についても触れ、この年、突然、中村座、市村座が経営不振の ために休場し、控え櫓の都座、桐座がこれに替わったこと、そのために恒例の顔見世番付も変則 的なものになったことも述べた。 翌寛政六年は写楽が登場した年である。十一月の顔見世興行は、河原崎座、都座、桐座といず れも控え櫓であったが、予定どおり幕が開いた。顔見世番付も、恒例どおり三座それぞれに発行 されている。このことは、私にも一九八七年ころ、ポストン美術館の板木に関連して写楽を調べ たときからわかっていた。 写楽の制作でいうと第三期の作品群がこの顔見世興行を中心にして描かれている。 一年ほど前、改めて写楽を考えはじめたとき、私は、基礎的な作業の一つとして、一体、写楽 が描いた役者たちはどんな基準で選ばれたのか、私なりに調べねばならないと考え、そのための こした器量人であった。 寛政六年の三座顔見世番付
スタートは写楽だった。だが、一一〇〇年前の写楽の姿を浮かびあがらせるためには、蔦屋重三 郎の仕事、経営の実態にできるだけ迫ることが必要だと考えたところから、この章は始まる。 蔦屋重三郎についても、これまでに多くの研究が進められ、公にされている。しかし、当時蔦 屋重三郎がどれほどの経済的規模で、その出版活動を進めていたかということは、どうやら未だ ほとんど明らかにはされていないようだ。 蔦重の経営についていつもいわれることは、有名な寛政三年 ( 一七九一 ) の山東京伝の洒落本 「仕懸文庫」「娼妓絹範」「 2 錦之裏」三作に対する出版取り締まりの結果、「町触も有レ之候 処等閑に相心得放埒之読本売買致候段不届」 ( 町ぶれで示しておいたにもかかわらずいい加減に考 え、放埒な内容の読本を出版したのは不届きだ ) として、作者京伝は手鎖五〇日、板元蔦屋は身 上に応じ重課料 ( 身上半減の闕所 ) の処分を受けた一件である。これによって、具体的に蔦屋の 店の間ロは文字どおり半分に狭められ、経済的に大きな危機を迎えたとされている。 版元・耕書堂蔦屋の経営規模 102