鈴屋 - みる会図書館


検索対象: 写楽よみがえる素顔
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1. 写楽よみがえる素顔

以上の腕のある摺師は、一一一銭五厘Ⅱ金一一朱 ( 五〇〇文 ) という記録がある。江戸時代の名残を ひいた時期の、この数字を考え合わせると、寛政時代に一日一〇〇〇枚の摺をこなした摺師の賃 金が二〇〇文そこそこであったことは、ほば間違いないことであろう。ということで、以後の摺 賃の基準は、一丁 ( 一枚 ) あたり〇・一六文として計算する。 こうした資料を整理し、それぞれ一冊の本にならして、単価とその一冊のための総費用を計算 していったわけである。 といっても、本にもじつにさまざまな種類があり、判型、丁数、発行部数すべて異なり、費用 もちがう。後で簡単に触れるが、蔦屋は地本問屋 ( 草双紙類をはじめとする軟らかい本や錦絵な どを出版する版元 ) として出発したが、そのなかで次々に新生面を開き、出版した書物の種類も 多種多様である。狂歌絵本などはいわば豪華本に属するといってよい。しかし、一方では、今日 でも出版社の規模を計るときに、その出版社の発行点数をもって物差しとすることが多いのも事 実である。どんなに小さくても一冊の本にはそれなりの重みがある。一つの基準があれば、本の 規模の大小にしたがって、それぞれ類推することも可能だ。 ここではとりあえず、当時もっとも大衆的な出版物であった黄表紙と洒落本について、その製 作費を計算し、あわせて一枚物の浮世絵版画 ( 錦絵 ) についても類推・試算してみることにした。 右の『海国兵談』と『鈴屋集』についても同様の製作費計算書を作ったが、表にするとあまりに もわずらわしくなるので、ここでは省略した。 できあがった一覧表は次のとおりである。 ( 表「寛政期出版の原価計算試案」参照 ) 150

2. 写楽よみがえる素顔

本居宣長の本造り 「古事記伝」を著した国学者で歌人の本居宣長も、写楽や蔦屋重三郎と同時代の人だった。この ことは、前から私の記憶のなかにあった。だが、これほど貴重な記録があろうとは、教えられる までまったく知らなかった。寛政九年から十一年にかけて、伊勢松阪で本居宣長が自費出版した 歌集『鈴屋集』全九巻に関する出版の過程、経費、販売方法、部数などの詳しい、具体的な記録 が残されていたのである。 私はこの記録資料の存在を、東京大学教養学部の延広真治氏に教えていただいたばかりか、鈴 木淳氏による綿密な研究論文「鈴屋集の開板」 ( 国学院大学日本文化研究所紀要一九八六年三 月 ) のコピィまで送っていただいた。 宣長は随筆『玉勝間』を寛政七年に蔦屋重三郎を版元として出版している。出版に先立ってそ の年三月、蔦屋重三郎は伊勢松阪に本居宣長を訪ねた。これは宣長自身の手でその身辺記録に、 次のように記録された。 128

3. 写楽よみがえる素顔

され、洒落本三部作 ( 「仕懸文庫」「錦之裏」「娼妓絹篩」 ) の作料として、一丁につき ( 筆耕と も ) 銀一匁 ( 六六・七文 ) 、三部の代銀一四六匁 ( 九七三八文 ) 、この内金 ( 前渡金 ) として渡 されたのは金一両銀五匁 ( 概算で銀六五匁Ⅱ四三三六文 ) とも記録されている。 彫師に支払われる「彫刻料」の項。 山崎美成の「海録」巻三によれば、古は一枚五〇〇文、いまは ( 尚左堂談 ) 一枚一貫一〇〇文 ( 一一〇〇文 ) 、文字彫一枚三〇匁三〇〇〇文 ) とあり、本居宣長『鈴屋集』で一丁銀八匁 ( 五 三三・六文、切りあげて五三四文 ) 、林子平『海国兵談』で一枚銀四匁五分 ( 三〇〇文 ) となる。 馬琴の「近世物之本江戸作者部類」では、洒落本の彫は一丁二—三匁 ( 一三四—二〇〇文 ) と安 一方、時代が下がって天保年間の『北越雪譜』では、画の彫賃が一丁金三分 ( 三〇〇〇文 ) 、 文字彫賃が一丁金一分二朱 ( 一五〇〇文 ) で、山崎美成の証一一一一口と合致する。 もう一つ見ておこう。摺賃である。 『海国兵談』の摺賃が、三五〇丁一部あたり銀四分三七文 ) 、一丁あたりにすると、なんと 〇・〇七七文だ。『鈴屋集』の場合、一日一〇〇〇枚につき銀三匁五分三三三・四五文 ) 。飯 料八分を付けて銀四匁三分 ( 二八六八 一文 ) 。ただし、摺師の腕で上中下とあるから、飯料っ 重き概算平均として銀三匁四分 ( 一三六・七八文、切りあげて一三七文 ) と計算する。一枚 ( 一丁 ) 蔦 あたりは〇・一三七文である。 一一『海国兵談』と『鈴屋集』では約三倍の開きがあるが、奥州仙台と伊勢松阪のちがいもあるだろ 第 う。べつに明治十年の数字だが、摺師の手間賃は、一〇銭Ⅱ金一分 ( 四〇〇文 ) が普通で、親方 149

4. 写楽よみがえる素顔

二つの記録が第一級の資料であるのはよいとして、無論それだけで十分とはいえない。私はこ れまでに何度か触れた、上里春生著『江戸書籍商史』、今田洋三著『江戸の本屋さん』をはじめ 井上隆明著『江戸戯作の研究—黄表紙を主として』、高橋誠一郎「浮世絵師の台所」 ( 『世界名画 全集日本・浮世絵』所収 ) などの諸著作に紹介引用された寛政年間前後のデータを、できるか ぎり集めてみた。 以前から貴重な助言をいただいてきた延広真治氏には、鈴木淳「鈴屋集の開板」のほかに浜田 啓介「馬琴をめぐる書肆・作者・読者の問題」 ( 『近世小説・営為と様式に関する私見』京大学術 出版会・一九九三年 ) を教えていただいた。 こうして集まった資料をそれが記録された年代順に並べ、必要な範囲で内容紹介をしておこう。 天明六 5 七年 ( 一七八六—七 ) 重①林子平「海国兵談出版見積書」 寛政三年 ( 一七九一 ) 蔦②奉行所吟味始末書 寛政七年 ( 一七九五 ) 一一③奉行所指示 第 ④本居宣長『鈴屋集』九巻自費出版資料 * 鈴木淳論文寛政九—一一年 ( 一七九七 5 九 ) 江戸の諸記録から

5. 写楽よみがえる素顔

入費 百分率 ・ 7 % 代 三匁七分 ・ 2 % 摺賃 ( 飯料を含 ) 六分一厘〇六 2 ・ 5 % 折ト丁合手間代 一分四厘八 8 ・【 0 / 仕立代 五分一厘 4 ・ 0 % 糸ト角包絹代 一一分四厘 ・ 5 % 表紙代 六分九厘 0 ・ 4 % 外題紙代 二厘五 1 ・ 2 % 袋紙代 七厘 100- ・ 0- 計 五匁九分九厘四 ( 三六 ) これで『鈴屋集』一—三巻三冊を製作する直接製作費の全体が計算できた。 次々に数字が並んで退屈された読者も多いと思うが、勘弁してほしい。林子平「海国兵談出版 見積書」と、本居宣長『鈴屋集』自費出版資料という一一つの書物の資料がこうして残されていた ことの意味は、蔦屋重三郎の出版活動の原価計算を試みるうえで決して小さくない。なぜなら時 間的に見ても二つの資料は、これから私たちが求めようとしている寛政初—六年という時期をは さんで、ちょうど前と後に位置する記録であり、しかもどちらも決して蔦屋重三郎その人と無縁 ではない人物がかかわるデ 1 タであるからだ。 ロ リ 4

6. 写楽よみがえる素顔

数多い宣長の著書のなかでも、この本の出版記録のみが完全な意味での自費出版であったがため に詳細な出版の記録資料が今日に残された。その点でも貴重な史料である。 自費出版であっても、当然、制作にあたるスタッフが必要だ。『鈴屋集』の場合これを担当し たのは名古屋の板木師植松有信と松阪の書肆柏屋兵助であった。ともにそれまでの宣長の著書の 出版にたずさわり、宣長およびその実子春庭と、深い信頼関係で結ばれた人々だった。鈴木論文 は、これらの人々の間で取り交された書きつけ、書簡等を克明にたどって稿本の完成、板下、彫 刻、校合 ( 校正 ) から製本、さらには値段、販売方法までの出版資料を取りだしている。 『鈴屋集』板本は九巻九冊、いずれも縦二七・一糎、横一八・五糎。もっとも薄い巻で二八丁、 厚い巻で五八丁、平均四一丁強。これにいずれも巻首に遊紙一丁を添える体裁で長・短歌あるい は詩文を収める歌集である。板下まですべて宣長の自筆という。彫刻には前記の植松有信があた り、校合 ( 校正 ) もまた宣長自身がおこなった。 彫りあがった板木のうち最初の五枚は、墨をつける前に宣長のもとに送られ、宣長はこれ ( 白 板という ) を紀州藩松阪の役所に提示して版権登録をおこなったとされているのも興味深い さてそこで出版経費だが、まず彫刻料。初巻から三巻までの全一三六丁のうち一一一六丁分の彫 名古屋と松阪の職人たち 130

7. 写楽よみがえる素顔

◎寛政期出版の原価計算試案 ( 単位・文 ) ☆略号 ~ 海録 = 山崎美成「海録」 , 部類 = 馬琴「江戸作者部類」 , 鈴屋 = 「鈴屋集」 , 兵談 = 「海国兵談」 , 雪譜 = 京山 ~ 牧之書簡 種類 項目 黄表紙 判型美濃紙半截二つ折り ( 画料と同額と見て ) 670 1000 本文 5 丁 丁数 摺部数 1 原稿料 2 筆耕 ( 海録 , 1 枚 = 10 文 ) 3 画料 ( 海録 , 1 枚 = 2 匁 ) 4 板木料 ( 雪譜 , 1 枚 = 4 匁 = 270 文 ) 5 彫刻 ( 字 ) ( 海録 , 1 枚 = 500 ~ 1100 文 ) 6 彫刻 ( 絵 ) 50 ( 10X5 ) 670 ( 134X5 ) 405 ( 270X3X0.5 ) ( 2 丁掛け表紙共 ) 洒落本 ( 「仕懸文庫」想定 ) 半紙半截二つ折り 本文 48 丁 1000 3200 ( 1 丁につき銀 1 匁 = 66.7 文 ) ( 筆耕とも , 吟味始末書による ) ( 270 x 25 x 0.5 ) 3375 134 ( 部類 , 1 丁 = 2 ~ 3 匁 = 200 文 ) ( 200 x 50 ) 10000 ( 2 丁掛け表紙共 ) 錦絵 大奉書半截 ( 大錦 ) 1 丁 , 墨 + 8 色 1000 ( 500 ~ ) 1000 1026 ( 270 十 270X4X0.7 ) ( 墨 1 枚 , 色 4 枚 8 面 , 含償却 ) 2000 2500 ( 500 x 5 ) ( 字・絵共 ) 1100 ( 3 分冊と見て ) 5395 2750 (@2.5 x 1100 ) ( 1 冊に 2 . 5 枚 ) 1100 (@IX 1000 ) 400 (@0.16 x 2500 ) 1000 (@IX 1000 ) (@ 5.25 ) 5250 10645 十 1000 ( 錦絵の墨版 1 面と色版 8 面分の手間を同額と見て , 1000X2 ) 7 仲間入料 ( 開板 経費 = 3300 文 ) 固定費小計 8 本文用紙 ( 美濃紙 1 帖 48 枚 = 48 文 , 1 枚 1 文 ) 9 表紙 ( 本文用紙の 倍 , 1 枚 2 文 ) 10 摺賃 ( 鈴屋 , 兵談平均 ) 11 作料分 ( 仕立賃など ) ( 現代の製本代は 10 ~ 15 % ) 比例費小計 総計 ( 1000 部 ) 単価 2000 部 7000 部 @ 10 文 7 分 ~ 11 文 15895 文 @ 7.95 文 40696 文 @ 5.82 文 売価 ( 利益率 , 1000 部 ) 10 文 ( ー 10 % ) 7000 部 ) 〃 ( 41 . 8 % ) 2000 部 ) 〃 ( 20.5 % ) 3300 ( 仲間入料に準じ ) 20009 21780 (@ 19.8 x 1100 ) ( @0.825 x 24 = 19.8 ) ( 10 枚 ) 1100 (@ 1X1100 ) 4000 (@0.16X25000 ) 8000 (@8X 1000 ) (@34.8 ) 34800 54889 十 1000 @ 54 文 9 分 ~ 55 文 〃 ( 64 . 4 % ) 〃 ( 55.2 % ) 100 文 ( 45 % ) 249644 文 @ 35.67 文 89609 文 @44.81 文 1100 ( 仲間入料に準じ ) 5126 927 (@0.927X1100 ) ( 大錦 1 枚 0.927 文 ) ( 墨 , 色共 9 度摺 ) 1440 (@0.16X9X1000 ) (@2.367 ) 2367 7493 @ 7.50 文 十 1000 16480 文 @ 2.36 文 9860 文 @ 4.93 文 ( 88.2 % ) ( 75.4 % ) 20 文 ( 62.5 % )

8. 写楽よみがえる素顔

寛政七年卯三月二十五日来る 江戸通油町蔦屋重三郎来る。右は千蔭春海ナトコンイの書林也。 ( 筑摩書房版本居宣長全集『雑事要案』 ) 蔦屋重三郎は山東京伝や写楽、歌麿との出版活動の一方で本居宣長など当時第一線の国学者ら との交渉も深めていたのだ。千蔭は国学者加藤千蔭、春海は同じく村田春海だ。蔦屋は翌寛政八 年にも宣長の著書『出雲国造神寿後釈』を刊行している。こうした蔦屋重三郎の一面については、 前にもふれた内田千鶴子氏の『写楽・考』が注目し、国学者、蘭学者と蔦重の関係を資料によっ て跡づけている。これは、写楽Ⅱ能役者斎藤十郎兵衛説の重要な背景なのである。 「諸家人名江戸方角分」には、村田春海は江戸八丁堀地蔵橋に住み、村田家の一一つ隣に写楽斎と いう浮世絵師がいたと記されている。同じ八丁堀の北嶋町には国学者、加藤枝直の貸屋に青木昆 陽が住んでおり、そこには昆陽からオランダ語を学ぶため、前野良沢、桂川甫周、森島中良、野 呂元丈らがしばしば訪ねていた。加藤枝直の日記によれば、この蘭学者たちと加茂真淵、村田春 海、自分および息子の加藤千蔭を含めた国学者たちが親しく往来したことがわかる : : : これは内 田氏が調べあげた事実である。 重 が、ここでは一足飛びに写楽捜しに入ることはしない。ゝ しまの目的は、当時の出版経費のデー 屋 蔦タ蒐集である。鈴木氏の「鈴屋集の開板」に従って、その内容を確かめておこう。 一一鈴木淳氏によると『鈴屋集』の出版は、「著者生前の家集出版としてはおそらく初の試み」で 第 あり、これ以後生前の家集出版が一般化したという意味で特筆すべきだとのことである。しかも、 129

9. 写楽よみがえる素顔

由良哲次『総校日本浮世絵類考』 ( 一九七九年、画文堂 ) 鈴木敏夫『江戸の本屋』上下 ( 一九八〇年、中央公論社 ) 鈴木俊幸「蔦屋重三郎出板書目年表稿」上・下・補正 ( 一九八一 5 八三年「近世文芸」肪、 3 川瀬一馬『入門講話日本出版文化史』 ( 一九八三年、日本エデイタースクール出版部 ) 小池正胤他編『江戸の戯作絵本』一—四、続巻一一 ( 一九八〇 5 八五年、社会思想社 ) 太田記念美術館学芸部編『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』 ( 一九八五年、浮世絵太田記 念美術館 ) 中野三敏『江戸名物評判記案内』 ( 一九八五年、岩波書店 ) 鈴木淳「鈴屋集の開板」 ( 一九八六年、「国学院大学日本文化研究所紀要」 ) 田中優子『江一尸の想像力』 ( 一九八六年、筑摩書房 ) 井上隆明『江戸戯作の研究』 ( 一九八六年、新典社 ) 定村忠士『いま、北斎が甦るー浮世絵版画が摺りあがるまで』 ( 一九八七年、河出書房新社 ) 新日本古典文学体系『米饅頭始・仕懸文庫・昔話稲妻表紙』 ( 一九九〇年、岩波書店 ) 小路健校訂『板木屋組合文書』 ( 一九九 = 一年、日本エデイタースクール出版部 ) 中野三敏『内なる江一尸近世再考』 ( 一九九四年、弓立社 ) 立川焉馬著、吉田暎一一翻刻『歌舞妓年代記』 ( 一九二六年、歌舞伎出版部 ) 220

10. 写楽よみがえる素顔

ではなかったか。その理由は次のとおりだ。 次々に活発な出版活動を展開する蔦屋重三郎ら絵双紙問屋に対して、寛政の改革をめざした松 平定信以下の幕藩体制は、すでに見たように寛政二年一一月から十一月にかけて次々と出版統制の たがを締めていった。当然蔦屋重三郎ら版一兀側は危機感を深め、統制に対する対策を講じていた にちかいない。 この攻めぎあいのなかで、出版活動の要 ( かなめ ) に位置する板木屋は統制する 側とされる側の双方から自陣営に引きこもうとする戦略上の標的となった。 板木屋の立場からはどうだったか。板木屋としては、かねてからギルド結成は課題であった。 「仲間新古記録帳」の冒頭にあるとおり、十数年来組合結成を願いでながら、そのままに打ち捨 てられていたという思いがあった。仲間外の〈もぐり〉の彫師への対処のみならず、版元 ( 書物 問屋、絵双紙問屋 ) に対する力関係の改善は課題であったにちがいない。 こうした状況のなかで、寛政一一年十月、地本双紙問屋に対する再度の出版禁止令が出されたの に対して、まず先手をうとうとしたのが蔦屋重三郎であった。板木屋への統制、新板法度につい ては、絵双紙屋より板木屋へ通知する、つまり絵双紙屋の傘下で奉行所に対抗しようではないか と呼びかけたのである。 板木屋の反応は、すでに見たとおり、蔦屋重三郎の申し出を拒否し、再度、そして直接に奉行 所に、自分たちの組合結成承認を願いでることであった。願い出の文書のなかに天明四年の奈良 屋御役処から板木屋への申し渡しの前例をあげたのは、一種の実績誇示であったろう。これとほ とんど平行して起こった寛政一一年十一一月の曲淵甲斐守番処への京橋新銀町彦右衛門、日本橋通伊 168