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検索対象: 利己的な遺伝子
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1. 利己的な遺伝子

のパターンとして持続するのが、個々のダイヤモンドの結品である。 Z << は、そのような永久性をも ちあわせていない。自然の Z 分子はいずれもその生命がごく短いーーーあきらかに一生より長いこと はなく、おそらく数十カ月であろう。しかし Z 分子は、論理的には自らのコビーの形で一億年でも 生き続けることが可能である。さらに、原始のスー。フの中の古代の自己複製子とまったく同じように、 特定の遺伝子のコビーが世界中にばらまかれることもありうる。ちがうのは、現代の分子が生存機械で ある体の中にほ・ほ完全に包みこまれている点である。 コビ 私が強調しようとしているのは、 がその定 彡。ま・ま、減だと、うことである。 遣伝子を単一のシストロンと定義することは、ある目的には適切だが、進化論を論じるにはそれを拡大 する必要がある。拡大の程度は定義の目的によってきまる、われわれは自然淘汰の実際の単位をみつけ こいのである。そのために、自然淘汰に成功する単位がもつべき特性を確認することからはじめよう。 さである。そこでわれわれは単に「遺伝子」 を少なくとも潜在的にこれらの特性をも 0 ている最 - 大の・・単位どち。遺伝子は多くのコ。ヒーの形 タイヤモンドですら文字どおりに永遠で で存在する長命の自己複製子である。が無限に長命ではない。・ はないし、シストロンとて交叉によって二つに切れることがある。遺伝子は十分に存続しうるほどには 短く、自然淘汰の意味のある単位として働きうるほど十分に長い染色体の一片として定義される。 「十分に長い」というのは正確にはどのくらいの長さであろうか。厳密には善 . えられない。それは自 然淘汰「圧」がどのくらい強いかによる。つまり、「劣っている」と思れる遺伝単位が「ぐれた」対 立遺伝子よりどれたけ多く消減するかによる。これは量の問題であって、それは個々の場合によって異

2. 利己的な遺伝子

しかし、たとえ操作される里親に今やわれわれがいっそうの個人的共感をもつようになったとしても、 カッコウがそれによって罰を受けないでいることをなぜ自然淘汰が許してきたのかを、なお問わねばな恥 らない。な・せ寄主の神経系は赤いロという麻薬に対する抵抗性を進化させなかったのか ? ひょっとし たらそれがはたらくだけの時間がまだ足りないのかもしれない。もしかしたらカッコウはせいぜい数百 年前から、現在の里親への寄生を開始したのであり、ここ二、三百年のうちにはそれらを諦めて、別の 種類の犠牲者を求めることを余儀なくされるのかもしれない。この理論を支持する証拠はいくつか存在 するが、私は、ここにはそれよりも重要な何かがあるという思いを禁じえない。 カッコウとその寄主となる任意の種とのあいだの進化的な「軍拡競争」においては、失敗の出費の不 平等に起因する一種の生来的な不公正が存在する。個々のカッコウの雛は、祖先のカッコウの雛たちの 連綿たる系列に由来するもので、この系列に属するすべての個体は、その里親を操作することに成功し てきたにちがいない。里親に対する支配力を、たとえ一時でも失ったカッコウの雛は、死ぬほかなかっ たのだ。しかし、個々の里親は、その多くが生涯に一度もカッコウに出会ったことがないような連綿た る祖先の系列に由来する。そして、巣の中に実際にカッコウを産み込まれた親鳥も、それに打ち負かさ れながらも生きながらえて、次の繁殖期には別の一腹の雛を育てることができただろう。問題は、失敗 の出費に非対称性があるという点だ。カッコウの奴隷になることに抵抗しそこなう遺伝子は、ロビンや ヨーロッバカヤクグリの世代から世代へ簡単に伝わりうる。これこそ私が「生来的な不公正」および 「失敗の出費の非対称性」という言葉でいわんとするところである。この点は、次のイソップ寓話に要 約されている。すなわち「ウサギはキツネより速く走れる。な・せなら、ウサギは命がけで走っているが、

3. 利己的な遺伝子

こコビーしたがゆえに複製なのではなく、すべてが同じ印刷版をコビーしたがゆえに複製なのである。そ おたがいを れらは、ある本がほかの本の祖先であるという形での、一連の系列の複製ではない。もし、一冊のある頁をゼロッ 3 クスし、それをまたゼロックスし、それをまたゼックスするということをつづけていくのなら、コ。ヒーの系列が 存在することになるだろう。この頁の系列においては、じっさいに祖先 / 子孫の関係が存在することになるだろう。 この系列のどんなところにできた新しい汚れも、その子孫たちと共有されるが、祖先には共有されないだろう。こ の類いの祖先 / 子孫の系列は進化する潜在的可能性をもっている。 表面的には、ナナフシの体の継続する世代は一系列の複製をなすように思える。しかし、もしあなたがこの系列 の一員に実験的に変化をくわえた場合 ( たとえば、肢を一本とる ) 、この変化はこの系列を伝わっていかない れと対照的に、もしあなたが実験的にゲノムの一員に変化をくわえた場合 ( たとえば、 * 線によって ) 、その変化 はこの系列を伝わっていくであろう。これは、減数分裂の断片化効果よりもむしろ、生物体が「淘汰の単位」では ない、つまり真の複製子ではないということの、基本的な理由である。これこそ、遺伝の「ラマルク」説が誤りで あるという、普遍的に認められている事実のもっとも重要な帰結のひとつである。 本文〃頁「。ヒータ ー・メダワー卿の提唱するもう一つの説は、 この老化の理論を・ 0 ・ウィリアムズよりもむしろ、・・メダワーに帰したことについて私は非難を受け てきた ( もちろん、ウィリアムス自身によってでも、あるいは彼の知り合いからでさえなかった ) 。多くの生物学 者、ことにアメリカの生物学者は、この理論が主としてウィリアムズの一九五七年の論文「多面発現、自然淘汰、 老衰の進化」を通じて知っている。ウィリアムズがこの理論をメダワーの扱いよりはるかに洗練されたものに仕上 げたのもまた事実である。にもかかわらず、私自身の判断は、メダワーが、一九五二年の『生物学における未解決 の問題』と、一九五七年の『個体の特異性』において、基本的な核心を述べているというものである。ぜひ付け加

4. 利己的な遺伝子

常に大きいので、潜在的配偶者の疾病を診断する能力は、何であれ雌にとって大変に有利なものであろう。有能な 医者のように振るまい、もっとも健康な雄だけを配偶者として選択するような雌は、子供たちのために健康な遺伝 子を手に入れることになろう。ところが「最良のウサギ」の定義はたえず変化してしまうので、雄を見くらべて選 択する際、雌にとってなにか重要な手がかりになるものが常に存在するのではないか。「よい雄」と「悪い雄、が いつも存在するはずなのだ。何代にもわたって淘汰を受けても、それで雄がすべて「よい雄ーになれはしない。そ の間に寄生生物も変化してしまい、したがって「よいウサギ」の定義もすでに変化してしまうはずだからだ。ある 系統の粘液腫症ウイルスに耐性を示す遺伝子群は、突然変異で登場した別の系統のウイルスにはうまく対抗できな いだろう。進化を続ける疫病の際限のないサイクルを通して、同様なことが続く。寄生生物は手をゆるめてはくれ ない。だから雌も健康な配偶者をきびしく選別するのをやめるわけにはゆかないのである。 医者のように精査を加える雌に対して、雄はいかに反応するか。健康なふりをするように仕向ける遺伝子は淘汰 に有利になるのだろうか。最初はそれも可能かもしれない。しかし、その後は淘汰によって雌の診断能力にみがき がかかり、本当に健康な雄とにせ者を判別するようになってしまうだろう。そして最終的には雌はきわめて有能な 医者となり、雄は、もし宣伝するのなら正直に宣伝せざるをえなくなると ( ミルトンは信じている。この見方によ れば、雄において性的な宣伝が誇張されることがあれば、それは正直な健康指標だからこそ誇張されているのだ、 ということになる。すなわち、雄は、自分が健康なら、それを雌にわかりやすくするよう進化してしまうのだ。本 当に健康な雄は喜んで真実を宣伝するだろう。健康でない雄はもちろんそうはしない。しかしでは何ができるとい うのか。かりにそのような雄たちが健康保証書を見せようとすらしないというのであれば、雌は最悪の判断を下す だろう。ところで、医者の譬喩から雌は雄を治療することに関心があると判断されてはこまる。雌は診断すること にだけ関心があり、しかもこれは利他的な関心ではない。というわけで、「正直な」とか「結論を下す」とかいっ たメタファーの使用について弁解する必要はないと私は思っているのである。 宣伝の話にもどろう。雄は、雌に強いられて、あたかもずっと口に差しこんだままの体温計を、しかも明らかに 486

5. 利己的な遺伝子

なわち両者は同系交配を繰り返す実験室内のラットと同じような存在である。しかし、両者は互いに異なる独立の 近親交配プログラムの産物なので遺伝的に異なっているだろう。ちょうど別の研究室に属する白色ラットの系統と 同じようなものである。両者が交配すると、生まれる子供はきわめて強い異形接合の状態となる。ただしすべての 個体が一律にそうなのである。異形接合とは多くの遺伝子座で二つの遺伝子が互いに異なる状態であることをさす。 一律に異形接合的であるというのは、ほとんどすべての子孫個体がまったく同じ状態の異形接合になっているとい うことである。彼らは兄弟姉妹同士それそれ遺伝的にほとんどまったく同じであり、しかし同時に極度に異形接合 的なのである。 さてここで一気に時間を進めてみよう。創設ペアを擁するコロニーはかなり大きくなった。内部には遺伝的に同 ル・ペアの一方あるいは両方が死亡す 一でかっ異形接合的な若いシロアリたちが多数暮らしている。ここでロイア るとどうなるだろうか。かっての近親婚のサイクルが再び始まり、目覚ましい効果が現われる。近親交配によって 生み出された最初の世代は、前の世代にくらべて一気に変異をます。兄弟姉妹間の交配だろうと、父娘間あるいは 母息子間の交配だろうと、事情にかわりはない。どの場合も原理は同じだ。しかし兄弟姉妹の交配を考えるのが一 番単純だ。雌雄が同胞で、同一の異形接合状態にある場合、その子孫は組み換えによって遺伝的にきわめて多様な 存在となる。これは初歩的なメンデル遺伝学から導かれるもので、原理的にはシロアリだけでなくすべての動植物 に当てはまる。同一の異形接合状態の個体を、互いに、あるいは同系接合の親系統の一方と交配すると、遺伝的な 意味で活字箱が壊れたような状態になる。遺伝学の初歩的な教科書を見ればどれにもその理由は書かれているので、 ここで解説はしないでおく。私たちの当面の視点から重要なことは、シロアリのコロニーの発達のこの段階では、 個体は潜在的な子供より同胞 ( 兄弟姉妹 ) と特に遺伝的に近くなっていることである。そしてこれは、単・二倍数 ・カーストの進化の前提条件になりうるものである。 体の膜翅目のケースで見たように、利他的な不妊のワーカー しかし、個体が子供より同胞に遺伝的に近いと期待すべき特別の理由はなくても、個体が同胞に対して子供と同 じくらい近縁であると期待できるよい理由があることはしばしばある。これが真実であるための唯一の必要条件は、 504

6. 利己的な遺伝子

ることは、だれも疑わないだろう。それは、たとえばロプスターの堅い殻がそうであったのとまったく 同じゃりかたで、淘汰によって選ばれてきたにちがいない。それは体を保護するおおいである。そうい うものとして、生物個体およびすべての遺伝子にとって利益をもたらす。しかし今やわれわれは、自然 淘汰に関する限り、生物個体にとっての利益は付随的なものとみなすべきことを教えられている。現実 に考慮に値する利益は、殻に保護的な性質を与える遺伝子にとっての利益である。ロプスターの場合に トビケ は、それはごく当たり前の話になる。ロ・フスターの殻は明らかに体の一部であるからだ。だが、 ラの巣についてはどうだろうか ? 自然淘汰は、保有者に効果的な巣を造るように仕向ける祖先のトビケラの遺伝子を選んだ。これらの 遺伝子は、おそらく神経系の発生に影響を及・ほすことによって行動に作用した。しかし、遺伝学者が現 実に見るのは巣の形状そのほかの性質に及・ほす遺伝子の効果である。遺伝学者は巣の形状「のための」 遺伝子を、たとえば脚の形状のための遺伝子が存在するというのと厳密に同じ意味で、認めなければな らない。もっと、実際にトビケラの巣の遺伝学をやっている人間など一人もいない。それをするため トビケラの には、飼育下で繁殖させたトビケラの細心な家系の記録をとりつづけなければならないが、 繁殖はむずかしいのだ。しかし、トビケラの巣にみられる相異に影響を与える遺伝子が存在する、ある 腕 いはかっては存在したということを確かめるのに、遺伝学を研究しなければならないことはない。必要 長 子なのは、トビケラの巣がダーウイン主義的な適応であるという正当な理由だけである。この場合には、 トビケラの巣の変異をコントロールしている遺伝子が存在するにちがいない。なぜなら、自然淘汰は、 選択するものの間に遺伝的な相異がないかぎり適応をつくりだすことができないからである。

7. 利己的な遺伝子

ある惑星上で知的な生物が成熟したといえるのは、その生物が自己の存在理由をはじめてみいだした ときである。もし宇宙の知的にすぐれた生物が地球を訪れたとしたら、彼らがわれわれの文明度を測ろ うとしてまず問うのは、われわれが「進化というものをすでに発見しているかどうか」ということであ ろう。地球の生物は、三〇億年もの間、自分たちがな・せ存在するのかを知ることもなく生き続けてきた が、ついにその一員が真実を理解しはじめるに至った。その人の名がチャールズ・ダーウインであった。 正確にいうなら、真実をうすうす気づいた人は他にもいたのだが、われわれの存在理由について筋が通 り、かっ理にかなった説明をまとめたのが、ダーウインその人であった。ダーウインは、この章の表題 のような質問をする好奇心の強い子供に、われわれが理屈の通った分別ある答をきかせてやれるように の る したのである。生命には意味があるのか ? われわれはなんのためにいるのか ? 人間とはなにか ? とい 0 た深遠な問題に出会 0 ても、われわれはもう迷信に頼る必要はない。著名な動物学者・ (-) ・シ ンプソンはこの最後の疑問を提起したあとで、こう述べている。「私が強調したいのは、一八五九年以 前には、この疑問に答えようとする試みはすべて無価値であったこと、われわれがそのような試みをま 人はなぜいるのか

8. 利己的な遺伝子

産ラインが必要である。出発点となる化学物質を望みの最終産物へと直ちに変換することはできない。 一連の中間産物が厳密な順序で合成されなければならないのだ。化学研究者の創意のほとんどは、出発 点の化学物質と望みの最終産物のあいだにありうべき中間的な反応経路を工夫することに向けられてき た。これと同じように、生きた細胞のなかの単一の酵素はふつうそれだけでは、与えられた出発点とな る化学物質から有効な最終産物の合成を達成することができない。一つは原材料から最初の中間産物へ の変換を触媒し、もう一つは最初の中間産物から第二の中間産物への変換を触媒し、次はまた、という ふうな、完全な一組の酵素が必要なのである。 これらの酵素のそれそれは一つの遺伝子でつくられる。もし特定の合成経路において六つの酵素の系 列が必要だとすると、それらの酵素をつくるすべての遺伝子が存在しなければならない。さて、同じ最 終産物に到達するのに二つのあい異なる経路が存在し、それそれが六つの異なる酵素を必要とするが、 こう 二つの経路のあいだにはなんら選ぶべき差がないという事態がおこりうる可能性はきわめて高い。 いった類いのことは化学工場においてもおこる。どちらの経路が選ばれるかは歴史的な偶然であるか、 さもなくば、化学者のより意図的な計画の問題であろう。自然の化学過程においては、もちろん、選択 が意図的なものではけっしてありえないだろう。それは、自然淘汰を通じて生じることになろう。しか し、いかにして自然淘汰は、二つの経路が混線せず、適合した遺伝子のグル】ブが出現するように取り 計らうことができるのか ? ドイツ人とイギリス人のポート選手のアナロジーで私が示唆したのと ( 第 五章 ) まさに同じゃりかたによってだ。重要なのは、経路 1 のある段階のための遺伝子は、経路 1 の他 の段階のための遺伝子群の存在するところでは繁栄するだろうが、経路 2 の遺伝子群の存在下では繁栄

9. 利己的な遺伝子

ありうる。そういった地域はそれまで、数の上では、「常に背信」する個体によって支配されていたも のである。こういった地域集団を考えるときには、私が述べたアイルランドの島は、物理的に遮断され ているがゆえに、誤解を招く対比といえる。それよりむしろ、内部であまり移動がないため、地域全体 にわたる交雑がたえず存在する場合でさえ、各個体は遠くにいる隣人とよりもすぐ近くにいる隣人と似 かよう傾向をもつような大きな個体群を考えていただきたい。 そうして、「ナイフの刃」までもどってくれば、「やられたらやり返す」はそこを越えることができる。 必要なのは、小さな地域集団を形成することだけであり、それは自然個体群で自然におこりがちな類い の出来事である。「やられたらやり返す」は、たとえ少数な場合でも、ナイフの刃を越えて自らの側に渡 る生得的な能力をもっているのだ。あたかも、ナイフの刃の下を抜ける秘密の通路があるかのようであ る。しかしこの通路には一方向にしか通さない弁がある。つまり非対称なのだ。「やられたらやり返す」 とちがって「常に背信」は、真のであるにもかかわらず、地域的な小集団になることを利用して ナイフの刃を渡ることができない。話しはまるで逆だ。「常に背信」の地域集団は、おたがいの存在に よって繁栄するにはほど遠く、おたがいの存在によってとりわけ不都合をこうむる。おたがいに平和に 助けあって胴元に出費させるどころか、おたがいにやつつけあうのだ。したがって、「常に背信」は、 「やられたらやり返す」とはちがって、集団内で血縁あるいは粘性から助けを得ることができないので ある。 だから、「やられたらやり返す」は疑問符つきでしか (J) ではないのだが、一種の高度の安定性を もっているということになる。これはなにを意味しうるのだろうか ? 確かに、安定は安定なのである。 350

10. 利己的な遺伝子

十分に説明できる。無性生殖に対立するものとしての有性生殖が、有性生殖の遺伝子を有利にするので あれば、これによって有性生殖の存在は十分に説明できる。その遺伝子が個体の残りの遺伝子すべてに 役立つか否かということは、あまり関係がない。遺伝子の利己性という観点からみれば、けつきよくの ところ性はそれほど奇怪なものではないのだ。 これでは議論が堂々めぐりになるおそれがある。性の存在は、遺伝子を淘汰の単位と考える一連の論 議の前提条件だからである。この堂々めぐりを避ける方法はあると思うが、この本はこの問題を追求す る場ではない。性は存在する。これは事実た。小さな遺伝単位、つまり遺伝子を、進化の基本的な独立 した因子にもっとも近いものと考えることができるのは、性と交叉があるからである。 遺伝子の利己性という観点から考えはじめたとたんに逆説が解けてくるのは、性ばかりではない。た とえば、生物体の QZ< 量は、その生物体をつくるのに確実に必要な量よりはるかに多いらしい。 のかなりの部分はタン。 ( ク質には決して翻訳されないのである。個々の生物体の観点で考えると、こ れは逆説的に思われる。もし QZ< の「目的」が体の構築を指揮することであれば、そのようなことを しない QZ< が大量にみつかるのはふしぎなことである。生物学者たちは、この余分と思われる がどんな有益な仕事をしているのか考えようと頭をつかっている。しかし、遣伝子利己という観点 ルからは矛盾はない。の真の「目的」は生きのびることであり、それ以上でもなければそれ 以下でもない。余分なをも 0 とも単純に説明するには、それを寄生者、あるいはせい・せい、他の 不 z << がつくった生存機械に乗せてもらってい ある人々は極端に遺伝子中心の進化観と思われるものに反対する。彼らにいわせると、けつきよく、