のさえずり方の部分的編入など各種の方法で生まれることが明らかとなった : : : 。新しいさえずりの形 式は唐突に出現するが、その後は数年にわたってきわめて安定した形で維持された。さらこ、 . 冫し ~ 、つ、か の例では、変異型のさえずりが、その新しい様式のままで新参の若雄たちに正確に伝達され、その結果、 よく似た歌い手たちのグループが新たに他から識別できるほどになった」。新しいさえすりの出現を、 ジェンキンスは「文化的突然変異」と表現している。 セアカホオダレムクドリのさえずりは、明らかに非遺伝的な方法で進化している。さらに、鳥類やサ ルの仲間にはこの他にも文化的進化の例が知られている。しかし、これらはいずれも風変わりでおもし ろい特殊例にすぎないのだ。文化的進化の威力を本当にみせつけているのはわれわれの属する人間とい う種なのである。一一一口語は、その多くの側面の一つにすぎない。衣服や食物の様式、儀式・習慣、芸術・ 建築、技術・工芸、これらすべては、歴史を通してあたかきわめて速度の速い遺伝的進化のような様 一式で進化するが、もちろん実際には遺伝的進化などとはまったく関係がない。しかし、遺伝的進化と同 製様、文化的な変化も進歩的でありうる。現代科学は実際に古代科学より優れているといえる。すなわち、 己 宇宙に関するわれわれの理解は、時代とともに変化するというだけではなく、実際に改善されてゆくも 自 場のなのである。宇宙の理解に関して現在のような爆発的進歩が見られるようになったのは、確かについ ツ。、 新先ごろのルネッサンス以後のことである。ルネッサンス以前には、陰気な停滞期があり、ヨーロ ム 科学文化はギリシャが達成した水準に凍結されてしまっていた。しかし、第五章で述べたように、遺伝 的進化でも似た現象が見られる。それは、安定した停滞期を間にはさみながら、一連の突発的変化を示 して進行するらしいのだ。
己複製を行なう実体の生存率の差に基づいて進化する、というのがその原理である。自己複製を行なう 実体としてわれわれの惑星に勢力を張ったのが、たまたま、遺伝子、つまり分子だったというわ けた。しかし、他の物がその実体となることもありえよう。かりにそのようなものが存在し、他のある 種の諸条件が満たされれば、それがある種の進化過程の基礎になることはほとんど必然的であろう。 別種の自己複製子と、その必然的産物である別種の進化を見つけるためには、はるか遠方の世界へ出 かける必要があるのだろうか。私の考えるところでは、新種の自己複製子が最近まさにこの惑星上に登 場しているのである。私たちはそれと現に鼻をつき合せているのだ。それはまだ未発達な状態にあり、 依然としてその原始スープの中に無器用に漂っている。しかしすでにそれはかなりの速度で進化的変化 を達成しており、遺伝子という古参の自己複製子ははるか後方に遅れてあえいでいるありさまである。 新登場のスー。フは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。文化伝 達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞である。模倣に相当するギリシャ語の語根をと れば△ m 一 meme> ということになるが、私のほしいのは、 ^ ジーン ( 遺伝子 ) > という言葉と発音の似 ている単音節の単語だ。そこで、上記のギリシャ語の語根を△ミーム (meme) > と縮めてしまうこと にする。私の友人の古典学者諸氏には御寛容を乞う次第だ。もし慰めがあるとすれば、 ムという単・ 語は△記憶 (memory)> 、あるいはこれに相当するフランス語の△ méme> という単語に掛けること ができるということたろう。なお、この単語は、「クリ 1 ム」と同じ韻を踏ませて発音していただきたい。 楽曲や、思想、標語、衣服の様式、壺の作り方、あるいはアーチの建造法などはいずれもミームの例 である。遣伝子が遺伝子。フ 1 ル内で繁殖するに際して、精子や卵子を担体として体から体へと飛びまわ
文化的進化と遺伝的進化の類似性はしばしば指摘されるところである。ただし、時としてそれは、ま づたく不必要な神秘的含意のある文脈でとりあげられている。科学の進歩と、自然淘汰による遺伝的進 化の類似性に関しては、特にカール・ + 。、ツ。、ー郎が解明を加えている。ポツ。、 ー卿を始め、その他たと えば、遺伝学者、・・カヴァリ 日スフォルザ、人類学者・ e ・クローク、比較行動学者・・ カレンなどが探求している方向を、もっと押し進めてみたいというのが私のねらいである。 熱烈なダーウイン主義者として、私は、同僚の熱烈なダーウイン主義者たちが人間行動に加えている 説明にずっと不満を感じていた。彼らは、人間の文明が示す各種の特性に、「生物学的有利さ」を見出 そうと努力してきたのだ。たとえば、部族宗教は集団としての一体感を高めるための一つのメカニズム だと見なされてきた。群れで狩猟を行なう動物の場合、各個体の生存は、大形で足の速い獲物を捕える ための協力に依存しており、上記のメカニズムはこのような種にとっては価値があるというわけなのだ。 この種の理論を組み立てる際、その前提とされている進化論的な見解が、しばしば暗黙のうちに群淘汰 主義者的なものになっていることがあるが、それらは正統的な遺伝子レベルの淘汰でいいかえることが できる。確かに人間は、過去数百万年の大半を、小規模な血縁集団単位の生活ですごしてきたようだ。 したがって、われわれの基本的な心理的特性や傾向の多くは、われわれの遺伝子に対して血縁淘汰や、 互恵的利他主義を促進する淘汰が働いた結果として作り出されたのだと考えることもできるかもしれな い。こういった考え方も、それ自体としてはもっともらしい。しかし、文化や、文化的進化、さらに世 界の人間文化が示すはかりしれない差異 , ーーーコリン・ターンプルの記したウガンダのイク族の極限的な 羽己性と、マーガレット・ミート ・の報告したアラベシ、族の温和な利他主義がその両極であるーーを説
が父親と話しをする場合のように互いに話しができたはずだ。しかし、チョーサーと現代英国人との間 で会話を交すのは不可能に違いない。言語は、非遺伝的な手段によって「進化」するように思われ、し かも、その速度は、遺伝的進化より格段に速いのである。 文化的伝達は何も人間たけに見られるのではない。人間以外の動物に関するものとして、私が知って いる一番よい例は、ニュ ジーランド沖の島に住むセアカホオダレムクドリという鳥のさえずりに見ら れる例で、ごく最近、・・ジ = ンキンスによって記録されている。彼の研究した島では、全部で約 九つの異なるさえずり方がみられた。それそれの雄は、これらのさえずりのうちの一つあるいは数種し か歌わない。。 シ = ンキンスは、雄たちを方言のグルー。フに分けることができた。たとえば、隣接したテ リ′—Z—リノ 1 ー をもっ八羽の雄からなるあるグルー。フは、 oo ソングと名づけられた特定のさえずりを行なっ た。他の方一言グルー。フはそれそれ別のさえずりを示した。同じ方言グループに所属する個体が二つ以上 の別のさえずり方を共有するような例もあったという。ジ = ンキンスは、父親と息子のさえずり方を比 較することによって、さえずりの。 ( ターンが遺伝的に親から子へ伝わるのではないことを明らかにした。 個々の若雄は、近所にテリトリーをもっ他個体のさえずりを、人間の言語の場合と同様に模倣という手 段によって自分のものにするらしいのである。ジ = ンキンスの滞在期間中、島で聞かれるさえずりの数 はほ・ほ決まっていた。それらが、いわば「さえずり。フール」を形成し、若雄たちはそこから少数のさえ ずり方を自分のものにしていたのである。しかし、ジ = ンキンスは、若雄が古いさえずり方を模倣しそ こねて、新しいさえずりを「発明」する現場に居合せる幸運に、何度かめぐまれた。彼は次のように述 べている。「新しいさえずりは、鳴き声の高さの変化、同じ鳴き声の追加、鳴き声の脱落、あるいは他
はまったく逆の結果になるはずだ。僧侶がミームの生存機械であるとすれば、独身主義というのは彼に 組み込まれれば役に立っ属性である。独身主義は、多数の互助的な宗教的ミームの作り上げる巨大な複 合体の、小さな。ハ ートナーなのである。 私は、相互適応した遺伝子群の複合体の進化と同様な方式で、相互適応したミームの複合体が進化す ムに亠婀利に働 , こ ると推測している。淘汰は、自己の利益のために文化的環境を利用するようなミ ム・。フール の文化的環境は、同様に淘汰を受けているミームたちで構成されている。したがって、 ームはなかなか侵入できなくなるだ は進化的に安定なセットとしての特性を示すようになり、新しい ろう。 すこし、 ームの暗い面ばかり話してきたようだ。しかし、 ムには明るい面もあるのである。わ れわれが死後に残せるものが二つある。遺伝子とミームた。われわれは、遺伝子を伝えるために作られ た遺伝子機械である。しかし、遣伝子機械としてのわれわれは、三世代もたてば忘れ去られてしまうだ ろう。子供や、あるいは孫も、われわれとどこか似た点をもってはいよう。たとえば顔の造作が似てい るかもしれない、音楽の才能が似ているかもしれない、あるいは髪の毛の色が似ているかもしれない。 しかし、世代が一つ進むごとに、われわれの遺伝子の寄与は半減してゆくのた。その寄与率は遠からず 無視しうる値になってしまう。われわれの遣伝子自体は不死身かもしれないが、特定の個人を形成する 遺伝子の集まりは崩れ去る運命にあるのだ。エリザベス二世は、ウィリアム一世の直系の子孫である。 しかし彼女がいにしえの大王の遺伝子を一つももち合わせていない可能性は大いにあるのである。繁殖 という過程の中に不死を求めるべきではないのである。 318
私はこれまで人間についてははっきりとはふれてこなかった。しかし、本章にとりあげたような進化 論的な議論を進める場合、私たちの属する人間という種や、私たちの個人的経験について省察を加えず にすむはずはない。男性が将来にわたって誠実さを守ることを何らかの形で証明しないうちは、女性は 純潔を守るべきだという意見は常識的な感情に訴えるだろう。これは、人間の女性が、たくましい雄を 選ぶ戦略ではなく、家庭第一の雄を選ぶ戦略のほうを採用していることを示唆しているのかもしれない。 事実、ほとんどの人間社会は、一夫一妻制をとっている。私たちの属する社会でも、両親の保護投資は いずれもかなり大きく、男女間に明白な不均衡があるようにはみえない。たしかに母親は、子供を直接 相手にする仕事を父親以上におこなっている。しかし父親も子供に与える物質的資源を手に入れるため に、間接的な形で一生懸命働くのが普通である。しかし、一方では、乱婚的な社会もあるし、 ( レム制 に基づいたような社会も多い。この驚くべき多様性は、人間の生活様式が、遣伝子ではなくむしろ文化 によって大幅に決定されていることを示唆している。しかし、それでもなお、人間の男性には一般的に 乱婚的傾向があり、女性には一夫一妻制的な傾向があるという、進化論的立場に基づいた予想が当って いる可能性はある。特定の社会において、この二つの傾向のいずれが他を圧倒するかは、文化的状況の 細部に依存して決められる。これは、各種の動物においてそれが生態学的詳細に依存して決まるのと同 じことである。 私たちが所属している社会の様相のうち、一つ決定的に破格なのは、両性の宣伝行為に関する事態で ある。すでに述べたように、性差が存在する場合には、進化論的な立場から次のようなことが強く予想 される。すなわち、自分を誇示するのは雄のほうであり、雌は地味な色彩を示すはずなのである。とこ
しかし、もしわれわれが世界の文化に何か寄与することができれば、たとえば立派な意見を作り出し たり、音楽を作曲したり、発火式プラグを発明したり、詩を書いたりすれば、それらは、われわれの遺 伝子が共通の遺伝子プールの中に解消し去 0 たのちも、長く、変わらずに生き続けるかもしれない。 ・ 0 ・ウィリアムズが指摘したように、ソクラテスの遺伝子のうち今日の世界に生き残っているものが はたして一つか二つあるのかどうかわからない。しかしだれがそんなことを気にかけるだろうか。 ーム複合体はいまだ健在ではないか。 ラテス、ダ・ヴィンチ、コペルニクス、マルコ ムの理論がいかに思弁的であったとしても、ここでもう一度強調しておきたい重要 私の展開した な論点が一つある。文化的特性の進化や生存価を問題にする時には、だれの生存を問題にしているかを はっきりさせておかねばならないということである。すでに見たように、生物学者たちは遣伝子のレベ ルでの有利さを探求することに慣れてしまっている ( 好みによっては、個体、集団あるいは種のレベル 一で有利さを探求したがる人々もいるが ) 。そこで、単にそれ自身にと 0 て有利だというだけの理由で文 製化的な特性が進化しうる、そんな進化の様式がありうるなどとは、われわれはこれまで考えてもみなか ったのである。 自 の しかしそれらに関し 宗教、音楽、祭礼の踊りなどには、生物学的な生存価もあるのかもしれないが、 新て、必すしも通常の生物学的生存価を探す必要はないのである。遺伝子が、その生存機械に、ひとたび、 ームたちが必然的に勢いを得る。模倣に遺伝的有利さ ム速やかな模倣能力をもっ脳を与えてしまうと、 があれば確かに手助けにはなるが、そんな有利さの存在を仮定する必要すらないのである。唯一必要な 9 ことは、脳に模倣の能力がなければならないということだけである。これさえ満たされれば、その能力
これまで、人間について特別に多言を費してはこなかった。しかし、わざと人間を除外していたわけ ではない。私が、「生存機械」という言葉を使ってきた理由も、「動物」といったのでは植物が除外さ れてしまうし、それどころか一部の人々の頭の中では人間さえも除外されてしまうからであった。私の 展開してきた議論は、一応は、進化のあらゆる産物に当てはまるはずなのである。もし何らかの種を例 外として除外しようというなら、妥当な特別な根拠がなければならないのだ。われわれの属する人間と いう種を特異な存在とみなす妥当な根拠はあるのだろうか。私は、そのような根拠は確かに存在すると 信じている。 人間をめぐる特異性は、「文化」という一つの言葉にほぼ要約できる。もちろん、私は、この言葉を 通俗的な意味でではなく、科学者が用いる際の意味で使用しているのだ。基本的には保守的でありなが ら、ある種の進化を生じうる点で、文化的伝達は遺伝的伝達と類似している。ジェフリー・ + 四世の人物でカ , メ・ー物齬 ) は、連綿と続く約二〇世代ほどの英国人を仲立ちとして、現代英国人と結び つきをもっている。仲立ちとなっているそれそれの世代の人々は、ごく身近な世代の人々となら、息子 ミームーー新登場の自己複製子
ーカーとの共同研究で、ゲームの理論とよばれる数 要であった。彼は、・・プライスと・・ 学の一分野を利用した。彼らのみごとな理論は、数学記号をつかわずにことばで表現することができる。 ただし厳密さの点でいくぶん犠牲を払わねばならないが。 メイナード“スミスが提唱している重要な概念は、進化的に安定な戦略 (evolutlonarily stable ハミルトンと・・マッカーサーの着想で strategy) とよばれるもので、もとをたどれば・・ ある。「戦略」というのは、あらかじめプログラムされている行動方針である。戦略の一例をあげよう。 「相手を攻撃しろ、彼が逃げたら追いかけろ、応酬してきたら逃げるのだ / 」理解してもらいたいの は、この戦略を個体が意識的にもちいていると考えているのではないということである。われわれは動 物を、筋肉の制御についてあらかじめプログラムされたコンビ = ーターをもっロポット生存機械だ、と 考えてきたことを思いだしてほしい。この戦略を一組の単純な命令としてことばであらわすことは、こ れについて考えていくうえでは便利な方法である。あるはっきりわからぬメカニズムによって、動物は あたかもこれらの命令にしたがっているかのようにふるまうのだ。 進化的に安定な戦略すなわちは、個体群の大部分のメン・ハーがそれを採用すると、べつの代替 戦略によってとってかわられることのない戦略だと定義できる。それは微妙でかつ重要な概念である。 別のいいかたをすれば、個体にとって最善の戦略は、個体群の大部分がおこなっていることによってき まるということになる。個体群の残りの部分は、それそれ自分の成功を最大にしようとしている個体で 。しったん進化したらどんな異常個体によっても改善できない 成り立っているので、のこっていくのよ、、 ような戦略だけである。環境になにか大きな変化がおこると、短いながら、進化的に不安定な期間が生
こコビーしたがゆえに複製なのではなく、すべてが同じ印刷版をコビーしたがゆえに複製なのである。そ おたがいを れらは、ある本がほかの本の祖先であるという形での、一連の系列の複製ではない。もし、一冊のある頁をゼロッ 3 クスし、それをまたゼロックスし、それをまたゼックスするということをつづけていくのなら、コ。ヒーの系列が 存在することになるだろう。この頁の系列においては、じっさいに祖先 / 子孫の関係が存在することになるだろう。 この系列のどんなところにできた新しい汚れも、その子孫たちと共有されるが、祖先には共有されないだろう。こ の類いの祖先 / 子孫の系列は進化する潜在的可能性をもっている。 表面的には、ナナフシの体の継続する世代は一系列の複製をなすように思える。しかし、もしあなたがこの系列 の一員に実験的に変化をくわえた場合 ( たとえば、肢を一本とる ) 、この変化はこの系列を伝わっていかない れと対照的に、もしあなたが実験的にゲノムの一員に変化をくわえた場合 ( たとえば、 * 線によって ) 、その変化 はこの系列を伝わっていくであろう。これは、減数分裂の断片化効果よりもむしろ、生物体が「淘汰の単位」では ない、つまり真の複製子ではないということの、基本的な理由である。これこそ、遺伝の「ラマルク」説が誤りで あるという、普遍的に認められている事実のもっとも重要な帰結のひとつである。 本文〃頁「。ヒータ ー・メダワー卿の提唱するもう一つの説は、 この老化の理論を・ 0 ・ウィリアムズよりもむしろ、・・メダワーに帰したことについて私は非難を受け てきた ( もちろん、ウィリアムス自身によってでも、あるいは彼の知り合いからでさえなかった ) 。多くの生物学 者、ことにアメリカの生物学者は、この理論が主としてウィリアムズの一九五七年の論文「多面発現、自然淘汰、 老衰の進化」を通じて知っている。ウィリアムズがこの理論をメダワーの扱いよりはるかに洗練されたものに仕上 げたのもまた事実である。にもかかわらず、私自身の判断は、メダワーが、一九五二年の『生物学における未解決 の問題』と、一九五七年の『個体の特異性』において、基本的な核心を述べているというものである。ぜひ付け加