266 の葉を配置するのは重要である。森林の木があのように高く成長する理由はこれである。森のなかに 生えていない高い木は場違いであり、おそらくは人間の干渉のせいである。周辺で生えている木が自 分だけだったとしたら、高く成長することはまったくの浪費である。草のように横に枝を広げたほう が、はるかによい。なぜなら成長するための努力の一単位あたり、はるかに多くの光子を捕捉できる からである。森林があれほど暗いのも偶然ではない。地面にまで到達した光子は、頭上の葉が捉え損 なったわずかな量でしかないことを表しているのである ハエジゴクのような少数の例外を除いて、植物は動かない。カイメンのような少数の例外を除いて、 動物は動く。この違いはなぜなのか。それは、植物は光子を食べ、動物は ( 究極的には ) 植物を食べ るという事実に関係しているにちがいない。当然のことながら「究極的」というのを人れる必要があ るのは、植物が、他の動物を食べる動物を介して、二次的、三次的に食べられることがあるからであ る。しかし、光子を食べるのに、地面に根を張ってじっとしているというのはどこが名案なのだろう か。植物になるのではなく、植物を食べるのに、動くというのはどこが名案なのだろう。そこで私は、 植物がじっとしているとすれば、動物は植物を食べるために動き回らなければならないと仮定する。 しかし植物はなぜじっとしているのだろう。ひょっとしたら、上から栄養分を吸収するために根を張 る必要があることと何か関係があるのかもしれない。動きたいときの最善の形状 ( 固くてまとまって いる ) と、多数の光子に身をさらしたいときの最善の形状 ( 広い表面積、したがって四方に広がり、 形がまとまらない ) とのあいだには、橋を渡すことができないほど大きな断絶があるのかもしれない 理由はどうあろうと、地球上で進化してきた三つの主要な生物グループのうちの二つ、植物と菌類が もつばら、ほとんど石像のようにじっとしているのに対して、第三のグループである動物が、ちょこ ちょこと動き回り、積極的に立ち回ることのほとんどをやっている。植物は、動物を自分たちのため
9 / ランテヴ - 26 旧ロ動物 だりするもっと典型的な蠕虫型の動物が必要なのだ。そういう動物にとって、前後、左右、背腹は 明確な意味をもっている。そこでタマシキゴカイのごく近い親戚、ゴカイ類 ( こがその役割を 引き継ぐことになる。一八八四年の釣り人向けのある雑誌記事は、「使われる餌はゴカイと呼ばれる あの湿った種類のムカデである」と書いていた。もちろん、それはムカデ類ではなく、多毛類である。 それは海中にすみ、通常は海底を這っているが、必要なときには泳ぐことができる。 ゴカイの物語 一カ所にじっとして腕を波打たせたり、水を吸い込んだりするのではなく、地点から地点に移 るという意味で動く動物は、おそらく特殊化した先端を必要とするだろう。名前があったほうがよい と思うので、それを頭と呼ぶことにしよう。頭は珍しいものに最初にぶちあたる。最初に出会う末端 で食物を取り込むことは理にかなっているし、そこに感覚器官 ( おそらく眼、ある種の触覚器官、味 覚・嗅覚器官 ) を集中させることもそうである。次には、神経組織が最も集中した部位 ( 脳 ) を感覚 器官の近く、および摂食器官のある先端の活動部位の近くにもってくるのが最善であった。そこで私 たちは頭を、運動の先頭にたち、ロ、主要な感覚器官、そしてもしあれば脳を備えた末端と定義する ことができる。もう一つの名案は、老廃物を、体の後端近くのどこか、たった今、通過したばかりの ものをふたたび飲み込むのを避けるために、ロから遠く離れたところで排出することである。ついで ながら、こういったことすべては、蠕虫型の動物を考えるときにはつじつまが合うが、ヒトデのよう な放射相称の動物には、この論拠が明らかに適用できないことを明記しておかなければならない。ヒ トデやその仲間がこの論拠からはずれる理由が私には心底から謎であり、それこそが、彼らを「火星 ぜんちゅう
てしまっていた。細菌にうまく感染することはできないが、試験管を感染させることにかけてはす ばらしかった。何が起こったかは明らかだった。 c<Z< に自然な突然変異がこの系列を通じて生じ、 生き残った変異体は、寄生されるのを待っ細菌がいる自然界とは違って、試験管の世界で生き残る のにより適したものであった。主要な違いはおそらく、野生型のウイルスが細菌の寄生体として生 き延びるために必要なコート、爆弾、その他の有効な装備づくりに必要な四種類のタンパク質のた めにあてられる指示暗号のすべてを、試験管の世界のでは、なしですますことができるとい うことだろう。残されたものは、レプリカーゼと原素材に満たされた羽布団にくるまれたよう な試験管の世界で自己複製するのに必要な、むきだしの最小限の情報だけである。 野生型の祖先の一〇分の一以下の大きさでしかない、 このむきだしの最小限の情報しかもたない 生き残りは、スピーゲルマンの怪物と呼ばれている。この流線型の変異体は、小さいために、競争 相手よりも迅速に繁殖し、したがって自然淘汰は、集団内におけるこの型の代表者の数を徐々に増 やしていく ( そして、ついでながら、いかなる種類のウイルスあるいは生物個体でもない、自由に 浮遊する分子について語っているのではあるが、集団Ⅱ popu 一 a ( 一 on というのはまさに適切な言葉 である ) 。 驚くべきことに、この実験をもう一度繰り返したとき、ほとんど同じスピーゲルマンの怪物がふ たたび進化してきたのである。そのうえさらに、スピーゲルマンと、生命の起源に関する研究にお ける代表的人物の一人であるレスリー ・オーゲルは、この溶液に臭化エチジウムのような有害な物 質を添加するという、さらなる実験を行った。こうした条件のもとでは、臭化エチジウムに抵抗性 2 をもつ、異なった怪物が進化してくる。異なった化学的障害は、」 の方向に特殊化した怪物に向か ン カ って進化を助長するということを引き起こすのである。 ペータ
であると考えられていた。真相ははるかに驚くべきものである。細菌の鞭毛は、細胞膜を貫通する物な会る小はら 生す出な微毛か 核、で異う鞭質 穴のなかで自由にしかも無限に回転を続ける車軸に取り付けられている。これは本物の車軸であり、真毛〉くいの汐 て鞭語たと菌ハ 自由に回転するハプである。それは筋肉と同じ生化学的原理を用いる小さな分子モーターによって駆いの物っ 2 細ン おのま + 、タる ワーストローク に力は 9 てうあ 動されている。しかし筋肉は復動機関で、いったん収縮した後、新たな爆発行程のために、ふたたび 造動リとるついで し違と管 伸びなければならない。細菌のモーターは、一種の分子タービンとして、同じ方向に回転し続けるのは 原ソ毛おはンの 毛まク動にとリ空 鞭ミ波物置工中 である。 生配ジた 菌あちた核のラき 非常に小さな生き物だけが車輪を進化させたという事実は、大きな生き物が車輪を進化させなかっ 細 ( わっ真管フで た、最も説得力のある理由であったかもしれないことを示唆している。それはどちらかと言えば月並 みな、実践上の理由であるが、にもかかわらず重要である。大きな生き物は大きな車輪を必要とし、 それは人間がつくった車輪とは違って、死んだ材料から別につくってから取り付けるのではなく、そ の場に生育してこなければならないだろう。大きな生きている器官がその場に生育してくるためには、 血管あるいはそれに相当するもの、およびおそらくは神経に相当するものも必要である。自由に回転 する器官に血管 ( 神経は言うまでもなく ) をこんがらがることなしに供給するという難間は、あまり にも自明すぎて、くわしく説明する必要もないだろう。解決策はあるかもしれないが、それが見つか らなかったとしても驚く必要はないだろう。 人間の技術者たちは、車軸の中心を通って血液を運ぶ同心円上の管を、車輪の中心に走らせること 菌 を提案するかもしれない。しかし、進化的な中間段階はいったいどんな姿になるのだろう。進化的な 9 改良は山登りのようなものである。崖下から一跳びで頂上まで登ることはできない。技術者にとって、 3 突然の性急な変化は選択肢の一つであるが、自然界においては、進化的な山の頂上へは、出発点から ランプ 「フ漸進的な斜路を通じてのみ到達することができる。車輪は、技術者の解決策を目の前に見ることがで シャフト * 1
は、少なくとも文字を読める程度には教育された脳をもった愚か者の十分な供給を必要とする。最 初の自己複製子、生命の火花を飛ばした自己複製子について特別なのは、それがいかなる進化した 装置、設計された装置、教育された装置といった手近な供給源ももっていなかったということであ る。最初の自己複製子は、新規に、初めから先例なしに、ふつうの化学法則以外の何の助けもなし に機能したのである。 化学反応にとって強力な助つ人になりうるのは触媒である。そして、まちがいなく何らかの形の 触媒が、自己複製子に含まれていた。触媒とは、それ自体が消費されることなしに、ある化学反応 の速度を速める物質である。すべての生物学的化学反応は触媒反応からなっており、その触媒はふ つう、酵素と呼ばれる大きなタンパク質分子である。典型的な酵素は、その立体構造に特定の形を した穴をもち、ここが一つの化学反応の複数の重要成分が入る場所になっている。その成分どうし を互いに結束させ、一時的な化学的連携に人らせ、自由な拡散では見つけだすことができないよう な相手と、正確な照準で仲をとりもつのである。 触媒はその定義からして、それが後押しする化学反応において消費されることがなく、つくりだ されることさえある。自己触媒的な反応は、その触媒自身をつくりだす反応である。想像できるよ うに、自己触媒的反応はなかなかスタートしないが、いったんスタートすると、自力で飛び立っこ とができる。まったく、野火と同じように。なぜなら、火は自己触媒的な性質のいくつかをもって いるからである。火は厳密には触媒ではないが、自己生成的である。化学的には、それは熱を発生 いきち する酸化過程であり、スタートの閾値まで押し上げるのに熱を必要とする。いったんスタートする べ と、それは一種の連鎖反応として持続し、広がっていく。なぜなら、それはそれ自身をスタートさ タ がせるのに必要な熱をつくりだすからである。もう一つの有名な連鎖反応は核爆発で、この場合には 9 4
139 ランテヴー 26 旧ロ動物 細胞は化学物質を分泌し、それは外に向かって拡散していき、他の細胞、かなり遠く離れたところに いる細胞にさえ影響を与えることがある。時には特定の細胞が選択的に死に、まるで彫刻家が作業を ありづか しているかのように、一部を取り除くことによって形を彫りだしていく。シロアリたちが共同で蟻塚 をつくるように、細胞は、接触している近傍の細胞との関係によって、そして、化学物質の濃度勾配 に反応して、どうするべきかを知るのである。胚のなかのすべての細胞は同じ遺伝子をもっており、 ある細胞の振る舞いを、他の細胞の振る舞いから区別するものがその遺伝子であるというのはありえ ない。細胞を区別させているのは、どの遺伝子にスイッチが人っているかであり、それは通常、細胞 が含む遺伝子産物 ( タンパク質 ) に反映される。 非常に初期の胚では、細胞は自分が二つの主要な軸のどちら側、つまり前か後ろか ( 前側か後側か ) 、 上か下か ( 背側か腹側か ) のどちら側にいるかを「知る」必要がある。「知る」というのは何を意味 するのだろう。最初それは、細胞の振る舞いが、二つの軸のそれぞれにおける化学物質の勾配に沿っ た位置によって決定されるということを意味する。そのような勾配は必然的に卵そのものからスター トするので、したがって、その卵の核の遺伝子そのものではなく、母親の遺伝子の支配のもとにある。 たとえば、ショウジョウバエの母親の遺伝子型にビコイドと呼ばれる遺伝子があり、これは卵をつく る「哺育」細胞のなかで発現する。ビコイドによってつくられるタンパク質は卵のなかに送りだされ、 卵の一端で最も密度が濃く、反対の端に向かうに従って薄くなる。その結果としてできる濃度勾配 ( およびそれに類似のもの ) が体の前後軸の印となる。それに直交する軸での同じようなメカニズム が背腹軸の印となる。 こうした印つけの濃度は、 2""¯ リカリき続き分裂していくにつれて生産される細胞実質のなかに持続す る。最初の数回の分裂は新しい物質を何も付け加えることなしに起こり、細胞分裂は不完全である。
っ と想像してみてほしい。科学的破壊と言うべき非常識な行為であるが、そのような水槽は、生きた 細胞の状態とかなりよく似ている。何千もの潜在的化学反応の可能性をもっ何百もの成分が、反応膜 0 のし させる必要があるまで別々の瓶に保存されているのではない。そうではなく、すべてが同じ共通の 多 空間で、つねに混ざり合っているのである。しかし、それでもそれらは、反応が必要になるまであ んを ヴァーチャル ろ況 ち状 たかも仮想の瓶に人れられているかのごとく、おおむね無反応のままじっとしている。仮想の瓶な もが 、れ ど存在しないが、ロポット仲介人、あるいはロポット実験助手と呼ぶことさえできるかもしれない しそ が、そのようなはたらきをする酵素が存在するのである。酵素は、ちょうどラジオのチューナーが たて 特定の無線受信機に、騒々しい搬送周波数をもって一斉にそのアンテナを爆撃する他の無数の信号 を無視させ、特定の送信とのみ接続させるのと同じようにして選別するのである。 成分 < と成分を化合させて産物 N を生じさせる重要な化学反応があると仮定してみてほしい。 化学研究室では、一つの棚からというラベルのついた瓶を取りだし、別の棚からというラベル かくはん のついた瓶を取りだし、きれいなフラスコのなかでその中身を混ぜ合わせ、加熱あるいは攪拌とい った他の必要な条件を与えることによって、それを達成する。私たちは、棚から二つの瓶だけを取 りだすことによって、特別な反応を達成する。生きた細胞のなかでは、多数の < 分子と多数の分 子が、水中にただようきわめて多様な分子たちのあいだに存在し、出会うことがあったとしても、 結合することはめったにない。いずれにせよ、他の可能性のある数千もの組み合わせに出会うこと はまずないだろう。さてここで、 < 十Ⅱ N という反応を触媒するために特別につくられた abz ア ーゼと呼ぶ酵素を導人することにしよう。細胞内には数百万という abz アーゼ分子が存在し、その べ 一つ一つがロポット実験助手としてはたらいている。 abz アーゼ実験助手の一人一人は、一つの < タ か分子を、棚からではなく細胞内に自由にただよっているものからっかまえる。それから、近くにた
354 ーリンとホールデン以前には、生命の起源について推論する人間は、最初の生物体は何らか らんそう の種類の植物、ひょっとしたら藍藻であったにちがいないと考えてきた。人々は、生命が光合成、 太陽の光によって駆動され、酸素の放出をともなう有機化合物製造工程に依存しているという考え ーリンとホールデンは、その還元的な大気によって、植物が遅れて舞台 に慣れ親しんでいた。オパ に登場したものとみなした。初期の生命は、前もって存在した有機化合物の海のなかに生じた。そ こには食べるべきスープがあり、光合成の必要はなかった。少なくともスープが食べ尽くされるま では。 ノーリンにとって、決定的な一歩は最初の細胞の起源だった。そしてたしかに、細胞は、生物 個体と同じように、自然にはけっして生じることがなく、つねに他の細胞から生じるという重要な 性質をもっている。最初の「遺伝子」 ( 自己複製子 ) よりもむしろ最初の「細胞」 ( 代謝体 ) を生命 の起源の同義語とみなすのは無理もないことで、私もそうしただろう。同じ傾向をもつ、より現代 的な理論家たちのなかでも、有名な理論物理学者であるフリーマン・ダイソンはそのことに気づい オーゲル、ドイツのマンフレ ていて、それを擁護した。しかし、カリフォルニア大学のレスリー・ ッド・アイゲンとその仲間たち、およびスコットランドのグレアム・ケアンズⅡスミス ( 一匹狼の 異端者はもっといるが、もちろん無視してよいというわけではない ) を含めて、現代の理論家の大 多数は、歴史的な順序と中心的な役割の両面から、自己複製に優先権を与えており、私の意見では、 それは正しいことである。 細胞をもたない遺伝というのはどんな姿をしているのだろう。これは、ニワトリが先か卵が先か という間題を論じているのではないだろうか。遺伝がを必要とすることを認めるなら、たし かにそうだろう。なぜならは、に暗号化された情報によってのみつくることができる
2 / 2 で「大きな」というのは一〇〇万分の一グラム ! より重いものすべてを意味する ) 、三本目は、大き な温血動物 ( 哺乳類および鳥類 ) についてのものである。三本の線のすべては同じ勾配 ( ) をも つが、高さが異なる。何も驚くにあたらないのであって、温血動物は冷血動物よりも体の大きさに比 して、高い代謝速度をもっているからである。 物理学者ジェフリー・ウエストと、二人の生物学者ジェームズ・プラウンとプライアン・エンクイ ストによってなしとげられた、みごとな共同作業の成果が世に出るまで、長いあいだ、クレイバーの 法則の本当に納得できるような理由を誰も考えっかなかった。彼らによるびったりという法則の 導き出しは、言葉に翻訳するのがむずかしい数学的マジックである。しかし、それはあまりにも巧妙 であり、しかも重要なので、努力してみるだけの価値はある。 ウエスト、エンクイスト、プラウンの理論は以後と略記するが、これは大きな生物体の組織 は、供給問題を抱えているという事実から出発する。それこそ、動物における血管系、植物における 維管束系がしていること、つまり組織に「資材」を送り、もってかえることである。小さな生物体は 同じ規模の間題に直面することはない。非常に小さな生物は、その実体に比べて非常に大きな表面積 をもっているので、体壁から必要な酸素をすべて得ることができる。たとえ多細胞であっても、外側 の体壁から大きく離れている細胞は、一つとしてない。しかし大きな生物体は、ほとんどの細胞が必 要とするものの供給源から遠く離れているがゆえに、輸送間題を抱えているのである。彼らはある場 所から別の場所へ資材を送る必要がある。昆虫は気管と呼ばれる枝分かれした管のネットワークで、 文字通り空気を組織に送り込む。私たちもまた枝分かれした気管をもっているが、それは専用の特別 な器官である肺に限定され、肺にはそれに応じて、豊かに枝分かれした血管系があり、肺から受けと えら った酸素を体の他の部分に運ぶ。魚類は同じようなことを鰓、すなわち、水と血液の接触面を増やす
4 こかおで由 かの利益がないのだろうか。それは進化の作用の仕方ではないが、きちんとした言葉で言い換えるこ 起かがが理 をのれ類た とはできる。眼をつくることに ( 実際には何をつくるのにも ) コストがかかる。完全な眼をつくりあ症トそラき 炎ス、グて 、コすモせ げるライバルの魚に対して、その資源を自分の家計の別の部分に振り向けた個体は、一定の有利さを りにれすさ * 8 もつだろう。もし洞窟にすむ動物が、眼の必要性に、それをつくるコストに見合うだけの十分な可能い斜も暮 染、かでを 性を見いだせなければ、眼は消失するだろう。自然淘汰がかかわっているかぎり、どんなわずかな有感はる中眼 にれな地り 利さでも意義がある。他の生物学者のなかには、経済性を評価しない人もいる。彼らにとっては、眼気すに、ぎ 病りのくかう はたもらるろ の発生におけるランダムな変異の累積を引き合いに出すだけで十分なのである。そのような変異は、 眼しるそきだ 一 8 結果として差を生じないために自然淘汰による罰則を受けないからである。眼が見えるようになるよ り、見えない状態にとどまる可能性のほうがはるかに高い。したがって、ランダムな変異は、純粋に 統計学的な理由によって、眼の退化に向かう傾向をもつのである。 そして、このことは、〈洞窟魚の物語〉の主要な論点へと導く。それは、進化は不可逆的であると するドロの法則の物語である。見かけ上進化的な傾向を逆転させ、過去の長い進化的な時間をかけて あれほど苦労して生じさせた眼をふたたび退縮させることによって、洞窟魚はドロの法則が誤りであ ると立証したのだろうか。いずれにせよ、進化が不可逆的であると予測すべき何らかの普遍的な理論 的理由があるのだろうか。この二つの疑間に対する答はいずれも否である。しかし、ドロの法則は正 確に理解される必要がある。そして、それがこの物語の目的である。 非常に短い期間を別にすれば、進化が厳密かっ正確な意味で逆戻りすることはありえないが、大切 なのは「厳密かっ正確な意味で」というところである。進化が、あらかじめ指定された特定の進化的 経路をたどるというのは、まずありえないことである。可能性のある経路があまりにもたくさんあり すぎる。正確な進化の逆戻りというのは、あらかじめ指定された特定の進化的経路という特別な事例