266 の葉を配置するのは重要である。森林の木があのように高く成長する理由はこれである。森のなかに 生えていない高い木は場違いであり、おそらくは人間の干渉のせいである。周辺で生えている木が自 分だけだったとしたら、高く成長することはまったくの浪費である。草のように横に枝を広げたほう が、はるかによい。なぜなら成長するための努力の一単位あたり、はるかに多くの光子を捕捉できる からである。森林があれほど暗いのも偶然ではない。地面にまで到達した光子は、頭上の葉が捉え損 なったわずかな量でしかないことを表しているのである ハエジゴクのような少数の例外を除いて、植物は動かない。カイメンのような少数の例外を除いて、 動物は動く。この違いはなぜなのか。それは、植物は光子を食べ、動物は ( 究極的には ) 植物を食べ るという事実に関係しているにちがいない。当然のことながら「究極的」というのを人れる必要があ るのは、植物が、他の動物を食べる動物を介して、二次的、三次的に食べられることがあるからであ る。しかし、光子を食べるのに、地面に根を張ってじっとしているというのはどこが名案なのだろう か。植物になるのではなく、植物を食べるのに、動くというのはどこが名案なのだろう。そこで私は、 植物がじっとしているとすれば、動物は植物を食べるために動き回らなければならないと仮定する。 しかし植物はなぜじっとしているのだろう。ひょっとしたら、上から栄養分を吸収するために根を張 る必要があることと何か関係があるのかもしれない。動きたいときの最善の形状 ( 固くてまとまって いる ) と、多数の光子に身をさらしたいときの最善の形状 ( 広い表面積、したがって四方に広がり、 形がまとまらない ) とのあいだには、橋を渡すことができないほど大きな断絶があるのかもしれない 理由はどうあろうと、地球上で進化してきた三つの主要な生物グループのうちの二つ、植物と菌類が もつばら、ほとんど石像のようにじっとしているのに対して、第三のグループである動物が、ちょこ ちょこと動き回り、積極的に立ち回ることのほとんどをやっている。植物は、動物を自分たちのため
仕向けることができれば、多少の益があるかもしれない。しかし、全体論的調和のレトリックは、あ る種のばかげた、チャールズ皇太子風の神秘主義に変質してしまいかねない。実際、神秘的な「自然 のバランス」という概念は、「エネルギー場のバランス」を取り戻すためにインチキ医者に通う人と 同じ種類の人々に人気がある。しかし、体の諸器官のはたらき方と、生物群集内の各種がそれぞれの 領分で、調和的な外見をつくりだすために総合作用し合うやり方のあいだには、 ) しちじるしい違いか ある。 この類似性は、細心の注意をもって扱わなければならない とはいえ、根拠をまったく欠いている わけではない。個々の生物体の内部、すなわち一つの種の遺伝子プールの遺伝子の共同体 ( 群集 ) の 内部にも、一つの生態学が存在する。生物個体の各器官のあいだに調和をつくりだす力は、サンゴ礁 の種のあいだに調和の幻想をつくりだす力とまったく異なるものではない。熱帯雨林にはバランスが あり、サンゴ礁群集には構造があり、動物の体の内部の共適応を思わせるようなみごとなかみ合わせ がある。どの場合にも、バランスのとれた単位が、一つの単位として、ダーウイン主義的な自然淘汰 によって選択されるわけではない。い ずれの場合も、 バランスは下位のレベルの淘汰を通して出現す るのである。自然淘汰は調和のとれた全体を選びだすわけではない。調和のとれた各部分は、互いの 存在によって栄えているのであり、調和的な全体という幻想はそこから出てくるのである。 肉食動物は草食動物の存在のもとで栄え、草食動物は植物の存在によって栄える。しかし、その逆 物 の方向についてはどうだろう。草食動物は肉食動物の存在のもとに栄えているのだろうか。動植物は、 栄えるために自分たちを食ってくれる敵を必要としているのだろうか。一部のエコロジー活動家たち ヴのレトリックがほのめかすほど単純明快な形では言えない いかなる生き物もふつうは、食べられる ン ことから利益を得ることはない。しかしライバルの植物よりも摘み取られることに耐えることができ
289 ランテヴー 36 植物 すべての生きた生物組織のなかに、大気中と同じ一兆分の一という割合で存在する。もちろん、稀に それは崩壊して窒素凵になる。しかしこの一定の比率は、食物連鎖の環を介して、つねに更新され続 ける二酸化炭素とのたえざる交換によって埋め合わされて維持される。 ところが死んだ瞬間にすべてはすっかり変わってしまう。死んだ捕食者は食物連鎖から切り離され る。死んだ植物はもはや、大気から新鮮な二酸化炭素の供給を受けることができない。死んだ草食獣 はもはや新鮮な植物を食べることができない。死んだ動植物の体内の炭素凵は窒素凵に崩壊し続ける が、大気からの新鮮な供給によって補充されることはない。そのため、死んだ組織中の炭素にに対す る炭素凵の比率は下がり始める。そしてそれは五七三〇年という半減期で降下していく。結局のとこ ろ、炭素にに対する炭素凵の比率を測ることで、その動物、または植物がいっ死んだかを言うことが できるのである。これこそ、トリノの聖骸布がイエスのものでないことを証明した方法である ( 中世 の年代のものであることが判明した ) 。炭素凵測定法は比較的最近の歴史遺物の年代決定にはすばら しい道具である。しかしより古い年代については役に立たない。なぜなら、ほとんどすべての炭素凵 が炭素にに崩壊してしまっており、残った量があまりにもわずかであるために正確な計測ができない からである。他にもいくつか絶対年代を決める方法があり、また新しい方法がつねに考案されている。 それだけ多くの方法があることの長所の一つは、それらが協力し合って膨大な範囲にわたる時間目盛 に対応できることである。さらにまた、互いを検証し合うことに使うこともできる。さまざまな方法 の共同作業による年代決定に異論を唱えるのは、ことのほかむずかしいと言える。
336 としても、基本的な化学的反応のレベルでは、生物の多様性の圧倒的大多数は微生物によるものであ り、そのうちのかなりの部分が細菌によるものであることに疑いの余地はない。生物多様性の物語は、 それがもつばら化学的な多様性であるかぎりでは、細菌によって語られるのが正しいのであり、それ がタクであってもまったくかまわないのである 伝統的には、それも無理からぬことだが、かってこの物語は大型動物、つまり私たちの視点から語 られていた。生物は動物界と植物界に分けられ、その違いはかなり明瞭であると思われた。菌類は、 よく知られているものの多くが特定の場所に根を下ろし、研究しようとしたときに歩き去ることがな いので、植物のうちに人れられた。一九世紀になるまで、私たちは細菌について何一つ知っていなか ったし、強力な顕微鏡を通して初めて細菌が見えたとき、人々はこれを世界像のどこに位置づけてよ いのかわからなかった。ある人はミニチュアの植物だと考え、別の人は、ミニチュアの動物だと考え らんそう た。さらにまた別の人々は、光を捉える細菌を ( 「藍藻」として ) 植物に人れ、残りは動物に人れた ほとんど同じことが「原生生物 (protist) 」 ( 細菌とは異なる単細胞真核生物で、細菌よりははるか に大きい ) でも行われた。緑色のものは原生植物、残りは原生動物とされた。原生動物のよく知られクムてよ物。 る一しに生 けチ遊析微し た例はアメーバで、かってはあらゆる生物の大祖先に近いものと考えられていた。これは、とんでも 続の浮分のて し彼にン O ない大まちがいで、なぜなら、細菌の「眼」を通して見ればヒトとほとんど区別がっかないからだ。 揮と辺ガ o 張 8 主 発一周ト こういったことはすべて、すべての生物が目に見える解剖学的特徴によって分類されていた時代のをタ海ツもた 才ンソョとし ことで、それで言えば、細菌は動物や植物に比べてはるかに多様性に乏しく、原始的な動物や植物とのエッシく見 機ヴガのな発 臨・ル < 少を 片づけられても、無理からぬことだった。分子が提供するはるかに豊かな情報を使って生物を分類しすクサ、種 なりわい えイ、るて新 たレはいつの 始め、微生物によってなされる幅広い化学的「生業」を検討し始めたとき、事態はまったく別のもの 4 となった。これから説明するのは、現在事態がどのように見られているかの概略である。
340 に比べて、より似通っているように見える。私たちのように巨大な動物にとって、ミミズを求めて地 中に穴を掘るというのは、一つの生活様式として、ユーカリの葉をかじるのとは非常に異なったこと のように見える。しかしこの物語の語り手である細菌の化学的な視点からすれば、モグラも、コアラ も、ライオンも、スイギュウもすべて、ほとんど同じことをやっている。すべては、植物が太陽から 捉えてきたエネルギーによって究極的に合成された複雑な分子を分解することからエネルギーを得て いる。コアラとスイギュウは直接に植物を食べ、ライオンとモグラは、 ( 究極的には ) 植物を食べる 他の動物を食べることによって、一段階隔てて太陽エネルギーを得ているのである。 外部の主たるエネルギー源は太陽である。太陽は、植物細胞内部の共生的な緑色細菌を通じて、私 たちが肉眼で見ることができるあらゆる生物にエネルギーを授けることができる唯一のものである そのエネルギーは緑色の太陽パネル ( 葉 ) によって捉えられ、糖やデンプンといった有機化合物の合 成という坂を上るのに使われる。その後、残りの生物は、エネルギーと結合した上り坂や下り坂の一 連の化学反応において、もともとは植物が太陽から捉えたエネルギーを動力とするのである。生命の 経済を通じて、太陽から植物、そして草食動物、肉食動物、腐肉食動物へと、エネルギーは流れてい く。この道筋のあらゆる段階で、生物間だけでなく、生物個体の内部においても、エネルギー経済の あらゆる取引は浪費である。不可避的に、その一部は熱として浪費され、けっして回収されない。太 陽からの巨大なエネルギーの流人がなければ、生命は、かって教科書に書かれていたように、ゆっく りと停止することになるだろう。 それは今でも大部分は正しい。しかしそうした教科書は細菌と古細菌のことを考慮に人れていなか った。もしあなたが十分に工夫の才に長けた化学者なら、この地球上で、それに代わる、太陽から出 発しないエネルギーの流れを考えつくことは可能である。そしてもし、何か有効な化学的方法を思い
236 カイメン ( 海綿 ) は後生動物、すなわち本物の多細胞動物のメンバーとして、最後に私たちに合流出 O う してくる巡礼団である。これまでカイメンはかならずしもつねに後生動物というおごそかな名前で呼 ばれずに、「側生動物 ( p a 、 oa ) 」 ( 動物王国における一種の第一一級国民であることを示す名前 ) とヴ元 して片づけられてきた。現在でも同じ階級差別が、カイメンを後生動物に含めはするが、カイメン類ンラ 以外の残りのすべてに対して真正後生動物 (Eumetazoa) という言葉をつくることによって助長さ忠 れている。 学セも のた物 時々、カイメンが植物ではなく動物であることを教わって、驚く人がいる。植物と同じように、彼部っ動 一会な らは動かない。何と、彼らは体のどこも動かさないのだ。植物もカイメンも筋肉をもたない。細胞レ ベルの運動はあるが、それなら植物でも同じことが言える。カイメンは体のなかをたえず水が流れて いくようにし、そこから食物の粒子をこし取ることによって生きている。その結果、彼らの体は穴だ らけで、水をよく吸収し、保つので、水浴の際に使うのに適している。 しかしモクョクカイメンは、典型的なカイメンの体制を示すものではない。典型的なカイメンは頂 部に大きな開口をもっ水差し形で、側面のあらゆるところに小さな穴が開いている。生きているカイ メンの外側の水中に色素をほんの少し落とせば、水が周囲の小さな穴から引き込まれ、内部の中空の ランテヴー カイメン類
268 魔ば外 に走り回らせることさえし、美しい色彩、形状、においをもっ花は、動物を操る道具となっているの とれうは 粉けろら である。 一化よ・一」彼 る と ここランデヴー地点で私たちが出会う巡礼者たちは、すべてが緑色というわけではない。 , 彼らの章こて のしたし Q も うちで最も根本的な区分けは、一方における紅藻と他方における緑色植物 ( 緑藻を含む ) である。一 曜でる / o あ そ語物 紅藻は海岸によく見られる。さまざまな種類の緑藻も同じだが、緑藻類は淡水域にも豊富に見られる。 るな植 登ての色ズ要 しかし、最もおなじみの海藻は褐藻類であるが、これはもっと類縁が遠く離れたもので、ランデヴー にす編灰必 トる 山で一の ンせ まで私たちと合流しない。現在のランデヴーで私たちが挨拶を交わす植物のなかで、最もなじみがの」の胞 能庭て細ィさ ウ動 深く、最も強い印象を与えるのは、陸上植物である。植物は動物よりも先に陸地を征服した。これは可のい単 叩、起 坏断っ ほとんど自明のことだ。なぜなら、餌となる植物なしに、動物がそこにいて何の利得があるというの著「でれ 2 な 自」こ要わでね だ。植物はおそらく、動物のように直接に海から陸へ移動したのではなく、淡水域を経て陸上に進出が弾、重思 私銃でりとアだ一 しのこまたいサ したのであろう。 も法こあ群猷 > ウ っ 0 4 例によって、私たちが巡礼者の大軍に出会うときには、彼らがすでに、私たちとのランデヴーより 「前に」互いに合流した複雑なサプグループの集まりとして行進していることを知るのである。緑色 植物の場合、私は、本書の執筆時にインターネットで利用できた、驚くほどよくできた「ディープ・ グリーン」と呼ばれるコンピューター・プログラムを強く推奨する。ディープ・グリーンを始動させ ると、根をもっ系統樹が現れてくる。その枝のいくつかは先端に名前がついており、それは植物名か あるいはそのグループの名前である。いくつかのものは名前がなく、「オフ・ザ・ページ」が指定さ れている。このプログラムが美しいところは、この系統樹をマウスでつかまえてドラッグし、きわめ て楽しい自然で啓発的なやり方で、系統樹をさらにくわしく見ることができる点にある。ドラッグす ると、目の前で小枝が芽生えてくるのを見ることができる。系統樹をぐるりと回すと、画面上に、数 * 2
152 きやすい ) 「ダイヴァージェント」という呼び方をされるより類縁の遠いさまざまなホメオポックス 遺伝子が存在する。これらは動物だけでなく、植物、菌類および「原生動物」にも見いだされる。 動物だけが真のホックス遺伝子をもち、つねに同じ種類のやり方で使われている。つまり、体がは つきりとした体節に分かれていようといまいと、体のなかの位置についての情報を指定する。ホック ゅうしつ ス遺伝子はまだ有櫛動物とカイメン類で発見されてはいないけれど、これは、ホックス遺伝子が存在 しないことを意味するものではない。すべての動物がもっていることが見つかっても驚くにあたらな いだろう。そうなれば、「動物」という言葉そのものの新しい定義を提案していた私の同僚たち、当 時全員がオックスフォード大学にいたジョナサン・スラック、ピーター・ホランド、クリストファ ・グレアムを勇気づけることになるだろう。これまで動物は、どちらかと言えない消極的なやり方 で、植物に対するものとして定義されてきた。スラック、ホランド、グレアムの三人は、すべての動 物を統合し、植物や原生動物のような非動物をすべて排除するという効果をもっ積極的で、特異的な 一つの規準を提案した。ホックスの物語は、動物が他のものから離れて一人だけで獲得し、維持して きたそれぞれ独自の体制をもつ、大幅に異なった関連のない雑多な門の寄せ集めではないことを示し ている。もし形態のことを忘れ、遺伝子だけに注目するならば、すべての動物は、一つの非常に特別 な主題の微細な変奏にすぎないことが浮かび上がってくる。そのような瞬間に動物学者であるという のは、何という喜びであろうか ワムシの物語 才気溢れる理論物理学者リチャード・ファインマンが、「もしあなたが量子論を理解していると思
264 ランデヴー地点は、私たちが生物界の本当の大御所、植物と出会う場所である。生命は、動物が いなくとも、菌類がいなくとも、やっていくことができる。しかし、植物が消滅すると、生命はたち まち終息してしまうだろう。植物は、ほとんどすべての食物連鎖において、その基部に、まさしく不 可欠な基礎として位置している。植物はこの地球上で最も目につく生き物であり、 いかなる火星人が 訪れても、最初に気づく生命体である。地球上にこれまで生息したことのある生物のなかで、ずば抜 パイオマス けて大きいのが植物であり、世界の生物体量の圧倒的なパーセントが植物体に閉じ込められている。 ーし十 / これはたまたまそうなったというだけのことではない。そのような高い比率は、ほとんどすべての生 た私き れ、と 物体量は、究極的には光合成を介して太陽からやってくるものであり、その大部分は緑色植物に含ま恐はた を由し れ、食物連鎖のあらゆるリンクで、わずか約一〇 % の効率でしかやりとりされないという事実から、と理着 この到 必然的に導かれるものなのだ。陸地の表面は植物のために緑色をしており、海の表面もまた、もしそれ表 T ろ まなリ・こ こに浮かぶ光合成生物の絨毯が、あまりにも小さすぎて目につくほどの量の緑色光を反射することが込的べる っ衛タな できない微生物ではなく、肉眼で見える植物であったならば、やはり緑色をしていただろう。まるでつ防ンに 、かカか のさがら 植物はあえて、地球の隅々まで、一平方センチメートルたりとも余白を残さずに、緑で覆い尽くそう こさち明 としているかのようである。そしてそれは、あるきわめて賢明な理由から、彼らが実際にしているこ ランテヴ 植物
2 ] 9 ランテヴー れる。また、世界の海生生物の三〇 % のすみかとなっているとも言われる が、これについて、正確なところ何を言っているのか私にはよくわからな いったい何を数えているのだろうと思うが、気にすることはない。グ レートバリアリーフは、まったく驚くべき構築物であり、それはサンゴ、 あるいはサンゴ虫と呼ばれる小さなイソギンチャクに似た動物だけでつく りあげたものなのである。生きているサンゴ虫は、サンゴ礁の表層部分に しかすんでいない。その下にあるのは、彼らの祖先の骨格が圧縮されて石 灰石となったもので、大洋の一部の環礁では深さ数百メートルにまで達す 今日では、サンゴだけが礁を築くが、地質学的時代の初期には、そのよ うな独占状態はなかった。礁はさまざまな時代に、藻類、カイメン、軟体 動物、およびハオリムシによってもっくられてきた。サンゴという生物そ のものの大成功は、サンゴ虫の細胞内にすみ、日の光が射し込む浅瀬で光 合成をして、最終的にサンゴに恩恵を与えている、顕微鏡的な大きさの藻 ズーキサンテラ 類との結びつきから生まれたものと思われる。褐虫藻と呼ばれるこの藻類 は、光を捉えるための多種類の色素をもっており、サンゴ礁の鮮やかな映 像的に美しい外観は、それのせいである。サンゴがかって植物だと考えら れていたのは、驚くに値しない。彼らはその食物の大部分を植物と同じゃり方で得ており、植物と同 じように光を求めて競合する。彼らが植物と同じような形状をとるというのは完全に予想できるとこ ろである。さらに、他のものより日のあたるところに位置し、日陰にならないようにしようとする彼 世グ