1 94 ガイガーカウンターと同じ原理によって予測可能であってほしいのだが、一般にこれはそのとおりな のである。 第二に、この時を刻む速度は、一つのゲノム内でも遺伝子によって異なる。このことは、遺伝学者 がそのものではなく、の産物であるタンパク質だけしか調べることができなかった頃に、 すでに気づかれていた。チトクロムは独自の固有の速度で進化し、それはヒストンよりは速いが、 グロビンよりは遅く、そのグロビンもフィブリノベプチドよりは遅い。同じようにして、ガイガーカ ウンターを、花崗岩の塊のような非常に微弱な放射性物質とラジウムの塊のように強力な放射性物質 のそばに置いたときの、カチ、カチという音の間隔のタイミングを予測することはつねに不可能だが カチ、カチ音の平均的な速度は、花崗岩からラジウムに移動していくときには、予測どおりに、劇的 に異なる。ヒストンは花崗岩に似て非常にゆっくりとカチ、カチ音を刻むが、フィブリノベプチドは ラジウムに似ていて、取り乱してデタラメに羽音をならすミッパチのようにプンプンとうなる。チト クロムのような他のタンパク質 ( あるいはむしろ、それらをつくる遺伝子 ) は中間型である。それ ぞれが独自の速度をもっ遺伝子時計のスペクトラムがあり、それぞれが異なった目的の年代決定、並 びに互いのクロスチェックのために有用である。 なぜ異なった遺伝子は異なった速度で進むのだろうか何が「花崗岩」遺伝子と「ラジウム」遺伝 子を区別しているのだろうか。中立的が有用でないことではなく、同等に有用なことを意味するとい う点を思いだしてほしい。 花崗岩遺伝子もラジウム遺伝子も、ともに有用なのである。ラジウム遺伝 子は、その全長に沿った多くの場所で変化を起こしうるが、それでもなお有用だということにすぎな いのである、遺伝子の作用の仕方ゆえに、その一部分は、その機能に影響を与えることなく無事に変 化することができる。同じ遺伝子の別の部分は突然変異の影響にきわめて敏感で、そうした部分に突
] 44 いことに ) 染色体上に同じ順序で並んでいるところに至るまで、同じことをやっているのが明らかに なっている。ここから先は哺乳類の物語に転じよう。それは、哺乳類の世界のショウジョウバエとも 一一一口える実験室のマウスで最も徹底的に研究されてきたのである。 ボディ・プラン 哺乳類も、昆虫と同じように、体節型の体制、あるいは少なくとも、背骨とそれに付随する構造 プラン に影響を与えるモジュール式の繰り返しの設計をもっている。各椎骨が一つの体節に対応すると考え ることができるが、それは首から尾に向かって周期的に繰り返される単なる骨ではない。そこにある 血管、神経、筋肉塊、軟骨性の椎間板はすべて、モジュール式の繰り返しパターンに従っているので プラン ある。ショウジョウバエと同じように、このモジュールは、同じ一般的な設計に従ってはいるが、細 部においては異なっている。そして、昆虫が頭部、胸部、腹部に分かれているように、椎骨も頸椎 ( 首 ) 、胸椎 ( 肋骨をもつ上部の背骨 ) 、腰椎 ( 肋骨をもたない下部の背骨 ) 、および尾椎 ( 尾 ) にグル ープ分けされる。ショウジョウバエの場合と同じように、細胞は、骨細胞であろうと、筋肉細胞であ ろうと、軟骨細胞であろうと、あるいは他の何かの細胞であろうとかかわりなく、自分がどの体節に いるかを知る必要がある。そして、ショウジョウバエの場合と同じように、ホックス遺伝子のおかげ で知っている ( これらのホックス遺伝子は、ショウジョウバエの特定のホックス遺伝子との対応が認 められる ) 。しかし、驚くにあたらないのだが、コンセスターからの時間の膨大な長さを考えると、 両者は同じというにはほど遠い。またしてもショウジョウバエと同じように、ホックス遺伝子は染色 体上に正しい順序で並んでいる。脊椎動物のモジュール性は、昆虫のモジュール性とは非常に異なっ ており、ランデヴーにおける共通の祖先が体節動物であったと考えるべき理由は存在しない かかわらず、ホックス遺伝子の証拠は、どんなに少なくとも、昆虫の体制と脊椎動物の体制に何らか の奥深い類似性があり、それがコンセスターにもあったことを示唆している。そして実際に、体節
められない これが種の定義としてふさわしい唯一のものであるかどうかについては議論の余地があ るかもしれないが、大部分の生物学者が使っている定義である。 けれども、この定義を人類に当てはめようとすると、交雑にあたっての自然条件と人工的条件とを どう区別するのかという、特異な困難がっきまとう。それは簡単に答えられるような間題ではない。 今では、現生のすべての人類はしつかりと同じ種に位置づけられており、実際に進んで交雑している。 しかし、彼らがそれを自然条件下でそうすることを選択しているかどうかという規準を思いだしてほ しい。人類にとって自然条件とは何なのか。そもそも存在するのか。もし、祖先の時代に、現代のい つかにおけるように、一一つの隣接する部族が異なる宗教、異なる言語、異なる食習慣、異なる文化的 伝統をもち、互いにたえず戦争していたとすれば、もし、それぞれの部族のメンバーは、相手の部族 は人間以下の「動物」だと信じるように育てられていれば ( 現在でも起こるように ) 、もし宗教が、 他の部族は「異端者」あるいは汚れた者であるから、そこから配偶者を得るのはタブーだと教え込ん でいれば、彼らのあいだで交雑はおそらく起こりえないだろう。しかし、解剖学的、遺伝学的には、 お互いにまったく同じなのである。そして、この交雑を妨げている障壁を打破するには、ほんのわず か宗教的習慣ないしその他の習慣を変えるだけでよいだろう。とすれば、誰かが人類にも雑種ができ るかど一つかという規準を適用すればど一つなるだろ一つ。もし、 C ミ 7 ミ ppus b ミミミと C. 三 g ミミ、が物 理的には可能であるにもかかわらず、交雑したがらないがゆえに、明確に異なる二種のバッタとして 物 動 区別されるのであれば、人類は、少なくとも部族が排他的であった大昔には、同じゃり方で、かって ロ は別種として区別できたのではないだろうか。 C ぎミミミ冫 b 、ミミミ冫と C. 三 g ミミ一のメンバーは、そ の歌を別にすれば、検出可能なあらゆる側面において同じであり、そして雑種をつくるように ( たや 「フすく ) 強制されると、その子供は完全な繁殖能力をもつのである。
242 たアメーバが自分と同じ種類のアメーノ ヾに出会うと合体し、 細胞の集合体をつくり、それがしだいに大きくなっていく。 最終的には、一連の論文でウイルソンらが示したように、そ のような集合体から丸ごとの新しいカイメンが成長してくる。 ウイルソンはまた二種の異なる種のカイメンをすりつぶし、 けんだく 二つの懸濁液を混ぜ合わせるということも試みた。この二種 は異なった色をしていて、何が起こったかを容易に観察する ことができた。細胞は自分と同じ種のものを選んで集合し、 別の種とは集合体をつくらなかった。奇妙なことに、ウイル ソンはこの結果を「失敗」として報告した。なぜなら彼は、二つの異なる種が混合したカイメンが形 成されることを期待していたからである。彼がそう期待した理由を私は理解できないが、ひょっとし たら、ほとんど一世紀前の動物学者の異なった理論的先人観を反映していたのかもしれない このような実験で示されたカイメンの細胞の「社交的な」振る舞いは、カイメン個体の正常な個体 発生について、ひょっとしたら光を投げかけるかもしれない。それはまた、単細胞の祖先 ( 原生動物 ) から最初の多細胞動物 ( 後生動物 ) がどのようにして進化したのかについて、何らかのヒントを与え てくれるのだろうか。後生動物の体は、しばしば細胞の群体と呼ばれる。進化的な出来事が現代に再 しくつかの物語を用いるという本書のパターンに歩調をそろえて、〈カイ 現された例を示すために、 ) メンの物語〉は、はるかな進化的過去について、何かを語ることができるのだろうか。ウイルソンの 実験における這い回り集合する細胞の振る舞いは、最初のカイメン ( 原生動物の群体として ) が生じ た過程のある種の再現なのだろうか。 社交的な細胞たち カイメンの体壁の一部。はっきりと えりペんもう した襟と鞭毛をもつ襟細胞がある。
役目をすることができ、の四つの文字と十分によく似ている。一方で、は簡単には長 い二重らせんを形成せず、そのことは、自己複製子として QZ< よりもいくらか劣ることを意味す る。この理由の一部分は、二重らせん方式がまちがいの校正に向いていることである。 Z < の二 重らせんが二本に分かれ、それぞれのらせんがただちに、それと相補的な鋳型としての役目をする とき、エラーがあればただちにつきとめられ、訂正される。それぞれの娘鎖はその「親」にまだく つついたままなので、両方を比較することによって即座にエラーを検出することができる。この原 理に基づく校正作業は、突然変異率を一〇億分の一の桁に減少させ、それによって私たちがもつよ うな大きなゲノムが可能になったのである。この種の校正能力を欠くは、 QZ< に比べて数 千倍も大きな突然変異率をもつ。このことは、一部のウイルスのような小さなゲノムをもっ単純な 生物だけが、を主要な自己複製子としてもつだろうということを意味する。 しかし二重らせん構造を欠くということには、悪いことだけでなくよい面もある。なぜなら、 の鎖はつねに相補的な鎖と対合することにすべてを捧げるのではなく、形成されるとすぐに、 相補的な関係から逃れて、タンパク質のように自由に自ら絡まり合うことができる。タンパク質が、 同じ鎖の上の異なった場所にあるアミノ酸と他のアミノ酸のあいだの化学的親和力のおかげでそう するのとまったく同じように、は、 ;ZZ< のコピーをつくるときに使うのと同じ、通常のワ トソンⅡクリックの塩基対合規則を使うことで、それをなしとげる。別の言い方をすると、 2Z< の二重らせんにおけるように対をなす相手の鎖をもたないは、自分自身の余った断片と自山 に「対合」することができるのである。 Z は、ミニチュア二重らせんあるいはその他の形状に ストレッチ 2 対合できる自分自身の小さな区画を見つける。対合規則は、そうした区画が逆向きに進行すること タ わを強く要求する。したがっての鎖には、自分自身と対合した結果、一連のヘアピン・カープ ′ 0
] 40 つまり、多数の核がつくられるが、それらは細胞の仕切りによって完全には隔てられていないのであ る。この多核「細胞」はシンシチウムと呼ばれている。後に仕切りができ、胚はちゃんとした多細胞 体になる。この過程すべてを通じて、先ほど言ったように、もとの化学物質は存続している。その結 果として、胚の異なった部分にある核は、最初の二軸の勾配に応じて、異なった濃度の鍵を握る化学 物質に浸されることになり、これが異なった細胞に異なった遺伝子のスイッチを人れさせることにな るだろう ( 当然のことながら、ここではもはや母親の遺伝子ではなく、胚自身の遺伝子のことを語っ ているのである ) 。これこそ、細胞分化の始まり方であり、この原理の投影が発生の後期段階におい てさらなる分化を導くのである。母親の遺伝子によって設定された最初の勾配が、胚自身の遺伝子に よってつくりあげられた新しく、より複雑な勾配に取って代わられることになる。その結果として胚 細胞系列に生じる枝分かれが再帰的に作用して、さらなる分化を生みだすのである。 節足動物には、細胞ではなく体節という規模の大きな体の区画がある。各体節は、頭の先端から腹 の先端まで一列に並んでいる。昆虫は頭部に六つの体節をもち、触角は第二体節にあり、その後ろに 虫はると翅し 大顎、さらに後ろに他のロ器が続く。成虫の各体節は小さな空間に圧縮されており、そのため並び方昆翅す類、に のの護ギに官 の前後関係はあまり明瞭ではないが、胚でははっきり見える。胸部の三つの体節 ( ↓はも部保ロう器 一をオよ音 っとはっきりと列をなしており、それぞれが一対の脚をもっている。と龜はふつう翅をもっているう飛て。見て よ . くるにせ が、ショウジョウバエやその他の双翅類はにのみ翅をもつ。上の二対目の「翅」は、平均棍と呼の硬いでさ 虫ョるてす形 甲カれし、変 ばれる小さな棒状の器官に変形しており、これを振動させると、ミニチュアのジャイロスコープのよ や翅ま彡はに 丿の変類ら うにはたらいて、飛翔中の平衡を保つ役目をする。化石昆虫のなかには、各体節に一つずつ、計三対プ物とにタさる キ、鞘造ツを の翅をもっていたものがいる。胸部体節の後方には多数の腹部体節がある ( 一部の昆虫では一一節、ゴは翅構パ鞘て ワ」 ショウジョウバエでは八節、この数は、体の後端の生殖器をどう認めるかによって変わる ) 。細胞は、 はね
132 ヾーよこれを私に語るときに、目を輝かせ、眉をびくびくさせるという、明らか うものだった。トイノ。 に冗談を言っているという徴候を見せていたので、この間題の真相がどうであったか私にはわからな しかし、私は何の苦もなくそれを信じることができるし、誰かを驚かせることになるともけっし て思わない 人類が ( 比較的 ) 最近になってアフリカから世界中に向けて離散したことによって、私たちに、稀 に見るほど多様な生息環境、気候、および生活様式がもたらされることになった。異なった生活条件 が強力な淘汰圧をおよぼし、とくに、皮膚のように、太陽の光と寒さの矢面に立つ、外から見える部 分に淘汰がかかったということは十分に考えられる。熱帯から北極まで、海水面からアンデス高地ま で、焼けつく砂漠から水が滴るジャングルまで、そしてその中間にあるあらゆる場所を通して、これ ほど栄えている種を他に思い浮かべるのはむずかしい。これほどに異なる条件は、異なった自然淘汰 の圧力をおよぼすに決まっているだろう。その結果として地域個体群が多様化しなかったとすれば、 むしろそちらのほうがよほど驚くべきことだろう。アフリカ、南アメリカ、東南アジアの奥深い森に すむ狩猟民は、それぞれ独立に小さくなったが、植物の生い茂った場所では背の高さが障害になるた ヒタミンをつくるために、と めにそうなったのはほとんど確実だろう。高緯度地帯にすむ人々は、、 らえることができる太陽光をすべて必要としたと推測され、逆の間題、ー、皮膚がんを生じやすい熱帯 の太陽光線ーーに直面している人々よりも薄い肌色をもっ傾向がある。そのような局地的な自然淘汰 が、皮膚の色のような外見的な形質にとりわけ影響を与えるが、ゲノムの大部分はもとのまま均一な 状態に保たれるということは十分に考えられることである 理論的には、これで、私たちの内部の類似性を覆い隠す外見の目に見える変異を完全に説明できる。 しかし私にはこれで十分だとは思えない。少なくとも、これから私が暫定的なものとして述べる付加
集団内の他のメンバーとははるかに異なっている。この点では、ルウオンティンは疑問の余地なく正 観察者間の意見の一致は、人種分類がまるつきり情報を与えないものではないことを示唆している が、それは何についての情報を与えるのだろう。観察者たちの意見の一致に際して用いられた、眼の 形とか毛が縮れているかどうかといった形質についての情報以上のものではない。信じるべきさらな る理由を与えられないかぎり、それ以上何もない いくつかの理由によって、人種に関連した形質は、 表面的で、外面的で、瑣末なものであるように思われる。しかしなぜ人種は、そうした表面的に目立 っ形質 ( ひょっとしたらとくに、顔の形質 ) だけがそんなに異なっているのだろう。あるいは、単に 私たちは、そういったことに気づくように前もって仕向けられているだけなのだろうか。なぜ、他の 種は比較的均一なのに、私たち人間は、もし動物界の他の場所で出会ったならば、多数の異なる種の メンバーとして扱っていたのではないかという疑念を生むほどの違いを見せるのだろうか 政治的に最も受け人れやすい説明は、どの種のメンバーも、自らの種内の差異に対する、より研ぎ 澄まされた感受性をもっというものである。この見方によれば、私たちは、他の種内の差異よりも人 類内部の差異により気づきやすいというだけのことになる。私たちの目からすれば、ほとんどまった く同じように見えるチンパンジーたちも、彼らの目からすれば、私たちの目にキクュ族とオランダ人 が違って見えるのと同じように違っているのだ。人種内のレベルでこの類の理論が裏づけられること を期待して、有名なアメリカの心理学者で、顔の識別に関する脳内メカニズムの専門家でもある・ *-a ・トイバーは、一人の中国人大学院生に、「中国人が西洋人に比べて互いによく似ていると、なぜ ヴ西洋人は考えるのか」という疑間を研究するよう求めた。三年間のくわしい研究の後に、この中国人 テ院生は、結論を報告した。それは、「中国人は本当に、西洋人よりも互いによく似ているのだ」とい ー 26 旧ロ動物
382 二足による跳躍は、進化的な進歩の系列の最後で完成に達したあかっきには、四足による疾走に劣ら ぬ目を見張るような速さであるかもしれない。しかしこの二つの歩行様式は、解剖学的構造全体に大 きな変化を刻みつけるという点で、互いに根本的に異なっている。おそらく、祖先のどこかの分かれ 道で、二つの「実験的」系統のうちのどちらかが、二足跳躍をきわめるというルートをたどり、他方 が四足による疾走を完成させることができたのであろう。たまたま、おそらく最初はほとんど偶然の 理由によって、カンガルー類は一方の道を跳ねていき、アンテロープ類はもう一方の道を駆けていっ たのであろう。そして今、私たちは、この二つの流れが行きついた先における、最終産物の違いの大 きさに驚嘆するのである 哺乳類は、それぞれの異なった進化的放散を、互いにほぼ同時期に、異なる大陸塊の上で押し進め た。恐竜が残した空白が、彼らを解き放ってそうさせたのである。しかし当時の恐竜も、同じような 進化的放散をしていた。ただし注目すべき手抜かりもあった。たとえば、なぜ恐竜の「モグラ」にあ たるものがいなかったのかという疑問に対して、私は答えを得ることができない。そして恐竜以前に は、他にも多種多様な平行現象があり、とくに注目すべきは哺乳類型爬虫類のあいだに見られるもの で、このグループもまた似たような範囲のタイプを生みだすに至った。 一般向けの講演をするときには、私はつねに最後に質間に答えるようにしている。とびぬけてよく される質問は、「人類は次に何に進化するのでしようか」というものである。質間者はいつも、それ が新鮮で独創的な質間だといじらしく思い描いているように見え、私の心はそのたびに落ち込む。な ぜならそれは、分別あるいかなる進化論者も避ける間いだからである。統計的に大多数の種が絶滅し てしまっているだろうと言えることを除けば、どんな種の将来の進化についても、詳細なことを予見 はできない。しかし、どんな種の未来でも、たとえば二〇〇〇万年後のことについて予見はできない ギャロップ
240 カイメンのすべての細胞は、生殖系列細胞であ る。すべてが潜在的に不死なのだ。数種の異なる タイプの細胞をもっているが、個体発生における 配備のされ方は、大部分の多細胞動物とは異なっ ている。真正後生動物の胚は、体をつくるのに、 手の込んだ「折り紙」式の折りたたみと陥人によ って、細胞層を形成する。カイメンはそうした種 類の発生の仕方をもっていない。その代わりに、 組み立ててゝ しく。つまり、全能細胞のそれぞれが 他の細胞と結合する親和力をもっていて、まるで 社交的傾向をもつ自律的な原生動物であるかのよ にもかかわらず、現代の動物学者はカイメ すうせい ンを後生動物の仲間に含めており、私はその趨勢 ( 第を ) 、、第 に従うことにする。カイメン類はおそらく多細胞 動物のなかで最も原始的なグループで、現生の他 のどんな動物よりも、初期の後生動物についての イメージを与えてくれるものである。 他の動物と同じように、カイメン類のそれぞれ の種は、独自の特徴的な形と色をもっている。中 空の水差し形は、たくさんある形のうちの一つに