422 ればよい。そして、本書は人間の視点から書かれているのだが、出発点にいる一〇〇〇万種のどれに ついても、類似の別の本を書くことができるという事実をよく考えてほしい。この地球上の生命は驚 嘆すべきものというだけでなく、その感覚が慣れによって鈍磨してしまってはいないすべての人にと って、深い満足感を与えるものでもある、私たちが自らの進化的な創世を理解する脳の力を進化させ たというまさにその事実が、驚嘆を倍増させ、満足感を形成する。 「巡礼」は敬愛と畏敬の念を暗黙のうちに含んでいる。本書では、伝統的な敬愛の念への私の切望 と、何であれ超自然的な対象に向けられる畏敬への私の軽蔑に触れる機会はなかった。しかし私はそ のことを秘密にするつもりはない。私が畏敬の念を制限ないし抑制しようとするからではない。ひと たびそれを正しく理解したとき、宇宙を褒めたたえたいと心を動かされる真の畏敬の念を弱めたり、 低めたりしたいと願うからではない。「その反対に」というのは控え目な表現すぎる。超自然信仰に 対する私の異議は、それが、実在の世界の崇高な威厳を正当に評価することにみじめなほど失敗して いるという、まさにそのことに対してなのである。それらは、現実の矮小化と、実在の世界が提供す べきことの貧困化を表しているのである。 自らを宗教的と呼ぶ多くの人が、私の意見に同意してくれるのではないかと思っている。それらの 人々に対して、私は、ある学会で耳にした、お気に人りの言葉を引用するだけにとどめたい。私の分 野の指導的人物として有名なある長老が、同僚と長い議論をしていた。激論が終わったとき、彼は目 を輝かせてこう言った。「そうだね。私たちは本当のところ同じ意見なのだ。ただ、君はそれがまち がいだと言っているだけなのだ ! 」 今、私は本当の巡礼から帰ってきたのだと実感している。
ある。言い換えれば、ランデヴーはあまりにも大昔であるために、グロビンとグロビンの分離 よりも先行しているのである。 この〈ャツメウナギの物語〉に似たようなことは、私たちの遺伝子のどれについても語ることがで きる。なぜなら、十分に遠い過去までさかのぼれば、どの遺伝子も何らかの太古の遺伝子の分離にそ の起源を負っているからである。そして、それぞれの遺伝子について本書と似たような一冊の本を書 くことができるだろう。私たちは恣意的にこれが人間の巡礼であると決め、その里程標を、私たちが 他の系統に出会う地点として定義した。それは、前方に向かう場合 ( 時代を下る ) は、私たち人類の 祖先が他の系統から分離する種分化の出来事を意味する。私たちはこの巡礼を現生のジュゴンから、 あるいは現生のクロウタドリから始めて、一連のコンセスターを数えながらカンタベリーまでさかの ぼっていくのも、まったく同じように可能だったことはすでに論証した。しかし、ここで私はもっと 過激な主張をしている。つまり、どんな遺伝子についても、過去をさかのぼる巡礼記を書くことがで きるのだ。 私たちは、佖へモグロビン、あるいはチトクローム、あるいはその他の指定された遺伝子のどれ ナ ウ かを選んで、その巡礼の跡をたどることができる。ランデヴー—は、私たちの選んだ遺伝子がゲノム メ内の別の場所に自らのコピーをつくりだすために、最も新しく重複された里程標となるだろう。ラン と ギ デヴー 2 は、その前に重複があったとき、というふうになる。ランデヴーの里程標のそれぞれは、ど ナ ウ れか特定の動物あるいは植物の内部で生じたことだろう。ちょうど〈ャツメウナギの物語〉が、へ ャ モグロビンとへモグロビンの分離が起こったと考えられる場としてカンプリア紀の無顎類をつきと ヴめたよ一つに。 ン 進化に関する遺伝子の目からの視点は、私たちの関心をそこに向けさせ続けるのである。 6
1 8 / ランテヴー 26 旧ロ動物 らかの種類の推定をするのが望ましいと思われた。ランデヴー地点のほとんどは、現在では、年代が 決定できる化石と年代の確かな化石で調整した分子時計の併用によって、かなりの確信をもって、そ の年代を決めることができる。驚くことではないが、私たちがより古いランデヴー地点に到達すると き、化石は私たちを失望させ始める。そのことは、分子的方法をもはや信頼のできる形で調整できず、 私たちが年代測定不能な荒野に人り込むことを意味する。本を完成させるために、こうした荒野をさ まようコンセスター、おおまかに言ってコンセスターから開までについて、何らかの年代を与える ことを私は余儀なくされた。利用できる最も新しい証拠は、ほんのわずかとはいえ、一定期間にわた る大爆発説に近い見解に有利であるように私には思える。これは私が以前にもっていた、本当の大爆 発などなかったという説が有利だとする偏見に反する。もっと証拠が出てきて、そうあってほしいと 現生の動物門のコンセスターの探究がふたたび、私たちを先カンプリア時代の奥深くま 願うのだが、 で押し戻すことになったとしても、私は少しも驚かないだろう。あるいは逆に、驚くほどの短期間の 爆発に引き戻されるかもしれない。そこでは、大きな動物門のコンセスターは、カンプリア紀が始ま る前後の二〇〇〇万年、いや一〇〇〇万年という期間にさえ圧縮されてしまうだろう。この場合、私 の強い予測は、たとえ二つのカンプリア紀の動物を、現生動物との類似性に基づいて別の門に位置づ けたとしても、カンプリア紀にまでさかのぼれば、両者は、一方の動物の現在の子孫と他方の動物の 現在の子孫を比べたのよりも、はるかにお互いによく似ていただろうというものである。カンプリア 紀の動物学者なら別の門に置くことをせず、せいぜい、たとえば亜綱にするだけだろう。 最初の二つの仮説のどちらかが正しいと証明されても私は驚かないだろう。私はあえて身を危険に さらしているわけではない。しかし、三つ目の仮説に有利な何らかの証拠が本当に発見されたとした ら、脱帽しよう。カンプリア紀の進化が、基本的には今日進行中の進化と同じ種類のものであると想
ろう。なぜ、そんなことが問題になるのか。なぜなら、ダーウイン主義は利己的なゲームだからであ る。他の個体を助けるかもしれない道路の建設は、自然淘汰によって不利益をこうむることになる。 道路によってライバルの個体は私とまったく同じように利益を得るが、彼は建設のコストを払ってい ないのである。私の道路を利用するが、自分はあえて建設しようとしないたかり屋たちは、私が道路 つくりにあくせくはたらいているあいだに、私よりも多くの子係を残すことにそのエネルギーを自由 に注ぎ込むことができるのだ。特別な方策をとらないかぎり、怠惰で、利己的な搾取に向かう遺伝的 傾向が、勤勉な道路づくりの犠牲のもとに繁栄するようになるだろう。結局、道路はつくられなくな るだろう。洞察力のおかげで、私たちは、そんなことをすれば誰もがより苦しい状況になることを理 解できる。しかし、自然淘汰は、最近になって進化した大きな脳をもっ私たち人間とは違って、洞察 力をもたないのである。 反社会的な本能を何とか克服し、みなで共有する道路を建設することをしてきた人類の、どこがそ れほど特別なのであろう。それはまあ、たくさんある。他のどんな種にも、老人の面倒をみて、病人 や孤児の世話をし、慈善を行うほどの福祉国家や社会組織にほんのわずかさえ近づいたものはいない 表面的には、こうしたことは、ダーウイン主義に難問をつきつけるが、ここは、それについてつっ込 んだ議論をする場所ではない。私たちは、好むと好まざるにかかわらず、私たちすべてが参加する政 府、警察、税金、公共構築物をもっている。「謹啓ご好意はありがたいのですが、私としましては 貴方の所得税体系に加わりたくはありません」と書いた人間は誰であれ、まちがいなく、国税庁から 返答が戻ってくるだろう。残念ながら、税金を発明した種は他にはいな い。けれども、彼らは ( 仮想 ~ 的な ) 囲いを発明した。個体は、資源をライバルから積極的に防衛しさえすれば、その排他的な使用 「フを確保することができるのである。
191 ランテヴー 26 旧ロ動物 「ウルトラダーウイン主義者」 ( この名前がその意図に反して、むしろほめ言葉に聞こえるというこ とがなかったら、私はこの誹謗に対してもっと強く抗議しただろう ) としてのかなり滑稽な私の評判 に反して、私は、分子レベルでの進化的変化の大多数が自然淘汰によって選択されるとは思っていな その逆で、私は偉大な日本の遺伝学者木村資生に結びつけられるいわゆる中立説、あるいはその 延長線上にある、彼の共同研究者である太田朋子の「ほぼ中立」説が大好きである。もちろん現実の 世界は人間の嗜好にかかわりをもっていないが、たまたま私は、そのような理論が真実であることを 積極的に望んでいる。そのわけは、そういった理論が、私たちの身のまわりの生き物の目に見える特 徴とは無関係な、別の独立した進化の年代記を提供し、ある種の分子時計が実際に動いているのでは ないかという望みを与えてくれるからである。この点が誤解されている場合にかぎって、私は、中立 説はいかなる形にせよ、自然淘汰の重要性を損なうものではないことを強調しなければならない。自 然淘汰は、生存と生殖に影響を与える目に見える変化に関しては絶対的な力をもっている。自然淘汰 は、生物の機能美や見かけ上「デザインされた」ように見える複雑さに関して、私たちが知っている 唯一の説明である。しかし、目に見える影響をもたない何らかの変化 ( 自然淘汰のレーダー網をくぐ りぬける変化 ) があれば、それらは無事に遺伝子プールに蓄積されることができ、進化時計として私 たちが求めているものを与えてくれるかもしれない 例によって、チャールズ・ダーウインは中立的な変化に関して、彼の時代よりはるかに先を行って いた。『種の起原』の初版の第四章の冒頭近くで、こう書いている このように、好ましい変異を保存し、有害な変異を退けることを私は自然淘汰と呼ぶ。有益でも有害で もない変異は、自然淘汰の影響を受けす、多型的と呼はれる種にたぶん見られるような変動要素として
する。 陸地の征服についてのある一般向けの本で、その著者は「フロッグフィッシュ」を家で三日間死な さずに飼ったという、インドネシアにすんでいた一八世紀の画家の記述について触れている。 それは、私に非常になついて、まるで小さなイヌのように、どこにでも私の後についてきた。 その本には、小さなイヌのように歩く「フロッグフィッシュ」の漫画が載っているか、実際に描か れているのは、明らかにチョウチンアンコウ、すなわち頭の上から突き出た長いトゲの先端が疑似餌 になっていて、それで小さな魚をおびき寄せて捕らえる深海魚である。私の推測では、この漫画家は ある誤解の犠牲者だろうと思う。なぜなら、それは動物の名前を、いろいろ欠陥はあるけれども唯一 無二のものである学名でなく、くだけた通称で呼ぶときにどんなことが起こるかを示しているからで ある。つまりチョウチンアンコウをフロッグフィッシュと呼ぶ人がいるのは事実である。イヌのよう に画家のまわりをついて歩く魚が、深海のチョウチンアンコウだったというのはとても考えられない けれどもトビハセなら、容易にありえることだ。それはたしかにインドネシアにすみ、フロッグフィ ッシュは俗称の一つである。トビハゼは、少なくとも私の目には、チョウチンアンコウよりははるか にカエルによく似ているし、カエルのように跳ねるのである。画家のまわりを小さなイヌのようにつ 類 いて歩いたペットの「フロッグフィッシュ」は、トビハゼだったというのが私の推理である 私たちの祖先が、他の多くの点で現在のトビハゼとは異なっていたにせよ、小さなイヌのように冒 ヴ険心と進取の気性に富んだ生き物であったという考えは私のお気に人りだ。ひょっとしたらそれは、 ン デポン紀が提供できるイヌに最も近いものだったのかもしれない。ずっと昔の私の女友達はイヌが好
1 66 ールのすべての遺伝子である。なぜなら、世代を超えて一つの体から別の体へと移るときに繰り返し のみ 出会ってきたものたちだからである。これこそ、私が、自然淘汰の鑿によって彫りだされる実体は、 遺伝子プールだという理由である。近似的には、自然淘汰とは、全個体 ( 遺伝子プールが自分のでき ることの実例としてつくりだす個体のすべて ) の生存率と繁殖率に見られる差である。しかしまたし ても、このうちのどれ一つとして、ヒルガタワムシ類については一一一口うことができない。彫るべき遺伝 子プールが存在しないのだから、それを彫りだすといったことは何一つ起こらない。ヒルガタワムシ 類は、たった一つの大きな遺伝子をもっているだけなのだ。 私が注意を喚起してきたのは、性がもたらした結果であり、性がもたらす利益についての理論でも なければ、そもそもなぜ性が生まれたかについての理論でもない。しかし、私があえて性がもたらす 利益についての理論を試みなければならなかったとすれば、つまりもし「この状況に関して、見落と されている根本的な要点」への真面目な挑戦をしなければならないとすれば、私が出発点にすべきは このあたりだろう。そして私は、何度も繰り返し〈ワムシの物語〉に耳を傾けるだろう。これらの小 さくて目立たない、水たまりや苔むした湿地の住人が、進化のパラドックスを理解する鍵を握ってい るかもしれないのである。もしヒルガタワムシ類が、これほどまで長きにわたってやってこられたの だとすれば、無性生殖のどこが不都合だというのだ。あるいは、もしそれが彼女らにとって正しいの であれば、なぜ私たちもそうやって、一一倍という大きなコストを節約しないのだろう。 フジッポの物語 私が寄宿学校にいた頃、時々、夕食に遅れることについて寮監に弁解しなければならなかった。
もなうものの、その祖先が、ダーウインの有名な一言葉を借りれば、毛むくじゃらの四足動物であった 可能性がきわめて高いと推測することができた。なぜなら、私たちが二本の後ろ脚で歩き、裸の皮膚 をもっ類人猿にすぎないからである。化石は私たちの推理を助けてくれるが、それは主として、現生 の動物が私たちを助けてくれるのと同じ種類の間接的な方法においてでなのである。 〈ナメクジウオの物語〉の教訓は、親戚を見つけるよりも祖先を見つけるほうが桁外れにむずかし いということである。もしあなたが、一億年前の、あるいは五億年前の祖先がどういう姿をしていた かを知りたいと思うなら、「祖先」というラベルの貼られた化石が、まるで中生代か古生代のどこか のおがくずの山から出てくるかのような望みをもって、しかるべき深さに到達するまで地層を掘り進 んでも無駄である。私たちが通常望みうる最善の材料は、ある化石は一つの部分に関して、別の化石 は別の部分に関して、祖先がどのような姿をしていたかを代表するような一連の化石である。ひょっ としたらこちらの化石は私たちの祖先の歯について何かを教えてくれ、それより数億年後のあちらの 化石は私たちの祖先の腕について何かを教えてくれるかもしれない 。どの特定の化石も私たちの祖先 そのものの化石ではないのはほとんど確実だが、運が良ければ、そのある部分は、祖先の対応する部 分と似ているかもしれない。ちょうど、ヒョウの肩甲骨がピューマの肩甲骨と十分に似通っているの と同じよ一つに。
3 / 6 じみの細菌ではなく、最古の細菌に似たものに出会える希望を私たちに与えてくれるからである。 最初の嘲笑に耐えた後、生命の起源は熱い地中深くの岩石中だという説は、今や肯定された流行の 考え方となりつつある。それが正しいかどうかが判明するにはもう少し研究をまたなければならな いが、白状すれば、私はそうあってほしいと望んでいる。 しつの日か、生命の起源に関 私がくわしく論じなかった理論が他にもたくさんある。あるいは、 ) して、ある種のはっきりした合意に到達するかもしれない。もしそうなったとして、それが直接的 な証拠によって支持されることを私は疑っている。なぜなら、すべては跡形もなく消え去ってしま っているだろうと思うからである。むしろ、それが受け人れられる理由は、偉大なアメリカの物理 学者ジョン・アーチボルト・ホイーラーが別の文脈で言っているように、誰かがあまりにもエレガ ントな理論をつくったために、 : われわれは、その中心的な考え方のすべてを、あまりにも単純に、あまりにも美しく、あまりに あらが も抗いがたく把握するために、誰もが互いに、「そうだよ、それ以外のことなどどうしてありえようー 何でみんな、こんなに長くそのことに気づかなかったんだろう ! 」と言うたろう。 もしそれが、生命の起源という謎。 こ対する答えを私たちが知っていることに最終的に気づくやり 方でないとしたら、いつまでたっても私たちがそれを知ることができるとは思えない
128 数っ過なし したがって、「コリンは黒人だ」という発言は実際に、コリンについてのそれ以前の複雑さを減少さ 、言のうろ はを々と恐 せるのである。それは逆の形で、ある程度まで機能するのである。もし私があなたにカールはオリン一と人っ タこるまが ピックの短距離走のチャンピオンだと告げれば、彼の「人種」についてのあなたのそれ以前の不確かスなすにだ ニう対外の ょに以いれ さは、統計的事実の問題として減少する。実際、あなたは彼が「黒人」であることにかなり確実な賭 た題さなま 一似問敏ら込 ヤと種鋭か をすることができる ジれ人のつ追 人種という概念が、人間を分類する情報豊かな手段であったことがあるか、あるいはそうあり続けロこ、ど見に にきほが境 一前とな由苦 たかを間うことを通じて、私たちはこの議論に踏み込んだ。この疑間の判定に、観察者間相関というサ年た剰理い 規準を適用すればどうなるだろう。さて、日本、ウガンダ、アイスランド、スリランカ、パプアニュ ーギニア、エジプトという国々からそれぞれランダムに選んだ現地人一一〇名の標準的な顔写真を取り 上げると仮定してみてほしい。 もし一二〇枚の顔写真すべてを一二〇人の人々に提示したとすれば、 一一ⅱもか、それを六つのカテゴリーに一〇〇 % 正しく分類することができるのではないかと私は推測す る。そのうえ、私がそこに関係している六つの国の名前を告げれば、一二〇人の被験者は、もし彼ら が相応の教育を受けてさえいれば、一二〇枚の写真すべてを正しい国に当てはめることができるだろ う。私はこの実験を行ったわけではないが、どういう結果になるかについては、あなたにも同意して もらえると確信している。私があえてこの実験をしないのは、科学的でないと思われるのかもしれな しかし、あなたが人間であれば、実験をすることなしに同意するだろうという私の確信こそ、私 がこれから述べようとする論点なのである。 もしこの実験がなされたとして、ルウオンティンが私の予測したのとは違った予測をするとは思わ ない。しかし、人種的分類は事実上いかなる分類学的ないし遺伝学的意味をもちえないという彼の発 言からは、それとは逆向きの予測が引きだされるように思われる。もし何の分類学的・遺伝学的意味