45 〇 ような例外は稀であるが、多くのことを教えてくれる。なぜなら、彼らは、通常なら時間的な領域で しか見られないものを、空間的な領域に翻案してくれているからである。ヒトとチンパンジーは、共 通の祖先と中間をつなぐ動物の鎖を介して結びつくことはまちがいないが、中間をつなぐものは絶滅 してしまっている。残るのは不連続な分布である。同じことは、ヒトとサル類、ヒトとカンガルー類 についても当てはまるが、絶滅した中間をつなぐ動物が生きていたのがずっと大昔だという点が違う だけである。中間動物はほとんどっねに絶滅しているので、あらゆる種とその他のあらゆる種のあい だには鋭い断絶があると仮定して、うまくやりおおせることができる。しかし本書では、私たちは現 世のものだけでなく死んだものも含めて、進化的な歴史を扱っているのである。現在生きている動物 だけでなく、これまで存在したことのあるすべての動物について語るとき、進化は、すべての種を文 字どおり他のすべての種に結びつける漸進的に連続する系列が存在することを教えてくれる。歴史に ついて語っているときには、ヒッジとイヌのように、明らかに不連続な現生種でさえ、共通の祖先を 介して、なめらかに継続する途切れることのない系列をなして結びついているのである。 二〇世紀進化論の卓越した代弁者である老エルンスト・マイアは、不連続性という妄想を ( 本質主 義という哲学的な名称のもとに ) 、人類の歴史において、進化的な理解に到達するまでこれほど時間 かかかった主たる理由として非難している。プラトンの哲学は、本質主義の源泉とみなすことができ るが、プラトンは、実在の事物はそうした種類のものにとっての理想的な原型を不完全に写したもの であると信じていた。理想的な空間のどこかに、本質的で完全なウサギがつり下がっていて、それは 実在のウサギに対して、数学者の完全な円が土に描かれた円に対するのと同じ関係をもっている。今 、いかなる種も別の種を生むことはない。 日でも多くの人々は、ヒッジはヒッジ、ヤギはヤギであり なぜなら、そうするためには、彼らの「本質」を変えなければならないからだという考え方に深く染
1 70 は毛むくじゃらであるから、もしコンセスター 1 や 2 がそうでなかったとしたら驚くべきだろう。チ ンパンジー、ポノボ、ゴリラは奥深い森の住人なので、ランデヴー地点 2 をアフリカの森のなかに定 めるのは妥当であるが、アフリカのどこか特定の地域を推測するに足る強力な証拠は存在しない ゴリラは単なる巨大なチンパンジーというわけではなく、他の面でも異なったところがあり、コン セスター 2 を復元しようと試みるときには、その点を考える必要がある。ゴリラはな菜食主義者 である。雄は複の雌からなハレ ている。チンパンジーはより乱、的で、この、酉ヾステ ムの相違は、後に〈アザラシの物で知るように、彼ら丸大きさに興味深い結果をおよぼし てきた。私は、交配システムは進化的には柔軟なもので、簡単に変わりうるのではないかと思ってい る。この点でコンセスター 2 がどのような立場にあったかを推測できる明確な手段を私は知らない 実際、現在のさまざまな人類文化が、忠実な一夫一婦制から潜在的に非常に大きなハレムになる可能 性のあるものまで、きわめて幅広い婚姻システムを示しているという事実は、コンセスター 2 の婚姻 システムについて憶測することへの私のためらいを強め、私の述べる憶測がコンセスター 2 の本性か らしてつかの間のものに終わってしまうだろうと思わせる。 類人猿は、おそらくゴリラはとくに、長いあいだ人間の神話を生みだす有力な源泉 ( そしてその犠 牲者 ) であった。〈ゴリラの物語〉では、私たちの最も近い親戚に対する人間の態度がどのように変 わってきたかが考察される。 ゴリラの物語 一九世紀におけるダーウイン主義の台頭は、類人猿に対する態度を二極分化させることになった。
1 ] 思い上がりの歴史観 他の物理学者たちは、法則や定数がそもそも自由に変わることができると思っていない幼い頃、 私にとって、五 x 八が八 x 五と同じ結果になるというのは、わかりきったことではなかった。私はそ れを大人が言うのだからそうだろうと受け人れた。ずっと後にやっと、たぶん長方形として視覚化す っし的がに宇物 ることを通じて、そのような二つのかけ算の答えが、お互いに勝手に変わることができない理由を理よ同面け題る礎 に混表た問な基 とは方た異たを 解できた。私たちは、円周の長さと円の直径が独立したものでないことを理解している。さもなけれ 物釈似片っ 織解類、なはな ば、それぞれが異なった冗の値をもっ膨大な数の可能な宇宙を仮定する誘惑に駆られるかもしれない の」のし異で異点 在界論るく論が論 おそらく、ノーベル賞受賞者である理論物理学者スティーヴン・ワインバーグなど何人かの物理学者篌世理うた理宙é 多のりつ工宇大 の「つあまチた最 は、在は互いに独立したものとして扱われている宇宙の基礎物理定数が、いっか機が熟して理論が 工の 2 がはツつの チ論。と者イな論 今想像されているよりも、もっとわずかな自由度しかもたないもの 大統一さにをみかっきに・は、 ッ子がこ両ド異理 イ量だい。 ドののしるトし として理解されるようになるだろうと主張する。ひょっとしたら、宇宙が存在する方法はたった一つ トる正うツかて ドッいもりレしし しかないのかもしれない。それは、人間原理的な考えがいう偶然の一致という、見せかけの基盤を突 ツレてとあ工。察 イエれ論もヴい考 ヴヴさ理とエなで き崩すことだろう イエ同のこ。がこ テ・混方いるいこ スを含めた他の物理学者は、説明を必要とするような 現・王立天文台長のサー・マーティン・リー 一両なあ違 をユし。くではが 真の偶然の一致が存在することを受け人れ、それぞれ独自の一連の法則と定数をもち、相互に交渉を方ヒはいしのにの えたしな正も数う もたない多数の実在する平行宇宙の存在を仮定することによって、それを説明する。そうした事柄考れ、ががた定い うさし味方れ理と し唱た意両さ物る について考えている私たち自身は、どれだけ稀なものであろうと、そうした宇宙の一つにまちがいな と提た、は案礎 」で ( すい提基て 宙形いぎるにもっ く存在し、その宇宙の法則と定数が私たちの進化を可能にしたというのである 宇ななすあめても 多からに 、たつを スモーリンはダーウイン主義的なひとひねりを加え、私たちの存在が、見か 理論物理学者のリー・ 「やなのいるあ数 の鮮はもしえで定 こててな正答宙理 けほど統計的にありえないものではないことを示す。スモーリンのモデルでは、宇宙は異なった法則 と定数をもっ複数の娘宇宙を生む。娘宇宙は親宇宙によってつくられたプラックホールから生まれ、
前に出現していたのではないかと思っており、ひょっとしたら彼の意見が正しいのかもしれない すでに見てきたように、それに真っ向から異論を唱え、言語の起源を、わずか数万年前の " 飛躍的 大前進〃の年代とする少数の人々も存在する。 これは、けっして解決することができないことなのかもしれない。言語の起源に関するあらゆる 考察は、一八六六年にパリで行われた一「ロ語学会でこの間いに関する議論が禁止されたことを引用し て始まる。解答不能で、無益なことだと考えられたからである。それは答えるのがむずかしいかも しれないが、ある種の哲学的疑間のように原理的に解答不能というわけではない。科学的な創意が かかわるところでは、私は楽観主義者である。大陸移動説が現在では、幾通りもの説得力のある証 拠をもって確実なものとされていたように、 Z< フィンガにプヴ・ント法おかげで、法医学の専ー 門家たちがかっては夢でしかなかった確実さをもっ 確な身一をつきとめることができ るようになったのと同じように、科学者たちが、いつの日か、私たちの祖先がいっ言葉をしゃべり 始めたかをつきとめる巧妙な新しい方法を発見することを、私はひそかに期待しているのである けれども私とて、彼らが互いに何を語り合っていたのか、あるいはどういう一一「ロ語でしゃべってい たのかを知ることができるなどという望みはもっていない。それは純粋に単語だけで始まり、文法 はなかった、つまり赤ちゃんが片言で名詞だけをしゃべるのと似たようなものだったのかあるい は文法は初期に、しかも ( ありえないことではなく、ばかげたことでもない ) 突然にやってきたの メンタルプランニング だろうか。ひょっとしたら、文法の能力はすでに脳の奥深くに存在し、頭のなかでの計画のような 他の何かのために使われていたのかもしれない。少なくともコミュニケーションに応用されたとき、 ス文法が一人の天才の突然の発明だったということがありえるだろうか。私はそれについては懐疑的 だが、この領域では、どんなことといえども、確信をもって排除することはしないつもりである
て ) と呼ぶことにしよう。もしへンリーが私の祖先だとすると、彼はあなたの祖先でもあるにちがい ないことを証明してみよう。ここでちょっと、この逆、つまり私がヘンリーの子孫で、あなたはそう でないと想像してみてほしい。そうであるためには、あなたの系統と私の系統は、現在に至るまでの 一億年のあいだ一度も交雑することなく、横に並んで併走しながら同じ進化的な目的地に到達したの でなければならない。しかも、あなたの近縁者が私の近縁者と今でも交雑ができるほど類似したまま で。この背理法による結論は明らかにばかげている。もしへンリーが私の祖先ならばあなたの祖先で もあり、私の祖先でなければ、あなたの祖先であることはありえないのだ。 どれくらい昔なら「十分」なのかという議論はさておき、十分に昔の個体で、ともかくも人間の子 係をもつものがいれば、その個体は、すべての人類の祖先でなければならないことを証明した。たと えばヒトのような、特定の子孫集団の遠い昔の共通の先祖は、オー ア・ナッシングの現象、つ まり員の祖先あるか、誰の祖先でもないかのどちらかでしかないのである。さらにヘンリーが私 、必然的に本書の読者であるあなたの祖先でもある ) であるが、ヘンリーの弟のエリ の祖先 ( ックが、たとえば現存するすべてのツチプタの祖先であるということは、当然のことながらありうる のである。単にありうるというだけではない。歴史において、同じ種のなかに一頭はすべての人類の 祖先となってッチプタの祖先にはならなかったが、もう一頭はすべてのツチプタの祖先となって人類 類 の祖先とはならなかった二頭の個体が存在した瞬間が存在したにちがいないというのは、驚くべき事 人 ッチ て実である。この二頭は出会ったことがあったかもしれないし、兄弟でさえあったかもしれない す プタを消して、あなたの好きな他のどんな現生動物に置き換えてもいいが、このことは依然として正 ウ しいはずだ。よくよく考えれば、そこから、すべての種がお互いに親戚どうしであるという事実が導 ン き出されることに気づくだろう。「すべてのツチプタの祖先」はツチプタ以外の多数の非常に異なっ 6
3 / 8 ように、とてつもなく重要である。しかし、淘汰圧が通常化石で解明できるような類の時間尺度にわ たって一様に維持されることは、とくに古い時代の化石に関しては、ありえない トウモロコシとシ ョウジョウバエの教訓は、ダーウイン主義的な淘汰は、何万回も、それぞれ地層の記録で測定できる 最短の時間内に、あっちこっち、前や後ろへ、曲がりくねって進みうるということである。私は、そ 一つい一つことか起こったほ一つに賭ける。 しかし、長い時間尺度にわたる大きな趨勢も存在し、それらについても承知しておかなければなら ない。以前に用いたたとえ話をもう一度繰り返せば、アメリカの大西洋岸沖にヒョッコリと浮かんで いるコルクを考えてもらいたい。メキシコ湾岸流は、このコルクの平均的な位置を全体としては東に 向かって漂流させ、コルクは最終的にどこかヨーロッパの海岸に打ち上げられるだろう。しかし、ど こか特定の一分間の運動方向を計測すれば、波や渦に翻弄されて、東に向かってだけでなく、西に向 かっても漂っているように見えるだろう。その位置のサンプルを、もっと長い期間にわたって集めな いかぎり、東に向かう偏向性があることに気づかないだろう。しかし、東に向かう偏向性は実在のも のであり、それは存在するのであるから、これについても説明が必要である。 自然の進化における波や渦はふつうあまりにもゆっくりとしたものであるため、私たちのささやか な生涯のうちに、あるいは少なくとも通常の研究助成金でやれる短い範囲内では見ることはできない。 しかしいくつか注目すべき例外がある。変わり者で、気むずかしい・・フォードから、私たちの 世代のオックスフォードの動物学者は遺伝学を学んだのであるが、彼の学派は、チョウ、ガ、カタッ ムリの野生個体群における特定の遺伝子の一年ごとの盛衰を追跡するという研究に、数十年を費した。 彼らの得た結果は、 ) しくつかの事例にはダーウイン主義的な説明をそっくりそのまま適用できるよう に思われる。別の事例には、翻弄する波のノイズが、メキシコ湾流が水面下で逆向きに引っ張ってい
445 ランテウー 1 ア両生類 れが私を〈サンショウウオの物語〉の教訓を考えださせることに導いたのだ。 ある種の目的にとっては、名前と不連続なカテゴリーこそ、まさに必要とされるものである。実際、 弁護士はいついかなるときもそれを必要とする。子供は運転を許されないが大人は許される。法律は、 たとえば一七歳の誕生日といった基準を定める必要がある。おもしろいことに、保険会社は適切な基 準年齢について非常に異なった見解をとっている。 ある種の不連続性は、いかなる基準からしても実在のものである。あなたは一人の個人であり、私 は別の個人であり、私たちの名前は、私たちが別個の存在であることを正しく伝える不連続な標識で ある。一酸化炭素は実際に二酸化炭素とはっきり異なっており、重複する部分はない。炭素一つと酸 素一つからなる分子か、炭素一つと酸素二つからなる分子かであって、一つの炭素と一・五個の酸素 からなる分子は存在しない。一方の気体は、致命的に有毒であり、もう一方は、私たちすべてが依存 している有機物質をつくりだす植物に必要なものである。金は銀とはっきりと異なる。ダイヤモンド の結品は黒鉛の結品と実際に違っている。どちらも炭素からできているが、炭素原子は自然に、二つ のまったく異なる並び方で結品をつくる。中間的な並び方はないのだ。 しかし不連続性は、しばしばそれほど明瞭でないことが多い。私のとっている新聞は最近のインフ ルエンザの大流行の際に、次のような記事を載せていた。それは伝染病なのかどうかというのが、そ の記事の主旨であった。 公式な統計によれはインフルエンサ患者は一〇万人あたり一四四人いると、保険省の報道官が言った。 通常の伝染病の基準は一〇万人あたり四〇〇人なので、それは政府によって公式には流行病として扱わ れていない。しかし、報道官は次のように付け加えた。「ドナルドソン教授は、これが伝染病であるとい ラベル
や万有引力定数など、自然を記述する物理方程式に含まれる定数〕が慎重に仕組まれており、最終的に人 類の存在をもたらすよう調節されているという、人間原理的な考え方である。ただし、それはかなら ずしも、虚しい自惚れに基づいているわけではない。たぢを存缶しめ ' るために、宇宙が意図的に つくられたと解するべきではなく、私たちはこ・こに存在し、私たちをつくりだ能力を欠い夫宇 ( 、、 は、私たぢ - が存在しえなかっただろうと言っているだけである。物理学者たちが指摘してきたように、 空に星 ( 恒星 ) が見えるのは偶然ではない。なぜなら、私たちを生みだすことができるいかなる宇宙 にも、星はなくてはならない要素だからである。たたしこれも、力不たちをつくるために在する ということではない。ただ単に、 なければ周期律表でリチウムより重い原子が存在せず、水素、 ヘリウム、リチウムのたった三種類の一兀素から生じる化学現象では、生命を支えるにはあまりにも貧 弱すぎると言うだけのことである。星の見えない宇宙では、見るという行為もありえない もう少し付け加えておくべきことがある。私たちをつくりだすことができる物理法則や定数がなけ れば、私たちは存在しえないという自明の事実を認めたとしても、それでもなお、そのような強力な 基本規則の存在そのものが、どう見てもありえない出来事のように思えるかもしれない。物理学者た ちょいくつかの仮定に基づいて、可能な宇宙の数を計算し、物理現象が恒星を介して化学現象へと 成熟し、惑星を介して生物現象へと成熟させるような法則と定数をもっ宇宙の数よりも、そうはなら ない宇宙の数のほうが圧倒的に多いという解釈を出すかもしれない。一部の物理学者は、このことを もって、私たちの宇宙の法則と定数が、最ネカら意図、に計画さたものであったにちがいないと解 釈する ( しかし、そう考えたところで、宇宙の物理定数を精密に調整する事前計画者、つまり超越的 存在がなぜ存在するのかを説明するという、より大きな間題にすぐに直面するだけのことである。そ れなのに、これが何らかの説明になっているとなぜ思えるのか、私は当惑せずにいられない ) 。
いよいよ過去に向けての巡礼に旅立っときがきた。これはタイムマシンに乗っていく祖先探しの旅 と考えることができる。もう少し正確に言えば、〈ネアンデルタール人の物語〉で説明される理由に よって、祖先遺伝子を探す旅である。過去に向かう探究の最初の数万年は、私たちの祖先遺伝子は私 たちと同じように見える一人一人の人間のなかにおさまっている。いや、それは文字通りに真実だと いうわけではない。なぜなら、私たちはお互いどうし、完全には同じように見えないからである。別 の言い方をしよう。私たちの巡礼の最初の数万年は、タイムマシンから外に出たときに出会う人々と 私たちの違いは、現在の私たちのお互いどうしの違いよりも大きくはないだろう。「現在の私たち」 にはドイツ人、ズールー族、ピグミー族、中国人、ベルベル人、およびメラネシア人も含まれること 五万年前の私たちの遺伝的な祖先は、今日の世界で見られる変異の幅の範囲内 を覚えていてほしい。 におさまっていたことだろ一つ 数十万年や数百万年ではなく、数万年をさかのぼっていくときに、もし生物学的な進化が見られな いのだとしたら、どのような変化を見ることになるのだろう。私たちのタイムマシンの旅の最初の段 階では、生物学的な進化よりも一〇倍も一〇〇倍も速い進化に似た過程が存在し、それが窓から見え の る光景のほとんどを占めている。これは、文化的進化、体外進化、あるいは技術進化など、さまざま 巡 4 巡礼の始まり
24 / ランテヴー 8 キツネサルとその仲間 すべての生物と同しく、アイアイは地球上でここ以外の場所には存在しない。 何とすばらしく簡潔な書きぶり、この著者を失ったのがどれほど残念なことか。『目にする最後の 機会』におけるアダムズとカーウォーダインの目的は絶滅に瀕する種が置かれた窮状に人々の注意を 喚起することだった。三〇種ばかりの現存するキツネザルは、二〇〇〇年ほど前に破壊的な人類がマ ダガスカル島に侵人するまで生き残っていた、もっとはるかに豊かだった動物相の残存種である マダガスカル島はゴンドワナ大陸の断片で、およそ一億六五〇〇万年前に、現在のアフリカ大陸か ら切り離され、九〇〇〇万年前に、後にインドになる部分から最終的に分離した。こうした規模の出 来事は驚くべきことのように思えるかもしれないが、やがて見るように、インドはひとたびマダガス カルを振り払うと、ロリスのように緩慢なプレートテクトニクスの移動の基準からすれば異例の速さ で遠ざかっていったのである。 コウモリ ( おそらく飛来した ) と人類がもち込んだものを別にすれば、マダガスカルの陸上生物は 力を 太古のゴンドワナ大陸の動植物相か、そうでなければ別の場所からありえないような幸運によって漂のと 着した稀少な移人種の子孫である。ここは、世界中の動植物の全種のおよそ五 % を擁する自然の植物数 園兼動物園であり、その八〇 % は他の地域にはいない種である。しかし、この驚くべき種の豊かさに 物っ 遺残 もかかわらず、まったく存在しない主要な動物群の数も注目に値する。アフリカやアジアと違って、分き 石生 ノ ( 。し力なる固有アンテロープ類、ウマやシ・マヴ、マ・し、ーお・屮・・みし、・・ゾヴも、、・・・ウ・サ - ギ マタカスカレこよゝ、 、まる も近い も、、・・バネジネズ ) 、、も、イヌ科あるし・はネ・コ・科の仲間もいない。予想されるアフリカの動物相はどれ一 ど最て * 2 れがし けパ示 こく最近に到来したと思われるカワイノシシがいるが、おそらく人間によって導人 っとしていない。、 されたものであろう ( アイアイとキツネザルについては、この物語の最後でもう一度立ち戻る ) 。