9 私たちは、ランデヴー 0 の年代がおそらく数万年前、最大でも数十万年前だと推計している。私た ちは時間をさかのぼる巡礼で、まだそれほど遠くまできていない。次のランデヴー地点、チンパンジ ーの巡礼たちと出会うランデヴー地点 1 は、数百万年前の彼方であり、私たちのランデヴーのほとん どは数億年も先のことである。巡礼を無事終わらせるためには、スピードを上げて、「遠い昔」に移 動を始めなければならない。過去三〇〇万年を特徴づける三〇回ばかりの氷河時代を大急ぎで通り過 ぎなければならない。六〇年前ゝら 年前に起きた、地中海が干上がり、また水に満たさ れるという劇的な出来事も通り過ぎなければならない 。この最初の加速の衝撃を和らげるために、途 中にあるいくつかの中間の里程標で、他の場合にはしない異例の停車許可をとり、死んだ化石に語ら せることにする。私たちは化石化した「亡霊の」巡礼者たちと出会い、彼らが語る物語は、私たちが 直接の祖先に対して寄せる当然の関心を満足させるのに役立っことだろう。
4 1 8 たいままなのである。 したがって、ちょうどよいときに、南極には多数の走鳥類がいたのである。物語の残りの部分は単 純明快である。南アメリカにはすでにレアの祖先が十分にすみついていた。ニュージーランドはおよ そ七〇〇〇万年前に、積み荷としてモア類の祖先を載せながら、南極大陸から離れていった。分子的 データは、モア類がおよそ八〇〇〇万年前に、すでに他の走鳥類から分岐していたことを示唆してい る。オーストラリアはおよそ五六〇〇万年前に南極大陸との接続を断たれた。このことは、モア類が、 およそ三〇〇〇万年前に互いに分岐したオーストラリアの走鳥類、エミューとヒクイドリよりも早く ( 八二〇〇万年前 ) 、他の走鳥類から分離したという分子的証拠と合致する。キーウイはおそらく、走 鳥類がどこにでも歩いていけたという規則の一つの例外であろう。キーウイはそれほどモア類に近縁 ではない。 , 彼らはオーストラリアの走鳥類により近く、おそらく、オーストラリアからニューカレド ニアを介して、島づたいにニュージーランドに跳び渡ったのであろう。エピオルニスに関しては、七 五〇〇万年前にインドと分かれた後もマダガスカルにとどまり、人間がやってくるまで、そこに残っ ていたのだろう。 私は以前に、またダチョウに戻ってくると言ったが、 , 彼らはおよそ九〇〇〇万年前から、アフリカ から、かってのゴンドワナの他のいかなる地域へも渡ることができなくなっていた。したがって、こ のときが、アフリカの鳥であるダチョウが他の走鳥類から分岐することができた、最後の瞬間になる のではないかと考える人がいるかもしれなし : けれども実際には、分子的な証拠は、ダチョウの系列 はもっと後に、およそ七五〇〇万年前に、分岐したことを示唆している。どうしてそういうことが起 こりえたのだろう 地理学的な証拠は、アフリカが 議論はいささか込み人ってくるので、間題を繰り返させてほしい。
いよいよ過去に向けての巡礼に旅立っときがきた。これはタイムマシンに乗っていく祖先探しの旅 と考えることができる。もう少し正確に言えば、〈ネアンデルタール人の物語〉で説明される理由に よって、祖先遺伝子を探す旅である。過去に向かう探究の最初の数万年は、私たちの祖先遺伝子は私 たちと同じように見える一人一人の人間のなかにおさまっている。いや、それは文字通りに真実だと いうわけではない。なぜなら、私たちはお互いどうし、完全には同じように見えないからである。別 の言い方をしよう。私たちの巡礼の最初の数万年は、タイムマシンから外に出たときに出会う人々と 私たちの違いは、現在の私たちのお互いどうしの違いよりも大きくはないだろう。「現在の私たち」 にはドイツ人、ズールー族、ピグミー族、中国人、ベルベル人、およびメラネシア人も含まれること 五万年前の私たちの遺伝的な祖先は、今日の世界で見られる変異の幅の範囲内 を覚えていてほしい。 におさまっていたことだろ一つ 数十万年や数百万年ではなく、数万年をさかのぼっていくときに、もし生物学的な進化が見られな いのだとしたら、どのような変化を見ることになるのだろう。私たちのタイムマシンの旅の最初の段 階では、生物学的な進化よりも一〇倍も一〇〇倍も速い進化に似た過程が存在し、それが窓から見え の る光景のほとんどを占めている。これは、文化的進化、体外進化、あるいは技術進化など、さまざま 巡 4 巡礼の始まり
テナガサル類、一ハ〇〇万年前頃。 2 オレオピテクス、一六〇〇月年前頃。 3 ルフェングピテクス、一五〇〇万年前頃。 4 シハピテクスとオランウータン、一四〇〇万年前頃。 5 ドリオピテクス、一三〇〇万年頃。 6 オウラノピテクス、一一一〇〇万年前頃。 もちろん、こうした移動の回数は、スチュワートとダイソテルが、解剖学的な比較に基づいて正し い系統樹を描いている場合にのみ有効である。たとえば彼らは、化石類人猿のなかでオウラノピテク スが現在のアフリカ類人猿に最も近い親戚だと考えている ( その枝は、図のなかで、アフリカ類人猿 に向かう系統樹からその直前に分かれている ) 。彼らの解剖学的な評価に従えば、その次に近い親戚 はすべてアジア産である ( ドリオピテクス、シバピテクス、その他 ) 。もし彼らが解剖学的特徴をま ン タ ったく取り違えていたら、もしたとえば、アフリカ産の化石ケニャピテクスが現在のアフリカ類人猿 ウ ン に最も近縁であれば、移動の回数計算は、まったく一からやり直さなければならないだろう。 オ この系統樹そのものは最節約原理に基づいて構築されている。しかし、それは違った種類の最節約 ~ 原理である。想定すべき地理学的な移動の回数を最小に抑える代わりに、地理的分布のことは忘れて、 「フ想定すべき解剖学的な偶然の一致 ( 収斂進化 ) の数を最小にするようにしなければならない。地理 めには、すべてアフリカからアジアに向かっての、以下のような六度にわたる祖先たちの移動を必要 とする しゅうれん
296 とウシやプタとの類縁よりも近いのである。 それらのことをすべて総合して、以下のような前向きの年代記を描くことができる。分子的な証拠 は、最後の恐竜が死んだ時期とびったり相前後して、六五〇〇万年前に、ラクダ ( およびリヤマ ) が 他の偶蹄類から分離したことを示している。ついでながら、この共通祖先がラクダに似た姿をしてい たなどと想像してはならない。 は、すべての哺乳類はカ少なかれトガリネズミに似て いた。ラクダを将来に生むことになるトガリネズミ」が、将来に他のすべての偶蹄類を生むことに はんすう なる「トガリネズミ」から分離したのである。プタと残りの偶蹄類 ( ほとんどは反芻類 ) との分離が 六〇〇〇万年前に起きた。反芻類とカバの分離はおよそ五五〇〇万年前に起き、それからさほど時間 がたたないうち、た - ぶ・ん・五叫 00 万年前頃・一 に、クジラの系統がカバの系統から分離し、そこから時間 が進んで、五〇〇〇万年前には、半水生のパキケトウスのよ一な原始的なクジラが」化していた。ハ クジラ類とヒゲクジラ類が分かれるのはもっと遅く、最古のヒゲクヾ一 イが発見されるのは、 およそ三四〇〇万年前であった。 私のような伝統的な動物学者が、カバとクジラの結びつきの発見にびつくり仰天したと言った時、 その表現はいささか大げさだったのかもしれない。しかし、数年前に初めてこの話を読んだとき、私 が心底、当惑した理由について説明させてほしい。 それは単に、その説が学生時代に教わった説と異 なっているということだけではなかった。そんなことに私はちっとも心を悩ますことはなかっただろ うし、実際には、むしろ勇気を与えてくれるものであると思ったはずだ。私を悩ませたのは、そして 今でもまだ少し引っかかっているのは、それが動物の分類群に関するあらゆる一般化の根拠を突き崩 すように思えたことである。一人の分子分類学者の一生はあまりにも短く、あらゆる種の、あらゆる 他の種との一対一の比較をすることは不可能である。その代わりにできることは、たとえば二種ない
380 をしている。 グラント夫妻とその共同研究者および学生たちは、四半 世紀以上にわたって、毎年ガラパゴス諸島に戻り、フィン チを罠で捕らえ、一羽ずつマーキングし、くちばしと翼の 長さを測り、さらに最近では、父親の確認およびその他の 血縁関係を分析で調べるための血液サンプルもとっ ている。おそらく、どんな野生の個体群でも、各個体と遺 伝子についてこれ以上に完璧な研究はないだろう。グラン ト夫妻は、フィンチの個体群というコルクにどういうこと が起こっているか、このコルクが、進化の海のなかで、毎 年のように変わる淘汰圧によってあちらこちらへと突かれ、波に翻弄されるさまを、ごく細かなとこ ろまで正確に知っている。 インイ本ピ書 一九七七年に深刻な干魃が起き、食物の供給量が落ち込んだ。大ダフネ島という小さな島のすべてフラワい ング・したよ、 の種を合わせたフィンチ類の個体数は、一月の一三〇〇羽から一二月には三〇〇羽に落ちた。優越種イ、ンら 0 的態 ウにサはな である中型の地上生フィチである、ガラ。 ( ゴスフィ一チの個体数は一二〇〇羽から一八〇羽に落ち , . = 0 ~ 「 のトンさ た。サポテンフィンチは二八〇羽から一一〇羽に落ちた。他の種についての数字も、一九七七年がフ ンイ刊 一つし 1 インチ類にとって恐怖の年だったことを裏づけていた。しかしグラントのチームは、それぞれの種ご年照も ~ 嘴ラフ復 4 参研るのグンに 7 をのよチ・イ年 とに死んだ数と生きている数を数えただけではなかった。、 ターウイン主義者として、彼らは、各種内』 のチ夫一タ 9 の選択的な死亡数も調べた。ある特徴をもっ個体が、この災難で他の鳥よりも生き延びる確率が高か 彼ントナ『一『は ったということが本当にあったのだろうか。干魃がこの集団の相対的な組成を実際に選択的に変化さ かんばっ 現存の野生動物のなかで最も徹底的に研究さ れているものの 1 つガラパゴスフィンチ (Geospiza fortis) 。ジョンおよび工リサベス・ クールドによる絵。」 oh n Gould , The Zoology Of the Voyage Of H. M. S. Beagle, Pa 「 t3, Bi 「 ds,Plate38 より。このシリーズの 編者はチャールズ・ダーウインで、 1838 年か ら 1841 年にかけて、 5 回に分けて刊行された。
3 8 2 羽は雄だった。一九七八年の一月にやっと雨が降り、繁にとって理想的な大増殖の条件が解き放た れた。しかし、今や雌一羽あたりに五羽の雄がいた。無理からぬことだが、わずかな数の雌を巡って 雄どうしの熾烈な競争が見られた。そして、この新たな性的競争を勝ち抜いた雄、すでに正常よりも 大きい生き残った雄のあいだでの勝者は、またしても最大のくちばしをもっ最も大きな雄になってい った。ふたたび自然淘汰は、この集団をより大きな体とより大きなくちばしを進化させる方向に、た だし異なった理由で、追い立てつつあったのだ。雌が大きな雄を好む理由については、〈アザラシの 物語〉によって、ガラパゴスフィンチの雄 ( より競争的な性 ) がいずれにせよ雌よりも大きいという 事実の意義を理解するよう教えられた。 もし体の大きいことにそれほどの利点があるなら、そもそもなぜ、この鳥たちはなぜ単純にもっと 大きくならなかったのだろう。それは、干魃のない他の年には、自然淘汰が小さなくちばしをもつ小 さな個体に有利にはたらくからである。グラントたちはそれを、たまたまエルニ ーニョによる洪水が あった一九八二—八三年の後の数年に実際に目撃した。洪水の後、種子のバランスが変化した。ハマ ビシ属のような大きくて堅い種子をもっ植物が、カカバスのような小さくて軟らかい種子をもっ植物 に比べて少なくなってしまった。今や小さなくちばしをもつ小さなフィンチが真価を発揮する番にな った。大きな鳥が小さくて軟らかな種子を食べることができないというわけではない。しかし、大き な体を維持するためにはより多くの種子が必要になる。したがって小さな鳥がより有利になる。そし すうせい てガラパゴスフィンチの集団内では、形勢は逆転したのだ。干魃の年の進化的趨勢が逆転したのだ。 干魃の年における成功した鳥と成功しなかった鳥のあいだのくちばしの差は、驚くほど小さいので はないだろうか。ジョナサン・ワイナーは、その点について、ピーター・グラントからある印象的な 逸話を引用する。 かんばっ
はこの乗客を次の一〇〇〇年先までさかのぼって運び、彼女 ( または彼。男と女を停車のたびに交互 に拾っていくことにする ) をそこで降ろす。私たちの一駅区間だけの時間旅行者が、その上地の社会 的・一「ロ語的習慣に適応できるとすれば ( とても応じることができそうもない注文だが ) 、彼女が一〇 〇〇年前の異性の一人と交配するための生物学的な障壁はないだろう。次に、また新しい乗客を一人、 今度は男を拾い上げ、さらにもう一〇〇〇年先までさかのぼって運ぶ。今度もまた、彼が生まれ育っ た時代より一〇〇〇年前の女性を受精させることができるだろう。この数珠つなぎの連鎖を、私たち の祖先が海で泳いでいたときまでさかのぼらせることができるだろう。それは途切れることなく、魚 類まで戻っていくことができ、自分の時代から一〇〇〇年前の時代へ運ばれたすべての乗客が、その 祖先と交配できるだろうというのは、依然として真実であり続けるだろう。しかし、どこかの地点で、 それは一〇〇万年前かもしれないし、それより長いか短いかもしれないが、最後の一駅区間だけの乗 客にはできても、現生人類がある祖先と交雑できなくなる時がくるだろう。この時点で初めて、私た ちは別種までさかのぼることができたと言えるだろう。 この障壁は突然にはやってこないだろう。ある個体について、彼はホモ・サピエンスだが、両親は ホモ・エレクトウスだということが意味をなすような世代はけっして存在しないだろう。もしそうし たければ、これを一つのパラドックスと考えることはできるが、どんな子供であれ、両親の種と別種 のメンバーであるなどということは、たとえ親子の数珠つなぎの連鎖をヒトから魚類まで、さらにそ れより先までも伸ばしたとしても、考慮すべき理由がない。実際には、筋金人りの本質主義者を除け 両 ば、誰にとってもパラドックスではない。それがパラドックスでないのは、成長中の子供が背の低い ~ 状態にあることを止めて突然に背が高くなる瞬間などけっして存在しないという発言がパラドックス 「フではないのと同じことである。あるいはやかんが冷たいことを止めて熱くなる瞬間などないように。 4
ヒトという種の遺伝的歴史についてのいくつかの推測を引き出すことができた。彼はその結論を、 ページに転載したような伃益なダイアグラ」要約した。 テンプルトンの主要な結論。 よ、アフリカからの大移動 ( 一 - ( 」田い 6 一乢を・ 6 ・ ) たというものである 一七〇万年ほど前の ( ホモ・エレクトウス ) の脱出 ( 誰もが受け人れており、証拠は主とし て化石からである ) と説が推奨する一五—八万年前の最近の大移動に加えて、もう一つ、八 四万年前から四二万年前にかけて、もう一つアフリカからアジアへの大がかりな移住があった。この シグナル 真ん中の移動 ( とでも呼ぼうか ) は、一三の、ハ - プロ外オの ~ うぢの三つからの残存「徴候」 によって支持される。の移動はミトコンドリア QZ< と >- 染色体の証拠によって支持される。 その他の遺伝的、、、「篋篋は、五万年前にアジ・ア・からアプげ力への大規模な里帰りがあったことを明ら かにする。それより少し後には、ミトコンドリア QZ< とさまざまな小さな遺伝子が、その他の移動 があったことを漏らしてくれる。南ヨーロッパから北ヨーロッパへ、南アジアから北アジアへ、太平 洋を越えてオーストラリアへの移動である。最後にミトコンドリア 2Z< と考古学的証拠が示すとこ ろによって、人間はおよそ一万四〇〇〇年前に、北東アジアから当時のべ ーリング陸橋をわたって、 北アメリカへと人植していった。その後すぐにパナマ地峡を越えて南アメリカへの人植が続く。つい でながら、クリストファー ・コロンプスとリーフ・エリクソンのどちらかがアメリカを「発見した」 類 と一言うのは、人種差別以外の何ものでもない。私の意見では、同じように不快なのは、自分たちの祖 人 て先がアメリカ以外の上地にすんでいたことを否定するアメリカ先住民のロ承による歴史を、相対主義 す 者たちが「尊重」することである シグナル 他の遺伝的徴候によって、テンプルトンの三つの主要なアフリカからの大移動の中間に、アフリカ ン と南ヨーロッパ、および南アジアとのあいだで、遺伝子の流れが渦のように行ったり来たりをたえず 9
4 6 た動物の祖先でもある ( この場合には、ランデヴー地点で出会うアフリカ獣上目 Afrotheria と呼 ばれる大きな分類群全体のことであり、これにはゾウ、ジュゴン、ハイラックス、およびマダガスカ ル島のテンレック類が含まれる ) ことを忘れないようにしてほしい。 私の論法は、背理法によっている。この場合「ヘンリ ー」は、すべての現存の人類を生んだか、一 人も生まなかったかのいずれかであることが自明であるほど十分に、昔に生きていたと仮定してある。 ところで、どれほどの昔であればこの話は十分なのだろう。これはむずかしい質間である。一億年は 私たちの探し求めている結論を断言するに十分である。もしわずか一〇〇年しかさかのぼらなければ、 一人の個人が、すべての人類が自分の子孫だと主張することはできないが、一万年、一〇万年、ある いは一〇〇万年といった場合については、どう一言えるのだろう。この背理法を自著『遺伝子の川』で 説明したときには、正確な計算は私の手に負えないものだった。しかし幸いにも、イエール大学のジ ョゼフ・・チャンという統計学者が今やこの計算にとりかかっている。彼の計算と、それが指し示 す意味が〈タスマニア人の物語〉の中身になっており、コンセスター 0 はすべての人類の最も年代的 に新しい共通の祖先であるがゆえに、この物語は、このランデヴー地点にとりわけふさわしいもので ある。ランデヴー地点 0 の年代を決定するために私たちが必要とするのは、チャンが使っているよう なより洗練された計算法なのである。 一ンデヴー地【は、私たちの過去にさかのぼる巡礼において、初めて人類の共通祖先に出会う時 点である。しかし私の背理法に従えば、それよりさらに過去にさかのぼれば、タイムマシンで出会う 個体が共通の祖先であるか、さもなければ誰の祖先でもないかのどちらかであるような地点が存在す る。このはるかに遠い過去の里程標が立っ場所では、とくに選び出して注意を向けることができるよ うな祖先は誰もいないけれども、通り過ぎながら会釈するくらいの価値はある。なぜなら、そこは、