グッチオ - みる会図書館


検索対象: ザ・ハウス・オブ・グッチ
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1. ザ・ハウス・オブ・グッチ

2 クッチ帝国 7 ・″ん ( 誌て℃ / 〃 Y 、」ト 7 丁 世界大戦が勃発したとき、三十三歳になっていた彼は大家族を抱えていた。それでも彼は輸送運転手 ちょうへい として徴兵された。戦争が終結したとき、グッチオは今度はフランツイというフィレンツェの革工芸 品の工房に勤めて、原材料となる革の選別法を学び、乾燥方法やなめし方ばかりでなく革の種類や等 ばってき 級別の扱い方についても勉強した。すぐに工房のローマ支社長に抜擢され単身赴任した。アイーダが 子どもたちとともにフィレンツェに残ると言ったからだ。グッチオは毎週末に家族のもとに帰り、早 おこ くフィレンツェに戻って高品質の皮革製品を理解する顧客向けのビジネスを興したいと願っていた。 一九二一年のある日曜日、フィレンツェの街をアイーダとともに散歩しているとき彼は、トルナブオ ニ通りとアルノ川沿いにあるゴルドーニ広場を結ぶヴィーニヤ・ヌオーヴァ通りという狭い側道に 小さな貸店舗を見つけた。彼とアイーダはさっそくそこを借りる相談を始めた。グッチオの貯金と親 戚からの借金で夫婦は一九二一年に最初のグッチの会社、グッチオ・グッチ鞄店をそこに設立し、の ちに単独オーナーとなって会社名をグッチオ・グッチ個人商会と変更した。フィレンツェで最高にエ レガントなトルナブオーニ通りに近く、グッチが狙う顧客層が集まる店が周辺にある絶好の立地だ。 最初グッチオは、トスカーナのメーカーをはじめ、ドイツやイギリスから高品質の革製品を仕入れ クッチオはしつかりとし て、今日と同じくフィレンツェに大勢集まってくる観光客に販売していた。。 た作りの丈夫な。ハッグや旅行鞄を手頃な価格帯で売っていた。もし気に入ったものが仕入れられない と、特別に注文生産することもあった。自分自身もエレガントでありたいと願い、つねに高級なシャ よそお ッとばりつと。フレスがきいたスーツで非の打ちどころなく装っていた。 「父には非常に洗練された感性がありました。私たちはみなそれを受け継いでいます」と息子のアル ドはいう。「父が売るすべてに、その趣味のよさは刻印されていました」 ぼつばっ ◎ 0 ノ 5 ◎

2. ザ・ハウス・オブ・グッチ

3 グッチ、アメリカに進出する GUCCI GO んト」 4 〃 : 大 / C 月、 アメリカ人のイタリアのデザインに対する関心が高まるにつれて、アルドはアメリカで、とくにニ ューヨークでグッチを展開したい、と考えるようになった。アメリカ人はこれまでもグッチの最高の 顧客だった。彼らは手作りの革バッグやアクセサリーのクオリティとスタイルを愛した。アルドはグ せま ッチオに、ぜひともニ = ーヨークで開店するようにと強く迫ったが、父はいつもと同じように空の左 と答えるばかりだった。 ポケットを示して「金がない 「どうしてもやるというのならおまえの首をかけてやれ。おれからの資金をあてにするな」とグッチ オは息巻いた。「必要なら銀行に行って、どれほどのリスクを負わねばならないのかよくよく聞いてく 「の力しし ! そりやおまえは正しいかもしれないさ。おれはどうせ年寄りだからな」。しかしグッチオ はしだいに軟化していった。「自分の庭で作った野菜が一番だと信じ込んでいる古くさい人間なのさ、 おれは」 その時点でアルドは、もうそれ以上父にしたがう必要はなかった。ついにゴーサインが出たのだ。 さっそくニューヨークに飛んだが、ローマ、 。ハリ、シャノンとポストンを経由して、当時は二十時間 近くかかった。ニーヨークでアルドはフランク・デ、ガンという弁護士と会い、計画を実行するに 3 グッチ、アメリカに進出する GUCCI GOES 」辷 ER 、 04A 「 ◎ 029 ◎

3. ザ・ハウス・オブ・グッチ

あたって助けを求めた。その後彼は、弟のロドルフォとヴァスコをともなってあらためてニーヨー クを訪れた。リ 至着すると、アルドははりきって弟たちを連れて五番街の高級店をあちこち案内した。 「このシックな通りにグッチの看板が掲げられるのを見たいだろ ? 」。彼は聞いた。結局最初のグッチ 店は、五番街から少し入った東五十八番通り七番地にショーウインドウ二つ分の小さな店でオープン した。デガンの協力で、グッチはアメリカで最初の法人組織グッチ・ショップス有限会社を設立し、 資本金六千ドルでスタートした。新しいグッチ社はアメリカ市場でグッチの登録商標を使用する権利 も獲得した イタリア国外でグッチの登録商標の使用が許可されたのはこのときだけだ。グッチが その後海外に設立した会社はすべてフランチャイズ契約を結んだ。 アルドはフィレンツェのグッチオに電報を送り、父をあらたに設立した会社の名誉会長に任命した と伝えた。 グッチオは火を噴きそうな勢いで怒った。 「すぐに帰ってこい 、この。ハカ息子が ! 」。グッチオは電報で返事をした。おまえらは愚かで無責任だ、 と責め、まだ自分が死んでないことを思い出させた。こんな危なっかしい計画を推し進めるというの おど であれば、遺産を与えないと脅した。アルドは悪いほうにばかり予想し脅す父を歯牙にもかけなかっ た。彼はまた年老いた父が亡くなる一年前に、 ニューヨークに連れてきて新しい店を見せた。グッチ オはまるで自分の発案でニ = ーヨーク店がオープンしたかのように大興奮した。友人たちには、自分 がやれといったのだとさえいっていた。 「コンメンダトーレ ! 」と友人たちはイタリアが君主制だったころの勲位で、グッチオに賞賛を捧げ : しカん た。「きみの慧眼には恐れ入るよ ! 」 おろ ささ ◎ ( ) 3 ひ◎

4. ザ・ハウス・オブ・グッチ

3 グッチ、アメリカに進出する ( 計イ : に / GO んト」 R / C 」、 「結局アルドの計画がけっして無謀ではなかったということを見届けるまで父は生きていました」と グリマルダはいった。 グッチオは七十代で、人生に何一つ不満はないはずだった。商売はフルス。ヒードで拡大していた。 グッチの名前はイタリアばかりでなく、遠くアメリカでも広く知られている。三人の息子たちは積極 的に事業を展開し、いつの日か家族経営企業を継いでくれるであろう孫たちも順調に育っている。あ らたに孫が生まれるたびに、グッチオはこういったそうだ。「革のにおいをかがせろ。それがこの子の 将来を決定づける香りとなる」 グッチオは自分の息子たちと同じように、孫のジョルジョ、 ロベルトと。ハオロに店で包装と配達の 仕事を手伝わせ、それがビジネスを学ぶ第一歩にして唯一の道であると固く信じていた。当時ロドル フォの息子マウリツイオはまだ幼くミラノに住んでおり、グッチ家の教えの洗礼を受けていなかった。 一九五三年にアルドがニーヨーク店を開店した十五日後の十一月のある日、妻のアイーダと映画 を見に出かけようとしていたグッチオは、突然心臓発作を起こして倒れ、そのまま亡くなった。七十 したく 二歳だった。支度に手間取っていることをいぶかしんだアイーダが上の階にあがってみると、バスル ームの床に夫は倒れていた。まるで時計が針を止めるように、心臓が動きを止めたんです、と医師は いった。献身的に夫に尽くした妻も、それから二年後に七十七歳で亡くなった。皿洗いから身を興し たグッチオ・グッチは百万長者となり、彼が築いたビジネスは二つの大陸で有名になった。息子たち はその帝国を運営し、父はのちにグッチ帝国の代名詞ともなった家族間の醜い争いを見すにすんだ。 だが種をまいた責任はグッチオ自身にもある。彼は息子たちを互いに競わせた。競争させることで、 もっといい結果が出ると信じていたからだ。 おこ ◎ 0 3 ノ◎

5. ザ・ハウス・オブ・グッチ

グッチ一族は自社で働く職人たちと親密な家族的関係を築き、職人たちを名前で呼び、古株の名匠 といえる技を持った職人たちの背中も陽気に叩いて励まし、家族の様子をたずねるのを忘れなかった。 戦後グッチ内でアルドの地位が台頭し、彼がマーケティングで非凡な才能を発揮するようになって グッチの名前は世界中に知れ渡った。老いたグッチオは、フィレンツ = にすべてのビジネスを統合し てしまおうとした。アルドの遠大な計画によって、これまで獲得したものを失うことを恐れたグッチ オは、事あるごとに息子の考えに反対した。 いらいらとハバナ産葉巻の灰を落としながら、グッチオはズボンの左のポケットにもったいぶって 手を突っ込みーー いつも右側に時計を入れていたーー・空つぼの手を広げてみせた。「金がないんだよ。 金さえあれば好きなことができるのにな」とよくいった。 だがその一方でグッチオは個人的にはアルドのビジネスの才能を認めていた。ロ ーマの店は繁盛し ていた。、 / リウッドのスターたちは映画『甘い生活』で描かれたとおり、この首都で毎日お祭り騒ぎ に浮かれていた。スターたちはグッチの店に箔をつけ、顧客の獲得に大きな役割を果たした。ゆっく りとグッチオはアルドに道を譲り始めた。ビジネスの拡大をはかろうとするアルドの計画をめぐって 父と息子が激しい口論を繰り広げることは変わらなかったが、グッチオはこっそりと息子を助けて、 すいこ、つ 計画遂行のための資金を得るために銀行に足を運んだ。 そのうちにアルドは海外にも目を向けるようになり、ニ = ーヨーク、ロンドンと。ハリに支店を出す ことを考えるようになった。なぜ客がやってくるまで待っていなくてはならないのか ? こちらから 出向け。よ、 をしいことだ。資金繰りをアルドが心配している様子はなかった。父が先のことを心配するの に対し、息子は自分のアイデアが必ずうまくいくにちがいないと確信していた。

6. ザ・ハウス・オブ・グッチ

要がある」。そこで二人は。 ( オロに仲直りを申し出ることにし、一月に具体的な内容を示した。グッチ 帝国はこのとき大々的に変わることになった。親会社のグッチオ・グッチと、グッチ・パルファンを はじめとする子会社を合体させてグッチオ・グッチ株式会社とし、ミラノ証券取引所に登録する。ア ルドの三人の息子たちはグッチ全事業の一一。、 ーセントずつを取得し、アルドは一七。ハーセントを取 って、パオロはグッチオ・グッチの副社長に就任する。それに加えてグッチ・パルファンのもとにあ らたにグッチ・プラスという新しい部門を設立し、ライセンス業務を一括する。パオロはこの業務を 担当する部長に就任し、グッチの名前のもとに彼がすでにかわしたライセンス契約を結ぶことができ るようになる。加えて、利子をつけて退職金を支払い、年間十八万ドルの給与を払う。。 ( オロはこれ で望んでいたすべてを手に入れるように思えた。契約には両者ともかかった経費を自分たちで負担す ることと、。ハオロが自分の名前を出して製品をデザインし商品を宣伝することを取り止めるという条 項があった。 パオロは疑いを捨てきれなかった。自分のデザインはロドルフォが社長をつとめる会社の役員会で 承認されなければならないといわれて、疑いがあたっていると確信した。それでも彼は条件を呑んだ。 二月半ばにやっと契約書に署名したが、休戦は長続きしなかった。 グッチ一族は一九八二年三月に開かれた役員会議に。 ( オロを呼び、すでに彼が契約を結んでいた製 品ラインのくわしい資料を提出し、またグッチ・プラスのために準備している新しい企画案を説明す るよう命じた。。 ( オロは説明資料の準備に奮闘したが、会議は彼が期待していた趣旨で開かれたもの ではなかった。役員会は彼の提案をことごとく却下し、低価格帯を打ち出すというコンセプトは「社 わな の利益に反する」と切り捨てた。以前よりもっと苦い思いを噛みしめた。 ( オロは、自分が罠にかけら ◎ 088 ◎

7. ザ・ハウス・オブ・グッチ

2 ク、ツチ帝国 TH ん ( 計工 ( カ YIVA 、 S7 ' ト ロドルフォがまだ家業を継ぐことなど毛頭考えず映画界でのキャリアを追求していた一九三五年、 ムッソリーニがエチオビアに侵攻した。イタリアから遠く離れた国で起こった事件は、グッチのビジ ネスに大きな影響を及ぼした。国際連盟がイタリアに対し禁輸措置をとったためである。五十二カ国 がイタリアへの輸出を拒否し、グッチオは高級皮革をはじめ最高級バッグや鞄を作るために必要な原 料を輸入できなくなった。自分が興した小さなべンチャー企業が父親の麦藁帽子ビジネスと同じ運命 をたどることを恐怖したグッチオは、工場を軍向けの靴製造へと方向転換した。 だが、サルヴァトーレ・フラガモが禁輸措置がとられていた暗黒の期間に替わりの材料でもっと もすばらしい靴を作り出したのと同様、グッチオも代替策を見出した。フェラガモは靴が作れそうな 素材はすべて試し、コルク、ラフィア椰子からキャンディを包んでいるセロファンにいたるまで利用 あぶら した。グッチ家はイタリア国内で調達できる皮革を買い集め、クオイオ・グラッソ ( 脂を塗った革 ) をサンタクローチェ教会界隈にある地元のなめし革工場で加工した。トスカーナ地方に広がるキアー ナ渓谷の青々と茂った草を与えられた子牛は、皮革に傷がっかないように牛舎の中で育てられる。皮 革は外側を処理されて、魚の骨からとった脂を塗られる。この処理で、やわらかくなめらかでしなや かで、表面のひっかき傷は指でこするだけで魔法のように消えてしまう皮革ができあがる。クオイオ・ グラッソはすぐにグッチの看板素材となった。グッチオはラフィア椰子や柳の枝を編んだ細工を使い トリミンクした 木などを組み合わせて皮革を使う部分をできるかぎり抑える工夫をした。布地に革で つまりへンプを使って特別に織らせた布地をナポリから取り寄せた。こ バッグも考案した。カナバ の素材を使ってグッチは、頑丈なっくりだが軽く、ユニークな旅行鞄を作り、これはすぐにもっとも 成功した商品となった。グッチオはまた会社最初のロゴマークも発案し、皮革の自然な色の上に、 ◎ 027 ・

8. ザ・ハウス・オブ・グッチ

ッチ・ショップスの株は三人の息子たちがそれそれ一一 ーセントずつ持っている。この結果イ タリアにある母体となるグッチオ・グッチ社のアルドの持ち株はすべてなくなり、グッチ・ショップ スの株一六・七パーセントだけ所有することになった。フランス、イギリス、日本と香港にある営業 会社については、アルドと息子たちはそれそれ持ち分があった。マウリツイオはグッチオ・グッチと グッチ・ショップスの株を五〇。ハーセント握っているし、外国の会社についてもロドルフォからの相 続分があった。。ハオロは自分が兄弟と同等に扱われないだろうとうすうす感じていたので、すでに「も し父がおれに何も遺さないっていうんだったら、おれは弁護士を一チーム雇って五十年かけてもおれ の分を奪ってやるからな」と公言していた。 もうこれ以上。ハオロと対立するのを避けるため、ロベルトとジョルジョはグッチオ・グッチの役員 会議では三・三。ハ ーセント分しか議決権を行使しないと申し合わせていた。 一九八五年十一月、ジ = ネーブの湖岸でマウリツイオがパオロと固い握手とともに交わした約束が 反故にされるときがやってきた。パオロの株を第三者委託されているクレディ・スイスのルガーノ支 社で、パオロとマウリツイオの両陣営が丁々発止とやり合った。パオロから起こされた訴訟の提出書 類によれば、マウリツイオが契約に違反したという。申し立てによると、パオロが経営参加するはず こうちゃく だった新会社グッチ・ライセンシング・サーヴィスに彼のポストはなかった。話し合いは膠着状態と なり、マウリツイオにグッチの五三・三。ハ ーセントの持ち分を与える同意にはとてもいたりそうにな かった。その夜遅く、終業時間がとっくに過ぎて銀行の関係者がうんざりするころになって、。ハオロ は「茶番劇としか思えない」と彼がいったこの問題に決着をつけた。これまでに作成された契約書の 下書きを破り捨て、アド。ハイザーのチームを再編成して、自分の株券は渡さないと宣一言したのだ。約 ◎ - / 2 イ・

9. ザ・ハウス・オブ・グッチ

チャンダイジングを展開するほうが、長期的に見てプランド・マーケティング は成功すると考えているからだろう。 一九二一年、フィレンツェの小さな鞄店からスタートしたグッチは、創業者 のグッチオ・グッチが生前に想像すらしなかったぞあろう世界的有名企業とな った。ただし、たぶんグッチオ・グッチは自分が作った会社が現在のような形 となることは望まなかっただろう。なにしろ現在のグッチ・グループの主要ポス トにグッチ家の人間は一人もいないし、家族経営を鉄則に、経営者から従業員 まて全員が仲良く働き、毎日楽しく仕事をするというイタリア流とはほど遠い 経営形態てある。どちらかいいかは別にして、伝統的イタリア流ては、グロー ヾルスタンタードにのっとり、 世界企業として生き残っていけるはずがない。 多くのイタリア流小企業がつぶれていく中ぞ、グッチはどのように生き残って きたか、本書はそこに焦点があてられている。 グッチ家出身の最後の経営者となったマウリツイオ・グッチが何者かに銃殺 される、という衝撃的事件から幕を開ける本書は、グッチ八十余年の歴史をた どってい 。だが内容はグッチ家の栄枯盛衰てはなく、むしろ第一一次世界大戦 ヾレレ」ーして 後一九五〇年代以降先進諸国てめざましい発展を遂げ、グローノノイ ファッション産業の歴史、そしてプランド・ビジネスの過去から未来への流れ ふかん を俯瞰して描くほうに力点が置かれている。グッチがなせ、どのように外部か ◎イ 30 ◎

10. ザ・ハウス・オブ・グッチ

8 マウリツイオ指揮権を握る 財月し R / / / 0 7 」 K ん S 0 〃月 G ん 豪華マンション、スイスの銀行口座には二百万ドルの預金、そしてグッチ帝国の五〇。ハーセントの持 ち分で、これは大きな利益を生み続けている。動産不動産を含め三千五百億リラ ( 当時の為替レート で二億三千万ドル ) 以上の資産を残す一方で、ロドルフォはマウリツイオに一九三〇年代から伝わる グッチの商標が入ったクロコダイル革の財布を一つ贈った。マウリツイオにとっては祖父にあたるグ ッチオがロドルフォに贈った、薄手の黒い財布である。中にはグッチオがサヴォイ・ホテルで働いて いたころの思い出として、英国の古いシリング硬貨が一枚入っていた。財布の紐を握るのはいよいよ おまえだ、という気持ちをこめた贈り物だ。 財布の紐を握ることは、決定権を持っことを意味する。だが息子には経験が不足しているーー - ・それ まで何もかもロドルフォが息子のためにお膳立てをして、一から十まで決めてきた。それ以上に前途 多難だと不安なのは、マウリツイオが父の時代よりもむすかしい決定を迫られることが目に見えてい るからだ。たしかにニーヨークで伯父のアルドは教育してくれたが、伯父が成功したときとは時代 がちがう。マウリツイオの時代はより複雑だ。高級品ビジネスの競争は厳しくなっているし、グッチ しれつ 家内部の抗争も熾烈だ。 「ロドルフォが犯した大きなまちがいは、マウリツイオをもっと早くから信頼してやらなかったこと だ」。マウリツイオの助一言者であるジャン・ヴィットリオ・。ヒローネは、亡くなる少し前の一九九九年 五月ミラノでインタビューに答えていった。「財布をがっちり自分で握って、マウリツイオに自立する チャンスを与えなかった」 ロドルフォが亡くなった当初、アルドはマウリツイオを注意深く見張っていた。パオロとの争いで も揺るがなかった会社の体制だが、弟の死によって動揺を免れないと懸念していたからだ。兄弟はい ◎ . / 0 7 ◎