メローはどうかしているんじゃないかと考える人もいた。 「彼女が手を貸したって、いまさらどうなるってもんじゃないよ」とタイム誌のインタビーで、あ るニューヨークの小売業のトップがいった。「グッチはとっくの昔に衰退してしまっている」 メローがグッチに移ったことは、八〇年代の終わりから九〇年代のはじめにかけて、ヨーロツ。ハの デザイナー・ブランドがアメリカと英国のデザイナーたちを起用するようになったのと同じ流れの中 にある。英国の若い二人のデザイナー、アラン・クリーヴァーとキース・ヴァーティーはアドリア海 沿岸にある都市、アンコーナにあるジェニーグループが展開しているイタリアの人気。フランド、ビブ ロスのデザイナーとしてこのときすでに起用されており、楽しいトレンディなスタイルをデザインし ていた。九〇年代に入ると、アメリカのデザイナー、レベッカ・モーゼスがジェニーの基幹ブランド に、また数年後には英国のリチャード・タイラーがクリーヴァーとヴァーティーに代わってビブロス の専任デザイナーとなった。同じくアドリア海沿岸のカットーリカに本拠を置くジェラーニ一族は、 アメリカのデザイナー、マーク・ジェイコブスとアナ・スイと契約し、フェラガモはアパレル部門の 強化のためにスティーヴン・スローウィックと手を組んだ。プラダ、ベルサーチ、アルマーニやほか のデザイナー・ブランドは、こっそりアメリカや英国のデザイン学校の卒業生をスカウトしていたし、 ベルギーのデザイン学校にもやがて注目が集まった。 メローが入ったことで、グッチには若い才能が集まりだした。メローは、ニューヨークのジェフリ ・ビーンで買い付けとアクセサリーを担当して活躍し、以前にはノ ーニーズで製品開発の仕事をし た経験があるデザイナーのリチャード・ライハ ートソンを雇った。またカルバン・クラインで張りき って働いていたデヴィッド・ ハン。ハーもある日メローから電話をもらった。彼はグッチでクリエイテ ◎ 768 ◎
こと。 フォードがお手本にしたのはカルバン・クラインだ。アルマーニがアメリカで成功をおさめる前 高校生だった七〇年代の半ばから彼はカル。ハン・クラインのシーツを敷いて寝ていた。 「カルバン・クラインは若く、おしゃれで、金持ちで、魅力的だった」。フォードはニ = ーヨークの自 宅であるべントハウスで撮影されたモノクロ写真とともに、カルバン・クラインが特集で紹介されて いた雑誌記事を熟読したことを覚えている。 「自分の名前でライセンス・ビジネスを展開し、ジーンズや既製服を売っていた。映画スターみたい なファッションデザイナーは彼が最初だった」。フォードはカルバン・クラインとはスタジオで遊ん でいたときに会ったこともあり、小犬のようにあとをついて回ったこともある。彼のようになるのが フォトの夢だった。 パリに戻ってパーソンズの学校事務に相談すると、ファッションデザインを専攻したいのであれば、 もう一度最初からやり直さなくてはならないといわれた。それはやりたくない。だから一九八六年に 建築科を卒業するとニーヨークに戻り、ファッションデザイン画を描き、職探しを始めた。断られ てがっかりしたくなかったので、自分がパーソンズのどの科を卒業したかにはふれなかった。 はいう。「欲しいものが 「ぼくは世間知らずなのか、自信家なのか、それとも両方なんだ」とフォード あったら手に入れる。ファッションデザイナーになると決めたなら、誰かが必ずぼくを雇うはずなん だよ ! 」。働きたいデザイナーのリストを作り、片っ端から電話をかけた。 ドウ 「いまは空きがないと電話でいったのよ」。ニューヨークで活躍するデザイナーのキャシー・ ィックはいう。「でもとても礼儀正しくこういうの。『私のデザイン画を見ていただくことはできませ ・ノ 88 ◎
。バツレリーニは勢い込んでい 「そう、それは必ずしもとち狂っているとはいえないんじゃないの ? 」 「アルマーニとかいうやつのことをしつこく推薦しているみたいなんだな」。パオロが続けた。「誰だ よ、いったい ? 」。誰もその名前を聞いたことがなさそうだと知ったパオロはいった。「そんなやつは 必要ないね」 ハオロは数シーズンにわたってコレクションのデザインを担当し、マノーロ・ヴェルデというキ ハの若手デザイナーを一シーズンだけ起用したものの、一族との関係が悪化したためにフィレンツ 工を去って一九七八年にニューヨークに渡ってしまったので、グッチには一九八二年までアパレルの 指揮を取る人間が誰もいないままになっていた。イタリアのデザイナーの人気が高まる一方だという のに、グッチの既製服部門にはデザイナーが不在だった。数シーズンにわたって、一族はバツレリー ニと内部スタッフだけでコレクションを作っていたが、助けが必要なことに気づいていた。 マウリツイオはグッチのイメージを活性化するために、名のあるデザイナーが必要であるという提 ーニこそグッチにびったりのカジュア 案を浮上させた。アルマ ーニの仕事を知っていた彼は、アルマ ルでエレガントなスポーツウェアをデザインしてくれると考えた。しかしそのときまでにアルマー は急速に発展した自社の仕事にかかりきりになっていた。そこでグッチはおおっぴらに外部デザイナ ーを探し始めた。 既製服という新しい分野に乗り出すにあたって、マウリツイオは一線を引く必要があった。移り変 わりの激しいファッション市場においてグッチの名前を打ち立てる。だがデザイナーの名前によって グッチのブランド名がかすむようなことは避けねばならないし、古くからの顧客のグッチ離れは防が っこ。 ◎ 70 ひ◎
たわけでもない経営者と一人のデザイナーは、業界では前例がないほど信頼しあった関係を築くこと こよっこ。 「喧嘩のあと、ドメニコはデザインに関してはぼくを全面的に尊重してくれた」とフォード は評価し た。「ほくが確信があってやっているのだとあの人は理解し、その確信がいい結果をもたらすとやがて わかっていった。彼は。ほくを信頼してくれたし : ほくにはその信頼がどれほど深いか察せられて、今 度は・ほくのほうが彼を全面的に信頼するようになった」 デ・ソーレは、自分はデザイン分野でのフォードの実力に嫉妬したことはないという。「トムにいっ たよ。私がコレクションをデザインするわけじゃない。私は経営者で、デザイナーじゃないんだよっ てね」 「われわれがこれほどまで息の合ったチームになれたのは、二人とも仕事に取りつかれていたからだ ね」とフォード はつけ加えた。「彼はビジネスを強固なものにしようと躍起になっていた。われわれは 駆り立てられるように仕事しまくったよ」。そこでいったん口をつぐんで口調を変えた。「われわれは きっと成功する ! それしかないー トメニコを信頼したもう一つの理由 しかも二番手じゃだめだ。。 はそこにある。ドメニコはけっしてしくじったりしないとわかっていたから、・ほくは自分の将来を彼 に預けた。ビジネスにおいて彼は必す勝つはずなんだ」 外野は、デ・ソーレがトム・フォードに大きな権限を与えすぎていると批判し、フォードがグッチ の名前を乗っ取り、フォード の出ていくかとどまるかの決断に会社の浮沈がかかってくる危険性があ るといった。グッチのビジネスは、デ・ソーレの経営手腕とフォードの創造力が危うい力関係で綱引 きしながら進められることになるにちがいないと思われた。一例として、ロンドンのスローン通りに
ミラノのファッション業界関係者たちは、一年に二回フィレンツェで開かれていた婦人既製服コレ クションを無理やりミラノに移し、バイヤーを格式あるサロンに招待して見せるサラ・ビアンカ・ス タイルのショーをやめた。 ミラノは女性向けファッションの新しい中心地となった。注文服仕立ての 職人たちが戦後しだいに減り、空洞化していたイタリア・ファッション業界を、若い新人デザイナー たちが台頭して埋めた。新人デザイナーたちはみな北イタリアの中規模服飾メーカーで一つのブラン ドを立ち上げ、新しい創造的なデザインを打ち出すという形でキャリアをスタートさせた。アルマー ニもベルサーチもジャンフランコ・フェレも、小さなアパレルのブランド・デザイナーの出身である。 流行を作り出すデザインの需要が高まるにつれて、デザイナーたちは自分の名前で会社を興す資本を 集められるようになった。最初は小規模でスタートした若いデザイナーたちだが、やがて会社は業績 工をかまえた。 を伸ばし、ミラノのファッショナブルな通りにアトリ アルマーニとベルサーチはミラノ・ファッションを背負って立っ両巨頭となった。ベルサーチは派 手でけばけばしくグラマラスなスタイル、一方アルマーニはクールで控えめでエレガントなスタイル で、二人は対照的だった。ベルサーチはミラノとコモ湖畔に、かって貴族の屋敷だった荘厳な邸宅を 購入し、彼が追求している華美なバロックスタイルで内装し、高価な芸術作品でいつばいにした。ア ルマーニは「べージュの王様」と呼ばれるとおり落ち着いた控えめのスタイルを好み、ミラノ郊外の ロン。ハルディア地方の田園とシチリア島近くの。ハンテッレリアの島に別荘を買い、最小限のものしか 置かないシンプルなスタイルで内装した。 イタリアのファッション界は新しいエネルギーが注入され、活性化した。最先端の感覚を売り物に する写真家やトップモデルや華やかな広告キャンペーンに後押しされ、あらたにつぎこまれた資金に ◎ 0 98 ◎
11 裁かれる日 .4 〃イ Y / 、 0 ( 雇訳 7 ' 「いま思えば意地悪なオカマで、二十歳そこらの若造をからかったんだろうけれど、ぼくはその言葉 が頭から離れなくなってしまったんだ」。撮影の間フォード はずっと下を向いて前髪をたらそうとして 「ディレクターが何回となく撮影を中断して怒鳴った。『彼の髪を直してやってくれないか ? 』ってね」。 フォトはそのときの出来事がどうしても心に引っかかった。仕事をすればするほど、はげるんじゃ ないかと不安でたまらなくなってきたフォードだが、同時にほかにも気になることがあった。「ぼくだ ったらもっといいが作れるのに」「ほくならこんな風には演出しない」「あっちから撮ったほうが しい絵柄になるのにな」 つまり彼は指揮をとる側に回りたかったのだ。 彼はニューヨークのパーソンズ・スクール・オブ・デザインに入学し、実家の居間の模様替えをし たとき以来関心があった建築の勉強を始めた。途中でパーソンズが分校を持っているパリに移った。 だが修了間近になって建築が自分の趣味からすると堅すぎると気づいた。フランスのデザインハウス、 クロエにインターンシッ。フで派遣されたとき、彼は自分が感していたことがやはり正しかったと確信 ファッションの世界のほうがはるかに楽しい。二年生も終わろうというころ、二週間ロシア で休暇を過ごしたフォード は、ある晩食あたりして、隙間風が吹き込む安ホテルに這うように帰った。 「みじめな気分で一人部屋で寝ていたその夜、真剣に考え始めたんだ。いま自分がやっていることは 本当にやりたいことじゃない。そして突然ひらめいた。ファッションデザイナー そうだ、それし かない。まるでコンピ = ーターからプリントアウトされたみたいにファッションデザイナーという文 字が脳裏に浮かんだ」。ファッションデザイナーに必要な資質は何か自分はよくわかっていると思った。 かっこよく理路整然と話し、カメラの前に堂々と立っことができ、何を着るべきかアイデアを与える ◎ 7 8 7 ◎
払っているトム・フォードと数名のデザイナーを首にしろと命令してきた。デ・ソーレの個人用ので はなく、オフィスの真ん中にあるファックスから吐き出されてくる命令書を見たグッチ・アメリカの 従業員たちは全員が唖然とした。 「すぐにインヴェストコープに電話をかけて、ファックスのことを報告した」とデ・ソーレはいう。 「それからファックスを送り返して、われわれはデザイナーたちを首にすることはできないといった。 どうかしてるよ ! みんなつぎのコレクションに取りかかっているんだよ。マウリツイオのやること はいよいよ支離減裂になったと思った」 同じころ、トム・フォード はマウリツイオとインヴェストコープの関係悪化が自分の評判を傷つけ、 別の仕事を見つけるチャンスをつぶしかねないと見て、魅力的な条件を提示してくれたヴァレンティ ノに移ることを考えていた。 時代遅れの観は否めなかったが、ヴァレンティノはまだファッション界で羨望を集めるトップブラ ンドの一つだったし、婦人服ではクチュールと既製服の両方のコレクションをパリで発表し、若者向 け市場を狙ったメンズウェアをはじめ、アクセサリーや香水などすべてのアイテムを網羅して展開し、 ビジネス面でも好調だった。グッチで一年間働くうちに、経営環境の悪化にともなってデザイン・ス タッフがぼろぼろと辞めていってしまうため、フォードが抱える仕事はどんどん増え続けていた。そ の時点で彼はグッチの十一もの製品ラインーー服、靴、バッグ、アクセサリー、鞄とギフトを含む のすべてを、残った数名のアシスタントを使いながら、たった一人でデザインしていた。ほとんど睡 眠も取れないほどフォードは働いていた。だが疲れていたものの、自分がすべてをコントロールする 仕事のやり方が気に入ってもいた。 ◎ 23 イ◎
アメリカ人たちはグッチには輝かしい未来があることを証明した。メローは、長い間愛され続けて きた高級アクセサリ ー・メーカーとしてのグッチのデザインと技術をよみがえらせた以上の仕事を成 し遂げた。世界的に影響力を持っファッション関係のメディアの注目を集め、グッチをファッショナ ブルなアパレル・メーカーに発展させ、若手デザイナーたちを起用して、ファッションへの進出に懐 疑的だった人たちにもグッチが衣料品でもデザイナー・ブランドとなりうることを認めさせた。デサ イナーたちの中でもトム・フォードはもちろんスターであり、彼が打ち出したス。ハイクヒールや細身 のスーツや洒落たハンドバッグのおかげで、グッチは名声と富を得ることができた。メローとフォー ドはその才能によって、グッチが成功するためにぜひとも必要なものをもたらしたのであるーー・それ は嵐の中を乗り切る力だった。
19 乗っ取り 7 ヨんん ( な下 R ていた。フォードの仕事は色褪せたにかっての輝きを取り戻させることで、既製服、香水とア クセサリーの事業と、百八十七ものライセンスの管理を行うことになる。 高級品ビジネスを揺るがした買収戦争の衝撃はいまだに尾を引いていたが、二人の切れるアメリカ 人が、以前 ~ を 」こま聖域だったフランスのファッション・ビジネス界に、グッチとイヴ・サンローランと いう二つのブランドで華やかな進出を果たした。つぎなる問題は、フォードが誰にのデザイン を任せるのか、それとも彼自身がデザインするのか、それなら誰がグッチのデザインを担当するのか、 である。たしかにフォードはファッション、デザイン、ライフスタイルとビジネスをすべて融合した コンセプトを考えて、ファッション業界に新しい次元を開いた頭のいい才能あふれる若手デザイナー ではあるが、はたしてすべてを自分一人でやりぬくことが可能なのだろうか ? グッチは高級ブランド業界の整理統合の波に乗って勢いを増しているし、まだまだ。フランドを吸収 していくかまえである。しかしデ・ソーレは、肝心なのは規模ではなく創造性だ、という主張を変え ていない。 「トムと私は、自分たちの仕事は調整と修正にあると考えている」とデ・ソーレはいう。「われわれは フランド・ マネージャーなんだよ。会社を見て、さあ、買おうというのではなく、その会社でわれわ れは何ができるだろうか、と考える。投資銀行家じゃないからね」。たしかにフォードとデ・ソーレは 投資銀行家ではないし、グッチを生んだフィレンツェの商売人気質も受け継いではいないが、ブラン ドに活力を与え、決断力と闘志でグッチを国際的企業の花形へと飛躍させていく力を持っている。 八十年の歴史でグッチは何回となく危機的情況に陥り、そのたびにあらたな地点で地盤を固めてき ・イ 07 ・
11 裁かれる日 」〃」 IN COURT' ゼニア、婦人服ではザ イタリアの一流服飾製造業二社と契約を結んだ。紳士服ではエルメネジルド・ マスポルトである。 一フン、、、 ートソンは並行して、チームに入ってくれる適当な人物をすっと探していた。イタリアに移 住して、グッチのために働いてくれる人が欲しい。「最初の六カ月はほとんど人探しに終わりました」 と当時を振り返る。「あのころグッチで働く人を見つけるのはとてもむすかしかった。それにマウリッ イオはアメリカ人がこれ以上増えるのは好まなかったし。イタリア人のグッチでなくなることを恐れ ていましたからー メローとラン、、 ートソンがグッチに入ったとき、すでに若手デザイナーたちが仕事をしていた。 「全員ロンドンからやってきたスカンディッチに住んでいた若者たちです。でもグッチの社員は彼ら を無視していた。あの子たちは孤立してましたよ。会社はデザイナーを信頼していなかったからね」 とラン、、ハートソンはいう。「ドーンと私はマウリツイオに、既製 服のデザイナーが切実に必要だと訴えたんです」 メローとラン。ハートソンがデザイン・チームを作ったそのこ トム ろ、一人のニ = ーヨーク在住の若い無名のデザイナー ミラノに新たにオ 親族との争いに勝利しグッチ社の実権を握ったマウリツイオ・グッチは、 フィスを開いてグッチ再興をかけた事業展開を図った。一九九〇年、父ロドルフォと祖父グッ チオの写真を前にして。 ( アー ・ストレイバー ) ・ 7 83 ◎