ポールへ戻る前後に John Crawfurd の "A Grammar and Dictionary 「 0 「 the Malay Language" ( 一 852 ) をイギリスから 取り寄せ、以後の旅行に携行している。この滞在中に進化に関 する一論文 On the Law which has regulated the lntroduc ・ tion 0 一 new Species. The Annals and Magazine Natural Histo 「 y, Second Series, 16 ( 一 855 ) 【一 84 ー 96. を発表している。 ) 一八五六年 一月一一十五日サラワク↓シンガポール ( 一月三十一日ンン ガポール着 ) ( マレー人青年アリーを雇う ) 五月一一十四日シンガポール↓パリ ( 六月十三日パリ島ビレ リン着 ) 六月十五日パリ↓ロンポック ( 六月十七日ロンポック島ア ンパナン着 ) ( 第一〇章パリとロンポック。第一一章、第一一一 章ロンポック ) ( もしシンガポールからマカッサルへ、直接行 くことができたなら、ここに立ち寄ることはなく、ウオレスは 彼自身の東方における重要な発見の一つを取り逃がしていたか もしれないという書き出しが印象的である。この旅でロンポッ クとパリの間が、動物の分布の境界線であることに気づいたの である。 ) 八月三十日ロンポック↓セレベス ( 九月一一日セレ・ヘス島マ カッサル着 ) ( 第一五章 ) 説十一一月十三日マカッサル↓アルー群島 ( 第一一八章 ) 一八五七年 解 一月一日ケー群島着 ( 第二九章 ) 一月六日ケー群島↓アルー群島 ( 一月八日アルー群島着 ) ( 第三〇章、第三一章、第三一一章、第三三章 ) 七月二日アルー群島↓マカッサル ( 七月十一日マカッサ ル着 ) ( 第一六章 ) 十一月十九日マカッサル↓アンポイナ、テルナテ 十一月二十五日チモール島クーパン着 ( 第一三章 ) 十一月二十六日クーパン↓・ハンダ ( 十一一月一日パンダ着 ) ( 第一九章 ) 十二月三日パンダ↓アンポイナ ( 十二月四日アンポイナ着 ) ( 第一一〇章 ) 一八五八年 一月四日アンポイナ↓テルナテ ( 一月八日テルナテ着 ) ( 第 二一章には、彼がそれから三年間維持した家の見取図がある。 『マレー諸島』には一言も書かれて、よ、・ : しオしカ三月二十五日に ジャイロロへ出発するまでの二ヶ月間に、彼はその家で論文を 一篇執筆し、ロンドンのダーウインに送ったという。この論文 On the Tendency 0 一 Varieties ( 0 depart indefinitely from the original Type". Proceeding the Linnean Society 0 一 London, Z00 一 ogy. 3 ( 1858Y 53 ー 62. は、六月初めにダーウィ ンの元に到着し、彼に大きな衝撃を与えた。ダーウインが長い 間構想を練っていた進化論の骨子が論文に書かれていたからで ある。ダーウインの研究を知っていた彼の友人達の勧めで、こ の論文はダーウイン自身の論文とともに、同年七月一日リンネ 協会で読まれた。この日が生物学上有名な自然淘汰説に基づく 665
チモール群島 リおよびロンボック 第一〇章 第一一章ロンポックーー・人々の風俗と習慣 ラジャはどのように人口調査をしたか 第一二章ロンボック 第一三章チモール 第一四章チモール群島の自然誌 セレベス島 マカッサル 第一五章セレベス マカッサル 第一六章セレベス 第一七章セレベスーーーメナド 第一八章セレベスの自然誌 モルッカ群島 バン、ダ 第一九章 第二〇章アンポイナ 195 179 172 巧 8 145 260 233 221 205 281 275
たこの近海にはびこる海賊を追撃するための小型蒸気戦闘 艦および三、四隻の一本マストの帆船があった。そこには また、少数の横帆式の商船と二〇 ~ 一二〇隻の種々の大きさ の原住民の船プラウがあった。私はオランダ人紳士メスマ ン氏とデンマーク人の商店主に宛てた紹介状を持っていた。 彼らは二人とも英語を話すことができ、また私の調査に適 〔訳註 1 〕 私は八月三十日ロンポックを去って、三日でマカッサル している滞在場所を見出せるように私を援助してくれる約 に着いた。二月からここへ来ようと無駄な努力を繰り返し東であった。ここにはホテルがないので、私はしばらくの てきており、また新しいことや興味深いことを非常に数多 間、ある種のクラ・フ会館に行った。 く見ることができると期待していた、その土地の海岸にこ マカッサルは私が訪ねた最も重要なオランダの町であり、 うして一歩を記したことは大変満足なことであった。 また東洋では今まで見たことのないような美しい清潔な町 セレベスのこの地域の海岸は低く平らで、内陸部を覆い であった。オランダ人は素晴らしい地方制度を持っている。 隠すように樹木と村落が並んでいた。ただ裸地や湿地状の全てのヨーロツ。 ( 人の家屋は、奇麗に白く塗られたような 水田が大きく広がっている開けた地域は、その例外であつ状態を保っていなければいけないのだ。またあらゆる人々 た。またそれほど高くない丘がいくつかその背景として眺 は午後四時に、自分の家の前に水を撒くことになっていた。 められた。しかし一年のうちでも特にこの時期に地上を覆道路には汚物がなく、また覆いの付いている下水路は、あ ス べ う、いつまでも続く靄のために、半島の高い中央部あるい らゆる汚物を大きく開いた下水管の中へ流し去った。下水 レ セ は南端のポンティンの素晴らしい峰はどこにも見ることが管の中には満潮時に海水が入るように、また引潮の時は流 できなかった。マカッサルの停泊地には、立派な四二砲フ出するようになっており、あらゆる汚物を海水と一緒に海 リゲート艦やその場所を守る艦艇などが停泊しており、まへ運び去る。町は海に沿った長く狭い一つの通りからでき 第一五章セレベス ( マカッサル、一八五六年九月 ~ 十一月 ) 205
イコ・フ・メスマン氏がおり、彼は親切にも私のために部屋 を見つけてくれたばかりか、いろいろと援助を申し出てく れたので、すっかり彼を訪問する気持になってしまった。 それで私は知事から通行許可証を手に入れ、ある日の夕方 マロスへ出発する一隻のポートを借り上げた。私の召使の アリーは熱が出て非常に具合が悪いので、彼を私の友人の ドイツ人医師に治療してもらうために病院に残さざるを得 私は七月十一日にまたマカッサルに到着し、私の古いマ マジャムの宿所に落着き、アルーでのコレクションを分類なかった。その代わりに私は、仕事についてまったく何に も知らない二人の召使を雇った。われわれは夜の間、海岸 整理し奇麗に荷作りした。これには一ヶ月を要し、それら をシンガポールへ発送した。銃の修理をし、また新しい銃、に沿って進み、夜明けとともにマロス川に入り、午後三時 昆虫針のストック、ヒ素、その他の採集に必要な品物などその村に着いた。私はすぐに副知事を訪ね、われわれの荷 をイギリスから受け取った。私は再び仕事を始めようと思物を運ぶために一〇人の男と、私自身のために馬を一頭提 い始めた。そして年末までの時間を潰すことのできる場所供してくれるように要請した。要請はその夜すぐに快諾さ を考えた。私がマカッサルを出発した七ヶ月前は、水があれ、朝にはいつでも私が好きな時に出発できるように手配 ふれていた沼地は米作のために犂き返されていた。雨は五してくれることになった。一杯の紅茶を飲んだ後、私は引 ヶ月の間続いたが、しかし今は稲はすっかり刈り取られて、き揚げ船の中で眠った。男達の幾人かは約東通り、夜にな ス るとやって来た。しかし他の者は次の朝になるまでやって べ乾いた埃つぼい切株が、私が初めてそこに来た時と同じよ 彼らはみな重い箱を担ぐのを避けようと望み、 来なかった。 , うにその地方を覆っていた。 あちこち尋ねた後、マカッサルの北約三〇マイルのマロ何か軽いものを持ってさっさと出かけようとするので、彼 らを引き止めてみんなに私の荷物を公平に割り当てるまで ス地区を訪ねる決心をした。そこには私の友人の兄弟ジェ 第一六章セレベス ( マカッサル一八五七年七月 ~ 十一月 ) 221
上の迷路のような小道によって通行できるだけであった。 五ヶ月間、このような天候が南セレベスでは予想された ので、その時期の間、私は幾分か採集に適した天候の場所 を探す決意をした。そして次の乾季には、私はその地方の 探検を完全にするために帰還するつもりだった。幸いなこ とに、私はマレー諸島の原住民交易の大市場の一つにいた。 ポルネオの籐、フローレスやチモールの白檀と蜜蝦、カー それは十二月の初めのことであった。マカッサルにおけペンタリア湾からのナマコ、・フルのカュプテ油、ニ = ーギ へる雨季がちょうど始まった。私はほ・ほ三ヶ月近くの間、太ニアからの野生のナツメグと桂皮は、周辺の国々の主な産 群陽が毎日椰子の木立の上に姿を見せ、天頂に昇り、大洋に物であるコ 1 ヒーや米と共に、全てマカッサルの中国人や 「火の玉のように没し、一日のそのコースの唯一の瞬間も何・フギス人商人の店で見ることができる。しかし、その全て 、り 物にも妨げられずに眺めた。しかし今は暗い鉛色の雲が空よりもずっと大切なのは、アルーへの交易である。それは サ全体を覆い、太陽を永久に包み隠そうとするかのようであニューギニアの南西に位置している一群の島で、そのほと カ んど全ての産物は原住民の船でマカッサルに運ばれて来る。 った。ここに太陽が昇るのと共に確実に吹きつけた、暖か マ ウく乾いて埃つぼい、強い東風は、変わりやすい突風や激しそれらの島々はヨーロツ。 ( 人の貿易の全ての航跡から外れ プい雨に変わり、しばしば三日三晩もの間続く。そして乾季ている。そこに黒いバサバサ髪の未開人が住んでおり、彼 らもまた大部分の文明化した部族の贅沢な好みに貢献して 民の間、町近くまで何マイルもの間どの方向にも広がってい いる。真珠、真珠母貝、鼈甲はヨーロ、 ッパへ届いており、 た、からからに乾いてひび割れした水田の刈り株は既に水 囲浸しになっており、やっと小船で、あるいは別々の持ち主また、一方、食用の燕巣と「ナマコ」は、中国人の食通の の財産であることが分かるように分けられている、土手の楽しみのために船荷として送られて来る。 第二八章原住民のプラウでマカッサル からアルー群島へ ( 一八五六年十一一月 ) 391
モール人奴隷とマカッサル人の召使からなる小さな村であにさらされており、一人でそのようなさびしい場所で悪人 る。ある家族は牛を世話しており、ミルクを家に供給して に取り囲まれて暮らしていると考えたが、見張りが立って いる。また私にも毎朝、大きなグラス一杯のミルクを届け いるのは私にとって安全に眠れるということであった。 てくれ、それは私の最大の贅沢の一つであった。別の家族 私の家は・ハラ、ジャスミン、その他の花が点散する生垣 は馬の世話をしており、馬は毎日午後連れ出されて刈り取に囲まれており、毎朝一人の女がメスマン氏一家のために った草を与えられた。また別の者は、マカッサルにおける籠一杯の花を集めた。私はいつも朝食のテー・フルを飾るの 彼らの主人の馬に与える草を刈った。これは乾季には楽な に二本の花を摘んだ。花の調達は私の滞在中一度も途絶え 仕事ではなく、その時期には国全体が焼けた土のように見ることがなかった。また私は決して花が途切れることはな えた。さもなければ雨季はどこもかしこも洪水であった。 いだろうと想像している。ほとんど毎日曜日、氏は彼の 彼らがそれをどのようにやり繰りするのか、私には謎であ長男の一五歳の若者と狩猟のための小遠足に出かけた。ま った。しかし彼らは草が必すあることを知っており、それた私は大体彼に付いて行った。オランダ人は新教徒ではあ を手に入れてきた。一人の女はアヒルの群れの係であった。 るけれども、イギリスやイギリス植民地に見られるような 一日二回、足の不自由な彼女は沼地へ餌を取らせるために決まったやり方での日曜日の過ごし方は観察できなかった。 アヒルを連れて行き、一、二時間ヨタヨタと歩かせたり餌この国の知事は、いつも日曜日の夕方公の招待会をする。 を食わせた後、彼らを追い立てて帰り、食物を消化させるその時はカード遊戯が恒例の楽しみであった。 ために暗い小さな小屋に閉じ込める。その中でアヒルは時 十二月十三日、私はアルー群島へ向かう一隻のプラウに 時物憂けにガアーガアーと鳴く。毎晩、主に馬を護るため乗り込んた。その小旅行については、本書の後半で語るつ もりである。 に見張りが置かれた。たった二マイルしか離れていないゴ アの人々は有名な泥棒で、馬は最も簡単でしかも最も値打 七ヶ月留守をした後、私は再び戻って来て、マカッサル のある獲物なのだ。マカッサルの人々は、私が非常に危険の北部の別の地方を訪ねた。それが次の章の主題である。 220
流行である。「舌ーでは一と m 、「鼻」では nge 、 ung 、 sno などがある。他には平明な商業語があり、銀は「サラカ」 あるいは「リンギット」 ( マレー語のドルのこと ) 、また金は 「マス」という。。 ( 。ファ群の言語は耳障りな文字の組合せ によって、また一つの子音によって終わる単綴りの語によ って区別されるようであり、それはマレ 1 群ではほとんど 決して見られない。テルナテ、テイド 1 レ、バチアンの人 人のように、はっきりしたマレー人種のある族は、明瞭な 。 ( 。ファ型の言語を話す。彼らは本来少数でこれらの島々に 植民し、その言語のかなりの部分を原住民の女性と結婚す ることによって得た。その言葉は後から到着したマレー人 が、もしその国に植民しようとすれば、学び採用せざるを と 蓋得ないものだった。ここに言葉を示した族の一部は私の話 種の中では述べることができなか 0 たので、ここでは私は人 る類学者にとって役立っと思われる特徴を説明すると共に、 3 その目録を示し、彼らの間で話されている言葉を記録に留 島 めておくことにしよう。 レ マ収集された語彙の目録 * 印のものは失われた シンガポールで話されている普通のロ語の ①マレー語 マレー語。アラビア文字で書かれる。 2 ジャワ語ーー・ージャワで話されている低地あるいは普通の ジャワ語。原住民の文字で書かれる。 ロンポックの原住民によって話されてい * 3 ササック五ロ る。彼らはイスラム教徒で、純粋なマレー人種である。 マカッサルに近い南セレ・ヘスで話され、 * 3 マカッサル語 原住民の文字で書かれる。イスラム教徒。 * 3 プギス語ーーー南セレベスの大部分で話され、マカッサル 語とは違う別の原住民の文字で書かれる。イスラム教徒。 ⑥ボウトン語ーー・セレベスの南にある大きな島ボウトンで 話されている。イスラム教徒。 サライアー語ーーーセレベスの南の小さな島サライアーで 話されている。イスラム教徒。 * ⑧トモーレ語ーーーセレベスの東の半島とパチアンで、そこ に植民した移住者によって話されている。異教徒。 註ーーこれら五つのセレベスの言語を話す人々は真のマ レー人型で、 ( 最後のもの以外は ) その文化も真のマ レー人と等しい ミナハサの平原 * ⑨トモホン ~ 。 * ランゴウエン の村。 ミナハサの南東海岸に * 圓ラタハン * ・ヘラン語 近い村。 * タンナワンコ語。ーー西海岸。 * 鬮ケマ 語ーーー東海岸。 * 鬮パンテク語ーーメナド郊外。 メナド語ーー、主要な町。聞ボランーヒタム語ーーメナ
これらの島々の貿易は非常に古い時代から存在し、そこ大きなプラウの持ち主に紹介された。彼はジャワ人の混血 〔訳註 1 〕 からは、リンネの知るところとな「た二種の極楽鳥が初め児で、知的で穏和なまた礼儀作法の正しい男であり、若く てもたらされたのである。原住民の船はモンスーンを利用可愛いオランダ人の妻を持っていた。彼は彼女を留守の間、 して一年に一度航海するだけである。彼らは、西のモンス後に残して行くつもりだった。われわれが運賃について話 ーンの始まりである十二月か一月にマカッサルを出発する。 しあった時に彼は、決まった額はないので、心づもりの額 そして東のモンス 1 ンが十分吹いている七月か八月に帰還を帰ってから払「てくれればよいと主張した。「そして、 する。マカッサルの人々でさえもアルー群島への航海は、 貴方が私に一ドルくれようが一〇〇ドルくれようが、私は むしろ新しい見聞と未知の冒険に満ちた野心的でロマンチ満足であり、それ以上要求することはない , と彼は言った。 ックな遠征であると見なされている。それをやり遂げた者 出発までの間、私は物資を準備し、召使を雇い、文明か は権力者と崇められ、それは人々にと 0 て人生の成し遂げら外れた世界における七ヶ月間のために他の種々な用意を 難い野望だと考えられている。私自身も東洋の「極限、ヘ調えるのに忙殺された。十一一月十三日の朝、われわれは激 いっか到達したいという単なる期待以上の思いを抱いてい しい雨が降りしきる夜明けに乗船した。船は帆を張り、風 た。そして今、本当にそれが実現できると分かった時、ブ は吹き続けた。船は船尾を失い、帆は破損して、夕方、再 ギス人のプラウで一、〇〇〇マイルも航海し、そして六 びマカッサルの同じ船着場に戻っていた。われわれはそこ 七ヶ月の間、無法者の商人達と狂暴な未開人の中に自分自 にさらに四日間留まった。なぜなら、いつも雨が降ってお 身を委ねる勇気がなかった。私が小学生だ 0 た頃、初めてり、そのため大きな筵のような帆を乾かし、修理すること 駅馬車に乗って、幼い想像力にとって不思議な素晴らしい ができなかったからだ。その陰鬱な日々、私は船の上にい 見物の場所であるロンドンを訪問するために、外へ旅行すて、稀れに訪れる雨の降らない時を利用して、この異国風 ることを許された時のように感じた。 の船を調べた。その特異な点のいくつかを述べてみよう。 ある親切な友人達の援助で、私は数日のうちに出帆する それは荷重約七〇トンの船であり、中国のジャンクに似 392
一八五六年六月十三日のことであった。イギリス人の船長 が指揮をとり、ジャワ人船員が乗り込んだケン・ハン・ジェ ポーン ( 日本の薔薇 ) という名の中国人商人の所有になるス クーナー船で、シンガポールから二〇日間の航海を経た後 のことである。船長および中国人の荷揚げ人夫と一緒に海 岸を進み、私は初めて新奇な興味深い景色に接したのであ る。われわれは最初、中国人のバンダーっまり商人の長の ( リおよびロン・ホックはジャワの東の端に位置し、特別 に興味深い島である。なぜならマレー諸島全体でまだヒン家に行った。そこでは立派な衣服を着て、象牙や金の大き ズー教が残っている唯一の島々であり、また東半球の動物な取っ手のついた、あるいは美しく研きあげた木の取っ手 〔訳註 1 〕 のついたクリスで武装した多数の原住民に出会った。 の二大分布区の両端をなしている島だからである。両島は 中国人も自国の衣裳を着るのを止めにしてマレー服を採 外観や物理学的な特徴では非常によく似ているけれども、 それそれの動植物は著しく違っている。私はポルネオ、マ用しており、そのために島の原住民と区別するのが難しい ラッカ、シンガポールで二年間過ごした後、マカッサルへ有様であった。つまり、これはマレー人種とモンゴール人 ッ向かう途中これといった目的もなくこれらの島々に立ち寄種が互いによく似ていることを示している。その家のすぐ 〔訳註 2 〕 側の数本のマンゴーの木の涼しい木陰で、数人の女性商人 ン った。もしシンガポールからマカッサルに直接渡ることが びできたなら、私は決してこれらの島々へ行くことはなかっ達が木綿製品を売っていた。ここでは女達は夫を助けて商 おただろう。またもしここに立ち寄ることがなかったら、東売をしたりしてよく働く。その習慣はイスラム教徒のマレ ー人では決して見られないことである。果物、茶、菓子、 洋における私の探検全体での最も重要な発見のいくつかを 章 砂糖菓子が運ばれて来て、われわれの仕事やシンガポール 見逃していたことだろう。 における商売の様子などについて、あれこれと質問を浴び リ島の北側ビレリンの危険な停泊地に投錨したのは、 第一〇章 リおよびロンボック ( 一八五六年六月、七月 ) ま 45
第二一章モルッカ群島ーーテルナテ 第二二章ジャイロロ 第二一一一章テルナテからカイオア群島とバチアンへ 第二四章バチアン 第二五章セラム、ゴラムおよびマタベロ群島 第二六章ブル 第二七章モルッカ群島の自然誌 ハプア群島 第二八章原住民のプラウでマカッサルからアルー群島へ 第二九章ケー群島 第三〇章アルー群島 ドッポにおける滞在 第三一章アルー群島 , ーー奥地の旅および滞在 第三一一章アルー群島 ドッポにおける二度目の滞在 第三三章アルー群島の自然地理学と自然の概観 471 459 428 415 403 379 370 339 316 308 303 295 391