マラッカ - みる会図書館


検索対象: マレー諸島
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1. マレー諸島

「マラッカにはポルトガル人およびマレー人と呼ばれるそ の地域の原住民が住んでいる。ポルトガル人は、モザンビ 1 クにおけるように、 ここに一つの要塞を持っている。守 備隊長達がここでよりも立派に彼らの義務を遂行したモザ ンビークとオルムズの要塞以後、ポルトガル人は全インド この場所は、全インド、 のどこにも要塞を持っていない。 シンガポールでは鳥や他の種類の動物は多くなかったの中国、モルッカ、その他周辺の島々の市場であり、それら で、私は七月にそこを去ってマラッカへ行った。マラッカ の全ての地域から、またパンダ、ジャワ、スマトラ、シャ ム、ペグ、べンガル、コロマンデル、インドなどから船舶 では奥地で二ヶ月以上過ごし、オフィル山に小旅行した。 古くかっ美しいマラッカの町は、小さな川の堤に沿って塊が到着し、絶え間なく行き交い、無数の商品を積み込む。 っており、ポルトガル人の子孫と中国人が住んでいる商店もし空気が悪くなく不健康な所でなかったら、もっと多く 冫いただろう。ここの空気は、外国 のポルトガル人がそここ や住居のある細い通りからなっている。郊外にはイギリス 人官吏と少数のポルトガル人商人の住宅があり、椰子と果人ばかりでなく、その地域の原住民に対しても有害であっ 樹の木立に囲まれている。それらの木々の美しい葉の茂みた。つまりその場所に住む人々は誰でも自分の健康を居住 は、見る人を楽しませ、また大きな日陰を作っている。 税として支払っているようなもので、人々はある種の病気 に罹り、それが原因で皮膚が剥がれたり脱毛したりした。 古い砦、政府の大きな建物、および大聖堂の廃墟は、こ の場所の昔日の栄華と重要性を証明している。現在、シン この病気を免れた人々は、無事であったことを奇跡だと考 ガポールがそうであるように、そこはかっては東方貿易の えた。その病気がこの土地を離れさせる理由であった。 〔訳註 1 〕 中心地であった。リンスホーテンが二七〇年前に書いた次方では儲けたいという熱烈な欲望が、健康に危険のある場 所へ別の人々を駆り立て、そのような悪い空気を堪え忍ば の記事は、マラッカが経てきた変化を強烈に示している。 第三章マラッカおよびオフィル山 ( 一八五四年七月から九月 ) 4

2. マレー諸島

考えられていない。 せた。この町の発祥時は、原住民の話によれば、非常に小 マラッカの人口は、 いくつかの人種から構成されている。 さなものだった。空気が不健康なのでそこに住んでいたの 到る所に見られる中国人はおそらく最も人口が多く、彼ら は六、七人の漁師だけであった。しかし、その数はシャム は自分達の礼儀作法、習慣、言語を守っている。土着のマ やペグー、べンガルから漁師が集まって来たので、増加し た。彼らは町を作り、特別な言葉を作り上げた。その言葉レー人がこれに次ぎ、彼らが使っている言語はそこの混成 共通語である。次に来るのはポルトガル人の子孫で、混血 は他の国々の最も優美な話し方から派生したもので、その ため、今でもマレー人の言葉は東洋全体では最も洗練されし、退化し、すっかり変わってしまった人種である。文法 た、正確でかっ誉れ高い一『〔語である。マラッカという名が的には惨めなほど変わってしまってはいるが、しかしまだ この町に付けられ、そしてその町の位置が具合が良かった母国の言葉を使い続けている。次はイギリス人統治者とオ ので、短い間に町は現在のように豊かになり、周りの強力ランダ人の子孫である。彼らは全て英語を喋る。マラッカ な町や地域に劣らない町になった。原住民は男も女も礼儀で話されているポルトガル語は、一 = 〕語学上の面白い現象を 正しく、挨拶は世界で最も巧みであろう。また詩歌や恋歌見せている。動詞はその語形変化をほとんど失い、一つの 山を作ったり歌ったりすることに優れている。フランス語が形が全ての話法、時制、数、人称に用いられる。 Euvai イ は、「私は行く」、「私は行った」、あるいは「私は行くつも 我が国でもてはやされているように、彼らの言語はインド フ りだ」を意味している。形容詞もまた、元来あった女性や び諸国で流行している。」 中性の語尾を削られ、そのため言語は驚くほど単純なもの お現在、数百トン以上の船舶は港内に入ることができず、 カ ッ に変化し、 4 ク数のマレー語が混入して、純粋のポルトガル 交易品はもつばら森林の僅かな産物と果物に限られている。 マ 果物の方は、昔のポルトガル人によって植えられた木が今語だけを聞いていた人にとってはまるで謎めいた言葉にな ってしまっている。 は実を結んでいて、シンガポールの住人を喜ばせている。 服装でも以上の人々は、一『〕語の場合と同じく様々であっ 熱病に罹ることがあっても、今は非常に不健康な所たとは 5- 2

3. マレー諸島

〔訳註〕 T き g ミミ 7 はスマトラとポルネオに共通しているが、種であり、一方、スマトラに分布しているものは少なくと 、。ジャワでは、そも二種がマラッカに、一種はポルネオに広がっている。非 しかしジャワまでは分布は及んでいなし 常に多くの鳥、例えば、大きなセイラン、背の赤いコンア れらは、 ag ミ s ja き・によって置き代わっている。ト カキジや眼状斑を持っコクジャク、鶏冠のあるカンムリシ ラはスマトラとジャワで発見され、ポルネオでは見られな 〔訳註〕 ヤコ ( Ro = ミよ s co 、 01 ミ、 ~ 、 s ) 、小さなマラッカのルリゴシイン いことは確実である。しかしこの動物は上手に泳ぐことが かぶと 〔訳註〕 コ ( ミ i' ミ s ce 、き s ) 、大きな兜を頂いたオナガサイチョ 知られているので、スンダ海峡を渡る方法を発見したのか 〔訳註幻〕 ウ ( 、 ce きミミ s 一 e ミ ~ 、 s ) 、キジのような地上性のハシリカ もしれない。あるいは大陸からジャワが分離する以前に 〔訳註 % 〕 コウ ( Ca ococcyx 、ミミま ) 、パラ色の鶏冠のムネアカハ トラはジャワに生息していて、はっきり分からないある理 〔訳註幻〕 チクイ ( ~ 、ぎ、ミ・ s ミ、 4 ) 、大きなガマヒロハシ ( CO 由で、ポルネオでは絶減したのかもしれない。 ミドリヒロハシ ( C40 0 ミ e き s ミき、きミ s ) 、緑色の鶏冠の 鳥類学上、ジャワとスマトラの鳥類はポルネオの鳥類よ ミヾミ ) 、多くの他の種は、マラッカ、スマトラ、ポルネオ りもよく知られているので、いくらか不確実ではあるが、 に共通するが、ジャワからはまったく見出されていない。 しかしジャワが一つの島として古い時代に分離したという 一方、クジャク、アオエリャケイ、二種の青色の地上性 鮴ことは、他のどの島でも発見されていない多くの種によ 0 ッグミ ( スンダルリチョウゝ、、ミ 4 ミとオオルリチョウ 島て十分に示されている。ジャワには固有種の ( トが七種ほ 〔訳註〕 ミミ s ミ os き・ s ) 、美しい桃色の頭の・ヘニガシラヒメ 一ど産するが、スマトラではたた一種が知られるだけである。 レ マ アオバト ( p ミ。き鷺 s をミ、尾の広い三種の地上性 ジャワの二種のオウムのうち、一種はポルネオに分布して いるが、スマトラには産しない。スマトラに分布する一五のオナガ・ハト属 ( ミミきを a) 、および多くの他の興味深い ン イ 種のキツッキのうち四種だけがジャワに達し、一方、その鳥があり、これらはマレー諸島ではジャワ以外のどこから 章 も発見されていない。 9 うち八種はポルネオで、また一二種はマレー半島で発見さ 昆虫も十分な資料が入手できたところでは、どこでも以 れている。ジャワで発見される二種のキそ ( ネドリは固有 141

4. マレー諸島

やインドに広がっている。マラッカからインドまで分布し地区にだけ固有な例外が一つある。リスは非常に多く、特 ている二種を除くと、全てのシカは固有種である。ウシで徴的である。二五種のうち二種だけがシャムとビルマにま 「訳註 9 〕 〔訳註〕 はインド系の一種がマラッカに達している。一方、ジャワ で及んでいる。ッパイは奇妙な食虫動物で、リスに酷似し 〔訳註川〕 とポルネオの・ハンテンウシ 38 きミ d ミ c はシャムとビル ており、羽毛状の小さな尾を持っポルネオのハネオッパイ マでも発見されている。ャギに似た動物はスマトラで発見 p ミ oc ミこミや、奇妙な長い突き出た鼻を持ち尾に毛の 〔訳註〕 〔訳註〕 されているが、その代置種はインドに分布している。一方、ないジムヌラ G きミ、まき e のように、ほとんどマレ スマトラの二角のサイとジャワの一角のサイは長い間これ 1 諸島だけに分布が限られている。 らの島々の固有種であると想像されていたが、今ではビル マレ 1 半島が現在アジア大陸の一部を構成しているよう マ、ペグ、ムールマインにも分布することは確実である。 に、マレー諸島もかって大陸と繋がっていたのではないか スマトラ、ポルネオ、マラッカのゾウは、現在ではセイロ という疑問は、マレ 1 半島といくつかの島々に分布してい ンやインドのそれと同一種であると考えられている。 る種を研究することによってさらに詳しく解明されるだろ 哺乳類の他の全ての群でも、同じ一般的な現象が再び起う。さて、もし飛翔力を持ったコウモリ類のことをまった こっている。少数の種は、インドのものと同一種とされてく考えに入れないなら、四八種の哺乳類がマレー半島と三 いる。さらに多くの種は、極く近縁種かあるいは代置種で大島に共通である。これらの中には七種の四手類 ( 長尾の 〔訳註凵〕 ある。しかし一方では、世界の他の地域のものと異なった猿、無尾の猿、原猿類 ) があり、これらの動物は全生涯を森 林で過ごし、決して泳がず、僅か一マイルの海を横切るこ 在を含む、少数の固有な属が、必ずこの地域に存在する。 約五〇種のコウモリ類、つまり翼手類がいる。そのうちとさえまったくできないだろう。一九種の食肉類のうち一 部の種類は、疑いなく泳いで渡れるかもしれない。しかし 四分の一以下はインド系である。三四種の齧歯類 ( リス、 かなり多数の個体がその方法で、一ヶ所を除けば三〇 ~ 五 ネズミその他 ) があり、そのうち六 ~ 八種だけはインドにも 〇マイルの輻がある海峡を、横切ったとは想像できない。 分布している。また食虫類は一〇種あり、そのうちマレー 136

5. マレー諸島

目次 初版への序文 第一〇版への序文 第一章自然地理学 インドーマレー諸島 第二章シンガポール 第三章マラッカおよびオフィル山 第四章ボルネオーーーオランウータン 第五章ボルネオーーー奥地の旅 第六章ポルネオーーーダヤク人 第七章ジャワ 第八章スマトラ 第九章インドーマレー諸島の自然誌 Xli1 XVil 133 い 7

6. マレー諸島

のないほど優れている。コーヒーを沸かし、高度計と共に撃っているが、まだ一羽もその鳥を撃ち落としたことがな く、森の中では生きているその鳥を見たことさえないと言 温度計の沸点を観察した。われわれは夕食と眼前に横たわ う。この鳥は極端に臆病で用心深く、森林の一番茂った部 る気高い眺めの双方を楽しんだ。その夜は静かでまったく 分の地面を突っ走り、極めて敏捷なので近づくことが不可 枝で寝床を作りその上に毛布を載せて、 穏やかだった。小 ホーター達は一休みした後で、料理 能である。また地味な色と鮮明な眼状斑は、博物館で見る 快適な夜を過ごした。。、 するために必要な米だけ持ってわれわれを追って来た。幸と確かに装飾的であるが、セイランが生息している周りの いわれわれは、彼らが後方へ置き去りにして来た荷物は必枯葉とよく調和して、その姿を非常に紛らわしくさせてい るに違いない。マラッカで売っている全ての標本は、罠で 要ではなかった。朝、私は少数の蝶と甲虫を採集した。ま 捕獲されたものだ。私に話してくれた男は、その鳥を撃っ た友人は幾つかの陸貝を手に入れた。その後、バダン・ たことはないが、罠で捕えたことは何度もあると言う。 ッ 1 のシダとウッポカズラの若干の標本を持って、下山し トラとサイはまだここでも見られ、数年前まではゾウが われわれが山腹で最初にキャン。フした場所は非常に薄暗たくさんいたが、しかし最近全て姿を消した。われわれは 山 いので、ショウガ科植物の生い茂った流れの近くの湿地内若干の糞の堆積を見たが、それはゾウのものである。また フの場所を選んだ。そこでは草を刈るのが容易だ 0 た。部下サイの足跡もあ 0 たが、しかしサイそのものは見ていない。 びは側壁のない小さな小屋を二つ建ててくれた。それは雨露しかし万一それらの動物がわれわれを襲う場合を考えて夜 おをしのぐにちょうどよい覆いであった。その中で一週間生通し火を燃やし続けた。また部下の二人がある日サイを見 活し、狩猟や昆虫採集あるいは山の麓の森林近くを歩き回たと断言した。米が底をつき、箱が標本で一杯になったの 〔訳註 6 〕 マ った。ここは大きなセイランの国であり、その鳴き声を絶で、われわれはアイアーパナスに戻った。そして数日経て からマラッカへ行き、そこからシンガポ 1 ルへ行った。オ 3 え間なく聞いた。老マレー人にその鳥を一羽撃ってくれる ように頼むと、彼は一一〇年の間このような森林の中で鳥をフィル山は熱病で評判の山である。私の友人達はみな、大

7. マレー諸島

の、マラッカの東約五 0 マイルに位置している。われわれしかし運良く頸動脈を外れて、たつぶり吸血しているヒル はオフィル山で少なくとも一週間は滞在するつもりで、十を取ったことがある。このような森林性のヒルには多くの 分な量の米、少量のビスケット、 コーヒー、若干種類がある。全て小型で、一部は明るい黄色の線からなる の干し魚や少量のプランデー、毛布、着替え、昆虫や鳥を美しい縞が付いている。ヒルはおそらく、森林の道を頻繁 入れる箱、捕虫網、銃と弾薬を用意した。アイアーパナス に通る鹿や他の動物に付き、足音や葉がガサガサいう音で からの距離は、約三〇マイルと推定された。初日の行程は、体を伸ばす奇妙な習性を獲得している。昼過ぎにわれわれ 森林が切り払われた場所やマレー人の部落を通っており、 Ⅱのそばでキャンプをした。 は山の麓に到着し、美しい′丿 十分に楽しむことができた。夜はマレー人の首長の家で眠 川の土手は岩石が多く、シダで覆われていた。一行の中 った。彼はわれわれにヴ = ランダを貸してくれ、一羽の鶏の最も年輩のマレー人はその付近で鳥を撃ってマラッカの と数個の卵を分けてくれた。次の日、道はもっと荒れて丘仲買人にいつも売りさばいていたので、山の頂上に登った 陵が多くなった。しばしば膝まで泥につかる道を通って、 こともあった。それでわれわれが狩猟したり昆虫を捕えて 広い森林の中を通り抜けた。そこではこの地方の有名な山楽しんでいる間に、彼は他の二人を連れて次の日の登り道 ヒルに大変悩まされた。ヒルは道の片側の木の葉や草の葉を切り開きに行ってくれた。 次の朝早く、朝食後、出発した。山中で寝るつもりだっ にはびこり、通行人が来ると、体を精一杯伸ばし、もし通 行人の衣服や体に触れると、葉の側を離して相手にくつったので、毛布と必要品を持って行った。部下が道をつけて く。そして、ヒルは足その他の部分に這って行き、十分に いてくれた、小さなもつれたジャングルとじめじめした低 吸血する。最初に吸いついた時は、歩行に熱中しているの木の茂みを通り過ぎてから、美しい丈の高い木が茂って下 でほとんど気づかない。夕方、風呂を浴びる時、われわれ草の生えていない森林に入った。その中では楽に歩くこと は一人当たり普通五匹ないし十数匹のヒルを、最も多くは ができた。数マイルの間、穏やかな斜面を、左手に深い峡 足から、また時には体からも見つけた。私は首の片側で、 谷を眺めながら、登って行った。それから横切らなければ

8. マレー諸島

た。イギリス人は体にびったりした上着とチョッキとズボ には、一、〇〇〇人以上の中国人を雇っている大規模な錫 ン、それに不愉快な帽子とネクタイを遵守している。ポル の精製工場があった。錫は石英質の砂の鉱床から黒い粒子 トガル人は軽いジャケット、あるいはもっと頻繁にはシャ の形で得られ、粗雑な炉で溶かして塊にされる。土壌はや ッとズボンだけである。マレー人は彼らの国のジャケット せているようであったが、森林には下草が生い茂っていた。 とサロン ( キルト風スカートに似た腰巻 ) を着て、ズボン下を昆虫はまったく少なかったが、しかし鳥類は多産した。私 はいている。一方、中国人は自国の服装をほとんど変えよ は早速に、マレー地区の鳥類学上の逸品について紹介する うとはしない。それは確かに快適さや外観に関しては、こ ことにする。 私は最初の発砲でマラッカ産鳥類の中でも最も奇妙な美 の熱帯気候に合わせて何か手を加える必要はまったくない のである。ゆったりと垂れ下がったズボンと真っ白な半袖しい種類の一つ、マレー人が「雨鳥ーと呼んでいる青色の シャッと半ジャケットは、この低緯度地方における理想的嘴のクロアカヒロハシ ( 0 ミ、罸ぎ s ミき斗 c ぎ s ) 、を 撃ち落とした。それはムクドリと同じぐらいの大きさの、 な服装であると言うべきである。 私は一緒に奥地へ行ってくれる二人のポルトガル人を雇肩に白い条をもった黒と濃い葡萄酒色であり、大変大きな 幅の広い嘴を持ち、嘴の上の方はコ・ハルト・・フルー、下の った。一人は料理人として、またもう一人は鳥を撃ち落と したり剥製を作るためである。剥製はマラッカでは完全に方は橙色で、またその虹彩は碧緑色である。剥製が乾燥す 一つの交易品となっている。私は、最初、ガーディンと呼ると、嘴は鈍い黒色に変わるが、しかしそれでもその鳥は ばれる部落に二週間滞在した。そこでは中国人改宗者の家素晴らしい。殺したばかりの時は、鮮やかな青と羽毛の豊 に泊めてもらった。私はイエズス会の宣教師からその男をかな色彩の対照が著しく強烈で美しい。濃い褐色の背面、 美しい房のような翼、および深紅の胸を持っている東洋の 推薦されたのである。家は単に覆いがあるだけであったが、 清潔で、私にとって十分に快適なものであった。宿の主人愛らしいキそハネドリとか、果実食の鳥で、オオハシドリ は、胡椒とガンビールの農園をやっていた。またすぐ近所といくらか類似し、短く真っ直ぐな剛毛の生えた嘴を持ち、

9. マレー諸島

味を持っていたことがよく分かる。 他にも前後に少し矛盾を感じる個所があるが、原文のまま ウオレスは探検の全期間にわたって、見たこと聞いたこ訳出しておいた。 ところで本文では、時間的推移を追わず、動物相から見 とを日記に付けている。オクスフォード版の解説を書いた た島々をグルー。ヒングしてその順序で章が並べられている。 ハスティンによると、『マレー諸島』は、ウオレ スが自分の日記に情景の説明や意見を加筆する形で執筆さ配列としてはなかなかうまく構成されており、成功してい れたものであるという。挙げられている実例によれば、確る。しかし実際の旅の順序は次の通りである。各章がどの かにその通りで、主要部分はそのまま日記の文章が使われように配置されているか眺めて見ると面白い。『マレ 1 諸 ている。たた島々の配列順序だけは、動物分布から見た並島』に出ていない日付は、他の資料も参考に分かる限り入 べ換えをしている。また地名、人名、動植物の地方名などれておいた。 も、現地で聞き込んだままで書かれている場合が多い。決 一八五四年ー一八五五年 三月 ロンドン↓シンガポール ( 出発の日付不明。三月 して他の文献には出てこないようなウオレス独特の綴りが 一一十六日に、紅海上の蒸気船 BengaI 号から友人に宛て手紙を ある。その一部については、訳註の中で指摘しておいた。 書いている。ここまで一週間かかったとすると、ロンドン出発 ウオレスは序文の中で述べているように、できるだけ見た は、三月一一十日前後である。 ) り聞いたりしたことをそのまま ( つまり日記の通り ) 伝えよ 四月二十日シンガポール着 ( 第一一章は、この時と帰国までに何 うとしたのである。そのために、例えばオランウータンの 度か立ち寄った時のシンガポールの印象がまとめられている。 ) 七月一一十三日シンガポール↓マラッカ ( 第三章 ) 個所など、彼がオランウータンを一体一種だと考えていた 九月二十八日マラッカ↓シンガポール のかどうか幾分曖昧になっている。またロンポックのラジ 十月十六日シンガポール↓ポルネオ ( 十一月一日サラワク ャも実は二人であり、そのことが分かるように訳文を工夫 着 ) ( 第四章、第五章、第六章 ) ( ウオレスは、一八五五年を し訳註を付けた。多分、別々の日付が結合された過程で、 サラワクで過ごし、一八五六年一月シンガポールへ戻った。 二人のラジャの区別が多少曖昧になってしまったのである。 したがって、サラワク滞在期間は約一年三ヶ月である。シンガ 664

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変長い間その山の麓で過ごしたわれわれの無頓着さにあき れていた。しかしわれわれの中で病気になった者は誰もい なかったし、また私にとっては東洋の熱帯の山岳風景は初 めての体験だったので、この旅のことはいつも楽しく思い 出すことだろう。 シンガポールおよびマレー半島訪問について、私の概説 が不十分で短いのは、私が個人的な手紙やノートだけに頼 って書いたことが原因であり、実は他の資料は失われてし まったからである。またマラッカとオフィル山に関する論 文は王立地理学会に送ってあったのだが、学会の終了時の ゴタゴタに紛れてしまって、読まれもせず印刷もされない まま、今はもう見つからない。しかしながら、この地域に 関する非常に多くの著作が発表されているので、それほど 残念に思うことはない。もともと私は、西の方の旅につい ては、マレー諸島の中でもよく知られている地域なので、 初めから簡単に触れるつもりであった。それよりも遥かに 遠い地方に多くの紙面を割り当てるつもりだったし、実際 その地方のことはほとんど何も書かれていないのである。