挿絵の目録 1 ・ダヤク人によって攻撃されるオランウータン 2 ・オフィル山の珍しいシダ ( 標本より描く ) 3 ・注目すべきポルネオ産の甲虫 4 ・トビガエル ( 著者が描いた図より ) 5 ・雌のオランウータン ( ウッドベリーの写真より ) 6 ・ダヤク人若者の肖像 ( 写生と写真より ) 7 ・ダヤクの吊橋 ( 著者の写生より ) 8 ・ヒスイランの一種ト 0 ミ、 ( 標本より ) ・森林の奇妙な木 ( 著者の写生より ) ・古代の浅浮き彫り ( 著者所有の標本より ) 1 ジャワ人首長の肖像 ( 写真より ) クギヌキフタオチョウ ( C 、、暑 es i) ・、ユきミ一ミュミ ( 標本より ) 凵・スマトラの村の首長の家と稲小屋 ( 写真より ) ナガサキアゲハ、 4 を = 0 e きミ、 ~ の雌 ホンパジャコウアゲハ、 7 ~ ・ 0C0 ムラサキコノハチョウの飛翔と静止状態 ・オオサイチョウの雌と雛鳥 巨大なラン G きミミミ一きミ ( 著者の写生より ) 作者 ウォルフロ絵 0 フィッチ ロビンソン ケールマンス 0 ウォルフ ・ヘインズ フィッチ フィッチ 0 ・ フィッチ べインズ 9. 0 ・ヘインズ 9 0 ・・ウッド フィッチ 2 ロビンンン ロビンンン ロビンンン 2 ・・ウッド ・・ウッド フィッチ
が期待していたように、それはまったくの新種で最も壮麗の濃い茂みの中にあったので、私は部下のラヒにその周り な種類であり、世界で一番豪華に彩られた蝶の一つであつを奇麗に切り払わせ、そのためそこを訪れればどんな昆虫 た。雄の美しい標本は翅を広げると七インチ以上あり、ビ も容易に捕えることができた。後にそこでしばらく待っこ ロード状の黒と炎のような橙色で、その橙色は近縁種では とがしばしば必要であることを発見し、私はその側の一本 緑色に置き代わっていた。この昆虫の美しさや華やかさは の木の下に小さな椅子を置き、毎日昼食を食べにそこへ行 筆舌に尽くしがたく、私がそれをやっと捕えた時に味わっ った。このようにして、朝私がその側を通る機会とは別に、 た強烈な興奮は、博物学者以外には誰も理解できないこと正午近くに半時間ばかりその木を見張った。この方法で私 だろう。捕虫網の中からその蝶を取り出し、素晴らしい翅は長い間、平均一日一標本を手に入れた。しかしその半分 を広けると、私の心臓は激しく高鳴り、血液が一度に頭に は雌で、残りの半分以上は破損した個体であった。それで、 昇った。そして私は今すぐ死ぬということを知った時より もし私が雄の良い採集場所を発見できなければ、完全な雄 も、もっと気が遠くなりそうであった。私はその日の残りの標本は多数手に入れられないだろうと思われた。 このトリバネアゲハが花に来るのを見てからすぐに、そ の時間は頭が痛かった。大部分の人々にとってはまったく 馬鹿馬鹿しく思われる原因によって引き起こされた興奮は、れらは海岸の、ある花の咲いている木でも目撃されていた それほど大きかったのである。 ので、私はラヒに網を持たせてその蝶を探させた。そして 私は一、二週間のうちにテルナテに帰るつもりでいたが、 私は彼が捕えた良い標本の一頭ごとに半日の余分の賃金を しかしこの大きな獲物が私に新しい蝶の一連の標本を手に支払うと約束した。一、二日後、彼は私に二頭の非常に美 入れるまで滞在する決心をさせた。私はその蝶をクロエサしい標本を持って来た。そして彼はその蝶を村の一マイル ストリネアゲハ 0 、、 e きミ sus と命名した。コン下の、海に山から流れ下っている大きな岩の多い川床で捕 ロンカの藪は素晴らしい場所で、私はそこを森へ行く途中えたと言う。この蝶はこの川を下り、時には水の中の石や で毎日訪ねることができた。そしてそれが灌木と登攀植物岩に止まる。ラヒは蝶を捕えるために水の中を歩き回るか、 326
様に極めて稀れなウオレスタイマイミ。ミミぶのた 岩から岩へ跳び回らなければならなかった。私はある日、 だ一頭の標本を手に入れた。最後の種は、これまでアルー 彼と一緒に出かけた。しかし私が何かしようにも、流れは 極めて速いうえに石は滑りやすく、結局それを彼に任せた。群島において特異な標本が得られていたものである。 ここで採集した最も興味深い鳥類は、美しい青色のカワ ( チアンに滞在した残りの期間、彼は一日中出かけて私に 「訳註 7 〕 セミのモルッカショウビン TO きき ~ 、 s 0 、美しい緑 大体一頭、調子の良い時は二、三頭の標本を持って来た。 私はこのようにして、雌雄併せて一〇〇頭以上で、完全な色と紫色のクロオビヒメアオ・ハト、ミ。き鷺 s s ミき s とヒ 個体は五、六頭を下らないけれども、多分かなり美しい雄メアオ・ ( トの一種 p,. 3 、その他数種の小型の新しい 鳥である。また私の猟師が白旗極楽鳥 Se きミぶ を二〇頭持ち帰ることができた。 今では私の毎日の散策は、最初のおよそ半マイルは砂浜の標本を私に持って来てくれた。そしてこのような鳥で、 に沿い、そこでトモーレの人々の村へ通じる非常に揺れるもっと格好が良くもっと目立っ別の種がいるという数人の 柱からなる板の通路を伝ってサゴヤシの沼地を抜ける。こ原住民猟師による肯定的な話を聞いて、私は大層興奮した。 の向こうに新しい伐採地、日陰の小道、かなりの量の倒木その羽毛は光沢のある黒で、私の標本のように胸は金属光 のある場所などがある森林があった。私はそこに非常に良沢のある緑色であるが、しかし白い肩の羽毛は長さが二倍 い採集場所、特に甲虫のための採集地を見つけた。伐採地で、鳥の体のかなり下方に垂れ下がっていると断言した。 イノシシやシカを森の奥深くで狩っている時、たまたまそ の倒木の幹には黄金のタマムシ科や奇妙なミッギリゾウム の鳥を見かけるが、しかし非常に稀れだと言う。私は直ち シ科、カミキリムシなどが多産し、一方、森の中では私は ン にその標本一つに一二ギルダー ( 一ポンド ) 払うと提案した。 アもっと小さなゾウムシ科の多い所や、多くのカミキリムシ、 しかしまったく無駄であった。そして私は今日ではそのよ 若干の美しい緑色のオサムシ科などの甲虫を発見した。 章 うな鳥がいるかどうか確信がない。私が去ってから、ドイア 蝶類は多くはなかった。しかし私は美しい青色のアゲハ チョウ属を若干と多数の美しい小さなシジミチョウ科、同ツの博物学者ベルンシ = タイン博士は、何ヶ月もの間、そ
事例が、個体変異の量を考慮するように私を向かわしめた。れらの極値には異常な標本は分離されなかった。しかしそ の間には段階的な変異があり、標本の数がもっと多ければ そして変異が非常に大きいので、私はこの大きなコレクシ ョンでさえも信頼に足る平均が得られない、 という確信をもっと完全につながったものと思われた。このように短頭 持つようになった。私はここで、少数のそれらの変化の事型であると仮定されるマレー群の中に見られる極端な長頭 例を示そう。容量、幅対長さ、高さ対長さが、比較された型の頭骨 ( 七〇 ) とは別に、幅対長さ・七一、・七二、 三測定値である。容量の場合は、いつも私は男性の頭蓋の七三を持っ他のものがあり、もっと標本数があればさらに みを比較し、それによって性による大きさつまり容量の違狭い型も得られただろうという十分な理由があった。大変 いを排除した。他の比率のための測定では、私は両極値は大きな頭蓋は九一オンスで、八七と八八がこれに続いた。 しばしば一連の男性の標本だけに見られ、それらの比率は イギリス人、スコットランド人、アイルランド人の膨大 性により一定の変異がないことを発見していたので、大き なコレクションの中の最大の頭蓋は、九二・五オンスであ っこ 0 な平均を手に入れるために両性を用いた。 マレー人ーー一三名のスマトラの男性ーー容量六一・五 パプア人ーーー・そのコレクションには、僅かに四個の真の ~ 八七オンス ( 砂 ) 。幅対長さ・七一 ~ ・八六。高さ対長 パ。フア人の頭蓋があるだけで、それらは変異がある ( 幅対 さ・七三 ~ ・八五。一〇名のセレベスの男性ーー容量六 長さは・七一一 ~ ・八 = l) 。しかしながら、全てパプア人種 七 ~ 八三。幅対長さ・七三 ~ ・九一一。高さ対長さ・七に属するソロモン群島、ニューカレドニア、ニュ 1 へ・フリ 六 ~ ・九〇。 デス、フィジーの原住民の標本によると、二八頭蓋 ( うちニ 三個は男 ) あり、それらは容量六六 ~ 八〇、幅対長さ スマトラ、ジャワ、マヅラ、ルネオ、セレ・ヘスからの 六五 ~ ・八五、高さ対長さ・七一 ~ ・八五であり、マレ マレ 1 人頭骨八六個の全シリーズでは、変化が大きかった。 ー人種の一部と同一であり、明瞭な違いはない。 容量 ( 六六頭骨 ) は、六〇 ~ 九一オンス ( 砂 ) 。幅対長さは ・七〇 ~ ・九二。高さ対長さ・七二 ~ ・九〇。そしてこ ポリネシア人、オーストラリア人、およびアフリカのネ
ィート三イン時の指から指までの長さは六フィート一インチであった。 よれば、新しく捕えられた標本は身長が五フ チあったと記している。残念なことに、その標本は遂にオ頬たこを含む顔面幅は一一インチである。」以上の測定値 ーは明らかに一つの間違いがある。博物学者によって測定 ランダには届かなかったらしい。なぜなら、これほど大型 の個体のことはそれ以来聞いたことがないからである。セされたオランはどれも、両腕を広げた長さが六フィ 〔訳註幻〕 ィート六インチで ント・ジョン氏はその著書『極東の森林における生活』のインチであれば、その個体の身長は三フ ート二インチの最大の 第二巻一一三七頁で、彼の友人が撃ち殺したオランのことをある。一方、四フィートから四フィ ィート三インチから七フィ 一一標本では両腕の広がりは、七フ 書いている。それは頭のてつべんから踵まで五フィート ート八インチなのだ。事実、この属の特徴の一つは、腕が インチあり、腕の周りは一七インチ、手首は一二インチも 非常に長く、もしほぼ直立すると手の指は地面に着くこと あったそうだ。頭部だけがサラワクに運ばれ、そしてセン なのだ。四フ ィート六インチの身長は、それゆえ少なくと ト・ジョン氏は自分でその測定を手伝ったと述べているが、 、も八フィート の両腕の広がりを持っていることになる。も 頭部の幅は一五インチ、長さは一四インチであったという。 し両腕のこの広がりが身長に対して、引用した測定値のよ 残念なことに、 この頭骨は保存されなかったようである。 な・せなら、この測定値に相当する標本はまだイギリスに届うに六フィートであるならば、その動物はオランではなく、 習癖や移動の仕方が具体的に違う新しい属の類人猿だとい いていないのである。 〔訳註〕 ジェイムズ・・フルック卿からの一八五七年十月付けの手うことになる。この動物を撃ち殺したジョンソン氏は、オ 紙の中で、彼は『自然史学会紀要』に載せたオランに関すランをよく知っている人物であり、彼は明らかにこれをオ ランだと考えている。それゆえ彼が腕を広げた長さを二フ る私の論文に対する謝辞を述べ、彼の甥が殺した標本の測 ィート間違えたの 間違えたか、あるいは身長を一フ 定値を送って来た。私が受け取った手紙をそのまま示そう。 「一八六七年九月三日、雌のオランウータンを殺した。頭かのいずれかだと判断せざるを得ない。後者は確かに最も から踵まで身長四フィート六インチあった。両腕を広げた起こりやすい間違いであり、もしそうだとすればその大き
食肉類および哺乳類の他の群は、急速に姿を消し、間もな殺された二つの骨格を入手した。以上のうち一六頭は十分 く完全に見られなくなるだろうからだ。他のほとんど全て成熟した個体で、九頭は雄、七頭は雌であった。大きな方 の成熟雄は、身長四フィ 1 ト一インチから四フィ】ト二イ の動物は古い時代のものは現在のものと類似していたが、 ンチの間に入った。この動物を真っ直ぐ立たせて、踵から それでもはっきり区別できる形態を有していたことーーっ まり、第三紀の後半には、ヨ 1 ロッパではクマ、シカ、オ頭頂まで測った長さである。両腕を左右に広げた時の長さ は七フィート二インチから七フィート八インチ、また顔面 オカミ、「ネコが生息し、オーストラリアにはカンガルーと 他の有袋類、南アメリカには巨大なナマケモノやアリクイの幅は一〇インチから一三インチ半であった。他の博物学 〔訳註〕 などがおり、それらは現存の動物とよく似ているが、しか者が測定した値も私のものと大体一致する。テミンクによ って測定された最大のオランは身長四フィートであった。 しまったく違っていたこと・ーーーをさらに考えると、オラン 〔訳註四〕 〔訳註〕 ウ 1 タン、チンパンジー ゴリラもまたその先祖である動シュレーゲルとミュ】ラーによって収集された二五個体の 物が存在したのだと信ずべきいろいろな理由がある。熱帯標本の中で最も年をとった雄は身長四フィート一インチで 〔訳註〕 の洞窟や第三紀の堆積物が完全に調べられ、それらの過去あった。カルカッタ博物館の最大の骨格標本は、・フライス ン タの歴史と大型類人猿の古い時代の様子をすっかり知ること氏によれば四フィートと一インチ半であった。私の標本は ンができた時、博物学者はどんなに興味を持ってその時代に全てポルネオの北西岸で得られたものである。オランダ人 の標本は西海岸や南海岸から得られたものだ。剥製および オ思いを馳せることだろう。 私はここで、ポルネオのオランとゴリラがほとんど同じ骨格の合計は一〇〇を超えるはずであるが、まだこれらの オ ツ。、には届いていない。 大きさだと想像されていることについて、事実かどうか少測定値を超える標本はヨーロ しかしながら奇妙なことに、少数の人々はもっと大きな し論議することにしたい。私は一七頭の殺されたばかりの 4 オランの死体を調べ、その全てを注意深く測定した。そのオランを測定したことがあると断言している。テミンクは うち七頭は骨格を保存してある。私はまた他の人によってオランに関する論文の中で、彼が入手したばかりの情報に
を両氏から提供されたことに感謝している。それらの写真 私の東洋でのコレクションは次の通りである。 は私にとってこのうえない手助けであった。ウィリアム・ 三一〇占 哺乳類 ウイルソン・サーンダーズ氏は、親切にも私に奇妙なシカ 爬虫類 一〇〇点 ハエの図を描くことを許してくれた。またパスコ 1 氏は、 鳥類 八、〇五〇点 ポルネオの甲虫の図版で示した極めて稀れな二種のカミキ 目 ( 類 七、五〇〇点 リムシを貸して下さっている。他の図示された全ての標本 一三、一〇〇点 鱗翅類 は今も私自身のコレクションの中にある。 甲虫類 八三、二〇〇点 私の全ての旅の主な目的は、自然誌に関する標本を私の 他の昆虫類 一三、四〇〇点 個人的コレクションのために、また博物館とアマチュアに 重複品を供給するために、入手することであった。そこで 自然誌の標本一二五、六六〇占 私が収集し良好な状態で本国に届いている標本の概数につ 最後になったが、私に援助あるいは情報を提供して下さ いて述べておこう。私は大体一、二名の、時には三名のマ った全ての友人達に謝意を表すことが残っている。特に王 レー人を助手として雇っており、また三年の間、若いイギ 〔訳註 4 〕 リス人チャールズ・アレン氏に手伝ってもらっていたこと立地理学会の委員会に対して深甚な謝意を表明したい。同 も述べておかねばならない。私はまる八年イギリスを離れ学会の有力な推薦によって、私はイギリス政府とオランダ ており、しかもマレー諸島内を約一、四〇〇マイル旅行し、政府から相当の支援を受けることができた。またウィリア また六〇 ~ 七〇回の違った旅をしたが、一つ一つの旅には ム・ウイルソン・サーンダーズ氏に対しても感謝する。彼 若干の準備と時間の無駄があり、私が本当に採集にかけたの親切な惜しみない激励は、私の旅の初めの頃、大いに役 〔訳註 5 〕 歳月は七年以上にはならないと思う。 立った。私はまたサムエル・スティーヴンズ氏からも大変 世話になった ( 彼は私の代理人として活動してくれた ) 。彼は私 XVI
博学なオランダ人は、ラテン語で "Avis paradiseus" つまり 極楽鳥と呼んだ。ヨーン・ファン・リンスホーテンは、一 五九八年にこのような名前をつけ、そして誰も生きている この鳥を見た者はいない、なぜならそれらは空中で生活し、 いつも太陽の方に向かって飛び、死ぬまで決して地上に降 私の旅行の大部分は、極楽鳥の標本を手に入れ、また彼 りることはなく、脚も翼もないからだ、と述べている。彼 らの習性や分布について何か学ぶ、という特別な目的をも は、インドあるいは時々オランダに持ち込まれたこの鳥を ってなされたものである。そして私が ( 私が知っている限り見たものらしく、補足して、しかしョ 1 ロッパでは稀れに では ) この素晴らしい鳥をその原産地の森林で見た、また しか見られず大変高価である、と述べている。一〇〇年以 多くの標本を手に入れた唯一のイギリス人であるので、私上後に、ダンビアに同行して、航海の説明を書いたウィリ はここに私の観察と探求を総括して述べようと思う。 アム・ファンネル氏は、アンポイナの標本を見て、それら 稀れで高価な香辛料であった、クローヴとナツメグを求はナツメグを食べるために・ ( ンダに来たと聞いたと述べて めてモルッカ群島に到着した初期のヨーロッパ人航海者達 いる。ナツメグは極楽鳥を酔わせ、意識を失わせ落下させ は、彼らのように富を捜し求めて歩く放浪者でさえも賛美る。その時、それらはアリに殺される。一七六〇年になっ せざるを得ないような、非常に不思議な美しい乾燥した鳥て、リンネが極楽鳥の最大の種に R ミ 4 。 ( 脚のな の皮を贈られた。マレー人商人達はこの鳥に「マヌク・デ い極楽鳥 ) と命名した時は、完全な標本はヨ 1 ロッパでは ワタ」っまり「神の鳥」という名前をつけた。そしてポル見られず、またその鳥についてまったく何も知られていな トガル人は、その鳥が足も羽も持たないことに気づき、ま かった。またその一〇〇年後の今でも、大部分の本は、極 たそれらについて正しいことを何も教えられなかったので、楽鳥は毎年、テルナテ、 ・ハンダ、アンポイナに渡って来る 彼らを "Passaros de SOI" つまり太陽の鳥と呼んだ。一方、 と述べている。一方、事実、この鳥はイギリスに生息して 第三八章極楽鳥
ができなくて、多くの時間を無駄に過ごしたけれども、約 一、六〇〇もの異なる種からなる、九、〇〇〇点以上の自然 の恵みの標本を、持ち帰ることができた。不思議な、あま り知られていない部族の人々と知り合いになり、極東の貿 易商と親しくなり、世界で最も注目すべき、最も美しい そしてほとんど知られていないものの一つ、新しい動物相 や植物相を探検する喜びを大いに満喫した。そして私は、 その旅行を実施した主な目的ーーすなわち壮麗な極楽鳥の 美しい標本を手に入れること、その鳥をその本来の生息場 所の森林で観察すること に成功した。この成功によっ て、私はモルッカ群島やニューギニアで、五年もの長きに わたり調査を続けるように刺激された。そしてそれは、今 もなお私が最も完全な満足感を持って振り返ることのでき る旅行の部分である。 470
と、進化に関する資料あるいは証拠を収集するのが探検隊になるラジャ・ジェイムズ・・フルックとも一八五三年三月 の目的であること、費用は採集品を売って当てること、が にロンドンで会っている。彼が南米から送った標本などを 書かれていたらしい。しかし、長澤博士の訳は初版ではな通じて、ウオレスはその頃、結構有名になっていたらしく、 この時は学会の後押 いので著者自身のまえがきが含まれていない。 しでイギリスとオランダの政府から多少の援助が得られた ウオレスは、アマゾンでは二年間・ヘイツと行動した後、 採集の効果を上けるために分かれて別行動をする。この頃、らしい。地理学会からシンガポールまでの汽船の一等切符 ウオレスの弟が合流するが、一年後、べィッに看取られてを送られ、助手のチャールズ・アレンを連れて出発し、四 黄熱病で死んだ。ウオレスは一八五二年十月五日帰国した。月二十日、シンガポールへ着いた。これ以後の八年間のマ 不幸なことに、帰路、船が火災を起こし沈没し、彼は貴重レー諸島における探検は、本書の主題であるので書く必要 はないだろう。探検の費用は例の通り採集した標本を売っ な標本のほとんどを失う。これは研究資料がなくなったと いうだけではなく、生活のために売らねばならない商品をて当てるのである。だから経費のかかる旅行はできなかっ た。標本が一体どのくらいの値段で売れたのか詳しくは分 なくしたことを意味している。一方、・ヘイツの方はそれか からないが、一八五五年オランウータンの皮五枚、頭骨五 らさらに七年間南米に残る。 ウオレスは帰国した翌一八五三年に、アマゾンの旅行記個、骨格一一個を売って一五〇ポンド入ったという。なお 『マレー諸島』初版は一ポンド四シリングだったので、当 『アマゾン河およびリオ・ネグロ河の旅行記』 (ANarrative T 「 avels on the Amazon and Rio Negro, with an Account 時の一ポンドが現在の一万五千円と見積もれば、大体当た っているかもしれない。彼は、シンガポールで生きている 0 宀 the Native Tribes, and Observations on the Climate. Geology, and Natu 「 al Histo 「 y on the Amazon valley) を書極楽鳥を二羽買ってイギリスへ持ち帰ったが、その値段は 一〇〇ポンドであったという。これはウオレスにとって大 いた。その翌年三月、彼はマレ 1 諸島に出発する。その前 に一度ダ 1 ウインと会っている。また後にサラワクで世話金である。このことからも、ウオレスが極楽鳥に特別な興 『マレー諸島』の謝辞にあるように、 663