寛政 - みる会図書館


検索対象: 写楽仮名の悲劇
166件見つかりました。

1. 写楽仮名の悲劇

の小山田太郎の絵である。この絵は写楽Ⅱ豊国説を証明する有力な手がかりを与えるが、し かし豊国の名の大判の一人半身像の最初の作品としても重要な意味をもっている。どういう ったや わけか、蔦屋版の写楽の一人半身像が消失した後に、泉市版以外の豊国の一人半身像が現れ るのである。これはけっして偶然とは思えないのである。 にどのかけかついろそが ロージャー ・・キーズ氏は、寛政七年正月桐座の『再魁罧曾我』の坂田半五郎演ずる おうみのことうた 近江小藤太を描いた一人半身像と、同じ芝居の市川八百蔵を描いた一人半身像を、豊国の最 おおくびえ 初の大首絵とされるが、あの高麗蔵の小山田太郎を描いた間判の一人半身像 ( ロ絵 8 ) が先 ~ 立っとすれば、それを契機として豊国は泉市専属から自由になって、他の版元から役者絵の セ 出版を始めたと考えなくてはならな サ の 国 こうして寛政六年の十一月から始 匠 巨 まる豊国の大判一人半身像は寛政八 年になると数を増してくる。そして 第 の寛政八年七月には写楽絵の第一期の みにあった二人半身像が作られ始め、 以後もいろいろな形式の役者絵が作 一唸られるのである。言 0 てみれば、写 国田 豊太楽と豊国の役者絵の形式は、写楽絵 375 6 譬朝生

2. 写楽仮名の悲劇

( しかない。じっと胸の内をひた隠し、 じたじである。真実を言いたいけれど、言うわけによ、 海しさに耐えているような源太の表情。もちろん刀をもって平次にかかったら、平次は敵で はないであろう。しかし忍の一字で、じっと耐えているところである。源太に代わって平次 と向かいあっているのが、千鳥である。千鳥はけなげにも、扇子をもって平次と対決しよう としている。千鳥を演ずるのは新進の若女形、中村松江である。千鳥の着物は、薄茶の地に 黄色の波文様。そして帯はうぐいす色である。この三枚続きの、右から左にかけて色は徐々 再に薄くなる。黒、茶色、薄い茶と黄色というように、色調は右から左へと変化している。そ してその色の変化によって、この画面の対立が示される。これもまた巧みな色のつかい方で 戸ある。やはりここでも、黒が主調色となっているように田 5 われるが、三人三様の表情のコン トラストはまことに見事である。 国 このように、文化も末になると、色は華やかになるが、文政になるとこの傾向はますます 一進んでいる。寛政時代の絵と較べると、色はたいへん派手になり、構図はいよいよ決まって 第くるか、多少感動がうすくなることは否定できない。寛政から文政まで、いろいろ作品に変 化があるが、豊国絵には一貫した芸術精神かある。役者似顔絵の描き方について、私が先に ど・つさっ 列挙したあの特徴は、終始豊国の絵を貫いているし、一人一人の役者の個性を洞察した顔の 描き方のバラエティ、目や鼻やロの変化にとんだ描き方などは、まったく変わりはない。画 風はかなり変化しているけれど、役者似顔絵の描き方および黒を主体とした画面構成におい て、寛政のころの豊国絵および寛政六年の写楽絵と、ほとんど変わっていないのである。一 461

3. 写楽仮名の悲劇

は、阿部次郎氏の言、つよ、つに、ドイツのシュトルム・ウント・ドラングの時代の芸術より、 その志において低く、そのスケールにおいて小さかったかもしれない。しかし、それは民族 の背負っている宿命のようなものである。その宿命を嘆く前に、我々はこの日本のシュトル ム・ウント・ドラングの時代の芸術について、もっと深く認識しよ、つではないか げんろく 江戸前期すなわち元禄の文化は、優れた文化である。それはふつう、三人の偉大な文学者 才によって代表されている。近松二 , ハ五一一了一七二四 ) と西鶴二六四二ー九三 ) と芭蕉 ( 一 , 人四四 5 九四 ) である。この三人はそれぞれ偉大な芸術家であり、その影響を、我々が考察し るようとしているこの寛政から文化・文政にかけての時代の文化に及ばしたが、しかし三人と めもそれぞれ孤立して大空に輝く誇り高い星であった。近松と西鶴と芭蕉が、それぞれ交わり を 屋を結び影響を与えあったということはない。しかし、この時代は違う。この時代の江戸の芸 元術には、ひとつの中心がある。それが、蔦屋重三郎なのである。つまり、版元が芸術家をか かえこむという、そういう近代市民社会での現象が、ここではじめて起こっているのである。 馬琴の語るところによれば、作家の原稿料が定められたのは、寛政七、八年のことである き えもん という。大手版元蔦屋重三郎は、もうひとりの大手版元である鶴屋喜右衛門と相談して、寛 政七、八年頃、作家の原稿料を定めたというのである。それ以前には、絵師には画料が払わ よしわら きょ・つおう れたが、作家は、ただ出版完成を記念して一夜吉原で酒食と美女の饗応を受けるのみであっ たという。この、蔦屋が鶴屋とともに作家の稿料を定めた年を寛政七、八年と考えるのは、 いささか遅すぎる。寛政の初めではないかと考える説が有力であるが、いずれにしても、職 1 17

4. 写楽仮名の悲劇

の風俗を画きて一家をなし、大に世に行なはる。 ( 略 ) 其の画風は師風を失はざれども、 つひ 頗る勝川春章に似たる所ろあり。其の後専ら俳優の似貌を画き、終に独立して一格をかき 出だせり」 とある。豊国の似顔絵は春章の似顔絵の手法を受け継ぎ、その写実精神を徹底するもので あることは、先に分析したとおりである。ところが春章は寛政四年に死に、そして春好は右 手の自由を失い、活動停止中であった。勝川派を代表するものは春英であるが、この春英は ひょうひょう ずいぶん変わった性格の画家であったらしい。飄々として、奇行も多く、どうも勝川一門を ひきいる親分の風格に欠けていたらしい。そのような性格は彼の絵にも表れているように思 非 2 のわれる。絵も軽くて飄々たるところがあるか、一向びりつとせすどことなくしまりがない 仮写楽が出現する寛政六年五月までに発表された豊国の「役者舞台之姿絵」は、鈴本重三氏 かわらさきざ 楽の説をとれば三点、「たきのや」 ( 市川門之助ーー・寛政六年正月河原崎座、あるいは三月同座 ) 、「や よしたてる やおぞう みやこを まとや」 ( 岩井半四郎ーーー三月河原崎座 ) 、「たち花や」 ( 市川八百蔵・ーー三月都座 ) である。吉田暎 かりがわ 一一氏はもうひとつ、三月都座に取材した作品として「八百蔵の雁金文七と中山富三郎の滝 おとこやまおえどのいしすえ 川」の二人全身像を数えるが、鈴木氏は、寛政 , ハ年十一月『男山御江戸盤石』を描いたもの であるという山村耕花氏の説に妥当性があるとしている。鈴木氏が吉田説を否定する理由は、 雁金文七の象徴マークの雁金紋が見えないという点である、私は次のような理由で鈴木氏の 見解を支持したい。「役者舞台之姿絵」はほとんど一人全身像で二人全身像は一枚だけであ る。そしてもう一枚は、寛政 , ハ年十一月桐座の『男山御江戸盤石』の「鰕蔵の山下金作」の 372 すこふ

5. 写楽仮名の悲劇

と並行する時代には注意深く競合が避けられているが、後には写楽絵の形式のすべてが豊国 絵に現れてくる。寛政 , ハ年以後も豊国はあいかわらず黄表紙類を、毎年十点ほど描きつづけ るか、この間、彼のエネルギーはもつばら役者似顔絵に集中した感がある。美人画について きようわ は年代考証がむずかしいが、享和ごろになって、再び彼は美人画をも多く描きはじめたよう に思われる。これはあるいは、豊国以上の多作を強いられていた歌麿の美人画がマンネリ し、寛政初期のみずみずしさを失ったことと関係するのであろうか。芸術家は自尊心が強く て、同時代に自分のかなわない芸術家がいれば、同じジャンルで勝負するのを避けるもので ある。肉筆ではあれほどすばらしい美人画を描くことができた春章は、ほとんど版画の美人 悲 の画を描かなかった。それを描いては春信にかなわないことをよく知っていたからであろう。 うたまろ 仮豊国も歌麿の全盛時代はほとんど美人画を描かなかった。同時代の北斎は美人画において歌 ざん 楽麿に、役者絵においては写楽・豊国におくれをとった。自尊心の人一倍強い北斎にはこの惨 はきん よみほんさしえし 敗は大きな屈辱感を与えたに違いない。彼は後に馬琴と組んで読本の挿絵師として、さらに 六十歳を超えてから、富士を描いたあの見事な風景画師として復活するわけである。このよ うに考えると、寛政六年から寛政末まで豊国がもつばら役者絵に精進して独自な役者絵をつ くりだしたのは、まことに賢明なことであった。そして次第に歌麿に衰えが見出され始める と、彼はまた美人画の制作を始めたのであろう。豊国の美人画は歌麿の美人画とは違う。豊 国の美人画には背景が綿密に描かれている。それで歌麿のように見る者の注意は女性の肉体 に直接に向かない。そういう意味では、歌麿のようなエロティシズムは豊国にはない。しか し

6. 写楽仮名の悲劇

選んだのであろう。この菊園を相手に吉原遊びをつづけながら、彼は決して彼の本職をおろ ごぞんじの そかにしなかったのである。浮世絵師として出発した彼は天明二年二七八一 I) 、 毯御存 しようばいもの なんば 商売物』によって黄表紙作家としてデビューし、大田南畝の激賞を得て順調に黄表紙作家の いろすりえほん 道を進んだ。はじめは作家と絵師と両道を進んだが、天明七年、一一十七歳ごろから色摺絵本 や錦絵の筆を断って、わずかに黄表紙の挿絵のみを描いた。しかし寛政元年以後は、もう自 作の黄表紙以外には絵筆をとらず、自作の黄表紙も、その絵を他の専門の浮世絵師にまかせ がちになるのである。そして、寛政三年、例の手鎖五十日の刑を受けたのちは、黄表紙の筆 を断とうとしたが、 蔦屋の懇請によってやむなく筆をとったという。写楽が登場した寛政六 悲 の年、京伝は三十四歳。この年も『金々先生造化夢』『忠臣蔵前世幕無』というはなはだ面白 仮い黄表紙をものにしている。京伝は蔦屋重三郎の死後も、なお様々な書物を書き文化十三年 楽二八一六 ) に死んだ。 京伝は号を醒斎といったが、それは自己をいつも醒めている人間として規定しているゆえ であろう。遊里の遊びの中で醒めている人間、それが彼の理想であり自己認識なのである。 谷峯蔵氏は、この京伝が写楽であるという。その証拠を画風の同一性、筆名の類似性、寛 政六年の京伝の創作活動の空白などをあげているが、私はやはり、この説は無理であると思 う。画風の同一性についてはまた後に検討することにして、山東京伝という号と、東洲斎写 楽という号は、「東」という点で多少類似性はあるにせよ、それをもとにして二人を同一人 と決めつけるわけによ ( いかない。寛政六年の空白というのも、発想は後に述べる写楽Ⅱ北斎 128 さ と・つしゅ・つさい

7. 写楽仮名の悲劇

初日以前に描かれたものであるからであろう。春好はあらかじめ山下金作が江戸に来るとい う予定で、金作の舞台の絵姿を描いたわけであるが、本人は来られなくなり、その絵だけが 残ったのであろう。そういう例は他にもかなりある うたがわ 勝川派歌川派 いまひとつ、写楽絵を一枚一枚みていく前に言っておきたいことがある。先に私は写楽の 絵を勝川派から歌川派への流れの中で論じた。寛政 , ハ年五月に写楽が役者絵を描き始める四 カ月前に、歌川豊国もまた同じように役者絵を大量に出版している。寛政六年正月から豊国 非 2 せんいち やくしゃぶたいのすがたえ . 、すみやいちべえ のの「役者舞台之姿絵」が現れ、版元は泉市 ( 和泉屋市兵衛 ) 。一一流の上の版元といってよい ったや 仮写楽を出版した蔦屋よりは格がだいぶ落ちる。すでにその一年前、寛政五年に豊国は瀛満畴 かきはっさ、 てんぐっぷてはなのえどっこ 楽天狗礫鼻江戸子』という柿発斎作の黄表紙に役者の似顔を描いている。これは鼻高一家と いわれる市川鰕蔵、団十郎親子が、上方から来たいたずら天狗をやつつける話である。そこ に市川一家の様々な役者たちを登場せしめている。格の低い役者を初めて描いたのは写楽だ という通説に対して、鈴木重三氏は、写楽より前に豊国がそれを試みている、この『天狗礫 鼻江戸子』でそれがわかる、と指摘している。写楽絵が現れた寛政六年五月にはすでに豊国 殳者の絵姿をも は己の仕事を始めていたばかりか、今まで写楽が最初とされていた格の低い彳 描いているのである。つまり写楽と豊国はほほ同時代に画壇に登場したわけである。当然、 二人は強いライバル関係にあったと思われるが、写楽も豊国もこのことについて何ひとっ語 0

8. 写楽仮名の悲劇

第七章画家別似顔絵の比較 289 えり うである。首にまいた手拭の紋を藍で染めたのは、写楽絵の着物の襟のところにチラリと赤 を忍ばせたことに対応するのであろうか。それで月代の色合も、豊国は薄藍で染めたのであ ろう。おそらく豊国の絵は写楽絵をもとにし、それをもっと派手な色彩にしたものであろう。 この豊国の、高麗蔵の小山田太郎を描いたと思われる半身像がいつ出来たかは、多少疑っ てみる必要があろう。もし写楽絵と同じく寛政六年十一月にこの絵が出来ていたならば、そ せんいち れは豊国の最も早い大判の一人半身像であり、かっ泉市以外の版元で豊国が出した最初の役 者絵であることになる。か、 山口屋忠助の印のある大判の 一人半身像が寛政八年から十 年ごろに多いことを考えると、 あるいはこれは、少し後に描 かれたとみるべきかもしれな ロージャー ・・キーズ 氏は、豊国の最も早い半身像 市 を、寛政七年正月の桐座『再 かけかついろそが 魁罧曾我』の坂田半五郎と 男 市川八百蔵を描いたセットの ・つきょえ 豊絵であるとしている ( 『浮世絵 卩いマソ にどの

9. 写楽仮名の悲劇

写楽仮名の悲劇 一以上のことからわれわれは、 写楽という画家の驚くべき仕事量に 注目しなければならない。写楽とい ) う絵師は寛政 , ハ年五月から寛政七年 大一月までというわずか十カ月 ( 寛政 ・つ - な・つ」こ . し 最 六年は閏年で一月多い ) の間に驚くべ 比き仕事をなしとげた。量については 型前にものべたように、二日に一枚、 合そして質においてその好悪はともか く、大田南畝を驚かせた、全く新し い役者絵を創造したのである。 さしえ しゃれぽん ふつう浮世絵師は、黄表紙や洒落本などの挿絵を描くことから己の仕事をはじめる。新人 ばってき が一流の版元から黄表紙や洒落本の挿絵を描かせてもらうだけで大変な抜擢である。そして ・一しき・ん その挿絵が認められて、やっと一枚摺の錦絵を描かせてもらうのである。そしてその錦絵が ある程度の評判をえて、はじめて錦絵のセットが売り出されるのである。歌麿も豊国も北斎 ひろしげ も広重も、そのような道をたどって、やっとシリ ーズものの錦絵を出版することができた。 ところが写楽絵には、この第一段階、第二段階はなく、第三段階のみが存在しているのであ あぶら る。しかもその絵の量と質において、まさにそれは最もすぐれた浮世絵師の、最も脂ののり 26.5cm 大判 23.5cm 15 ・ 6cm 間判 細 39 ・ 4c ョ 33.00 ョ

10. 写楽仮名の悲劇

いんせい この写楽絵が描かれた一一年後、寛政八年に鰕蔵は舞台を退いて隠棲し、風雅な生活を楽し ようせつ んだが、 やがて彼の後継者・六代目団十郎が寛政十一年に一一十二歳で夭折するや、翌寛政十 はくえん 二年に十歳で襲名した孫の七代目団十郎を助けるために、再び市川白猿の名で舞台に立ち、 きようわ 享和二年まで舞台を勤めた。この悪七兵衛景清を演ずる豊国の市川白猿の絵 ( ロ絵芝は、 享和二年の正月、彼の最後の舞台を描いたものであるが、その顔は『男山御江戸盤石』の鰕 蔵の金作次郎を描いた豊国の絵や、また同じ舞台を描いた写楽絵ともよく似ている。とくに 口が左下に曲がって開いて歯を見せているところなど、写楽の絵にも豊国の絵にも、あまり 見られない特徴である。 悲 てんぐっぷてはなのえどっこ の 豊国は「役者舞台之姿絵」を描きはじめる前年の寛政五年、『天狗礫鼻江戸子』という 仮黄表紙の挿絵を描いているが、その序文で、彼は「似顔画師豊国」という名を与えられてい 楽る。この本には鰕蔵や六代目団十郎、高麗蔵や門之助のような有名な役者ばかりでなく、あ わかぞう まり名の知られていない市川森蔵、市川和哥蔵など市川一門の役者が大勢描かれていて、鈴 木重三氏はこれを、写楽登場以前に、名も知れないあまり格の高くない役者を描いた最初の 例であると評価している。また豊国が文化十四年に出した絵手本『役者似顔早稽古』でも、 市川白猿の絵を例に出し、役者似顔絵の描き方を説明している。やはり似顔絵師豊国にとっ て、団十郎は忘れがたい役者であったのに違いない 美意識の同一性が示す写楽Ⅱ豊国説 286