つねよ 常世などは、一期もそれ以後も一重瞼であり、徳次や八百蔵や男女蔵、半四郎などはいつも 二重瞼である。三津五郎は第一期では一重瞼であるのに、第二期以後の四枚は二重瞼である。 これを見ると、写楽絵において、一重瞼と二重瞼を描き分ける原則は貫いているが、ある役 者を描くのに一重瞼か二重瞼かはっきりと決めるのには、多少の変動があったといえる。自 はにはらかすろう 然人類学者の埴原和郎氏によれば、日本人はアイヌ系の古モンゴロイドと、朝鮮系の新モン ゴロイドとの混血と考えられているが、この二重瞼はアイヌ系に多く、一重瞼は朝鮮系に多 いという。そして一重瞼と二重瞼は必ずしも固定せず、健康や体調によってあるときは一重 瞼、あるときは二重瞼になる人もいるという。 悲 やくしゃぶたいのすがたえ の 豊国が写楽と同時代に描いた「役者舞台之姿絵」を対象にして一重瞼と一一重瞼を調べてみ 仮ると、豊国も写楽とほば同時に役者を一重瞼と一一重瞼に描き分ける手法を採用していること 楽がわかる。しかし写楽が一重瞼あるいは二重瞼に描いた役者と、豊国が一重瞼あるいは二重 瞼に描いた役者とはかならずしも一致しなし糸 、。勺五十点ある豊国の「役者舞台之姿絵」のな かで、一重瞼と二重瞼とが判別できると思われる写真を入手できたのは三十五点であった。 そのうち、写楽絵の役者と重複するものは十九人である。さらに寛政期の豊国絵を加えると、 写楽・豊国に共通する役者は二十四人となる。これについて一重瞼と二重瞼の描き方の一致 不一致を調べたところ、一致する者十一人、一致しない者九人、その他四人となった。「そ の他」というのは、写楽絵あるいは豊国絵に一重瞼と二重瞼の両方の作例があり、必すしも 統一がとれていないケ 1 スである。二十四人中、一致しない者九人というのはかなり多い 328
りゆ・つそう 一致しないのは、半五郎、竜蔵、徳次、幸四郎、鰕蔵、門之助、喜代太郎、六代目団十郎、 金作の九人である。宗十郎は写楽絵の第一期では一重瞼であるが、二期以降は一一重瞼で、豊 国絵でも一重瞼と二重瞼とがある。半四郎は写楽絵ではすべて二重瞼であるが、豊国絵では 一重瞼のものと二重瞼のものがある。しかし菊之丞や中山富三郎や高麗蔵や鬼次などは、写 楽も豊国も常に一重瞼であり、八百蔵や男女蔵や仁左衛門などはいつも二重瞼なのである。 写楽絵におけるこの描き分けが寛政 , ハ年五月に始まるのは確実であるが、豊国絵の描き分 蹶けがいっ始まるのかは、「役者舞台之姿絵」の時代考証がまだ不十分であることもあっては かわらさき っきりとは言、んない 。この「役者舞台之姿絵」が描かれ始めるのは、寛政六年一月、河原崎 の座の舞台を描いた門之助と半四郎の二点からとされるが、この似顔絵は両方とも写楽絵が二 重瞼なのに対して、どういうわけか豊国絵は一重瞼である。寛政六年五月の舞台を描いた豊 国絵は半五郎、宗十郎、三津五郎の三点であるが、これは写楽絵においては半五郎一人が一一 重瞼であるのに対し、豊国絵では三枚とも一重瞼である。さらにおもしろいことに、写楽絵 第 において三津五郎も宗十郎も第一期だけは一重瞼であるが、第二期以後は二重瞼に描かれて いるのである。先に私が指摘した二人の絵の類似性にもかかわらす、この点で多少違いがあ る。また三津五郎は少し後、寛政末期以後の豊国絵でもやはり一重瞼である。この違いをど う考えるかは大変むずかしいが、あるいは寛政 , ハ年五月、豊国が写楽を名乗って大首絵を描 き始めたときに、 この一重瞼と二重瞼の違いを描く技術を創始したのではないかと思う。 「役者舞台之姿絵」を描くときにはまだこの手法を思いっかず、それと同じ役者をテーマと
おおたなんは 写楽の似顔絵が徹底した写実精神の上に立っていることは、すでに大田南畝によって注意 されたところである。「あまりに真を画かんとて」と、南畝はいう。この「真を画く」とい 写楽の似顔絵は春章の似顔絵を超えて う似顔絵の精神は、勝川春章によって始められたが、 写実精神をいっそう徹底させたものであることは、先の分析によって明らかである。われわ れはこの写楽の写実精神を表す三つの特徴をあげて、それが今問題の歌川豊国の絵に存在す るかどうかを調べることにしよう。もし存在するならば、前二章の写楽絵と豊国絵の類似を 犠一歩進め、さらに芸術的手法の類似あるいは同一が証明されることになる。 一重臉・一一重瞼の描き分け 方 の 新われわれは前の分析によって一重瞼と二重瞼の描き分けが写楽によってはっきり出現する ことがわかった。二重瞼はすでに菱川師宣によって描かれているが、役者絵として二重瞼を ムはっきり描いたのは勝川春章であろう。しかし春章は二重瞼を四代目団十郎など、ごく少数 の役者に限ったのである。ところが写楽絵では、この一重瞼と二重瞼がはっきり描き分けら れている。つまり、すべての役者を一重瞼と二重瞼に描き分けているのである。第一期にお 一一まぞ・つ やおぞう いて宗十郎、菊之丞、高麗蔵、松助、鬼次などは一重瞼に描かれているが、市松、八百蔵、 おめぞう 鰕蔵、男女蔵、半四郎などは二重瞼に描かれている。第二期以後においても、やはりこの一 重瞼と二重瞼の描き分けははっきりしているが、第一期で一重瞼に描かれているのに、第二 期では二重瞼になったりするものもないわけではない。たとえば菊之丞や、高麗蔵、鬼次、 ヘム 327
O Ⅱ五人、Ⅱ七人ということになる。 写楽以前の絵 次に瞼が一重か二重かということである。これは後に詳しく考察したいが、 もろのぶ 。もちろん二重瞼は遠く師宣か 師は一重瞼、二重瞼を役者によって正確に描き分けていない らあり、春章も四代目団十郎などを二重瞼に描いているが、写楽のように多くの役者の目を 。三十人の役者を一重か二重かに分かっと、一重瞼十五人、 一一重瞼に描き分けた絵師はいない 二重瞼十五人、ちょうど半分半分である。つまり写楽以前の絵師と較べると圧倒的に一一重瞼 犠が多い。これは写楽の似顔絵の大きな特徴である。 勝川派の絵師に多くあって写楽絵に少ないものがある。それは目の隈である。勝川派の絵 の師たちは好んでこの隈を描いた。濃い隈が役者の素顔を見にくくするせいか、写楽はこの隈 、。苗ゝても薄い色を使って、あまり濃く描かない 楽をあまり描かなし才し 五ロ ロもまた、人間の感情表現の器官として、目ほどではないが重要なる役割を果たす。ロは 第 あるいは意志の、あるいは色情の表現の器官でもある。それゆえに写楽は、目以上にロの表 一つや二つ 現について工夫をこらしているように思われる。このロの分類は容易ではなく、 の原理では分類は困難であろう。まず口を大きさと色によって分けることにしよう。 < 小さくて黒い口 大きくて黒い口 小さくて赤い口 313
画期的手法の同時発生という問題 前章において私は、たいへん重要な発見をしたと思う。それは写楽の似顔絵の方法に関す ス ~ る問題である。従来、写楽が江戸の似顔絵の歴史において画期的な地位をしめると言われて クきたが、 それが具体的にどういう手法によってなのか、明らかにならなかった。写楽が独自 のな似顔絵を創出したとするならば、その具体的特徴はどこにあるのか 豊私は、写楽が先行する似顔絵師に対して、はっきりとした特徴を主張できる点として九点 巨をあげた。そのうち、とくに重要なのは、一重瞼と二重瞼の描き分けと、鼻と顔の輪郭線と もろのぶ 章の関係であろう。遠く師宣などにその例はあるものの、浮世絵師の描く役者絵は美人画と同 第 じく、ほとんど一重瞼であった。しかし第一期の写楽絵役者三十人のうち、一重瞼十五人、 二重瞼十五人を数える。ほば同時代の豊国絵では、二重瞼は二十四人中八人、十年後に豊国 やくしゃあわせかがみ が描いた『俳優相貌鏡』を調べると、三十三人中、一重瞼が十六人、二重瞼が十七人という ことになる。大首絵と全身図の違いを考えなければならないが、写楽も豊国も、この点にお いて同じ手法を採用していると一言える。前章に述べたように、この描き分けは豊国にはじま 347 第九章巨匠豊国のサクセス・ストーリー
( あるいは彼 ) を役者の大首絵の制作に走らしめたのであろうが、写楽・豊国の出現以後は 逆に春英は写楽・豊国の影響を受けている。しかしこの一重瞼と二重瞼の描き分けに関して は、彼はそれ以後もかたくなに拒絶しているのである。彼は宗十郎を多く描いたが、彼の描 く宗十郎はいつも一重瞼である。写楽と豊国が二重瞼によってギクリとした印象を出してい るあの仁左衛門も、春英絵ではすべて一重瞼である。春英としては後輩の始めた技術を、先 輩の誇りにかけても採用できなかったことを物語るものであろうか。しかし写楽と豊国は違 う。この手法を始めたのがどちらかはわからないが、彼らは多少の差異はあるにしても、同 特 時に、役者を一重瞼と二重瞼とに描き分けたのである。このことは、写楽・豊国の人間観察 のの精密さを意味している。象徴的にいえば、この瞼の描き分けによって写楽・豊国は勝川春 新章の写実精神を、勝川派を超えて展開したといえる。 章 Ⅱ問題の「皺」 もうひとつ大事なことは、写楽が顔の皺を実に微妙に描き分けていることである。写楽は その人間の年齢、苦悩などを、顔面に深く刻まれたさまざまな皺によって示したのである。 きくのじよう とくに興味深いのは、目の上の窪みを表す皺である。その皺をもっているのは、菊之丞、和 はんど・つ 田右衛門、常世、坂東善次。善次は滑稽役だからいいものの、女形の菊之丞や常世はこんな 皺を描かれたらたまったものではあるまい。第二期以後では半四郎や山下金作にもこの皺が 出てくる半四郎はこのとき四十八歳、金作は六十一歳、目が落ち窪んでいるのは当然であ 331 く
した大首絵を描く時にこの手法を思いついたのではないか。しかしまだ宗十郎や三津五郎で はその手法を適用せず、半五郎に至ってやっとこの手法を適用したのではないかと思われる。 以後の役者はほぼこの手法にしたがって描き分けられ、豊国絵にもまた寛政六年七月以後、 みやこざ 一一重瞼の役者絵が出現するのである。たとえば、寛政六年七月都座の不破伴左衛門を演じた 八百蔵はあきらかに二重瞼である。 しかし、この全部の役者についての一重瞼と二重瞼の描き分けが写楽絵に始まるのではな よしたてるじ く、あるいは豊国絵に始まるのではないかと思わせる絵が二点ある。一つは吉田暎一一氏が寞 かりがね はつあけばのかおみせそが 政六年三月の『初曙顔見世曾我』の三番目四幕の中山富三郎の滝川と八百蔵の雁金文七を 悲 の描いたものとされている絵であるが、この八百蔵はあきらかに二重瞼である。しかしこの絵 にどのかけかついろそが 仮は山村耕花氏によって、寛政七年二月の『再魁罧曾我』の富三郎の丹波屋おつまと八百蔵 楽の古手屋八郎兵衛であるとされ、鈴木重三氏はこの山村説に賛成している。また高橋コレク ションにある八百蔵を描いたものを鈴木重三氏は吉田氏とともにやはり同じ『初曙顔見世曾 我』に取材したものとしているが、この八百蔵もはっきりとした二重瞼である。吉田説を採 っても、鈴木説を採っても、一重瞼と二重瞼の描き分けの創始を豊国としなくてはならない 一重瞼と二重瞼の問題は、なおかなりの問題点を含むが、しかし多少の役者の相違がある にせよ、やはり時を同じくして二人の画家、すなわち写楽と豊国が同じ手法を用いて役者絵 を描いたということは、この二人の同一性を強く裏付けるものだと私は思う。たとえば春英 はこの描き分けをまったく行っていない。春英は写楽・豊国に大きな影響を与えて、彼ら 330
市川門之助鼻の位置・ B / 一重瞼 / / 顎の線なし / / 皺なし 307 て部 はす のあ ろ私人ん がでかを いが つでがよ ほ、な る約がた はす 四あ て頬 つあ 五る片す に度 で人 に約外る の徴顔蔵 。距ハで る線 がち つ離〇見 が度て写両ナ こ狭 度 , し、 の顔 はが お楽 そ絵に見 はで 四角 てな つに線だ る見三致五度頬広 〇す度はがく た近 は者ハた どのた広 い膨 以角 い丞 。る 第八章写楽絵の方法的特徴 ②市川高麗蔵鼻立置・ @淞本幸四郎鼻立置・ 豊 国 似 の 之 よ A. / / 一重瞼 / / / 顎の線なし / 皺なし B / 一重瞼 / - 顎の線あり 皺・眉間、頬、ロの周辺 約 四 五 以 約 〇 度 以 内 ら 五 度 、な く は 度な鼻 ら 上な間 い ま り 、写た の を 〇見度 る 内度内 な り と の あ め は 〇 よ り 見 と き は よ り で い と な ー差 と す と たがあ を と き に る郎写幅が 楽 は よ と ま た 小 十 。致験 ら 、約 い楽方〇中が顔 麗せどらす に蔵れで約る狭 人 実 し るた鼻 と かこ先 ろ 、で は こ高わほか致幅顔カ 度る開多こ と 。側 五 度 ば ほ 、の幅 に よ て 理 っ 高鼻も く て 幅 が い少け頬す何も の い る 、ノ、 は が く 、線て低ろ の カゞ く て り も の と 彦頁 の し、 で人るが十 の で ろ っ か ん 鼻 の 糸泉 と る 角 ら度味 も 。で顔特と百 を し な鼻は と 顔 の の 間 は 意も狭之接 る ほ と D あ の と は い し ) を 、郎 ん少て ど鼻 C と 。カゞ く っ て C い の あ く べとあ も の鼻八 の 示線ほ の な と狭顔 い 菊 で る は と ん ど B の 。線 と し
ひょうせつ 格であるならば、あとから発表した絵師は模倣・剽窃・盗作などの、あらゆる罵倒を覚悟し なくてはならない 。一一人の誇り高い浮世絵師たちが、どうして自分の名声を一挙にして失墜 せしめるようなことを敢えてしたのか。 よく考えると、従来の常識である「写楽・豊国別人説」は、たいへん困難なことを証明し なくてはならないことになる。私は方法の上から見て、一一人の芸術家が、たとえば一重瞼と 一一重瞼を描き分ける方法を同時に着想する可能性は、どんなに多くみても十パーセント以下 であると思う。また同じように、鼻と顔の輪郭線の距離によって似顔絵を描き分ける方法を、 ス ~ 二人が同時に着想する可能性も十パーセント以下ではないかと思う。とすれば、その二つの セ ーセント以下といってよかろう。さらに他の点の同時の着 組み合わせが起こる可能性は一バ の想、およびあの高麗蔵や八百蔵の絵の、偶然の類似の可能性を考えるならば、その可能性は いまもなお私の論証。 こ疑問を投げかける者が 豊限にトさくなるに」理いなし立午 ( らっかん 巨あるとすれば、それは一方の絵には「東洲斎写楽画」、他方には「豊国画」という落款がっ 九けられ、東洲斎写楽が高い評価か加えられているに対し、一方の歌川豊国の絵のほうは今な 第 お低い評価に止まって、それが容易に結びつかないゆえではなかろうか 客観的学説としての基礎条件 以上、哲学者西田幾多郎の言うような悪戦苦闘のドキュメントの末に、私は、ようやく写 楽Ⅱ豊国説の第一のハードルを越えたように思われる。先に私は、写楽Ⅱ < 説を証明するた 355
写楽仮名の悲劇 304 3 淞本幸四郎鼻窈立置・ ②ヰ島和田右衛門鼻の ①谷村虎蔵鼻窈立置・ B / ニ重瞼 / 顎の線あり 位置・ A / ニ重瞼 / 顎の線 D / ー / ニ重瞼 / / / 顎の線あり / 皺・眉間、額、頬、鼻の脇 あり / 皺・目の上、鼻の脇 / 皺・鼻の脇 る 幅 え鼻 しあ い く て絵鼻鼻 て C かる か に も る 直は る は て でのな い に は ど の 変 。線あ も鼻 べ C る おそ り し し、 わ役き っ よ る そで いれ高 に高カ に る 麁 の 力、 る 柄で 属 の あ っ 蔵でて そ、 麗も く し と はな にあす先凹 のあ る た も れ蔵 、善 い よ の 鼻 ろ る がと の細鼻次 る 理 後 類 っ が 分 う鼻 。そ ぇ は カゝの の つ つ の 、類鼻第 ど 穴鼻 れ の し ) 分がと多 こ第に のぞで鬼描がは に三第 く 析果 は少の三従よ期一尖絵れあ次き広 すた よ 其月、 な の っ を の 其月 の分 く の る 凹 つ ス - し、 : 変 る し のばて間をのて 役 。鼻け描型 っ て 。動 0 こ一 亜判大 つ者そ 、がか し、 の と 他 第役 は写判 し男なれ鼻 の判 て る の あ 楽 に ほて女 のあ さ の て 黽 の る絵鼻期滑蔵嵐 2 も し画 小ば写蔵 れ い線 家 が自 よ は の 稽 の竜 3 ち十同 楽 て る の に 、体 B 大 . 成 鼻蔵 3 ろ は 郎 じ 。お そ の に判 のうん の形第 、る は の B か 属 のな い線鼻多 鼻の のか の す ~ て 傾か はの少は鼻期津同鼻わ の つ 四存 向 に る 黽そ凹線の丸を じお 以五 ら と 分在 蔵 があ う型はち く付後郎高 よず っ 考の増でほカゞ低 法す 丿 ( び い け の の