ささやくにのり よる証言をもっことになる。重要な同時代の人間というのは大田南畝と笹屋邦教と山東京伝 とである。 当代随一の文化人大田南畝の証言 まず南畝の証言である。南畝は浮世絵の叙述を岩佐又兵衛二五七八ー一六五〇 ) から始め せつつのかみ ている。乂兵衛は荒木摂津守の息子であるといわれる。荒木摂津守村重は信長に仕えて軍功 があったが、のち信長の命にそむいて自殺した。時に又兵衛三歳。乳母に抱かれて本願寺の 子院に隠れて、母方の氏をとって岩佐と称した。成人ののち織田信雄に仕えて画図をもって の一家を成した。よく当時の風習を写したので、世人がもって浮世又兵衛といったという。南 浮世絵は当時の風俗 仮畝が浮世絵の開祖を岩佐又兵衛においていることはまことに興味深い 楽すなわち当代の風俗を写すものである。南畝の浮世絵観はかなり広いのである。当時の風俗 さし・ん を写したものはすべて浮世絵である。それゆえに肉筆画も木版画も草双紙の絵も狂歌の挿絵 も、同じように浮世絵に属するのである。この南畝の広い浮世絵観を考えないと、以下の記 事はよくわからない ひしかわきちべえもろのぶ 岩佐又兵衛の次に、南畝が置くのは菱川吉兵衛師宣二六一八 5 九四 ) である。南畝は、 てんなじゃうきゃう 「大和絵師又ハ日本絵師とも称ス、房州の人なり、 ( 中略 ) 天和・貞享の頃板本多し」と比較 的簡単に記している。 はなふさいっちょう 岩佐又兵衛と菱川吉兵衛師宣の次にくるのが英一蝶 ( 一 , ハ五二・ ) 一七二四 ) である。そし
しよせんはるのぶ 描きになるとは、夢にも思っていなかったのであろう。大田南畝は所詮、春信の芸術を最も 偉大な芸術と考える文学者であり、豊国の芸術はあの南北の芝居などとともに、彼の趣味に は合わなかったのではないか。後年、豊国が異様な人気を得た後であったならば、おそらく は写楽絵より豊国絵にあてはまると思われる、このような写楽絵に対する批評を、彼が敢え てしたかどうかは疑わしい 理 豊国にオマージュをげた戯作者たち ささやく て この大田南畝が書いた『浮世絵考証』の原文と、笹屋邦教の書いた浮世絵師の系譜『古今 れ きようでん , 刀 大和絵浮世絵始系』に、京伝は『浮世絵類考追考』を加えたが、写楽のことについても、豊 正国のことについても、彼は何一つ語ろうとしなかった。京伝は豊国とたいへん親しく、当然 皮よそれについて頑強に口をつぐんでいる。そして、 楽写楽の秘密を知っていたに違いないか彳ー この文学界の第一人者も、後には先にあげた『朝茶湯一寸ロ切』のように、豊国に対して、 社たいへん上手にお世辞を言っているのである。寛政六年に処女作の黄表紙一一点を豊国の挿絵 しきていさんば で出版し、以後豊国との親密な関係がつづいた式亭一二馬はもちろん、このことについて知っ はっちゃうほり 彼はとばけて「江戸八丁堀ニ住ス」と注をつけたのであろう。江戸 ていたかも知れないが、 かんた に八丁堀は二つあり、神田八丁堀というのは、弥次喜多などの空想的人物の住んだところで あるが、ただの八丁堀は与カ・同心の住むところであり、そこに阿波屋敷があった。その三 さいとうげつしん じゅうろべえ ししづかほ・つかいし 馬の注に、石塚豊芥子と斎藤月岑が、写楽は阿波の能役者・斎藤十郎兵衛なり、という説を 419 げさくしゃ にのり
同じことが写楽と豊国についても一一一〕えよう。写楽は国政の次に登場する。当時、国政の役者 りよ・つが うわさ 絵の評価は高く、師豊国を凌駕しているという噂さえあった。その風潮を大田南畝は捉えて、 まず国政の役者似顔絵について語り、そして次に、一年足らずで消えてしまった写楽につい かぶき て語っているのである。「これまた歌舞妓役者の似顔をうっせしが、あまりに真を画かんと て、あらぬさまにかきしかバ、長く世に行われず、一両年にて止ム」。これは実に鋭い大田 南畝の批評であることを、私は前に述べた。大田南畝は、写楽絵が一年足らずで終わった真 の理由を知っている。が、その時まだ大田南畝は、あの明和から天明にいたる一つの大きな 夢を含むリアリズムの美学を信じていたに違いない これからの時代の、リアリズムよりエ 悲 のクスプレッショニズム、怪奇な幻想に遊ばうとする文化・文政の美学を、彼は好きになるこ 名 仮とができなかったのであろう。写楽の絵に、彼は多少趣味的についていけないものを感じた 楽のであろう。それが、そのような批評となって現れる。しかし、豊国は写楽絵のみに尽きる ものではない。そして、それゆえに北斎の場合と同じく、大田南畝は別に豊国の項を立てて 語る。「錦絵をよくす、墨と紫斗にて彩色のにしき絵をかきはじむ、歌舞妓役者の似顔をも よくかけり」。この豊国に対する批評もよくあたっている。私は豊国の絵を鑑賞して、彼は やはり黒の芸術家だと思った。黒の「いき」ということを、彼ほどはっきりと表現した浮世 くろきら 絵師はいない。そして、この黒を主体にした絵は、黒雲母の写楽絵より豊国絵に目立ったの であろう。大田南畝は、ここで写楽絵に尽くされない豊国絵の特徴を語ったのであろう。 おそらくこの『考証』を書いた寛政十年頃には、大田南畝は後世豊国があれほど偉大な絵 418 とら
た年は分からないが、文化年間のことであるとしたら、どんなにおそく見積っても写楽が姿 。とすればこの写本は、まことに貴重な を消した年から、まだ二十数年しかたってはいない この『浮世絵考証』については由良氏の著書に写真があり、また 資料と言わねばならない 小路氏の論文に、その全文が校訂されているからそれを見てほしい ( 以下『浮世絵考証』か らの引用は北小路健氏の『「浮世絵類考」論究』による ) 。 者『浮世絵類考』のもっとも信用すべき写本を見出し、そしてそれが三部から成り立っている 能ことを明らかにした点において由良氏の功績は大きいと言わねばならない。 もしもこの『浮世絵考証』が後世の『浮世絵類考』の原本であるとすれば、この本がなぜ 楽かくも多く写されたかの理由はよくわかるのである。なぜならば大田南畝は当代第一の知識 ねーけ 写 人である。彼は若くして『寝先生文集』という漢詩集をつくり、文名をはせ、また狂歌と 一、いう新しい芸術をつくり出した。しかしこの漢詩集や狂歌によって、さんざんこの世を洒落 第 のめした大田南畝は寛政の改革によって、自己変革を余儀なくさせられたのである。「世の ( 文武 ) ( 蚊 ) 二中にかほどうるさきものはなしぶんぶといふて夜も寝られず」という狂歌の作者としての ←弔けんぎ 嫌疑を受けた大田南畝は、自己の生活態度を改めて、寛政六年 ( 一七九四 ) 、儒学者の試験を 受け、幕府の役人になった。以後彼はまじめな官吏となり、職務に精励したのである。寛政 , ハ年を契機にして、彼の人生は変化するが、しかし以後も彼は狂歌をやめたわけではない。 ひ「一と 彼が狂歌界の第一線から引退したにせよ、南畝の令名は日毎上がっていった。まじめな幕 府の官吏であることも、決して南畝の評価にマイナスではなかったと思われる。南畝は、依
と春朗が錦絵なのである。ここで南畝は当代の浮世絵師の四つの傾向について語っている。 まず美人画、それは歌麿と栄之。そして歌舞伎役者の似顔絵は国政と写楽。狂歌摺物の絵は 窪俊満と宗理、そしてもっと幅の広い錦絵は豊国と春朗ということになる。 もちろん南畝は宗理が春朗であることを知っている。しかし春朗はのちに名を改めて宗理 時代になると狂歌の摺物に熱中し、かえって摺物の絵は錦絵に似ないことを尊ぶと主張して 説 者いるのである。南畝は、彼が大変親しかった窪俊満について語り、それと関連して宗理の仕 ル文 事に言及し、またのちに、たくみに錦絵を描いた豊国に関連して、多くの小錦絵を描いた春 の 可朗について言及しているのである。 ←鳥居清長と北尾重政を近来錦絵の名手なりと南畝はほめたたえた。おそらく寛政十年頃、 写 彼らよりむしろ人気があったと思われる歌麿についても、また当時歌舞伎役者の似顔絵を描 的 いて日の出の勢いであった豊国についても、彼は名手と言っていない。また勝川派について 第 彼はあまり評価をせず、春章については「これも明和の頃歌舞妓役者の似絵をゑがきて大に 二行わる」と、もう過去の人の扱いである。春章は寛政四年に死んでおり、過去の人であるこ 第 とは間違いないが春好を、「弟子春好を小壺といひき」の一言で片付けているし、また写楽 しゅんえい や国政や豊国と並んで当時歌舞伎役者の絵を描いて人気のあった勝川春英について一言も語 っていないのはどういうわけであろうか 私はこの『浮世絵考証』の中で、南畝は写楽を大変評価していると思う。大田南畝は彼の 狂歌本を、蔦屋から出版していて、蔦屋とはいたって親しい関係にある。また彼は、写楽絵 断示
こっとうしゅう 『骨董集』や『近世奇跡考』の文章とほほ一致し、先の南畝の場合と同じく、この文章が他 ならぬ京伝の作であることを示している。しかし京伝は、当代の絵描きについて全く語って しオし もちろん京伝は、南畝が書いた第一部を見ている。しかし、それに何の批評も加えていな 南畝は京伝すなわち北尾政演の絵について何の批評もしなかった。すでに絵筆をとるの 者をやめていた京伝にとっても、それは多少の不満だったかもしれない。自分のことも書かれ ル文 ム日〕 ている当代の絵師の批評について京伝は触れるのを避けたのであろう。京伝は、蔦屋と深い の 関係にあるので、寛政六年から七年にかけて百四十数点もの役者絵を描いて大いに人気を博 した写楽かいったいどういう人間であるか知っていたに違いない。しかし、京伝はこれにつ たれ がんきょ・つ 写 いて頑強に沈黙している。彼の書いたもの、彼の随筆にも、あるいは黄表紙にも、写楽が誰 標 、。京云の沈黙を我々はどう解釈したらよい であるかというヒントを見つけることはできなし 第 であろうか 三馬の描いた浮世絵相関図 しきていさんば 写楽について南畝とともに語っている唯一の同時代者は式亭三馬である。しかし三馬の活 躍した時期は、写楽の活躍した時期よりやや後である。また彼はあまり蔦屋から本を出して いない。したがって、写楽については南畝や京伝ほどよく知っていないと思われる。 きようわ この三馬は、文政四年頃『浮世絵考証』に注を加えたが、それより二十年も前、享和一一年 ったや
を何点かもっていたらしい。南畝の印のある写楽絵が発見されているという。写楽について 彼は十分知っていたにちがいないと思う。「これまた歌舞妓役者の似顔をうっせしが、あま りに真を画かんとて、あらぬさまにかきしかバ、長く世に行われず、一両年にて止ム」とい う一言葉は、言葉の分量としてはほば歌麿と同じであり、また宗理と春朗を合わせた分ともほ ば等しい。大田南畝が写楽に注目しているのは間違いない。 またこの批評は的確である。写 楽は真実を描こうとした。一人一人の役者の個性とその役の上の表情を的確にとらえようと した。そのために彼は役者の表情を誇張したのである。それがあらぬさまに描いたというこ とである。現実を誇張することによって、かえって現実をより的確に表現しようとする。そ 悲 ひんしゆく のれが写楽のねらいである。しかし、それがかえって人々の顰蹙をかったのかもしれない。役 名 者はもっと美しく描いてほしいと思、つであろう。またファンも、もう少しきれいであってほ 楽しいと、写楽絵にいささか落胆したかもしれない。おそらくそういう声が写楽絵の消失の原 因の一つになったかもしれないが、南畝は写楽絵の特質を簡潔な言葉で見事に表現している らっ のである。この「一両年にて止ム . という言葉に注意するがよい。それは写楽という名の落 かん 款をもった絵は一両年で止んでしまったという意味である。一両年で写楽が消えたといって いるが、写楽が死んだとは南畝は語ってはいないのである。ちょうど、宗理と春朗という一一 人の名で北斎か出てくるように、写楽も別の名でここに現れているかもしれないのである。 この時代を代表する以上の絵師の後に、南畝は三人の絵師を加える。
たまかっ もとおりのりなが 田た。由良氏はかって氏の先生であった。しかし、本居宣長 ( 一七三〇ー一八〇一 ) が『玉勝 ま 間』でいうように、師の説を批判するのがむしろ弟子としての道である。この宣長の言葉に したがって 、北小路氏は遠慮なく、師、由良氏の説を批判するのである。 こういう批判というものは、多少、批判の対象に厳しくならざるをえない。」足 判もいささか厳しすぎる感なきにしもあらずだが、批判の中心となった、由良氏の写楽Ⅱ 斎説への批判は正しいと思われる。由良氏は『浮世絵類考』の考証を、ただ写楽Ⅱ阿波の能 役者説を否定するためにばかりではなく、写楽Ⅱ北斎説を肯定するためにおこなった。この 後者の側面が、北小路氏によって厳しく批判されたわけである。私はここでこの北小路氏の 悲 の批判を参考にしながら、由良氏の説を検討することにしよう。 なんほ 名 たとえばこの『浮世絵考証』の第一部の大田南畝の書いたと思われる部分について由良氏 仮 - 楽は、これをすべて南畝の書いたものであると一言えないという。大田南畝は、岩佐又兵衛 ( 一 とよひろ 五七八ー一六五〇 ) から歌川豊広二七七三 5 一八二八 ) までの三十 , ハ人の浮世絵師について語 ることで浮世絵の歴史を述べるわけであるが、由良氏はこの三十一番目の国政と次の写楽の 間に線を引き、国政までが大田南畝の書いたメモで、写楽から豊広まではこのメモに、弟子 たちがつけ加えたものとするのである。とすれば、あの写楽についての類考というより考証 の記事そのものも門人の書いたものということになる。由良氏は、クルトが無条件に信じた こびゅう 三馬以下の説の誤謬を正したばかりか、従来、大田南畝その人の書いたものであると信じら しんびようせい れたあの一文の信憑性をも疑っているのである。由良氏は大田南畝が生活態度を改め、儒学
いている。近藤正斎こと近藤重蔵は山東京伝からこの『浮世絵考証』なる本を借りて書写し たらしい。京伝は『浮世絵類考』の原部分の作者の一人であるから、その所蔵本は大田南畝 の自筆本と共に、最も信頼することが出来ると考えられる。とすればそれを自ら写した近藤 正斎の所蔵本を忠実に写したと思われるこの『浮世絵考証』は南畝や京伝や正斎の自筆本の 見つからない現在、最も信頼するに足る原本であるといえる。 『浮世絵考証』は三部から成っている。第一部は、大田南畝が書きとめたもの、書かれた時 期は、写楽の活躍が終わった時期をそんなに下らない寛政十年頃ではないかと思われる。第 一一部は笹屋邦教が書いた『古今大和絵浮世絵始系』と称する浮世絵師の系統図である。笹屋 悲 ぬいはくし の邦教は縫箔師で紋章の仕事もするので、家系にも興味をもっていたらしい。おそらく、南畝 名 は、自分の覚え書きの不足をこの邦教がつくった始系によって補おうとしたのであろう。南 楽畝は寛政十三年 ( 一八〇一 ) 、この始系を附したと記している。 この第二部に山東京伝の追考が加わるのである。山東京伝は浮世絵師でもあったが、黄表 しゃれほん 紙、洒落本の作者としても当代随一の人気作家であった。しかし彼は、学問にも興味をもち、 こっと・つしゅう あらわ 「骨董集」とか「近世奇跡考』などの書物を著している。これらの本をみると京伝の考証学 は、ひとかどのものであることが分かる。ここで、京伝は南畝によって書かれた第一部、お よび笹屋邦教によって書かれた第一一部を見て、さらに彼の考証の結果を付け加えたのである。 きょ・つわ 京伝がそれをつくったのは、享和二年 ( 一八〇一 l) の十月のことであった。写楽が姿を消し た寛政七年二七九五 ) から、享和一一年まで七年しかたっていない。近藤正斎の写本ができ ごろ
写楽仮名の悲劇 然として隠然たる名声を江戸文化界にもっていたのである。この南畝が、浮世絵について語 ったもの、それがたとえ簡単なメモであっても、浮世絵師や浮世絵ファンにとっても重大な 関心の的であったに違いない。南畝によってほめられたとすれば、それは浮世絵師にとって 大変な名誉であるし、南畝によってくさされたとしたら、それは浮世絵師にとって、大変な ショックであったであろう。 しかも、この南畝のメモに、浮世絵師でもある作家京伝が追記を寄せたというのである。 享和一一年当時、京伝は名声の絶頂にあった。批評界の第一人者と小説界の第一人者が浮世絵 について語っているのである。それがどうして人々の関心をそそらずにおれようか しきていさんば さらに式亭三馬か筆を加える かくして無数の『浮世絵類考』なる写本ができたわけであるが、式亭三馬二七七六ー一 八二一 l) もそれを見て、また自分の感想を書きたくなったのである。それが諸本に出てくる あんき 「三馬の按記」である。この按記は三馬が亡くなる文政五年二八二一 l) の前年、文政四年ま でにつくられたらしい。この「三馬の按記」は、「三馬云」というのと、「三馬按」という二 種類に分かれている。由良哲次氏は、この「云」と「按」とははっきり書き分けられている という。つまり、確実だと思われるものは「三馬云」と書き、やや不確実だと思われるもの せいかど・つ には「三馬按」と書いたという。今 、北小路氏の考証にしたがって、静嘉堂文庫本における 「三馬の按記」を当たってみると、「三馬按」は約二十箇所で、「三馬云」としているのは四 な