おうしよくさんじん 七月五日竹本氏写来七十翁蜀山人」という奥書の、まぎれもない南畝独特の筆跡で分かる とい、つ きくのじよ・つ この瀬川富三郎は、寛政十一年江戸へ下って、三世瀬川菊之丞の弟子となり、文化十一年 の顔見世に、三世富三郎を襲名した。写楽絵にはこの三世富三郎の師、三世菊之丞が七枚、 先代の二世富三郎が , ハ枚、描かれている。 " 兄 都この本は江戸在住の文人の通号と実名と住所を記載したものであるが、そこに写楽斎なる ル文 ム目 名が出てくる。ところが、この写楽斎は、通号・実名のところは空白になっていて、空白に の なっている通号の下に「号写楽斎地蔵橋」とある。つまり、どういうわけか通号も実名も ←秘せられていて、ただその別号と地蔵橋という八丁堀の中の住所だけが記されている。そし てそこには「死亡した人」をあらわす記号があり、中野氏は、写楽はこの本が書かれた文政 標 元年二八一八 ) までに死亡していたが、何らかの理由で、名を秘したのではないかという。 従って中野氏は結論として、写楽別人説も十分根拠があるが、同時に阿波能役者説も再考さ 一一れるべきであるという 第 由良氏は、この『江戸方角分』の、八丁堀地蔵橋に写楽斎なる人物が住んでいたという記 録が三馬の「按記」に結びつけられ、また八丁堀に阿波侯の屋敷があったことから、あの写 楽Ⅱ阿波の能役者斎藤十郎兵衛説が出てきたのであるが、それは全く根拠がないと断ずるの であるが、私はこの三馬の書いた「江戸八丁堀」という記事から別のことを考える。という のは江戸には八丁堀というのが二箇所あり、一箇所はいわゆる八丁堀であるが、もうひとっ 0 0
第八章写楽絵の方法的特徴 335 鼻筋がとおっていて、いかにも可愛らし い感じのおひさ、眉が長く、目が切れ長 であり、鼻もやや高すぎるおきたの多少 冷たい魅力。この女の描き分けが、彼の 女形の描き分けになったことは間違いな い。「役者舞台之姿絵」において、菊之 お 齷丞を描いているが、その描き方はまった く写楽の描き方と同じである。半月形の 国 目、鼻、受けロ。ただ、写楽絵のような 豊 皮肉な観察はなく、どちらかといえば、 豊国の菊之丞のほうが美しいといえるだ ろう。これもやはり仮名と実名の違いで あろうか。中山富三郎も同じこと。細い 目、高い鼻、 ぐにやっとした身体つき、 ひすべて写楽の富三郎と同じである。そし 享を十・。「島てまた、年をとっても可愛い感じの半四 郎。ばっちりとした目と結んだロで、す 国 豊ぐに半四郎とわかるのである。小佐川常 三材
これぞうとらぞう 代太郎の十人である。に属する者は半五郎、宗十郎、竜蔵、富右衛門、徳次、此蔵、虎蔵、 つねよ 万世、半四郎の九人、に属する者は菊之丞、瀬川富三郎、中山富三郎、米三郎、常世の五 人である。ところが、このように分けてみても、なお分けきれない程の細かい差異を、写楽 の描く一人一人の鼻は持っている。 こうして四つに分けてみると、大変興味深いことに気づく。 < の鼻には実悪の役者が多い わこと あら「一と のである。そしての鼻は大体荒事の役者、の鼻が和事の役者、の鼻が女形の役者であ やくがら 霍る。こうしてみると、もって生まれた鼻の形で役者の役柄が決まってしまうわけである。面 白いことには、写楽は女形にも高すぎる鼻を描いている。たとえていうと佐野川市松の鼻は、 きたい のどうも女形にしては高すぎて、しかも張っている。希代の名優といわれる瀬川菊之丞の鼻も、 。また菊之丞の弟子の瀬川富三 鼻の線がやや鉤状でかならずしも格好の良い鼻とは言えない 郎の鼻はいかにも肉の薄そうな貧相な鼻である。それに対して岩井半四郎の鼻は、丸っこい 章 ふんわりした鼻であるが、これまた必ずしも美人の鼻の形とは言えない。中村万世の鼻は半 第 こつけいかん 四郎の鼻をいっそう低くし丸くした形で、ぶっと膨らんだ頬とともに、強い滑稽感を与えて いる。〃ぐにや富 ~ といわれた中山富三郎の鼻もやはり多少ユダヤ鼻である。ぐにやぐにや からだ した身体に、細い目や鼻やロを付けた顔で、とくに鼻が目立つのである。 また宗十郎の鼻はいかにも和事師らしいふんわかとした丸い鼻であり、女形の鼻と見まが うほどである。この 0 の鼻に私は、中村此蔵や谷村虎蔵の鼻を属さしめたが、これはまった お・つがた一 ばんどう く特徴ある鼻である。此蔵の鼻は凹型に曲がっている。同じような鼻の形が坂東善次にもあ かぎじよ・つ りゅうぞう おも
金を食んでいたのである。写楽はこの人気絶頂の女形を描いたわけであるが、どうも写楽の 描く女形には色気がない。女形の色気を描かせてはやはり文調と清長がすぐれていよう。文 調や清長は女形を、女になろうとした理想においてとらえた。しかし写楽は女であろうとし てありえず、男としての本性をどこかにみせる女形の現実を捉えているのである。この当代 ようえん きっての美しい女形、瀬川菊之丞も写楽にかかっては妖艶な美しさを発揮することはできか ねるのである。 写楽はどうも沢村宗十郎が好きであったのではないかと思われる。彼の似顔絵を写楽は多 く描いている。三日月形の眉毛とまん丸の目と丸い鼻、ひきむすんだ口がその特徴である。 悲 の いかにも上品で、しかもどこかにつやのある大星由良之助役が得意中の得意だったというこ 仮の三代目宗十郎の特徴をよく捉えている。大岸蔵人という役も大星由良之助の変形であり、 楽 いかにも沢村宗十郎にあった役であったのであろう。 宗十郎の相手役、つまり大岸蔵人の妻やどり木を演ずるのは、瀬川富三郎 ( ロ絵 1 ) であ まなでし る。彼は瀬川菊之丞の愛弟子で、師のひきでこのやどり木という大役にありついたのであろ う。彼は″にく富 ~ とか " いや富 ~ とかいうふうに悪口を言われたが、あるいは今飛ぶ鳥落 とす勢いの、師の権威をカサにきて弱い者いじめをしたのかもしれない。写楽の絵はこのよ きつね うな富三郎の姿をよく捉えているように思われる。狐のようなつりあがった目をして、鼻も ロも小さく、えらの張った顔である。なんとなく貧相な顔であるが、あるいは写楽は意地悪 " いや富 ~ の本質をさらけだそうとしたのかもしれない。大岸蔵人の妻やど 224
よう。写楽の十一枚のうち九枚は一人半身像、他の二枚は二人半身像で、豊国の三枚は同じ く大判であるが、三枚とも全身像である。 『花菖蒲文禄曾我』に関して、写楽は十一枚の大判役者絵を残しているが、現在その役者お よび役名が次のように比定されている。 ばんど・つ 二代目坂東三津五郎の石井源蔵 三代目坂田半五郎の藤川水右衛門 やっこそですけ 三大谷徳次の奴袖助 おおぎしくらんど ビ四三代目沢村宗十郎の大岸蔵人 の五二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木 やおそう 三代目市川八百蔵の田辺文蔵 きくのじよ・つ によ・つば・つ 章七三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵女房おしづ ぎおんまちはくじん 八三代目佐野川市松の祗園町の白人おなよ あらしりゅうぞう 九嵐竜蔵の金貸石部金吉 十二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木と中村万世の腰元若草 十一三代目佐野川市松の祗園町の白人おなよと市川富右衛門の蟹坂藤馬 学者たちの苦心の研究結果である、この役者の比定に従って考察を進めよう。ます一人半 身像であるが、それを役の種類によって分類すると以下のようになる。 宗十郎、八百蔵、三津五郎 211
この美意識の特徴をあきらかにした。 「いきの美学について詳しく論ずるひまはないが、ここで写楽の中における「いき」の精 おおくびえ 神として三点を指摘しておこう。ひとつは顎の線である。写楽は第一期の大首絵において男 おさがわっわよ 役にはすべて顎の線を描いたが、 女形にはただ二人、瀬川富三郎と小佐川常世を除いて、そ わしづかかんたゆう れを描かなかった。女形とはいえないが、鷲塚官太夫妻小笹を演じた坂東善次 ( ロ絵 6 ) の 顔にもこの顎の線を描いた。これはあまり今まで注意されなかったが、かなり重要な問題で あるように思われる。春信以来の美人画において女性の顎の線は描かれていない。それはや ・んりもと のはり女の襟元の色気、身体から匂ってくる色気を表すためであろう。顎の線はその色気を切 仮断する意味をもつのである。美人画の画家がこれを描かなかったのは当然である。しかし写 楽楽はこの線ひとつで男役の強さと女役の色気とを描き分けている。男役といってもかならず しもすべて同じ線ではない。荒事師と実悪とは強い線であり、和事師は薄い弱し線になるこ とが多いのである。瀬川富三郎と常世に顎の線があるのは、おそらく女の色気が彼ら二人に は欠如しているという写楽の批評精神を表しているのであろう。写楽は線の達人であったと 言える。顎の線一本でその人間に強さを、あるいは色気を与えるのである。この点において 豊国も写楽とかわらないと私は思う。やはり女形と、あるいは男役でも和事師と、実悪、実 事師との違いを、やはりその顎の線によって表現しているのである。まさにそれは、江戸の 「いき」の精神を真に体得した画家でなければできないことなのである。
を呼んだのであろう。瀬川富三郎の大岸蔵人の妻やどり木と中村万世の腰元若草の絵は絵番 付の第十一図に同じような場面がある。大詰の前の状況を描いたものだろうが、この痩せた こ、つい、つ面白さか歌舞伎には、と 富三郎と肥えた万世との対照がおかしかったに違いない くに深刻な場面の前後にたくさん秘められていて、写楽はこういう歌舞伎の姿を敏感にキャ ッチしているのである。以上が寛政六年五月の都座の『花菖蒲文禄曾我』を描いた写楽絵の 考察である。なによりもこの芝居の見せ場は、あの源蔵夫婦の返り討ちの場面であろう。こ せいせつ の凄絶な場面を写楽は三枚の絵にした。そしてこの芝居の全体を主導しているのは、大岸蔵 ピ人の静かな知性である。この大岸夫婦が中心になって、この仇討ちは完成に導かれているの のである。それに祗園の場面の面白さ、そしてあの金貸石部金吉が田辺文蔵をいじめる場面で ある。それになんらかの形で白人のおなよが関わるのであろう。写楽は実にこの芝居全体を 章よく捉えている。そしてそこに登場する役者たちの姿をその内面に至るまで見事に描いてい 写楽と豊国の共通イメージ さてこれでわれわれの写楽考察の第一歩である、寛政 , ハ年五月の都座における写楽絵の観 察を終わりたいと思うが、終わるにあたって、一つだけ気にかかることがある。前にも述べ たように歌川豊国がやはりこの舞台を描いていることである。豊国の絵は三枚、いずれも一 はんどうみつころう 人全身像で、坂田半五郎の藤川水右衛門と坂東三津五郎の石井源蔵、それに沢村宗十郎の大 227
⑧舞台は祗園のようである。ニ本差⑦石井源蔵・千束夫婦が水右衛門に しの水右衛門を、白人 ( 私娼 ) おなよ返り討ちにあう場面。田辺文蔵も駆け らか迎えている。蟹坂藤馬は編笠姿のつけるが、時おそく、太ももを切りつ けられてしまう ( 注記による ) 義太夫語りとして登場する。 々々 ~ 1 み : 三代目佐野川市松の祗園町の白人 おなよ ニ代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻 やどり木
写楽の写実性の証として、女形の顔の描き分けが重要である。美人画においては、春信の うたまろ 場合も、清長も歌麿も、描き出された女の顔が相互に大変よく似ていることを私は再三論じ た。そしておそらくそれと関係があるに違いないが、女形の場合も相互にあまり区別のない ことも私はすでに論じた。とくに文調の場合はそうである。役者の個性を強く表現しようと しゅんしよう した勝川春章の場合も、女形の場合は、それほど強い個性の表現は不可能であったように 思われる。これはひとつにはやはり春信などの美人画の影響であるに違いない しかし写楽はこの慣習を破り、女形の一人一人を実に微妙に描き分けた。当時の女形の三 特 灘羽ガラス、菊之丞、中山富三郎、半四郎の三人は、写楽によって一見してそれと知られるほ のどはっきり描き分けられている。菊之丞の場合、二つの弧を重ねた半月形の目、受けロ、そ して目の上の皺、の三つの特徴によって明らかにこの女形が菊之丞であると知られるのであ る。それに対して中山富三郎は三日月よりもっと細い目、必ずしも形のよくないグチャッと 章 からた した鼻、舌を出しているような口によって表現されている。そして身体全体が何か軟体動物 のよ、つな、ぐにやぐにやした感じ この〃ぐにや富 ~ の特徴を彼は実に的確に表現して いる。それに対して半四郎は、斜めに上がった丸い卵形の目をして、低い鼻、ロはいつも 可愛くつぐんでいる。写楽はこの半四郎の顔を目のあたりでいったん細めて、頬のあたりを 丸く膨らませ、いわゆる " お多福半四郎。の特徴をよく出しているのである。また、はっき りした目と、女形にしてはあまりに高すぎる鼻をもち、いささか男くさい感じのする市松や、 とが 尖った目をして、低い長い鼻をもつ、いかにも貧相な感じのする瀬川富一二郎、やさしく整っ 333 0
説は同一化、通念化された。これらの文書や伝承が、豊芥子の写楽の項に欄記、表化され た。途説が通念化された例をここに見るのである。 これは必すしも豊芥の故意の作為ではなく、資料の合記において源泉的精査を欠いた、 史学方法論上の不充足であったというの外なく、そして、表面上整然と各項に欄記された 写楽の項を全体として信頼し、底本として敷写し、そのままに過した月岑の過失でもあっ たと言わねばならぬ」 ( 『総校日本浮世絵類考』 ) 小路健氏によれば、斎藤月岑の文化十三年二八一六 ) から明治八年二八七五 ) に至る へんさんじよ 自筆日記が東京大学史料編纂所に蔵せられ、その中に豊芥子との交遊の記事が多く出てくる 悲 てんまう のという。月岑が『増補浮世絵類考』を書いたのは天保十五年二八四四 ) のことである。写 仮楽が消えた寛政七年二七九五 ) から、実に四十九年後である。由良氏のいうような三馬の 楽「按記」が基になって豊芥子、月岑説がつくられた可能性は十分あるのである。この点につ いて、由良氏の論証を破ることはむつかしい。少なくとも我々は写楽Ⅱ阿波の能役者説に対 しては、決定的証拠がみつかるまでは判断を保留しておいた方がよいと思われる。 写楽八丁堀住人説を考える みつとし えどはうがくわかり ところが、この八丁堀と写楽の関係について最近、中野三敏氏によって江戸方角分』 という新しい資料が発見された。現在国会図書館にあるが、歌舞伎役者瀬川富三郎の著で、 大田南畝の手元にあった写本であることが、「此書歌舞伎役者瀬川富三郎所著也」「文政元年 かふき せがわ