寛政 - みる会図書館


検索対象: 写楽仮名の悲劇
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1. 写楽仮名の悲劇

六年以前に書かれたものであるということもできない。なぜなら現在確認されている国政の もっとも早い錦絵は「寛政八年十一月」のものであるといわれるからである ( ロージャー ・つきょえしゅうか co ・キーズ「歌川国政作品目録」Ⅱ「浮世絵聚花』所収 ) 。 とすれば、この『浮世絵考証』の文章を、国政以前と、写楽以後とに分け、前の部分は南 畝の書いたものであるが、後の部分は門人の付け加えたものであるとする由良氏の説は、成 者立しがたい。 ル文 この国政と写楽の間に線を引き、後の文章を、門人が書き加えたものであるとするのは、 の 波 由良氏一人の見解であり、何らの客観的根拠がない。むしろ、それを一続きのものと見るこ とに何の支障もないのである。 写 ここで明らかに写楽絵の消滅について語られているので、それが、少なくとも寛政七年一 月以後に書かれているのであることは間違いない。そして文章の調子から、寛政八年以後と ( さむら 第 見て差し支えないであろう。寛政六年四月の北斎の狂歌本は叢春朗の名であるが、寛政七 ひやくりん 一一年から八年にかけての狂歌本は、宗理あるいは百琳宗理、寛政九年の狂歌本には北斎宗理と ほくさいときまさ 第 あり、寛政十一年以後は北斎あるいは北斎辰政とある ( 「葛飾北斎作品目録」Ⅱ『浮世絵聚花』所 収 ) 。これをみると、北斎は寛政六年四月以前に勝川派から破門され、勝川春朗から叢春朗 に名を変え、やがて寛政七年には宗理を名のり、寛政九年に北斎宗理となり、寛政十一年に は宗理を捨ててたんなる北斎、あるいは北斎辰政を名のったことがわかる。それゆえ宗理と かぶきどう 名のったのは、寛政七年から十年までの間と思われる。またこの次に出てくる歌舞妓堂すな

2. 写楽仮名の悲劇

えんきよう わち艶鏡には、寛政八年と考えられる作品が七点残るのみである。 とすると、少なくともこの国政から以後の記事は、ほぼ同時に、写楽が消え、国政が出現 たちま し、忽ちに出現し忽ちに消えた艶鏡が話題になっていた寛政八年以後に書かれたものと見て よいであろう。そして北斎の名がないところを見ると、北斎が宗理の名を捨てる寛政十一年 以前と考えるのがもっとも合理的であり、その成立をほほ寛政十年頃と考えてさしつかえな いであろう。 それなのになせ由良氏は、国政と写楽の間に一線を引き、写楽以後の文章を、南畝の書い たものにあらずとして、この考証の文献的価値を低く評価しようとしたのか。 の これはあの写楽Ⅱ阿波の能役者説の否定にあれほど見事な考証の谺えを示した由良氏に、 仮まことに似合わしくないことであるように思われる。この理由はよくわからないか、あるい 楽はそこに写楽Ⅱ北斎説を強引に主張しようとする氏の意志が強くはたらいているからであろ 次章に述べるように由良氏は、この寛政六年を北斎がその名を春朗から宗理に変える空白 の時間として、そこに写楽をおこうとするのである。しかし狂歌本だけを検討してもすでに、 まだ寛政六年四月には春朗の名の狂歌本があり、翌七年正月には宗理の名の狂歌本があるの である。一枚絵の考証は十分ではないが、とても寛政 , ハ年十一月から寛政七年七月までを、 完全な空白とし、そこに写楽絵をすつほり入れることはできない 以上が、文献そのものが語る真実であるし、北ト / 路氏の批判も、この点を鋭くついている。 あわ

3. 写楽仮名の悲劇

楽に関する文章を門人の文章として、その信憑性を疑うのは、全く無理な論証である。 田だいいち南畝が、寛政六年以後、こういうメモを書かなかったとすることはできない。 南畝は、幕府の役人となった後にも狂歌師としての活動を止めていない。狂歌人としても活 躍した南畝が、寛政六年以後にこのような浮世絵に関するメモを書かなかったと断定するの はあまりにも独断的すぎる。 ②また、「これまた」という一言葉は、この文章によく出てきて前の絵師と後の絵師をひ くばしゅんまん つくるめて論じる言葉である。国政に触れたついでに写楽について記し、窪俊満について触 れたついでに宗理について記したものであり、それは、同じ程度の画家を引っくるめて論じ 悲 のようとした言葉であり、それをもって「これまた」以下は後に弟子が付け加えた言葉である 反と断定することは、論理の飛躍である。 楽 ここで筆者 3 また、順が逆になっていることも、門人の付け加えた証明とはならない。 写 すりもの は、役者絵を描いた国政とセットで写楽について語り、狂歌摺物の絵を描いた窪俊満とセソ ・一しき・え トで、これまた狂歌摺物絵に名高い宗理について語り、更に錦絵をよくした豊国とセットに して、「小錦絵」を書いた春朗について語ったのである。北斎は春朗時代に小錦絵すなわち ほそばん 細判の錦絵を多く描き、宗理を名乗った頃に、多くの狂歌摺物絵を描いた。狂歌摺物絵の窪 俊満に次いで宗理について語り、錦絵の名人豊国に次いで春朗について語ったのである。そ れゆえその順が反対になっているから後から付け加えたということにならない 従ってここで三つの理由は、全て何らの客観的根拠はないが、また国政以前の記事を寛政

4. 写楽仮名の悲劇

者の試験をうけ、幕府の官吏になったのが寛政六年のことであるので、このメモは寛政六年 以前に書かれたものであるとする。真面目な幕府の役人が、浮世絵評論まがいのことをする はすはないからである。ところがこの写楽に関する記事には写楽が出現して、そして消えて 。足って しまったことが書かれている。当然、寛政七年以後書かれたと見なくてはならない彳 それは門人が後に加えたものであろう。 者 この文章には「これまた」という言葉が多く使われているが、「これまた、というのは田 5 ル乂 ム目 い出して書き記すような記述であり、南畝のメモに門人たちがつけ加えたものであろう。ま の そ・つり しゅんろう しゅんしよう 小たここに北斎が宗理と春朗の名前でその順に出てくるが、勝川春章の弟子であった北斎は、 楽師から春朗という名をもらい寛政六年まで春朗の名前で作品を発表した。しかし師の死後、 勝川一門から破門されたために北斎は春朗の名を宗理と変えた。もしも順当ならば、春朗、 慓宗理の順になるべきであるが、ここでは宗理、春朗というふうに逆の順序になっている。も しも南畝自身か書いたとすればこ、ついう誤りは犯すはずがない 。これまた門人の書き加えた 二部分である。 第 由良氏の解釈の問題点 さんばあん この由良氏の論証は、まことに独断的である。あの「三馬按」以下の文章を後世の創作と 論証した論旨の客観性はここにはな、 従来大田南畝の作と考えられていたあの第一部を、国政と写楽の項で線を引き、問題の写

5. 写楽仮名の悲劇

ような美意識の革命を行ったと考えねばならないことになる。 ゆらのすけふん 豊国はまた寛政八年に、大星由良之助に扮した宗十郎の大首絵 ( ロ絵を描いている。 この図は一見、写楽の大岸蔵人の絵とは違い、かえって春英の絵に似ているように思われる が、しかしやはりそれは写楽絵の延長上にある。この豊国の大星由良之助の絵は、それより 二年前の寛政六年の大岸蔵人の絵よりデフォルメがさらに進んでいる。目玉の極端なアンバ ランス、鼻とロとの位置のアンバランス。そしてその結果あらわれる滑稽感、それは勝川派 から脱して新しい役者絵を描こうとした写楽の美意識の延長上にある。おそらく写楽の影響 を受けて、この豊国の絵と同時代に描かれたと思われる春英の絵には、そういう思い切った 悲 のデフォルメはない。春英の絵にはまだ強く勝川派が残っているのである。 仮歌川国政もまた宗十郎を描いているが、あきらかに国政は師・豊国の影響を強く受けてい 楽る。もう画風が勝川派と歌川派とでは、すっかり違ってしまったのである。目玉の位置は師 ふたえまぶた の豊国以上にアンバランスであり、そこに二重瞼が描かれている。鼻とロのアンバランスや 耳の描き方も、写楽および豊国と似ているが、ロの曲がり方は勝川派に似ていて、その下に は皺が描かれている。豊国は宗十郎の絵にのつ。へりした印象を与えるために、こういう皺を 描かなかったが、 弟子国政は、頬の線とともにこういう皺を描いた。それによって顔はしま った顔になったが、 写楽や豊国の絵のようなとほけた相は失われてしまったのである。 これを見ると、芸術というものは師から弟子へと伝わるようにみえるが、伝わるのは表面 的な技法であって、その芸術の真髄は容易には伝わらないことがわかる。 そ・つ要・つ

6. 写楽仮名の悲劇

と春朗が錦絵なのである。ここで南畝は当代の浮世絵師の四つの傾向について語っている。 まず美人画、それは歌麿と栄之。そして歌舞伎役者の似顔絵は国政と写楽。狂歌摺物の絵は 窪俊満と宗理、そしてもっと幅の広い錦絵は豊国と春朗ということになる。 もちろん南畝は宗理が春朗であることを知っている。しかし春朗はのちに名を改めて宗理 時代になると狂歌の摺物に熱中し、かえって摺物の絵は錦絵に似ないことを尊ぶと主張して 説 者いるのである。南畝は、彼が大変親しかった窪俊満について語り、それと関連して宗理の仕 ル文 事に言及し、またのちに、たくみに錦絵を描いた豊国に関連して、多くの小錦絵を描いた春 の 可朗について言及しているのである。 ←鳥居清長と北尾重政を近来錦絵の名手なりと南畝はほめたたえた。おそらく寛政十年頃、 写 彼らよりむしろ人気があったと思われる歌麿についても、また当時歌舞伎役者の似顔絵を描 的 いて日の出の勢いであった豊国についても、彼は名手と言っていない。また勝川派について 第 彼はあまり評価をせず、春章については「これも明和の頃歌舞妓役者の似絵をゑがきて大に 二行わる」と、もう過去の人の扱いである。春章は寛政四年に死んでおり、過去の人であるこ 第 とは間違いないが春好を、「弟子春好を小壺といひき」の一言で片付けているし、また写楽 しゅんえい や国政や豊国と並んで当時歌舞伎役者の絵を描いて人気のあった勝川春英について一言も語 っていないのはどういうわけであろうか 私はこの『浮世絵考証』の中で、南畝は写楽を大変評価していると思う。大田南畝は彼の 狂歌本を、蔦屋から出版していて、蔦屋とはいたって親しい関係にある。また彼は、写楽絵 断示

7. 写楽仮名の悲劇

写楽仮名の悲劇 270 x 印は殳年 般に勝川派では右あるいは左下がり 〇印は生年 のロを描いた役者絵が多いが、この ロは絵にすると多少しまりのない印 国政 象を与える。実際の宗十郎が写楽の x 豊国 清長描く絵に似ていたか、春章の描く絵 春英 。仏ていたかは明らかでないか禾 春好 は写楽は宗十郎の印象を誇張して提 春章 えているのではないかと思う。春章 文調 の絵のほうが実際の宗十郎に近いの 天保 宝暦明和安永天明寛政 かもしれない 楽 写 春章の弟子勝川春好も宗十郎を多 く描いているか、当然のことながら春好の絵は師・春章の絵に似ている。春好は師のように やはり鼻の穴を描き、それに色をつけている。ロは師以上に左へと下がって、鼻は春章の描 く宗十郎よりいかつい。その鼻の形と色をつけられた鼻の穴のために、春好の宗十郎は、春 章絵にも示されているあのツルッとしたゆで卵のような童顔の印象は乏しい。 宗十郎を描いた春英の絵を時代順に見ていくと、彼ははじめは大変勝川派的であるが、の ちにおそらく写楽・豊国の影響を受けたのであろうか、かなり絵が変わったことがわかる。 たとえば、寛政七、八年頃、すなわちすでに写楽が消えてしまったのちに彼が描いた宗十郎 浮世絵師の作画期 文化 ころ 絽 00 ・ X 文政 しゅんこう

8. 写楽仮名の悲劇

つくってひそかに政治を批判するのである。もとより多くの黄表紙本は芝居と同じく舞台を かまくら 鎌倉時代にとっているが、そこには自ずから当時の社会現象への諷刺がある。彼らは田沼の 政治もさんざん洒落のめしたが、田沼意次は一向彼らを処罰する態度を示さなかった。泰平 の放漫に伴った寛容が、田沼意次には存在したのであろう。しかしこのような泰平の放漫を 悪とし、儒教に基づく厳しい社会秩序を再建しようとする松平定信は、黄表紙作家や狂歌作 家か、自らの政治を田沼の政治と同様に批判することを許さなかった。 せいた ( いんとう このような政治批判ばかりか、黄表紙や浮世絵の醸し出す、贅沢で淫蕩な精神が、柤父・ よしむわ 八代将軍徳川吉宗ゆずりの倹約精神と儒教精神でコチコチの、女性を近づけるのも子孫生産 悲 がた ののためであったと自ら言う松平定信には耐え難かったのであろう。寛政三年のこの事件は、 反蔦屋にとっても京伝にとっても大きな試練であったことは間違いない 楽しかしこのショックにつぶされてしまうような蔦屋重三郎ではない。彼は京伝をなだめて、 幕府寄りにイデオロギーを変えた黄表紙を出版せしめるとともに、比較的取締りのゆるい美 きらずりおおくびえ 人画に目をつけ、歌麿をして多数の雲母摺の大首絵を描かせたのである。おそらくこの作品 は、半減された財産をたて直すに十分な収入を蔦屋に与えたに違いない ところが、この蔦 屋専属の浮世絵師であると彼が思っていたに違いない歌麿が、蔦屋に対する反逆を始めたの である。彼は自ら、独立した浮世絵師と称し、蔦屋以外の版元から、とくに蔦屋の競争相手 であると思われる鶴屋から、最も優れた大判の半身像を出版するのである。こういう状況の 中で蔦屋重三郎は写楽の登用にふみきるのである。寛政六年、蔦屋四十五歳のときである。 120

9. 写楽仮名の悲劇

写楽仮名の悲劇 414 豊国の落款 一つ一つの字をとって、写楽絵と 豊国絵の比較をすれば、あるいは 興味深い結論が出るかもしれな 。豊国が一陽斎豊国という落款 を錦絵に署名したのは、享和の初 めである。この字の書き方も、や はり「東洲斎写楽」という字の書 第一御徳用物語」寛政六 き方と似ている。字の配置がだい ぶアンバランスなのである。無造 型三國当 作な字であるが、なかなか味のあ 「役者舞台之姿絵」寛政六・五月 る字である。また「斎」という字 についていえば、たとえば一筆斎 文調は、明和七年十一月以前には 「一と書いたが、明和七 文化元・ニ月 一晉曲画 年の顔見世興行以後、「 - 」 と書いた。写楽は豊国と同じよう 寛政六・八月 に、「斎」の字の下を痢というふ うに書いている。こういう精密な 0 「鼠子婚礼塵劫記」 寛政五 「揚屋町伊達豆腐屋」 寛政六 噺錦絵従長崎飯」 天明七 一・朝日奈茶番曾我」寛政五

10. 写楽仮名の悲劇

悲 の 名 仮 . 楽錦絵をよくす、墨と紫斗にて彩色のにしき絵をかきはじむ、歌舞妓役者の似顔をもよく 小にしきなどにあり、草双紙もあり これは明らかに二人ずつがセットで、「これまた」という一言葉で結ばれている。歌麿と栄 之が美人画、国政と写楽が歌舞伎役者の似顔絵、窪俊満と宗理が狂歌摺物の絵、そして豊国 かめゐちゃう しゅん まん 窪 俊満 亀井町に住す、狂歌すり物の絵のみをかく、左筆也、左堂と云 ( 朱書 ) そうり 二代目寛政十年の頃、北斎と改ム三代目宗理北斎門人 理 すり これまた狂歌摺もの画に名高し、浅草に住す、すべてすりものの画ハ、錦会に似ざるを貴 ぶとぞ とよ 一一ろほ ( さー 、′な かぶき