もかかわらず未完なのである。もしもこの調子で論を進めていったならば、北小路氏の論が 終わるには、現在の論究の少なくとも三倍は必要ではないかと思われる。氏はたいへん博学 であり、そしてその博学をもとにした考証も正確で鋭い。 この論究で氏の語るところによると、氏はそれまではあまり浮世絵について書く気はなか えのもとゆうさい ったという。しかし学習研究社の住谷編集長から、榎本雄斎氏の『写楽ーまほろしの天才 説 者 写楽は蔦屋重三郎なり』という書を読むことを頼まれてから、氏はあらためて浮世絵に興 味をもったというのである。しかし、氏がこの論文を書こうとしたのは、もうひとつ、由良 の はくさいせつ 哲次氏の写楽Ⅱ北斎説が出たからだと思う。東京文理科大学の国文学科を卒業し、大学時代 まさ ←に由良氏の講義も聴いた北小路健氏は、源氏物語研究を志し、『源注余滴』の著者、石川雅 もち やどやのめしもり 望二七五三 5 一八三〇 ) に興味をもった。石川雅望は狂歌名を宿屋飯盛といい、 国文学者で げさくしゃ あり、戯作者であり、狂歌師でもあった。そしてその父は石川豊信二七一一 5 八五 ) 、南畝 第 の『浮世絵考証』にも出てくる浮世絵師である。 一一氏は石川雅望に対する関心から『浮世絵類考』の写本を集めていたが、終戦の時、新京の 第 文化研究所に居た氏はソ連兵のために一万三千冊の蔵書を焼かれ、『浮世絵類考』の写本も この時に失ったという。由良氏の研究が再び北小路氏に『浮世絵類考』に対する関心をめざ めさせたのである。そして由良氏とは別に、 氏は独自に多くの『浮世絵類考』の写本を集め、 そしてそのひとつひとつの写本を校訂し、それについて論じようとしたのである。これが 『「浮世絵類考」論究』なる論文であるが、氏はます由良氏の説の批判から自己の論究を始め
いう点は動かないであろう。 このように現在までの学者たちの努力は、主として写楽の作品の範囲をきめ、その制作年 代と、そこに描かれた役者の名と、その役名を決定するのにそそがれているように思われる。 そしてこの研究成果は貴重である。たしかに鈴木重三氏が述懐するように、写楽絵の役者比 定はまだ十分でなしー ) 。寺こ、役名については、疑問の点もあり、これからの研究に負うとこ ろ大であるにちがいない。そして写楽の作品も、欧米にある写楽の作品の研究が進めば、ま だ何点か増えるにちがいないし、今日消滅した版下絵がどこからか発見される可能性もある。 写楽の作品研究はこれからも進むにちがいないが、今までの研究の成果を全面的にくつがえ 悲 のすような研究は出るとは思われない。写楽を誰と比定しようともこの作品についての積年に 仮わたる学者の研究成果を尊重しなければならない。 楽写楽ばかりか、今の浮世絵研究は、二つの傾向に代表されると思う。一つは、地道に作品 研究を行い、その作者の作品目録を作り、その制作年代を克明に決定することであり、次は 同時代の他の浮世絵師と比較し、その絵師がどのような特徴をもっているかという研究であ る。私はこういう研究に教えられるところ多かったが、まだ、十分に一人の浮世絵師の作品 目録が出来ていないばかりか、同時代の他の作家との作風の厳密な比較は、まだほとんど行 われていないと思った。 この不足を多くの浮世絵研究者は、一種の美的詠嘆によって補うが、その美的詠嘆は、や やもすれば、感傷に堕し、十分な美的評価になっていない。浮世絵の講座は、ごく最近まで
ゆらてつじ 川研究浮世絵師葛飾北斎説由良哲次昭和年 ( 「芸術新潮」 7 月号 ) テレビ能面師土左ヱ門の次郎太 大岡信昭和年 ( 8 月日放映 ) しばこうかんせつ 研究浮世絵師司馬江漢説福富太郎昭和年 ( 「季刊浮世絵」号 ) えのもとゆうさい 四研究版元蔦屋重三郎説榎本雄斎昭和年 ( 『写楽ーまばろしの天才』新人 物往来社 ) これは昭和四十四年までの表であるが、その後目についた説をつけ加えると以下のように なるであろ、つか 研究俳人谷素外酒井藤吉昭和年 ( 川月日「読売新聞」 ) いっぴっさいぶんちょう の引研究浮世絵師一筆斎文調 出井祐治昭和年 ( 「季刊浮世絵」肥号 ) こんど・つ 名 反研究 絵師片山写楽 近藤喜博昭和町年 ( 「季刊浮世絵」号 ) 楽芻研究阿波藩絵師矢野典博 瀬尾長昭和年 ( 「季刊浮世絵」号他 ) としお 研究版元蔦重工房説鈴木敏夫昭和年 ( 『江戸の本屋』中央公論社 ) げさくしゃ みねそう 研究戯作者山東京伝 谷峯蔵昭和年 ( 『写楽新考』文藝春秋 ) 研究版元蔦屋重三郎 阿部青昭和年 ( 3 月日「読売新聞」 ) 小説秋田蘭画の絵師近松昌栄 高橋克彦昭和田年 ( 『写楽殺人事件』講談 社 ) 劇画浮世絵師喜多川歌麿 石ノ森章太郎昭和年 ( 『死やらく生』中央公論 かつひこ
よりは人間研究の表である。 順分類職種提議 論者年代 1 研究 浮世絵師 ( 寛政七年春以降は歌舞妓堂艶鏡説 ) ュリウス・クルト明ロ しゅんどうじざ もんせつ 2 研究 能役者春藤次左ヱ門説 ( のち斎藤十郎兵衛説に復帰 鳥居竜蔵大正凵年 ( 6 月日「時事新報」他 ) くにえたかんじ 能役者春藤次良兵衛 邦枝完一一昭和 4 年 ( 『東洲斎写楽』博文館 ) 悲 の 4 研究アマ絵師某 野口米次郎昭和 5 年 ( 「東洲斎写楽』私家版 ) 反 5 研究貴人某森清太郎昭和Ⅱ年 ( 「浮世絵界」 1 巻 9 号 ) 楽 三谷松院昭和肥年 ( 「浮世絵界」 2 巻 4 号 ) 6 研究 能役者関西絵師説 7 研究 浮世絵師三派師系説 三隅貞吉昭和年 ( 「日本美術工芸」 3 月号 ) 8 研究版元蔦屋重三郎説 ( 葛飾北斎説に転向 ) 横山隆一昭和引年 ( 「週刊朝 日」 2 月川日号 ) まうしゅん 9 小説能役者斎藤十郎兵衛横川毅一郎昭和引年 ( 「 ~ 胛春」号他 ) りゅうざぶろう 川研究本派絵師円山応挙説 田口洳三郎昭和年 ( 7 月 5 日「神戸新聞」他 ) 能役者斎藤十郎兵衛 松本清張昭和年 ( 「芸術新潮」 7 月号 ) むれ せがれ ト見武家牟礼俊十 ( 蜂須賀家家老の伜 ) / 二 = ロ 小島政二に 良日和年 ( 「日本経済
研究は多くは文学研究者によってなされる。ところが文学研究者はその絵をほとんど無視し てしまうのである。また絵画研究者は錦絵については詳しく研究するが、その絵描きたちが 錦絵とともに有力な生活手段とした黄表紙の挿絵については、ほとんど研究がなされていな いのである。 黄表紙の面白さを我々が理解するには、文学と絵画という、一一つの芸術から成り立っ総合 芸術を理解する余裕を持たねばならないであろう。それには何よりも、この黄表紙の原本そ まれ のものの出版が必要であろう。私は世界でも稀に見る独自な総合芸術である黄表紙という芸 悲術が、理解されないのを嘆く者である。馬琴によれば京伝の黄表紙は少なくとも一万部、多 のければ一万二、三千部発行されたという。そしてまた売れれば二千、三千と増刷されたとい 仮うのである。十八世紀の末に、このようなベストセラーが出現したことは驚くべきことであ 楽るが、その理解にかなり高い教養と、はなはだ繊細な美的感受性を必要とするこのような黄 表紙がかくも売れたことは、江戸後期の町人の文化水準がかなり高かったことを示すものと えよう。また、こういうものを楽しむには、十分なる知的余裕が必要であろうか、日本人 は明治以後、このような知的余裕を失ってしまったように田 5 われる。 京伝Ⅱ写楽説への疑問 少し脱線した感がある。京伝にもどろう。京伝は宝暦十一年二七六一 ) 、江戸の木場に生 でんざえもん まれたという。父伝左偉門はイ 了尹勢の一志の出身。深川木場の質屋伊勢屋に奉公し、ついに主 せ
が誰かの仮名であるとするならばその本名は何か。 この写楽に関する謎解きは、素人が学者以上にその謎解きに参加できるという点で、邪馬 台国についての謎解きとよく似ている。むしろそこでは素人の方が、その謎解きに積極的で あるように田 5 われる。そして学者の方はどちらかといえば消極的で、続々と素人の提出する ぼうせん まことに卓抜な説を呆然として眺めているように見える。 写楽研究の後れの理由 クルトによって写楽が発見されて以来、写楽研究は進んだ。写楽の場合ばかりか、一つの ~ 芸術の研究が試みられる場合には、まずその作品の範囲が確定され、その制作年代が決定さ れるのが前提条件である。この点で浮世絵の制作年代の決定はむすかしく、まだ研究は不十 一分である。春信の作品などもまだ正確な年代考証が行われていない。しかし、この点役者絵 は比較的めぐまれている。江戸の町民は芝居について実に強い関、いを持ち、多くの絵番付や = 「。鬮言を残した。それでいつどのような芝居か、どのような役者のどのような役によって演 うたがわ ぜられたかは、だいたい分かる。後の歌川派の役者絵のように画面に多くの役者の名が書か れていなくても、絵番付や評判記でその役者と舞台はだいたい類推できる。この方法で写楽 よしたてるし の役者絵の研究は進められ、吉田暎一一氏によってほば写楽の作品研究は大成されたといえる。 しかしそれ以後にも写楽の作品が発見され、吉田説も鈴木重三氏などによって、一部訂正さ れているが、写楽の絵は寛政六年五月より、寛政七年一月までに四期にわたって作られたと かめい
記録し、やがて来るべき江戸文化の再評価の時に備えようとする意図があったと思われる。 『葛飾北斎伝』が明治二十 , ハ年に刊行されたに対し、この『歌川列伝』の方は、長い間刊行 されず写本のままで伝わり、ようやく昭和十六年になって刊行を見たのは、明治以後の日本 人の歌川派にたいする冷たい見方を表しているように思われる。 豊国の人生と芸術について、最初の研究書は、興味深いことには外国人の作品である。ド ヒ・ズッコの『歌川豊国と彼の時代』 ("UTAGAWA TOYOKUNI ィッ人の学者フリードリッ ス und seine zeit", Bd. 1,2 Fried 「 ich succo, München. R. Pipe 「→ 9 こー→ 4 ) とい、つ本か、大正二年か スら三年にかけて出たのである。ズッコがなぜ豊国に興味をもったかは明らかではないが、お クそらくクルトの写楽研究の影響であろう。この本にはたいへん興味深い見解があるが、豊広 しかし のが豊国の弟であるという説をとるなど間違いも多く、また作品の年代決定もあまい まのところ最も総合的で最も長大な豊国研究書なのである。 豊ながらこの書物か、い その つば・つちしょ・つよ・つ 巨大正九年に坪内逍遥が『芝居絵と豊国及其門下』を出版したが ( 初出は雑誌「錦絵」大正 7 かぶき 九年 2 月ーⅡ月 ) 、この書物は、役者浮世絵の変化を通じて歌舞伎の歴史を解明しようとしたも 第 。豊国の絵が一つの画集として出版 ので、純粋な意味での豊国研究でも浮世絵研究でもない されるのは、大正十五年、雄山閣から出された『豊国浮世絵集』がはじめてであろう。豊国 について研究するには、様々な形で残っている伝承を集め最も信頼するに足る伝記を作ると おびたた ともに、豊国の残した夥しい作品、肉筆画・版画・黄表紙の挿絵などの作品を年代考証し、 時間的に正しく配列された作品目録によって、その人生と芸術の発展の模様を論じなくては きた
たれ 人の証言は重要である。もし写楽が誰か別の有名な絵師の変名であるなら、この三人三様の 態度の意味が、十二分に説明されねばならないであろう。我々の写楽研究の第一歩は、すで に十分に実り多きものであったといわねばならない ところで、写楽Ⅱ阿波の能役者・斎藤十郎兵衛説であるが、私はその説が全く成り立たな いと言っているのではない。多くの学者の努力によって斎藤十郎兵衛という能役者が実在し、 それが八丁堀に住んでいた可能性があることも立証された。しかしその能役者斎藤十郎兵衛 と、あの百四十二枚に及ぶ写楽の素晴しい浮世絵とを結びつける証拠を、今のところは見つ けることができないのである。 悲 の たしかに写楽という人間については、他のあまり身元のはっきりしない浮世絵師と較べて なそ 反も、けたはずれに深い謎につつまれているが、写楽の作品については、他の浮世絵師よりは 楽るかに確実な認識が成立しているのである。一人の芸術家の人生とその芸術を明らかにする には、まず彼がつくった全作品の目録がつくられ、そして、その制作年代がはっきりと確定 されねばならない。そしてそれに基づいてはじめて、その芸術家の芸術と人生の軌跡を我々 は知ることができる。西洋の美術史の研究は、ますそこから始まるのである。しかし、日本 の美術史において、とくに浮世絵研究において、まだそういう芸術研究のための基礎作業が 十分に行われていない。それは浮世絵が、とくにその優れたものが日本国内より、より多く 海外に存在し、その全てを容易に見ることができないことにもよろうか、この最もヨーロッ パ人を驚かし、ヨーロッパの芸術運動に大きな影響を与えた日本の代表的芸術である浮世絵
せいち 引朝の編年史をもっくっている。これはまことに精緻な編年史であり、南北朝研究者の間で評 やまたいこくろん 価が高い。また氏は邪馬台国論にも興味をもち、邪馬台国の所在を大和とする説を出した。 しかし、やはり氏の日本研究の関心の中、いは浮世絵にあったらしい。氏は浮世絵の研究をつ み重ね、ついに昭和四十三年の「芸術新潮」七月号に『写楽は北斎と同一人である』という 説を発表した。以後由良氏は様々な論文において写楽Ⅱ北斎説を論証した。しかし、この説 は一つの話題となり、写楽に対する関心を引きおこすのに役立ったけれど、必ずしも多くの 学者の認めるところとならなかった。それ故であろうか、氏は学者としての最後の情熱を 『浮世絵類考』の校訂に注ぎ、そしてこの『総校日本浮世絵類考』なる著書を完成したので 悲 のある。 あ一一が 名 若き日に西田幾多郎に産れ、京都大学で哲学を学びながらのちに日本研究に転向する。し 楽かも古代史ばかりか浮世絵にも興味をもつ。その点において由良氏は私の尊敬すべき先輩で ち ある。哲学というものはもともと、智を愛する、すなわち好奇心の学であり、世界の中に解 なぞ けない謎のあるところ、どこへでもなりふりかまわず訪れてその謎を解こうとする学問なの である。由良氏が邪馬台国の謎に挑むとともに写楽の謎に挑んだのは、哲学者として決して 怪しむべきことではない。 写楽についての議論は、一見、邪馬台国についての議論とよく似ている。邪馬台国の場合 と同じように写楽についての直接的な資料はあまりに少なく、正確な解決はきわめてむつか しろ・つと しく、そこで素人が学者と同じく発一言権を持っているように見える。しかし、写楽の場合は
ところがこのハンプルクで、後の氏の運命を変えるような事件が起こったのである。氏は すさん ある日ハンプルクの美術館に行き、日本美術関係の収蔵品を見て整理の杜撰さと解説の誤り に怒りを覚え、館員にこれをただしたところ、そういうことは日本人であるあなたがやった らどうかと反問された。そこで氏はハンプルク大学の日本学部所蔵の日本美術関係の書物や しゅうしゅうひん 蒐集品を調べ、その整理に協力したという。 者ところがこのハンプルク大学の日本学部の主任教授がカール・フローレンツであったので ある。このカール・フローレンツこそあのクルトの指導教授であった。由良氏はクルトの写 の 楽論を読んで、歴史的背景と史実に関する多くの誤りを見出した。その不満をフローレンツ にぶつけたところ、クルトを反撃するのは日本人であるあなた自身のやるべき仕事ではない かと言われたという。由良氏の写楽研究は、ドイツ留学中からのひそかな情熱であったので 標 ある。そして日本へ帰って、アカデミックな哲学者になったが、由良氏は再び写楽とめぐり よしお 第 あう。戦時中、由良氏は神宮皇学館大学の学長山田孝雄氏と親しく、氏に神宮文庫を見せて 一一もらったところ、その文庫の中に写楽を北斎とする写本のあることをみつけたのである。こ れがすでにドイツ留学中から写楽について強い関心をもっていた由良氏にとって、どんなに 感激的なことであったかいうまでもなかろう。 ( しかない。しかし機会は思いかけなく早くやってくる。 哲学者が写楽の研究をするわけによ、 昭和二十年、氏は公職追放令に先立って自ら辞表を提出し、教職を退いた。 そして以後、氏は日本研究に向かうのである。氏の研究は、日本の歴史全体に及び、南北