美人画 - みる会図書館


検索対象: 写楽仮名の悲劇
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1. 写楽仮名の悲劇

物りか、現実の生きている人間すら、歌舞伎の舞台に登場する人物のように眺めたのであろう。 そこでは、現実的世界と空想的世界がまったく逆転し、現実世界より空想的な世界に、人々 は強い興味を抱いているように思われる。そしてそのように人間の意識を逆転させた責任を、 歌舞伎役者とともに浮世絵師も、とくに豊国を元祖とする歌川派の浮世絵師たちも、負わね ばならないのである。清長や歌麿の描いたスラリと背の高い美人画ではなく、歌川派の絵師 の描いた、むしろ背の低い、不自然に身体をくねらした美人画こそ、幕末の江戸の美意識を 代表していたのである。 てんはう にさかいちょ・つふきやちょ・つ こびきちょう 天保十一一年、水野忠邦が堺町、葺屋町、木挽町にあった江戸三座を浅草に移した。むしろ 悲 まっさっ の忠邦は歌舞伎そのものを、この江戸の地から抹殺してしまいたかったようである。しかし、 名 幕府の中においても歌舞伎のファンは多く、抹殺することができず三座を都心から浅草へ移 楽転させることに止めざるをえなかった。水野忠邦は誰よりも、歌舞伎のもっている蠱惑に満 ちた美の世界の恐ろしさを認識していたといえる。このような麻薬を江戸から一掃しなけれ ば幕藩体制はもたない、そう彼は真剣に考え、天保の改革なるものをあえて行った。崩壊の もど 危険が近づいている幕藩体制を支えるには、人々の、とくに武士の意識を空想から現実に戻 さなければならない 嘉永六年のペリ ーの来航によって、江戸の町民は泰平の眠りから醒めたといわれるが、決 して彼らはこの泰平の夢から真に醒めようとはしなかった。彼らは迫りくる現実を前にして、 あえて長い間彼らの魂を麻痺させた、あの蠱惑に満ちた美の世界を捨てようとはしなかった かぶき

2. 写楽仮名の悲劇

と並行する時代には注意深く競合が避けられているが、後には写楽絵の形式のすべてが豊国 絵に現れてくる。寛政 , ハ年以後も豊国はあいかわらず黄表紙類を、毎年十点ほど描きつづけ るか、この間、彼のエネルギーはもつばら役者似顔絵に集中した感がある。美人画について きようわ は年代考証がむずかしいが、享和ごろになって、再び彼は美人画をも多く描きはじめたよう に思われる。これはあるいは、豊国以上の多作を強いられていた歌麿の美人画がマンネリ し、寛政初期のみずみずしさを失ったことと関係するのであろうか。芸術家は自尊心が強く て、同時代に自分のかなわない芸術家がいれば、同じジャンルで勝負するのを避けるもので ある。肉筆ではあれほどすばらしい美人画を描くことができた春章は、ほとんど版画の美人 悲 の画を描かなかった。それを描いては春信にかなわないことをよく知っていたからであろう。 うたまろ 仮豊国も歌麿の全盛時代はほとんど美人画を描かなかった。同時代の北斎は美人画において歌 ざん 楽麿に、役者絵においては写楽・豊国におくれをとった。自尊心の人一倍強い北斎にはこの惨 はきん よみほんさしえし 敗は大きな屈辱感を与えたに違いない。彼は後に馬琴と組んで読本の挿絵師として、さらに 六十歳を超えてから、富士を描いたあの見事な風景画師として復活するわけである。このよ うに考えると、寛政六年から寛政末まで豊国がもつばら役者絵に精進して独自な役者絵をつ くりだしたのは、まことに賢明なことであった。そして次第に歌麿に衰えが見出され始める と、彼はまた美人画の制作を始めたのであろう。豊国の美人画は歌麿の美人画とは違う。豊 国の美人画には背景が綿密に描かれている。それで歌麿のように見る者の注意は女性の肉体 に直接に向かない。そういう意味では、歌麿のようなエロティシズムは豊国にはない。しか し

3. 写楽仮名の悲劇

のちにまた詳しく分析するが、写楽の目や鼻やロの描き方は、実に個性的であるが、歌麿 の美人画の顔は、ほとんど人によって変わらないのである。彼は寛政の三美人といわれる高 なにわや とよひな 島おひさ、難波屋おきた、富本豊雛などを描いているが、その美人たちには、微妙な顔かた たれ ちの差があるものの、その紋章がなかったら、その美人を誰かときめることは難しい。 とよくに もちろん、以後の美人画においても、たとえば役者絵とともに美人画も描いた歌川豊国 くにさた 二七 , ハ九 5 一八二五 ) や、その弟子の歌川国貞二七八六ー一八 , ハ四 ) においても、その役者の 顔ははなはだ個性的であるのに対し、その美人の顔は一様なのである。これは、人は役者に おいては、その役者の個性を求めるのに、美人においては、やはり一様な美を求めるせいで 悲 のもあろうが、ひとつには役者絵においては圧倒的に写楽の影響が強く、美人画においては圧 仮倒的に歌麿の影響が末長く残ったことを示すものであろう。 写 歌麿の異常な嫉妬 その姿かたちや色彩において、写楽の役者絵と歌麿の美人画がいかに違うかは、後に論じ たいと思うが、私が写楽Ⅱ歌麿説に賛成することができないのは、歌麿が自己の絵に付した 次のような一言葉によってである。 はゑしもはあり あづま 「夫レ吾妻にしき絵ハ江都の名産なり然ルを近世この葉画師専ら蟻のごとくに出生し只紅 まて あゐ あやしき その 藍の光沢をたのみに屋敷形を写して異国迄もト其恥を伝る事の歎かハしく美人画の実意を 出て世のこの葉どもに与ることしかり」 134 そ

4. 写楽仮名の悲劇

写楽仮名の悲劇 272 知していたのであろう。何度も一言うが、写楽別人説は、ます二人の描いた役者絵の強い酷似 を前提にしてしか成り立たないのである。 きよなが 鳥居清長が天明四年に描いた宗十郎の絵を見ると、その宗十郎は春章の描いた宗十郎とも 写楽の描いた宗十郎ともかなり違う。顔は写楽や春章よりはるかに面長になり、目も細く鼻 たれ もスラリと通り、背も高くなり、いわゆる清長が描く美人画に似てくる。清長は誰よりも江 沢村宗十郎 ( 春章画 ) 沢村宗十郎 ( 春英画 ) おもなが 沢村宗十郎 ( 清長画 )

5. 写楽仮名の悲劇

期はあまりに短かった。明和一一年から明和七年までわすか六年間が、鈴木春信の主なる活躍 期間であったが、彼の作品は約八百枚に達するという。大変な生産量である。 春信はもつばら美人画を描き、役者絵はほとんど描かなかった。そして鈴木春信の絵があ まりすばらしかったために、彼の生きている時代のすべての浮世絵師たちは、春信の影響を 強く受けた。春信が死んで浮世絵師たちは初めて自由に自分の絵が描けたといってよい。磯 たこりゅうさい とよはる 田湖竜斎 ( 生没年未詳 ) 、北尾重政、歌川豊春などは、この春信の死後、活躍する浮世絵師で きよなが ふうび ある。とくにその美人画が一世を風靡したのは鳥居清長二七五一了一八一五 ) であろう。八 頭身で面長な顔をした健康な肉体をもっ清長の美人画は、あのひょろっとしてなよなよとし 悲 のながら、しもぶくれの顔をした春信の美人画と違って、もうはっきり江戸の民衆の生み出し うたまろ 仮た美人の理想を示しているのである。そしてこの清長の美人画から、歌麿の美人画が出てく 楽る。この春信から歌麿までの第二期は美人画の全盛時代といえる。 かっかわしゅんしよう 勝川春章二七二 , ハ 5 九一 l) は、ほば鈴木春信と同じ時代である。しかし、春章はおそら く春信に対する対立意識からであろう、美人画の木版画をあまり描かなかった。彼が最も得 意としたのは役者絵であった。彼の役者絵は鳥居派の役者絵と全く違った芸術感覚で描かれ ていると私は思う。それは言ってみれば正確な写生の精神である。春章は舞台における役者 なかそう の個性的な姿を描こうとしている。たとえて言うと、彼が初代中村仲蔵の得意とした『仮名 手本忠臣蔵』の定九郎を描くときに、それは定九郎という役を描いていると同時に中村仲蔵 を描いているのである。それは他の役者が演ずる定九郎ではなく、まさに中村仲蔵の演する 170 おもなが

6. 写楽仮名の悲劇

揮したものといえよう。このような狂歌の挿絵で歌麿の才能を認めた蔦屋は、彼に美人画を 描かせて、思う存分その才能を発揮させたのである。 天明年間は鳥居清長二七五二 , ) 一八一五 ) の時代であるといえる。明和七年、鈴木春信 ( 一七二五 5 七〇 ) が死んだ後、この春信が開拓した美人錦絵を継承し、それを春信のような、 おもなが はんなりふつくらとした美人画ではなく、面長の八頭身の美人画に変形したのは鳥居清長で 才ある。主として西村屋永寿堂から出版されている鳥居清長の美人画に、蔦屋は歌麿でもって ちょうせん 人挑戦しようとしたわけである。この蔦屋の賭は成功し、歌麿は清長の影響を受けつつも、清 る長と違った、清長の美人画より、むしろ生の女の匂いを強烈に発散するまことに魅力的な美 め人画をつくり出したのである。 を 屋 この歌麿の絵について、いずれまた語る時があるかもしれない。歌麿の絵はやはり、日本 元が世界に誇る美人画に違いない。かってゴンクールを驚嘆させ、今もなお多くの西洋人を魅 惑する歌麿の絵の本質はいったいどこにあるのであろう。同じ美人画といっても、彼の絵は 三鈴木春信や鳥居清長の絵とどこが違うのであろう。この点についてここで詳しく論じるわけ ( いかないし、またその能力も私にはな、 よしかす すけのぶ 鈴木春信は、林美一氏によって京都の浮世絵師西川祐信二六七一ー一七五一 ) と深い関係 にある芸術家であるということが立証されたが、私など京都に住む人間から見ても、彼は何 といっても京都の匂いのする絵描きなのである。彼は王朝の美意識を江戸にもっていった美 の使者である。そしてその美意識を、江戸の女の姿で表現した。私は彼の絵を見るとき、な 131

7. 写楽仮名の悲劇

写楽仮名の悲劇 308 の点にしばられてくるということになる。あるいは写楽 置あ は役者を見る角度を役者によって変えているといえるか 鼻顎もしれない。鼻の高い役者は横から見て、鼻の低い役者 は正面よりに見るとい、つふ、つに。もしもこのよ、つに役者 松し 耻一なを見る角度が別であるとすれば、写楽がいかに鼻という ④ o ものをその役者のパーソナリティの重要な表現と考えた かがよくわかる。このことはたいへん興味深い発見であ る。はたしてこのような鼻の描き方の特徴が、写楽以前 鼻顎の浮世絵師たち、たとえば文調や、春章をはじめとする 勝川派の絵師たちゃ、さらに豊国をはじめとする歌川派 井ニなの絵師たちにどのようにあらわれているのか。そしてま 5 た清長や歌麿など美人画の絵師たちにどのようにあらわ 一′ . 、 ( 線れて〔るであろうか。このような問題はたい ~ ん興味深 のちにゆっくり考察することにしよう。 一な耳もまた鼻と同じように感情によって動くものではな 喜 / 皺 井 耳も実は個人個人によってたいへん違っている。し 6 置なかし耳は顔の横についているために、あまり人の目にふ

8. 写楽仮名の悲劇

写楽仮名の悲劇 316 ではないか。 以上で私は写楽絵の、顔の部分の描き方の特徴と、そ とよくにせつ のバラエティを見た。写楽Ⅱ豊国説を証明するためには、 部分においてこのような特徴とバラエティとをもっ写楽 仕絵が浮世絵の歴史全体の中で、とくに役者絵の発展 の中で、どのような意味をもっているかを明らかにし、 師さらに写楽の似顔絵の特徴が、同時代の豊国の似顔絵の 特徴の中に存在しているかどうかを明らかにしなくては 郎ならない。 団 容貌でたどる浮世絵史 ひしかわ 代浮世絵は菱川師宣に始まる。師宣は役者絵も描いこが、 の彼の本領はやはり美人画であろう。師宣の描いた美人画 測は後世の浮世絵師が描く美人とは違い、丸みを帯びたふ ま 4 つくらした顔で、弧を描く眉は細く、目も細い。形の良い鼻はさほど高くなく、鼻の先は鈍 い角度を描いている。鼻と顔の線との距離は狭いものが多いが、鼻が顔の外に描かれている ものはほとんどない。唇は赤く、かなり厚く描かれていて、そして顎の線は描かれていない 興味深いことには師宣の描く美人画には明らかに二重瞼の絵があるが、この二重瞼の美人画 0 くちひる

9. 写楽仮名の悲劇

さい。こ、つ も鼻の穴を描いているが、広次の場合は色はなく、市松の場合はたいへん穴が小 いうところにも微妙な描き分けがある。また清重は団十郎のロの下に、ロと平行に皺を描い ている。このような皺は、勝川派、とくに春好が好んで描いた皺であるが、その先駆がここ にあると一言える。清重が鳥居派の中でどういう地位を占めたかは明らかでないが、すでに役 者を個性的に描くという方法が彼において始まっているのがわかる。それが春章によって始 められたという通説はいささか疑問であると考えねばならない この点はまた後の研究にま ちたい。 こしきえ すり 新しい江戸錦絵、すなわち多色摺の版画を始めた鈴木春信も役者絵を描いている。しかし、 悲 かいげつどうあんど の何といっても彼の本領は美人画にあった。師宣や懐月堂安度の、あのゆったりした、どこか ほ・つよ・つ げんろく きょ・つは . っ 名 茫洋とした味のある元禄美人は、享保から宝暦の頃になると、だんだん目鼻立ちがくつきり 楽してくる。あるいは、そこに中国の美人画の影響があったのかもしれない。奥村政信、石川 すけのぶ 豊信、それに春信の師と考えられる京都の西川祐信。このような伝統的な美人画家に影響さ れつつ、鈴木春信はまことに独自な美人画をつくった。細い眉毛と切れ長の目、鼻はあまり 高くはなく、ロは小さい。多くの春信の絵を見ても、いつも描かれている角度は同じである。 せんたん 鼻の尖端と顔の線との間にわずかな距離をとる、そういう視点からいつも美人が見られてい て、正面を向いた絵はほとんどなく、横顔の絵も少ない。その限定されたわずかな角度のみ が、最も女性が美しく見える角度なのであろうか。もちろん鼻の穴は描かれていない。春信 の場合は男を描いてもまったく女のようである。夕方にあやしげな行為におよばうとする二 318

10. 写楽仮名の悲劇

せかノヴァーリ スのことを思い出す。ノヴァーリスは天性の詩人である。その言葉と行動、 すべてそのまま詩であったといわれる。私は鈴木春信もそのような天性の詩人ではなかった じよじようし かと思う。彼のすべての絵から実に純枠な抒情詩が聞こえてくるのである。彼は『古今集』 ちよくせんしゅう 以下の勅撰集の歌をさかんに記し、その歌の情緒を全く現代風の乙女の姿によって表現する せいれつ か、その詩的情緒はあくまで純枠であり清冽である。 しかし、鳥居清長の美人画は違う。彼の絵は抒情詩的であるより、叙事詩的であるように 思われる。鳥居家はもともと役者絵を描く絵師の家であった。その絵師の流れを汲む清長は、 えんれい 彼の属する鳥居家の家風に反して艶麗な美人画を描く。しかし、私には彼の絵は、やはりひ 悲 のとつの芝居絵のようにも田 5 われる。彼は好んで美人の群像を描く。その群像を描く絵にはひ 反とつの統一があり、そこにひとつの物語が存在している。彼の描く群像にはいくつかのまと 楽まりがあり、そこに見事な空間的統一があるのである。 しかし歌麿の場合は違う。彼が美人の群像を描く場合においても、そこには清長のような 空間的統一がない。歌麿によって描かれた群像には、人物の間の相互の対話が欠けている。 群像の一人一人の女たちが、どうしようもない孤独を背負っているように、一人一人の女た ちが、ひとつの独自の世界をもち、自分こそ世界中で一番美しい女であるというナルシシス ムにふけっているように田 5 われる。 こういう歌麿にとって、やはり美人の大首絵が最も適当な画題であったに違いない。彼が 次々と描いた美人たち、それは清長の絵と違って、何か生のままの女のため息が聞こえてく 132