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検索対象: 写楽仮名の悲劇
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1. 写楽仮名の悲劇

また第二に、直接浮世絵師ではないけれど、絵師であるか、あるいは絵師と関係の深い職 業の人がある。 7 の三派絵師説、川の円山応挙説、Ⅱの谷文晁説、幻の飯塚桃葉説、と の十返舎一九および一九を含む共同制作者説、 % の酒井抱一説、の西洋絵師司馬江漢説、 8 、四、、の蔦屋重三郎および蔦重工房説、の谷素外説、の矢野典博説、の秋田 蘭画の絵師説などがそれである。司馬江漢を榎本氏は浮世絵師に入れているが、やはり、本 職は西洋絵師なので、浮世絵師には入れないでおく。この専門の浮世絵師ではない絵師ある 、は、絵師と関係のある人物が写楽であるという説についても、先に述べた四つの理由に照 らして、この浮世絵師の仕事が極めて専門的な技術を要する仕事であること、特に写楽絵が 悲 の極めて短期間に、極めて大量に作られねばならぬ性質をもっていたことを考えると、やはり 仮成立は難しいと考えねばならない。個々の説について述べれば、円山応挙は、寛政五年に老 な びようぶ 楽病で歩行困難のうえ、目を病んだが、寛政七年に亡くなるまで筆を絶たず、『保津川図屏風』 を完成したという。老病に悩む彼が、江戸に出てきてわざわざ浮世絵を描くとは思えないの である。また谷文晁は、田安家と松平定信の庇護の下に様々な絵を描き、当時とぶ鳥をおと すような画壇のスターであった。その彼が、一段低いいやしい絵とされた浮世絵をかくも大 量に描いたとは、ちょっと考えにく、 また、中村正義氏の蒔絵師・飯塚桃葉説も、やはり 写楽Ⅱ阿波説の影響を能役者説を除いてうけているのである。写楽絵の人物が、阿波出身の 瀬戸内晴美氏やフランキー堺氏と似ているというのは面白いが、飯塚桃葉が浮世絵を描き、 蔦屋と結びついたという文献証拠および状況証拠はひとっとしてない。酒井抱一は姫路の城 112 おもしろ

2. 写楽仮名の悲劇

をえない。すでにこの説は、石沢英太郎氏によって述べられている ( 『秘画』昭和肥年 9 月号 一一まそ・つ 「推理ストーリ ー」 ) 。石沢氏は、先にあげた高麗蔵を描いた写楽と豊国の絵が酷似しているこ とから、この説を思いっかれたが、推理小説の形で語られていることもあり、多くの人の認 めるところとはならなかった。私は石沢氏の説と独立に、写楽Ⅱ豊国説を思いついたが、調 べていくうちに氏の説を発見した。石沢氏の眼に敬意を表さざるをえないが、写楽Ⅱ豊国 説を学問的に証明するには、二人の描いた一枚一枚の絵をもっと精密に比較しなくてはなら ほくさいせつ ない。石沢氏はそのようなことをほとんどしなかったために、この豊国説も、他の北斎説や ったじゅうせつこうかんせつ 歌麿説、蔦重説、江漢説などと同じように、あるいはそれ以下に扱われざるをえなかったの 悲 のが惜しまれる。石沢氏の自ら言、つ「画期的」な発見の功を氏に譲ることにして、さらに比較 仮を進めてみよう。 楽まず、写楽の以貞会ゞ 仙彦糸力いかに豊国のそれに似ていて、他の絵師の似顔絵と違っているのか を明らかにするために、一人の役者を描いた絵師たちの絵を較べることにしよう。ここでは 写楽が好んで描いた役者のなかから四人の役者を選びだし、それが多くの浮世絵師たちによ せがわきくのじよう っていかに描かれたかを比較する。三代目沢村宗十郎、三代目瀬川菊之丞、五代目市川団十 わ「一とし 郎、三代目市川高麗蔵の四人。宗十郎は和事師の代表として、菊之丞は女形の代表として、 あら一」とし 団十郎は荒事師の代表として、そして高麗蔵は実悪の代表としてである。 やおぞう 写楽は宗十郎を八点描いている。これは市川八百蔵、市川高麗蔵の九点に次いで多い。そ れは宗十郎が当時人気絶頂の役者であったことにもよろうが、もうひとつは写楽が宗十郎を 268

3. 写楽仮名の悲劇

る。時はちょうど文化三年 ( 一八〇六 ) 、喜多川歌麿が没した年なのである。寛政 , ハ年当時、 まだこの晩熟の天才は模索の段階にあった。 前に述べたように、この模索の時を送っていた晩熟の天才北斎を写楽その人であるという 説がある。これは横山隆一氏によって初めて唱えられた説であるが、由良哲次氏によって大 きく発展させられた。この由良氏の写楽Ⅱ北斎説は、写楽別人説の中では最も学術的な体裁 を整えた説である。由良氏は多くの論文で、様々な角度から写楽Ⅱ北斎説を論証しているが、 私はやはり、それは無理であると思う。 由良氏がこの説を思い立ったのは戦時中であるが、二十年後、氏はついに写楽Ⅱ北斎説と 悲 の いう、大胆な説を提出した。しかしすでに北小路健氏が指摘しているように、氏が神宮文庫 仮の中で見たという『聞ま、の記』の中の『浮世絵師考』の、例の大田南畝の「これまた歌舞 楽妓役者の似顔をうっせしが、あまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきしかバ、長く世に 行われず、一両年にて止ム」という言葉につづけて書かれた、「隅田川両岸一覧の作者にて、 やげん堀不動前通りに住すーという文章は、明らかに別人の項の頭注がまぎれこんだものな のである。由良氏はこの「隅田川両岸一覧」の作者を北斎として、この文の中に写楽日北斎 説か語られていると考えるが、それは誤解といわなくてはならない。別の本では、この「隅 田川両岸一覧の作者にて、やげん堀不動前通りに住す」という言葉は、その前の「俗名金 つるおかろすい 次」という言葉とともに、鶴岡蘆水の項に記されているが、やはり別人のところに記された 豆注が『浮世絵師考』において、写楽のところにまぎれこんだものと見るべきであろう。 138

4. 写楽仮名の悲劇

るが、新人類といわれる若者には、この写楽絵がもっとも親しめる絵であるらしい このように考えると、写楽はますます興味深い人物であることになり、その謎に挑むのは、 かの邪馬台国の謎に挑む以上に、スリルとサスペンスに満ちているということになる。 しかし、写楽に関する謎が邪馬台国に関する謎と同じように、多くの人の関心を集め、そ の謎を解く本が、続々と出版されるようになったのはそう古いことではない。それは実に昭 和四十年以後のことで、それ以前には『浮世絵類考』の説に従って、写楽は、阿波の能楽師 さいとうじゅうろべえ 斎藤十郎兵衛であるという説が学界を支配し、一般の人たちも、学者たちと同じくそう思い こんでいたのである。クルトはこの説にもとづいて、彼の写楽論を展開したが、やはり、日 悲 の本人は外国人の説に弱く、おかしいと思いつつクルトの説に従って、写楽を何となく能楽師 仮斎藤十郎兵衛であると考えていた。わすかに漫画家の横山隆一氏などがそれを疑って写楽別 せんべん ゆらてつじ 楽人説の先鞭をつけたが大勢は阿波能楽師説であった。しかし、由良哲次氏などによって『浮 おおたなんぽ 世絵類考』の問題の箇所が、写楽とほぼ同時代に書かれた大田南畝二七四九 5 一八二三 ) の 文ではなく、写楽消滅後五十年ほど後に付け加えられたものであることが考証されるや、阿 波の能楽師斎藤十郎兵衛説は全面的に疑われ、改めて写楽は誰か問い直されることになった のである。それによって写楽は大きな謎となり、写楽探しが、多くの人によって行われるこ とになったのである。 こうして多くの写楽論が書かれ、写楽の謎は邪馬台国の謎以上に一般人の興味を引く謎と なったのである。写楽が能楽師斎藤十郎兵衛でないとしたら、一体、彼は何者なのか。写楽

5. 写楽仮名の悲劇

第四章浮世絵と歌舞伎の相関関係 真理は手近にある 以上で私は写楽についての序論的考察を終えた。 あわ さいとうじゅうろべえせつ この考察で、私は、クルト以来の写楽Ⅱ阿波の能役者・斎藤十郎兵衛説が文献的根拠も弱 悲 のく、かっ長年の写楽絵の研究の成果に照らしても、阿波の能役者を写楽絵の作者と考えるこ 反とは、きわめて困難であることを明らかにした。そして、それと共に、阿波の能役者説が疑 楽われ始めるや否や、おびただしく出現した写楽別人説のうちで写楽Ⅱアマチュア説は、能役 者説と同じくやはり成立困難であることを明らかにした。これらは写楽Ⅱ別人説を証明すべ き基礎条件を、一つも満たすことができないのである。 かめい 写楽は誰か別の浮世絵師の仮名であると考えざるをえないが、そのうちとりわけ有力に思 きょ・つでんうたまろほくさ、 ったやせつ われた、京伝、歌麿、北斎、蔦屋説は、いすれも成立が難しいことが明らかになった。とす れば、他の浮世絵師を写楽とするのは、よけい難しいように田 5 われる。 どうやらわれわれは、すでに序論において、どうしようもないアポリア ( 行詰り ) に直面 なぞ ちょうせん したようである。写楽に関する謎は深く厚い。この積年の謎に挑戦するのは、やはり無謀な 142 かぶき

6. 写楽仮名の悲劇

のような作品を残したのに、なぜすぐ自己のもっとも得意な形式を自ら捨て、わずか十カ月 で消えてしまうという理由が全く考えられていない また、写楽という仮名の意味についても、その仮名の中に含まれているに違いない実名へ シャラクセイ の暗示についても、こういう説は、十分にその答えを与えることはできない こしても、作者の具体的名と結びつくものではないの にしても、写すことか楽しいという説。 才 である。 天 きようでん なんは の また、あの南畝や京伝や三馬や歌麿などの写楽に対するそれぞれ違った微妙な反応の仕方 る についても、こういう説は、何も説明することはできない。要するに、写楽Ⅱアマチュア説 めは、今後よほどの証拠が見つからない限り、きわめて成立困難な説であるといわねばならな を えんきよう 、つ 0 、 L_O 、ワ」、つ 0 、 (. 0 、 1 亠、 L-O 、一 8 ヾ 説てあり、そこであげられる艶鏡、 11 ワ 3 ワ 3 ワ」っ 0 っ 0 っ 0 一三 元残るところは、 1 斎、清政、豊国、文調、京伝、歌麿説のみである。これは全て浮世絵師であり文調を除い いずれも役者絵を残している。彼らの中に、写楽が隠れているか ては同時代の絵師であり、 もしれない。 また、彼ら以外の同時代の浮世絵師の中に写楽が隠れているかもしれない。 このうちとりわけ、北斎、京伝、歌麿は候補者として大変有力であるように田 5 われる。蔦 屋を含めて、この三人の画家たちの周辺を洗ってみよう。彼らが写楽であればよいが、彼ら が写楽でなくとも、写楽に関する何らかの有力な情報が得られるかもしれない 1 15

7. 写楽仮名の悲劇

由良氏の論証はおかしい。それは新カント派の批判精神とも、現象学の精神とも矛盾してい る。それなのに、どうして由良氏は、このような明らかに学者として許されない論理を強引 に主張したのか。 それは明らかに、由良氏が、戦時中にみた神宮皇学館大学所蔵の神宮文庫で『浮世絵考 証』と共に発見した『浮世絵師考』にこの説が書かれていると思いこんだ、写楽Ⅱ北斎説を 説 者証明せんがためである。後に述べるように、由良氏は、北斎が、春朗から宗理に変わる寛政 ル又 六年を空白の時間とし、そこに写楽を入れたいのである。 の このように強引に北斎説を主張しようとする由良氏の意志が、あれほど、三馬以下の説に 楽ついては、正しい判断をした由良氏の学問的理性を狂わせたのである。批判は、自己の説に 勹対して、もっとも厳しく向けられねばならないと思われるが、この点について由良氏の自説 への批判は、全くない。それは決して新カント派の態度ではない。 第 これでは、弟子の北小路氏の批判を受けるのは当然である 。北小路氏の由良説に対する批 二判は正しく、『類考』の諸本をわれわれに示してくれるが、しかし、その記事内容にほとん 第 ど立ち入らない。写楽をどう見るかについても、 小路氏は、全くその見解を示さない。 従って、ここで私は、由良氏および北小路氏によって『浮世絵類考』のもっとも信頼すべ き原文である『浮世絵考証』が確定されたことを大きな成果として、この『浮世絵考証』の 内容を考察することにしよう。 もし以上の考証が正しいとするならば、我々は写楽について、ほぼ同時代の重要な人物に

8. 写楽仮名の悲劇

輌いる場合、それを誰か別の人間の仮名と考えるよりも、やはりその人個人が実在していると 考える方が自然だし、無理のない考え方である。 しかし、この論議は写楽に対しては、あてはまらない 詳しくは本文中に述べられているので再説しないが、要するにデビューの仕方や売り出さ れ方、それに「消えた」前後の事情を考えると、写楽は誰か有名人、それも浮世絵師か、そ の関係者である可能性が非常に高いということなのだ。 それゆえに、過去多くの論者が、写楽を同時代の有名人に比定してきた。有名絵師あり小 説家あり版元の主人あり、中にはオランダ人説すらある。ある雑誌の集計では、写楽「候 悲 の補」は有名無名を含めて三十人もいるという。 やまたいこく 名 まさに邪馬台国なみの盛況である。しかし、邪馬台国論と大きく違うのは、邪馬台国論は 楽大和説と九州説にほば二分されるのに対し、写楽論は仮名説では、ほほ一致するということ だ。つまり、写楽は誰かのペンネーム、という認識は共通するのである。 もちろん「写楽は写楽」論が存在することは既に述べた。だが、この論はいちじるしく説 得性を欠く。「写楽は写楽」だと考えるよりも、「写楽は仮名」と考えた方がはるかに理屈に 合、つ。 そこで写楽は誰かという論議に一層拍車がかかるのは当然の成り行きと一言えよう。 では、どうやって写楽を探すか。 その方法は大きく分けて三つある。

9. 写楽仮名の悲劇

よりは人間研究の表である。 順分類職種提議 論者年代 1 研究 浮世絵師 ( 寛政七年春以降は歌舞妓堂艶鏡説 ) ュリウス・クルト明ロ しゅんどうじざ もんせつ 2 研究 能役者春藤次左ヱ門説 ( のち斎藤十郎兵衛説に復帰 鳥居竜蔵大正凵年 ( 6 月日「時事新報」他 ) くにえたかんじ 能役者春藤次良兵衛 邦枝完一一昭和 4 年 ( 『東洲斎写楽』博文館 ) 悲 の 4 研究アマ絵師某 野口米次郎昭和 5 年 ( 「東洲斎写楽』私家版 ) 反 5 研究貴人某森清太郎昭和Ⅱ年 ( 「浮世絵界」 1 巻 9 号 ) 楽 三谷松院昭和肥年 ( 「浮世絵界」 2 巻 4 号 ) 6 研究 能役者関西絵師説 7 研究 浮世絵師三派師系説 三隅貞吉昭和年 ( 「日本美術工芸」 3 月号 ) 8 研究版元蔦屋重三郎説 ( 葛飾北斎説に転向 ) 横山隆一昭和引年 ( 「週刊朝 日」 2 月川日号 ) まうしゅん 9 小説能役者斎藤十郎兵衛横川毅一郎昭和引年 ( 「 ~ 胛春」号他 ) りゅうざぶろう 川研究本派絵師円山応挙説 田口洳三郎昭和年 ( 7 月 5 日「神戸新聞」他 ) 能役者斎藤十郎兵衛 松本清張昭和年 ( 「芸術新潮」 7 月号 ) むれ せがれ ト見武家牟礼俊十 ( 蜂須賀家家老の伜 ) / 二 = ロ 小島政二に 良日和年 ( 「日本経済

10. 写楽仮名の悲劇

たまかっ もとおりのりなが 田た。由良氏はかって氏の先生であった。しかし、本居宣長 ( 一七三〇ー一八〇一 ) が『玉勝 ま 間』でいうように、師の説を批判するのがむしろ弟子としての道である。この宣長の言葉に したがって 、北小路氏は遠慮なく、師、由良氏の説を批判するのである。 こういう批判というものは、多少、批判の対象に厳しくならざるをえない。」足 判もいささか厳しすぎる感なきにしもあらずだが、批判の中心となった、由良氏の写楽Ⅱ 斎説への批判は正しいと思われる。由良氏は『浮世絵類考』の考証を、ただ写楽Ⅱ阿波の能 役者説を否定するためにばかりではなく、写楽Ⅱ北斎説を肯定するためにおこなった。この 後者の側面が、北小路氏によって厳しく批判されたわけである。私はここでこの北小路氏の 悲 の批判を参考にしながら、由良氏の説を検討することにしよう。 なんほ 名 たとえばこの『浮世絵考証』の第一部の大田南畝の書いたと思われる部分について由良氏 仮 - 楽は、これをすべて南畝の書いたものであると一言えないという。大田南畝は、岩佐又兵衛 ( 一 とよひろ 五七八ー一六五〇 ) から歌川豊広二七七三 5 一八二八 ) までの三十 , ハ人の浮世絵師について語 ることで浮世絵の歴史を述べるわけであるが、由良氏はこの三十一番目の国政と次の写楽の 間に線を引き、国政までが大田南畝の書いたメモで、写楽から豊広まではこのメモに、弟子 たちがつけ加えたものとするのである。とすれば、あの写楽についての類考というより考証 の記事そのものも門人の書いたものということになる。由良氏は、クルトが無条件に信じた こびゅう 三馬以下の説の誤謬を正したばかりか、従来、大田南畝その人の書いたものであると信じら しんびようせい れたあの一文の信憑性をも疑っているのである。由良氏は大田南畝が生活態度を改め、儒学