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検索対象: 世界の名著 2 大乗仏典
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1. 世界の名著 2 大乗仏典

( 四 ) 縁起の意味縁起の意味は、 と見られているからであると ( 経典にも説かれている ) 。 さらに、囚と果とはたらきとについて、執有論もな (ll) 十八界の意味 く執無論もないことによって、 ( 次の十二支縁起が ) 次のものは、認識するもの、認識されるもの、その しゅうじ ある。 ( 三・ 認識のはたらき ( の三者 ) における種子の意味を有 縁起 ( 注 ( 4 ) 参。 ) が意味するところは、囚と果と作用 するものとして考えられる。 ( 三 「次のもの」とは何か。界 ( 成 知構 ) である。 ( 界は原囚と ( の = 一者 ) に関連して、執有論がなく、執無論 ( 2 注 ( 邑もないということである。そのうち、囚について としての種子世を意味する。自我が囚なのではな参 むみよう 知覚機能と。、、認識するもの執有論は、行 ( ) 成などについて、 ( 無明などの適正 。 ) そのうち、眼などの界 ( し 知覚の対象界 な原因を考えず、個我や神などの ) 不適正な原囚を考え のへの種子の意味を有する。色形などの界 ( としての六境 が、認識されるもの〈の種子の意味をもつ。眼識などのることによる。因についての執無論は、原囚は存在しな いと考えることによる。果についての執有論は、無明な 界 ( る ~ ~ しが、その認識のはたらきの種子の意味があるも どが縁となって生起する行など ( の果 ) に、自体がそな のである。 わっていると考えることによる。果についての執無論は、 (ill) 十ニ処の意味 感覚を享受することと、対象の判断を享受すること無明その他を縁として行その他が存在する、ということ とがはいってくる門であることによって、次のものはないと考えることによる。作用についての執有論は、 無明その他にはたらきがあって、行その他を生成すると がある。 ( 三・天 ) 「次のもの」とは何か。処 ( 認識の場とし ) である。 ( それ以考える。作用についての執無論は、 ( 無明などには行な 外に、亨受者である「我」が実在するのではない。 ) そどを生成するだけの ) 能力がないと考える。 ( 縁起が正 のうち、感覚の享受がはいってくる門という意味で、内しく理解されたなら。は、 ) 以上のようなことがないから、 的な六つの処がある。対象の判断の享受がはいってくるそこには執有論もなく執無論もないと知らねばならない。 ( 1 ) ( 五 ) 理と無理との意味 門という意味で、外的な六つ ( の処 ) がある。 422

2. 世界の名著 2 大乗仏典

一世界は観念である ( 1 ) 大乗においては、三種の領域からなるこの世界はただ 表象にすぎないものである、と教えられる。経典 ( 朝厳 ) ) よ、実に、この三界は心の 勝者の子息たち みのものである、 と言われているからである。心、意、認識、表象という のはみな同義異語である。ここに心と言われているのは、 ( それに伴って起こる心作用と ) 連合している心のこと ( 2 ) である。「のみ」というのは外界の対象の存在を否定す るためである。 このすべてのものは表象のみのものである。実在し ない対象が、 ( そこに ) あらわれるがゆえに 9 あた かも眼病者が、実在しない網のような毛を見るよう これに対し、人は反論する。 ( 反論 ) 「もし表象が ( 外界の ) 対象によって起こる のでなければ、 ( それが ) 空間的、時間的に限定さ れることも、 ( 認識する人の ) 心には限定されない ことも、また効用をはたすこともありえないはすで ある。 (ll) 何がここに意味されているのか。すなわち、もしある ( 1 ) 三界。われわれの生死流転する世界は、欲界、色界、無色界から なる。欲界は婬・食の二欲ある生きものの世界。色界は二欲をはな れた人々の住所で、絶妙の物質からなる世界。無色界は精神のみの 存在する世界で、人々はみなすぐれたヨーガにはいっている。神話 的な分類ではあるが、禅定すなわち人々の精神の段階をあらわす。 ( 2 ) 心 citta 、意 manas 、 ( 認 ) 識ミョ鰤 na は同一の心をその状態、 機能に従って、異なって名づけたもの。心と心作用 ( 心所 ) は、同 一の感覚器官を媒介として起こり、同一の対象、表象、時、本質を もつ。この一致の関係を連合 ( 相応 ) という。したがって、「連合 している心」とは、心および心作用の意味となる。心の同義異語の うち、本論では vijfiapti 表象 ( 認識 ) という術語がもっとも重要 な役割をはたす。外界の存在 ( 対境 ) を否定する卞観的観念論であ る唯識哲学においては、すべての対象はわれわれの意識内容として の観念、表象にすぎない。けれども、この表象にはそれと対応する 外界の対象 ( 対境、外境 ) は存在しない、ということを著者が論し ているときには、この表象という語は認識と訳したほうがわかりよ 。この議論は、認識の対は外境ではなくて表象である、という識 意味だからである。本訳においては、 vijfiapti という語に対して唯 は、文脈に従って、「表象」と「認識」のいずれかを用いている。 ( 3 ) 眼病者は、存在しない網のような髪の毛などを幻覚する。非実在詩 物の比喩。「網のような毛」のかわりに「毛髪や月」と読むテキスニ トもある。この場合の月とは、幻覚されている、二重の、実在しな 9. い月の意味。

3. 世界の名著 2 大乗仏典

( 2 ) 一過去に ) した悪い行為の内容がカーウクリトヤであるが、らである。ここに言う「 ( 悪 ) 見とあい伴う悪 ( 心 ) 」と この場合は、その悪い所作を対象とし ( て起こる心作用は、そのうちに ( 囚・果の関係を否定する ) 邪悪な見解 なる ) ダルマを悔過という。 すなわち、心においてや、 ( 低劣な ) 見解に対する執着や、 ( 意味のない ) ふる ( あやまちを ) 悔いることである。 まいや儀礼に対する執着をもっ ( 心 ) である。 ( 無知が他の煩悩と ) 共存しないとき、 ( それとあい 四煩悩や、怒りなどや、悔過と ( あい伴う場合 ) は 伴う ) 悪 ( 心 ) と、 ( 悪 ) 見にあい伴う ( 悪心 ) と には、二十 ( のダルマ ) がある。 ( = また、悪心が、 ( 無知や悪見以外の ) 四つの ( 主要な ) 悪心であ 0 て、 ( 他の熕悩と ) 共存しない ( 無知とあ煩悩、すなわち貪り、憎しみ、慢心、あるいは疑いとあ い伴う場合に ) 、そ ( の心 ) には、次の二十の心作用が い伴う場合は、二十一となる。その ( 四つの ) 熕悩 ( の ある。大地なる ( ダルこ十と、煩悩地なる ( ダルこどれか一つ ) と、 ( 直前に述べた ) 「 ( 他の煩悩と ) 共存 六つと、大悪地なる ( ダル「 ) 二つと、「探究 ( 的な心しない ( 無知 ) 」 ( とあい伴う ) 場合の二十 ( のダルこ の動き ) 」と、「観察 ( 的な心の動き ) 」と、である。 とである。上述した怒りなどの第二次的煩悩とあい伴う ズ他の煩悩と ) 共存しない無知とあい伴う , 心とは、そ心にも、同じ二十と、この第二次的煩悩 ( のうちの一 、こには ( 六つの主要熕悩のうちで ) 無知だけがあって、 むさぼ っ ) とがあるから、二十一 ( のダルこである。悔過 他の貪りなどの熕悩はない ( 心 ) である。 ( とあい伴う心 ) にも二十一 ( のダルこがある。 ( 二十 ( 悪 ) 見とあい伴う悪 ( 心 ) にも、 ( 他の煩悩と ) 共存は上述のとおりで ) その悔過が第一一十一となる。 しない ( 無知とあい伴う ) 心の場合と同じく、二十 ( の 心作用 ) がある。 ( 間い ( 1 ) 貪り、憎しみ、慢心、疑い、 ( 悪 ) 見、無知。これら六つを、生析 ) ( 悪 ) 見が増すから二十一 起する領域や、それを除く力などの種々の点から細分して九十八と分 ではないか。 ( 答え ) そうではない。 ( 悪 ) 見という する。一・四〇にいう八十八の熕悩とは、そのうちでも真理を観在 知することによって除かれるものである。 存 のも、大地なる ( 十のダルマのうちの一つである ) 分別 ( 2 ) kauk 「 tya という語には、本来の語義としては、後海、悔過とい 判断 ( ~ 一と ( すなわち知恵 ) の特殊なものにすぎないか う意味はまったくない。

4. 世界の名著 2 大乗仏典

た縁」も ( そう ) であるというなら、 ( この「力すぐれ 前後 ( の順序が定まってい ) ないからである。 ( しかなることか。 ( ある た縁ーだけが ) 広大であるとま、 心に対して、その心と ) ともにあるダルマ ( うし作用、その 対象 ( としての縁 ) はすべてのダルマである。 ( = ・ 心・心作用の取 ) は、「対象としての縁、にならないが 色形は、視覚としてはたらく心およびそれとあい伴う「力すぐれた縁、にはたるのであるから、これだけが広 ( ダル「 ) の ( 「対象としての縁 ]) であり、音、かおり、大なのである。あるいは、広大なものの縁であるから 味、感触は、それそれ、聴覚、嗅覚、味覚、触覚として ( 力すぐれた縁である、という解釈も可能である ) 。 ( い はたらく心 ( およびそれとあい伴うダルこの ( 「対象とずれにしても ) すべてのダル「は、それ自体を除いて しての縁」 ) である。すべてのダル「は、識知する心 ( お ( 他の ) すべての「因果関係の上にある ( ダル「 ) 」の よびそれとあい伴うダル「 ) の ( 「対象としての縁」 ) で ( 「力すぐれた縁」 ) である。 ) ( 他のダルマにとって ) 四縁のうちのどの ある。あるダルマがあるダルマの対象 ( としての縁 ) で 。いかなるときも、かのダル「の対縁にもならないようなダル「があるであろうか。 ( 答え あれば、そのダルマよ ) あるであろう。 ( ダルマ ) 自体はそれ自体の ( 縁 象としての縁でないことはない。 ( 現に ) 対象としてと らえられてはいない場合でも、 ( やはり ) 「対象としてのとはならない ) 。また、それ自体でなくても ( 縁となら 縁、である ( と認めるべきである。対象としてとらえらないものがあるであろう ) 。「因果関係の上にある ( ダル マ ) 」は「因果関係をはなれた ( ダルマ ) 」の、「因果関 れているのと ) 同様な特性をもっているからである。 係をはなれた ( ダルマ ) 」は ( 他の ) 「因果関係をはなれ た ( ダルマ ) 」の ( 縁とはならない ) 。 あらしめる囚というのが、すなわち力すぐれた ( 縁 ) である、と考えられている。 ( = ・六 = ) この縁は広大であるから「力すぐれた縁ーである。 「対象としての縁」もすべてのダルマであり、「力すぐれ ろ 96

5. 世界の名著 2 大乗仏典

( 1 ) 判断」とは、ダルマに対する吟味弁別である。 ( 七 ) 「記 触・神対。無 怖己 接精 憶」とは、対象を忘失しないことである。 ( 八 ) 「配意」 と 沈畏自 る 徳 の の とは、心を ( まさしく対象に ) 向けることである。 ( 九 ) 界げ解 悩 己き慢示い 者い加〉沈対 をて「了解ーとは、 ( 対象を ) 理解し、認証することである。 に迷自動 一三ロ の為 ( 一〇 ) 「 ( 精神の ) 集中」とは、心が一点に集まった状 」狂 内 己 い嫉 なみれ号態である。 ( 」瞞細しら番 静 , 害自 みぎ欺微ー憎 2 平朝不不 ( もっとも、 ) 心や心作用のそれぞれの性質は微妙なも 用頌 た な 慚 で詩 求意 のである。 ( 心と心作用が次々に生起してそこに形づく 」貪訳を 操 欲配凄暴 - トげ懈 漢所 るリ と ん月日 られる心の持続的な ) 流れの中においてすらも、それは の箇 , 貪奘る 作 3 性す情こ 曲の 玄れ ( いちいち ) 区別して知ることはむすかしい。まして、 応対」瞋 尋 、わ な 心念憶適に。無 き ( 一つ一つの ) 瞬間に ( それを区別することはきわめて の想言 の と逸 字あ 敬 ュ恨 1 覆 むずかしい ) 。ある種の薬草は多くの味をもっているが、 逸己こ放 恭 の重文が の語 五は放 自し。恣る ) み ~ 蔽心鈍中 その中に含まれている個々の味を、 ( 味覚 ) 器官をもっ 向断 ・。放す・、ら隠 なの のの 対うの大心 志用励 慚み て味わいわけるのはむずかしい。 ( 薬草のような ) 物質 ) ) にとち且 ま ( 字 し。癡 = 挙徳こ でも ( そうである ) 。まして、非物質的なダルマを知カ 受 ・ ( 忿 害作礙数 かわ躁者なりあ意究 をもってとらえようとするのは ( いっそう困難である ) 。 受集る 感・ ( の信す」貪愚韃他の怒の害探過疑 ( 1 ) 分別判断と訳したづ ra ョはふつうには「慧」と漢訳される。析 定ペ 8 ・二や、一 ・六のもとでは、「知恵」と訳しておいた。し分 地 悩六地 善 ( 煩二 6 悪 かし、その特性は弁別し判断する心作用であり、しかも必ずしも、在 存 正しい判断、よい判断にはかぎられない。誤った判断、よくない判 大四大大大 ~ 断をなすのもやはりプラジュニャーのはたらきである。 付 一一ハ c d ) -

6. 世界の名著 2 大乗仏典

( 6 ) この類という語は種類を言いあら ( それ ) 自身の名称によって言いあらわされているからの人々は ( 言う ) ( 別に説明しない ) 。感受など ( の群 ) もまた同様に知るわす。独自の本性をそなえた十八のダルマの種類が十八 類である、と。 べきである。ただ ( 感受などの ) 遠・近、 ( の区別 ) は、 ( 7 ) スカンダラ それらのよりどころによって ( 知るべきである ) 。粗雑 ( 経量部の立場からする批判・ーー・ ) もし群が集まりの意 と精細と ( の区別 ) は、上述のようなのである、と。 アーヤ・ドヴァ アーヤタナ ( 1 ) 個体的生存の身心をなりたたせている無数のダルマは、もちろん、 ( 認識の ) 門とは、むと心作用との生じてくる門の意 いずれも「因関係の上にある」もので、囚の果として、未来から 現在にあらわれる ( すなわち生起する ) が、次の瞬間には、過去へ 味である。しかし、語源学的には、これは心と心作用と 去る ( すなわち消減する ) 。しかし、それと同時に、さらに無数の の生じてくることを増大するから、アーヤタナである、 ダルマが、同様に因の果として、未来から現在へあらわれて、前の ダルマが構成していた個体的生存を引き継ぐ。こうして、因のはた と解釈される。 らくかぎり、瞬間的に生じては減するダルマの生起は連続し、その 類とは、種族の意味である。たとえば、一つの山の中 連続的生起によって、現実の個体的生存の相が維持されていく。 ( 2 ) 「汚れた」とは、悪いものと、非善非悪ながら「熕悩なき知恵」 に、鉄、銅、銀、金など多くの種族があるとき、 ( それ ダートウ の生起を妨げるものとであり、「汚れていない」とは、よいものと、 らが種々の ) 鉱石とよばれるように、ひとりの身体、あ 非善非悪であって「煩悩なき知恵」の生起を妨げないものとをいう。 るいは ( 一個体を構成するダルマの ) 連続 ( 的生起 ) 、 ( 3 ) 三三九ページ注 ( 3 ) に説明した三つの領域をさらにわけて、「欲 望の多い領域」と、「物質性の領域」における四つの段階と、「非物 の中における十八の種族が、十八類とよばれる。ここに、 質性の領域」における四つの段階との九つの境地とする。 種族というのは ( 生まれる ) もとである。これら視覚器 ( 4 ) 上位の境地のものほど精密であり、下位の境地のものほど粗雑で ある。 官など ( の十八 ) は何の ( 生まれる ) もとであるか。自 ( 5 ) ・ハダンタとは「徳ある人」の意で、仏教において、一般に、すぐ ら ( と同 ) 種 ( のダルマ ) の ( 生まれる ) もとである。 れた師たちに与えられる呼称であるが、ここでは、その名まえをも ったある特定のひとりのアビダルマの学者をさしている。 分 「同類なる囚」 ( 一 一 ) たからである。それでは、「囚果 ( 6 ) 「過去」とは過ぎ去ったもの、「未来」とは未 ( いま ) だ来ないも 9 関係をはなれた ( ダルマ ) 」は、 ( 同類なる囚にならない の、「現在」とは現に在 ( あ ) るもの、とその名から知られる。 から ) 類ではないことになろう。それでも、心と心作用 ( 7 ) 説一切有部と対立した一学派。本書の中でヴァス・ハンドウはしば しばこの学派の説によっている。 との ( 生まれるもとであるから、やはり類である ) 。他 ダートウ

7. 世界の名著 2 大乗仏典

る衆生も ( 同様に ) 予言されたに相違ありません。なんとはあらゆる相が寂減したことです。認識の対象として となれば、如性は、二つであるとか、おのおの別なものまちがって設定されたあらゆるものではありません。菩 であるとかいって言いあらわされるものではないからで提とは、意志作用 ( 作意 ) がすべてはたらかないこと、 あらゆる見解と無関係なものです。菩提はあらゆる分別 す。マイトレーヤよ、あなたが悟りに到達するならば、 そのときにはあらゆる衆生も同じく悟りに到達するでしとはなれ、動きや思いや心の動揺のすべてとはなれてい よう。なんとなれば、あらゆる衆生によって理解されるます。菩提はあらゆるねがいの起こらないこと、すべて さとり こと、それこそが菩提だからです。マイトレーヤよ、あのとらわれることとはなれ、無執着 ( な状態 ) にあるこ なたが完全な涅案にはいるとき、そのときにはあらゆるとです。菩提は法界をすみかとして住することであり、 衆生も完全な涅槃にはいるでしよう。なんとなれば、あ如性 ( 真如 ) に応じて知ることです。菩提は真実の極限 こ - 」ろ らゆる衆生が完全な涅槃にはいらないかぎり、如来も完 ( 実際 ) に住することであり、意も ( その対象である ) 法 全な涅槃にははいらないのです。それはそれら一切衆生もないから無二であり、虚空に等しく平等であります。 が、実に完全な涅槃にはいること、涅槃の本質を有する菩提は生じたり滅したりとどまったり変容したりしない ことを見ぬいているからです。それゆえ、これらの天子から無為であります。菩提はあらゆる人々の心と行動と を ( あなたの説法をもって誤った方向へ ) 偽りそそのか意欲とを知ることであって、認識の場 ( 十一一処 ) ではあ じつけ んのう してはいけません。 りません。菩提は、次の生を引き起こす煩悩やその習気 さとり 菩提について菩提とは、なんびとも ( あらためて ) 慣性として残 ) とはなれているから、まじりけのないもの っているもの そこにはいることもなく、そこからのがれ出ることもな ( 1 ) 漢訳では以下を菩薩品として別章とする。世尊は以上と同様に菩 いものです。マイトレーヤよ、これらの天子たちが、菩 薩たちに病気見舞いに行くことを命じる。 もうそう ( 2 ) 弥勒菩薩、また慈氏菩薩。現在トシタ天にあるが、釈尊の減後五摩 提を ( 上述とはちがって何か特殊なものとして ) 妄想分 十六億七千万年たってこの世界に出現し、その一生の間に釈尊に次維 別しているのを、やめさせるようにしなさい。菩提は身 いで仏となる、弥勒如米となる、と予言されている。このことが次 に問題として、ヴィマラキールティによってとりあげられる。 体で悟るのでもなく、心で悟るのでもありません。菩提

8. 世界の名著 2 大乗仏典

拘東をはなれること ( なる果 ) は、知恵による ( 煩をとらえると果を生じさせるとは、必ず同時である。 ( 同類なる因とすべてに通じる因との ) 一一 ( つの因 ) 悩の ) 絶減 ( ←六 ) である。 ( = ・ ) は現在と過去とにあって、 ( = ・究 ) ある ( ダル「の ) 力によ 0 て他 ( のダル「 ) が ( 果果を生じさせる。 として ) 生じるとき、その果は作用より生じたもの である。 ( 一一・久 =) ( それ自身 ) より前のものを除いた ( 他のすべての ) 囚果関係の上にある ( ダルマ ) は、困果関係の上に ある ( ダルマ ) にとって力すぐれたものの果である。 縁とは何か。 四縁が説かれている。 ( 一一・査 さて、これら ( 六つ ) の囚のうち、どの囚がいつ、 ( そ どこに説かれているか。経典の中にであるーーー「縁の の ) 果をとらえ、 ( その ) 果を生じさせるか。 ( あらしめる因以外の ) 五 ( つの因 ) は、 ( ただ ) 現ありかたが四つある。因なる縁、直接の縁、対象として の縁、力すぐれた縁である」と。 ( ここに ) 「縁のありか 在にあって果をとらえる。 ()一・ 「あらしめる囚」も同様であるが、これは必すしも果をた、というのは、縁の種類 ( という意味 ) である。 因 ( なる縁 ) というのは、五因である。 ( = ・六一 もっとはかぎらないから ( ここでは ) 言わないのである。 「あらしめる因」を除いた五因が「囚なる縁」である。 二 ( つの囚 ) は現に ( 果を ) 生じさせる。 ( = ・究 ) 直接の ( 縁 ) とは、すでに生起した心・心作用で、 「共なる因、と「あい伴う囚」との二 ( つの囚 ) は、現 最後でないもの。 ()一・ 在において果を生じさせる。これら二 ( つの困 ) の、果 ( 応報の因という ) 一つは、過去にあって ( 果を ) 生しさせる。 ( 一一・究 ) 六四種の縁 う 94

9. 世界の名著 2 大乗仏典

そこには、 ( 戒を ) 学ふということもなく、 ( 戒律上の四による本性においては、劣等、優秀、中庸という区別も つの ) 条件もなく、条件がないのでもない。 ( 戒を ) 学ない その生まれつきによる本性は、虚空が ( どこにあって ぶことを越え、 ( 戒律の ) 条件を越え、条件をはずれて いることを越えているところには、学道をふみはずすとも ) 平等であるようなありかたで、 ( だれにとっても ) いうこともない。学道をふみはずすことのないところに平等である。その生まれつきによる本性は、すべての存 は、まもるべきおきて ( 律儀 ) もなく、おきてでないも在が ( 究極的には ) 一つの本質のあるもの ( 一味 ) であ のもない。まもるべきおきてを越え、おきてでないものることによって、差別のないものである。 を越えているところには、修行もなく、修行しないこと ( 一 0 四 ) この生まれつきによる本性は、身体とか心とか ( の差別 ) をすっかりはなれているから、離脱 ( して閑 もなく、 ( してはいけない ) 修行をすることもない。 修行を越え、不修行を越え、過度の修行を越えている寂 ) である。この生まれつきによる本性は、悟りの世界 ( 涅槃 ) へと方向づけられている。この生まれつきによる ところには、心もなく、心作用 ( 心所 ) の諸法もない。 ぼんのう 心もなく心作用の諸法もないところには、意志もなく識本性は、すべての煩悩の汚れがなくなっているから、無 知することもない。意志もなく識知することもないとこ垢である。この生まれつきによる本性は、自分が何かを するという執着、自分のものであるという執着がなくな ろには、 ( 善悪の ) 行為 ( 業 ) もなく、その果報もない。 っているから、「わがものーではない。その生まれつき 行為もなく果報もないところには、安楽もなく苦悩もな 。安楽もなく苦悩もないところ、それが聖者たちのによる本性は、真実なものと真実でないものとが ( 究極 「生まれつきによる本性」 ( 種姓 ) である。聖者たちの生的には ) 平等であることによって、不偏なものである。 この生まれつきによる本性は、もっともすぐれた真理 まれつきによる本性というもの、そこには行為もなく、 しようたい 行為を起こすこともない。その生まれつきによる本性に ( 勝義諦 ) として、 ( この世間を ) 超越したもの、まこと積 おいては、身体的な行為もなされず、ことばによる行為なものである。その生まれつきによる本性は、究極的に も、意志による行為もなされない。またその生まれつきは不生なものであるから、減することのないものである。 ねはん

10. 世界の名著 2 大乗仏典

身敲・ あるのでもない , からである。かといって、「あらゆる 。 ) であ。 意識 「その ( 識が顕現する場合の四つの ) 対象は実在するも点で無なのでもない」。錯乱 ( 虚妄 ) なるのみ ( の識 ) ( 2 ) が起こっているからである。 のではない とは、対境と有情として顕現する ( 識 ) に は、 ( 知られる客観としての意味はあっても、知る主観それでは何ゆえに、それの存在しないことこそが承認 としての ) 形成作用 ( 形相 ) がないから ( 対境も有情もされないのか。なんとなれば、 それ ( すなわち識 ) が減尽することによって、解脱 対象としての真の形相がなく ) 、また自我と表識として のあることが認められるからである。 ( 一・四 z) 顕現する ( 識 ) は、 ( 知る主観として形成作用はあるが ) 真実でない顕現 ( すなわち、形成された自我や表識は真もしそうでないならば、 ( 迷いに ) 東縛されること、 またそれからの解脱 ( これらの事実 ) がなりたたな 実でないもの ) だからである。 しようじよう 「それが実在しないから、かれ ( すなわち識 ) もまた存いであろう。したがって、汚染の存在と清浄な世界と 在しないーとは、かの知られるものは四種ーーーすなわち ( の事実 ) を否定するというあやまちを犯すことにもな 色形などと、五つの知覚機能 ( である身体 ) と、 ( 汚れるであろう。 総摂の相虚妄なる分別の自相を以上のように説きお た ) 意と、六識とよばれるものと・ーー・・、であって、これら 知られるものとしての対象が実在しないから、それに対わって、次にそれの総摂の相を説明する。すなわち、た いかにして、 た虚妄なる分別のみがあるのであるならば、 応する知るものとしての識もまた存在しないのである。 こもう ( 3 ) 三種の自性をその中にとり入れうるか ( ということを説 それゆえに、それ ( すなわち識 ) が虚妄なる分別で あることが成立した。なんとなれば、 ( 識は ) その明する ) 。 えたき へんげしよしゅうしよう ままにあるのでもなく、またあらゆる点で無なので 妄想されたもの ( 遍計所執性 ) 、他によるもの ( 依他起 えんじようじっしよう 性 ) 、完成されたもの ( 円成実性 ) ( という三種の自 もないからである。 ( 一・四 ) 、こ↓よ、 性 ) は、 ( 順次に ) 対象であることから、虚妄なる ( 識は虚妄である。 ) なんとなれば、そのありカナ ( 分別ということから、また二つのものの無であるこ - 顕現が起こっているのと同じように「そのまま ( 真に )