明されねばならない。 これに対して、われわれ ( 実在論者 ) は ( 以下に ) 論 じゅ もし ( 第一頌でわれわれが指摘した ) その誤りがあっ じよう。このような場合には、「すべてのものは空であ る」という君のことばもまた空であることになる。な・せてはならないと君が考えて、「このことばは本体をもち、 かというと、そのことばも、質料囚である諸元素の一つ本体をもっから空ではない。だから、それによってすべ てのものの本体は否定される」と言うならば、それに対 一つの中にも、それらの集合の中にも、ありはしない。 こうこうがい きようこういんこうくちびる 補助因である胸腔・咽喉・唇・舌・歯根・後ロ蓋・鼻・して、われわれは答えよう。もしそうならば、先に主張 前ロ蓋などの中にも、さらに ( ことばを発しようとするした、「すべてのものは空である」という命題は誤って 人の ) 意志の中にもない。両因を合わせた全体の中にも さらに続けると、君のことばもすべてのものの一部で なく、質料因と補助因とをはなれて独立にもありえない。 これらのどこにもないから、 ( ことばは ) 本体をもたある。すべてのものが空であるときにどうして君のこと ず、本体を欠くから空である。だから、このような ( 空ばーー・それが空でないことによってすべてのものの本体 だけが空でないと言 であることば ) によってすべてのものの本体が否定されが否定されることになるのだが ( 1 ) ることはない。実に、ものは存在しない火によって焼かえるのか。かくして、六種の限界をもった誤った議論と なってしまう。それはどういう形でかというと、見たま れず、存在しない剣によって切られることもなく、あり このよ、つに もしない水によって湿らすこともできない。 存在しないことばによって、すべてのものの本体を否定もしすべてのものが空であれば、当然、君のことばも、 することはできない。だから、君が、すべてのものの本すべてのものの中に含まれているのだから空である。そ の空であるものによって、 ( 何かを ) 否定することはで 体は否定される、と言っていることもなりたたない。 これに反して、もしこのことばが本体をもつものできない。だから、「すべてのものは空であるーという否 あれば、君の先の主張は破れる。 ( 君の二つの命題定もありえない ( 第一 ) 。 には ) 不一致があり、それに対する特別の理由が説もし「すべてのものは空であるーという否定がありう 234
ろう。空であるから、それによって否定することはでき るならば、君のことばは空でないはずである。空でない よ、 ( 第四 ) 。 ( ものが現にあるのだ ) から、それによって ( 「すべてのオし また、 ( ことばが ) 空であり、しかも「すべてのもの ものは空である , と ) 否定するのは妥当でない ( 第 II)O また、すべてのものは空であるが、君のことばは空では空である」という否定がありうるならば、当然、すべ ないから、否定がありうるのだと言うならば、君のことてのものは、空でありながらある作用を行ないうるもの ばはすべてのものの中に含まれないことになる。その場となるであろう。しかし、このようなことは承認されな ( 第五 ) 。 合には、 ( 「すべてのものは空であるーという主張は、空 でないことばという ) 実例と相違したものとなってしま ( ことばが空でありながら、否定という作用を行なうと いう ) 実例と ( 自分の議論と ) の相違があっては困ると う ( 第 III)O 君のことばがすべてのものの一部分であり、かっ、す考えて、すべてのものは空であり、かっ、作用を行なわ べてのものが空であれば、そ ( の君のことば ) も空であないと君が言うならば、空である君のことばによって、 すべてのものの本体を否定することはありえないことに なる ( 第六 ) 。 ナ本 ャ刊 さらに、このようにその ( 本体を否定することばが ) ャ初 イ最存在することによって、あるものは空であり、あるもの 、テの ク越 ( 1 ) 『ニャーヤ・スートラ』五・一・三九から四三に、六翼をそなえ ン超 た論争名→も ak ら 0 を・ kath がある。これは立論者と反論者と ( ( サ争 が交互に相手の主張のあげ足とりをするために、結着のつかない、 誤った論争を例証したものである。六種の限界をもった誤った議論の フる a →・ ko ( 一 ko vädah はこれと無関係ではないが、一致もしない。 ここでは相手の議論に六種の行き詰まりがあり、そのいずれも妥当 ( ( ラに でない帰結に導くことを指摘している。
食物が身体を、種子などが芽などを、 ( 生起させる ) よする。だから、順次に ( 前に生起したものは次に生起す うにである。 るものの ) 「あらしめる囚ーになっていることによって、 ところで、次のように非難する者があるーーーもし、すこれ ( ) もまた、 ( 間接的には、視覚としてはたらく心 べてのダルは、障碍とはならないからすべて「 ( あらの ) 縁となるから ( それを生起させる ) 能力がある。他 しめる ) 因」である、というならば、すべて ( のダルマ ) ( のダルマ ) についても同様に知るべきであり、これは の生起が同時に起こらないのはどうしてか。また、 ( 一 ただ一例である。 ( 以上で ) 「あらしめる因」を説明した。 つの ) 殺害 ( がなされること ) によって、すべて ( の 共なる ( 囚 ) は互いに果となる。 ( 一一・五 ) 人 ) が、 ( 当の ) 殺害者と同じく、それに関与するとい 「互いに」とは相互にである。もしダルマが互いに「作 うことにならないのはどうしてか、と。 ( しかし ) すべ用の果」 ~ 、。 ) てあるならば、それらは互いに「共 てのダルマは、 ( それ自身以外の他のダルマの生起の ) なる因、である。 障碍とならないものだから「あらしめる囚」であると認 ( 四つの ) 元素 ( 相互の関係 ) のように、心と心に められるのであって、 ( 他のダルマの生起を ) あらしめ 随伴して生じるものと ( の関係 ) のように、 ( 四つ るものだからではない、 というこ ( のわれわれの説 ) は、 の ) 相状と ( その ) 相状をそなえるものと ( の関 彼色の非難しうるものではない。 係 ) のようにである。 ( 一一・五 0 <) 他の人々は ( 言う ) すべての「あらしめる囚」に 四元素は互いに「共なる囚」である。心は心に随伴し は、 ( おのおの、他の ) すべて ( のダルこを生起させて生じるダル「の、これら ( ダル ) はまた、そ ( の心 ) る能力がある。たとえば涅槃にも視覚としてはたらく心の、 ( 「共なる囚」である ) 。「囚果関係の上にある ( ダル を ( 生起させる能力がある ) 。どのようにしてか。まず、こ」の ( 四つの ) 相状 ( 」〔 ( 四 ) よ、 ( その ) 相状をそなえ分 の こ ( の涅槃 ) を対象として、善または悪の識知する心が ( 1 ) 「心に随伴して生じるダルマ」とは、すべての「心作用」と、あ存 生起し、それから、次々に ( いろいろなダルマが続いて る種の「外面にあらわれぬ行為」と、それらおよび心のおのおのに ついての四相状とをいう。 生起し、やがて ) のちに、視覚としてはたらく心が生起
うるお れと同じように、カーシャ。 ( よ、浄らかな道心のある菩 慈愛によって無限に生きとし生けるものを潤す。 きょ さまざまな存在を潤して、順次、 ( 彼の ) 白く浄ら薩は、すべての白く浄らかな法を増大してゆく。 かな性質が生長し、 ( こうして彼菩薩は ) 大小の軍 ( = 五 ) カーシャ。 ( よ、またたとえば、日輪は、一 勢をひきつれた悪魔を打ち負かし、次第に勝利者た放出された日光によって、生きとし生けるものを照らす。 それと同じように、カーシャパよ、菩薩は一時に放出さ ちの悟りを得るのである。 (llll) カ 1 シャ。 ( よ、たとえば、熱の元素は、すべてれた知恵の光線によ 0 て、生きとし生けるものに知の照 の穀物を成熟させる。それと同じように、カーシャ。 ( よ、明を与える。 菩薩の知恵は、生きとし生けるもののすべての白く浄ら ( = 六 ) カーシャ。 ( よ、またたとえば、百獣の王である とこからどこへ行こうとも、おびえることなく 獅子は、。 かな法を成熟させる。 かつば ( = = ) カーシャパよ、たとえば、風の元素は、すべて恐れることなくあらゆる場所を闊歩する。それと同じよ の仏陀の宇宙 ( 仏国土 ) をなりたたせるものである。そうに、カーシャパよ、正しい行ないと、 ( 教えの ) 聴聞 とこから れと同じように、カーシャ。 ( よ、菩薩が方便において巧と、 ( 菩薩の ) 徳と法とを身につけた菩薩は、。 みであることが、すべての仏陀の教えをなりたたせるもどこへ行こうとも、あらゆる場所を、まさにおびえるこ となく恐れることなく闊歩する。 のである。 ( 三ちカーシャパよ、たとえば、よく調練された巨象 ( 三三 ) カーシャ。 ( よ、たとえば、悪意に満ちた魔王の し力なる神々によってもは、あらゆる重荷を運んだとしても、それによって疲労 四部隊からなる強大な軍隊は、、、 征服され支配されることがない。それと同じように、力しはしない。それと同しように、カーシャ。 ( よ、よく心 しゅじよう し力なる悪魔の調練された菩薩は、あらゆる衆生の重荷をすべて運ん ーシャパよ、浄らかな道心のある菩薩は、、、 だとしても、疲労することがない。 たちによっても征服され支配されることはない。 れんけ はくふん 満月となるまで ( 三 0 カーシャ。 ( よ、またたとえば、蓮華は水中に生 ( = 巴カーシャパよ、またたとえば、白分 ( の上弦の半月 においては、月輪が満ちてゆき、大きくな 0 てゆく。そじても、水によってよごされることはない。それと同じ
至る乗りもの ( 仏乗 ) へ勧誘すべきであり、 (lll) ま 礼拝供養とか名声とかをねがわず、師から聞いたままに、 た、勝利者がたたえた教えを説くべきである。 また悟りえたままに、教えを他の人々に懇切に説くこと、 ( 四 ) 正しく実践し、修行に腰をすえた者は、すべ (lll) ( 教えを ) 多く聞くことによってこそ知恵が生まれ ての生きとし生けるものに対して平等に行動すべき ると知 0 て、頭が燃え、着物に火がついたように ( 教え である。勝利者によってほめたたえられたこれら四 を ) 聞こうと探し求め、聞いたままにもろもろの教えを ・よさっ つの菩薩の道ーー・それらを勝利者のいとし子は、つ 保つこと、 ( 四 ) 翁〔薩としての ) 修行を第一の眠目とし ねに学習する。 て、概念や、説明のことばだけにうきみをやっさないこ A 」 カーシャパよ、これら四つの法があるとき、菩薩 ( 一六 ) カーシャパよ、次の四つのことが、菩薩にそな わった真の菩薩の徳である。その四つとは何か。 ( l) はすぐれた知恵を体得する。 (lll) カーシャパよ、次のような四つのことが、菩薩 ( すべての存在に関して ) 空性を信し理解するが、しか の ( 修行すべき ) 道である。その四つとは何か。 (l) もなお、 ( 善や悪の ) 行為の結果 ( として、楽・苦の果 すべての生きとし生けるもの ( 衆生 ) に対して、平等の報が熟すること ) を信じて疑わないこと、 (ll) 生きと 心があること、 (ll) すべての衆生を仏曜の知〈勧誘すし生けるものが「無我」であることを喜び認めるが、し かもなお、彼らに対して、大きな慈悲の心があること、 ること、 (lll) すべての衆生に対して平等に教えを説く ねはん こと、 ( 四 ) すべての衆生に対して ( 平等に ) 正しい行彼の道を求める心は、涅槃翁 0 ) に向か 0 ている カーシャパよ、これら四つのこ 、しかもなお、その修行は輪廻の ) にとどまるも ないを実践すること しじゅ のであること、 ( 四 ) 生きとし生けるものが成熟するた とが菩薩の道である。そのことについて、次 ( の詩頌 ) めに ( 必要な物資や教えを ) 与えるが、 ( その布施に対 がある。 ( 一 ) 生きとし生けるものに対して、心はつねに平する結果として ) 報いがあることを期待しないこと 等であるべきである。 (ll) 浄らかな心 ( 浄信 ) をもカーシャ。 ( よ、これら四つの法が、菩薩にある真の菩薩 つ者は、生きとし生けるものに対して、この仏陀にの徳である。
当しない。というのは、その場合には実在している このことばは本体をもつものではないから、わたく はたん 声によって、生じてくるであろう ( 声 ) の禁止がな オしまた不一致性もないのだし、 しに理論の破綻はよ、。 ( 一一四 ) されるのだから。 ( 三再出 ) 特別の理由を述べる必要もない。 まず、わたくしのことばは他によって生じたものであということに対して、われわれはこう言おう。 君が暗示した、「 : : : するな」という声のように、 るから、本体を与えられていない。それは先に、本体を ということは、たとえとはならない。 A 」い、つのは、 もっていないから空であると説いたのと同じである。そ して、このわたくしのことばが空であり、他のすべての それは声によって声を停止するのであるが、われわ AJ い、つ れの言うことはそれとはちがっているからである。 ものも空であるのだから、そこに不一致はない。 のは、もしわれわれが、このことばは空でなく、他のす べてのものは空である、と言うとしたら、そこに不一致 これはわれわれの ( 議論の ) たとえとはならない。だ が生じよう。けれども、われわれはそうは言っていない れかが、「声を出すな」と言って、声を出しながら声を 抑止するようには、この空であることばは空性を否定す のだから不一致はない。そして、このことばは空でなく、 一方、他のすべてのものは空であるという形の不一致はるわけではない。どうしてかというと、このたとえでは ないのであるから、ことばが空でなく、一方、他のすべ声によって声が止められるのであるが、われわれの場合 てのものが空であるということを根拠づけるような、特はそうではない。われわれは、すべてのものは本体をも たないし、本体をもたないから空である、と言っている 別な理由を述べる必要もない。したがって君が、わたく しに理論の破綻と不一致性があり、わたくしは特別な理のである。なぜか。 というのは、本体をもっていないものによって、も超 由を述べるべきだ、と言うことは正しくない。 の し本体をもっていないものが抑止されるならば、本争 先に君が言った、 「 : : : するな」という声が、 ( 上述の不一致の解決 体をもたないものが否定されているのだから、本体 をもつものこそが証明されてしまうだろう。 ( 一一六 ) を ) 例証しうると君は考えるであろうが、それも妥 ( 一一五 )
ぼさっ くり返し聞かれた教えの雲が集まってできた、菩薩のまして ) ある。 じゅもん ことの教えの雨が、生きとし生けるものの上に降りそそ ( 哭 ) カーシャパよ、またたとえば、呪文や薬によっ て制された毒は、人を殺さない。それと同じように、カ ぼんのう ーシャ。 ( よ、菩薩の煩悩の毒も、知恵と巧みな方便とに ( ) カーシャ。 ( よ、またたとえば、転輪王が出現す 制されているとき、人をそこなう能力がない。 るところ、そこには七つの宝もあらわれる。それと同じ ( 究 ) カーシャパよ、またたとえば、大きな都城の中 ように、カーシャ。 ( よ、菩薩が生まれるところ、そこに かんしょ ふんによう ばだいぶんぼう ( 2 ) は三十七種の忸りへの適切な法 ( 三十七菩提分法 ) が生までは ( いやがられる ) 糞尿の山であっても、それが甘蔗 や米やぶどうの田畑では、有効な肥料となる。それと同 れる。 ( 哭 ) カーシャ。 ( よ、またたとえば、宝石 ( 摩尼珠 ) じように、カーシャ。 ( よ、菩薩に熕悩はあっても、それ が ( 一つだけでも ) 得られるような場所が、どこかにあが、一切知であることに対しては有効な養分となる。 金銭ま ( = = ) さて次に、カーシャ。 ( よ、この『大宝積』 ( 「宝 6 るならば、そこには多量の何万カールシャー さの という法門にもとづいて学ぼうとねがう菩薩は、存 ) というあたいの ( 宝石が得られる ) 可能性がある。 それと同じように、カーシャ。 ( よ、菩薩が ( ひとりだけ在 ( 法 ) について正しく修行しなければならない。 シャパよ、その場合、何が存在 ( 法 ) についての正しい でも ) 出現するというような場所が、どこかにあるなら しようもん どくかく ( 3 ) ば、そこには何万という多数の声聞や、独覚 ( の徳 ) が修行なのか。それはすなわち、すべての存在についての 真実の観察である。それでは、カーシャ。ハよ、何がすべ 得られる可能性がある。 ゾラカのての存在についての真実の観察なのか。カーシャパよ、 ( 四セ ) また、カーシャ。 ( よ、たとえば、ミ、 園 ( 雑林園 ) に遊ぶ三十三天の神々にとって、その受け自我がないとみる観察と、衆生がない、命あるものがな 個人がない、個我がない、人間がない、人類がない る快楽や亨楽は、すべて同じである。それと同じように、 とみる観察が行なわれるとき、カーシャパよ、それが中 カーシャ。 ( よ、浄らかな志向をもっ菩薩の正しい膠行は しゅじよう あらゆる衆生にとって ( すべて等しく享受されるものと道であり、存在についての真実の観察であると言われる。 まにまうじゃ 202
半に ) 言う。 の教説」というのは、諸仏の教えのことである。 世間的慣行の立場 ( で表現すれば心識は自我であり ) 、 世間的真理と最高の真実という ( 二種の真理による ) また、哲学書の慣行で ( 表現すれば心識と自我は異なっ説き方はきわめてまれであり、妨げのないものであり、 八 ているから ) 、「真実であり、また真実でない ) と言他の理論家たちと共通するものではない。執着という不 安をすべて除くものであるから、それを熱心に学習すべ 大乗仏教の説き方に従えば、すべてのものは生じてい きである。 ないのである。したがって、概念的知識 ( 有分別智 ) の し 対象となったものを真実でないとし、概念的思を越え 一一最高の真実の定義 た直観知 ( 無分別智 ) の対象となったもの ( を真実であ る ) というように仮説したが、そのいずれも、そのよう 仏教内部および他学派のうちの多くの者は、次のよう ( に存在するわけ ) ではない。そこで、「真実でないのでに非難する。 もうそう もなく、真実でもない 「もし君が、他の人たちの妄想しているものの本体をあ 。これが仏陀の教説である」。 ) と言うのである。 ますところなく否認することによって、真実を理解する この詩句の中で、「仏陀」というのは、事物の真実をのだ、と主張するならば、その ( いわゆる ) 真実の定義 正しく、またあますところなくよく悟った人であるからを述べる必要がある。もしそれを示さないならば、自分 だいせん の主張を定立しないでおいて、他人の主張を批判するこ 仏陀翁畑め ) と言うのであ 0 て、大仙などともよばれる。 しようてんげだっ び 「教説ーというのは、昇天と解脱の幸福を希求している かみがみ ( 1 ) アヴァローキタヴラタは、この句を、「 ( 世人が ) 最高の真実とみも 天神や人間たちに対し、彼らの機根、意向、性癖、時機 レ」 なしている布施などの徳行 : : 」と下にかけて読んでいるが、ここ に従って、昇天と解脱への道を正しく教えることをさす。 ではとらない。デルゲ、北京両版のテキストでは本訳のように読む恵 知 ことができるし、漢訳者もそう読んでいる。 また、自分や他人の心の中にある習慣性を伴った煩悩の ( 2 ) サンスクリット文は、『プラサンナバダー』三七〇ページにある。 ( 3 ) ( 3 ) 教説の原語 Säsanäを s ( 罰する ) という語根で説明したもの。 敵を、すべて罰するものが「教説」と言われる。「仏陀
ということに対して、われわれは言おう。 もし存在しているものだけが否定されることができて、瞳 また、本体はあるけれども、それは諸事物にはない存在しないものは否定されえないと言い、一方で君がす ということを前提として述べているが、そのような べてのものに本体がないことを否定するとすれば、すべ ( 六 0 ) ことは前提とされていない。 てのものに本体がないということの存在が是認されたこ というのは、われわれは諸事物にある本体だけを否定すとになる。君のことばどおりに、その否定が事実存在し、 るのでも、諸事物とは別個ななんらかのものに本体があしかも、すべてのものに本体がないということ ( 性 ) が否 ることを承認するわけでもない。そういうわけで「もし定されているのだから、かえって空性の存在は是認され 諸事物が本体をもたないなら、こんどは、諸事物とは別ていることになる。 個な他の何ものに本体があるのか、そのものを説明する あるいは、君が空性を否定し、しかもその空性が存 必要がある」という君の非難は、本題を遠くそれている 在しないと言うならば、否定は存在しているものに はたん のであって、非難ともならないのである。 ついてだけあるという君の理論は破綻する。 (KII) また、君の言った、 逆に、君がすべてのものの本体のないこと、すなわち 家に壺はない、 という形の否定は、 ( 本来、壺とい 空性を否定しながら、しかもその空性がないとすれば、 うものが ) 存在しているときにこそ行なわれる。し存在するものの否定があるたけで、存在しないものの否 たがって、君にとっても、本体があるときにだけそ定はない、という君の主張は破れる。 の否定はありうるのである。 ( 一一再出 ) さらに、 ということに対して、われわれは言おう。 わたくしは何かを否定するのではないし、また否定 もし、否定は存在しているものについてだけ可能だ されるものが何かあるわけでもない。だから、わた くうしよう というならば、空性は是認されていることになるで くしが否定する、というこの抗議は君の捏造である。 ーなしかというのは、君はものに本体がないとい ( 1 ) うことを否定するからである。 ( 六 D もしわたくしがなんらかのものを否定するならば、君 ねっぞう
」うまっ す劫末の火の燃え盛るとき、その火のかたまりをすべてる菩薩の境地について、いささか説いたにすぎません。 ごう 自分の腹の中へ入れてまで、そのなすべき義務をはたしそれを ( もしくわしく ) 説くならば、一劫あまりも、あ ます。また、ガンガー河の砂の数ほどの仏国土を過ぎてるいはそれ以上もの時間を要することでしよう」 ・カーシャパ 大迦葉の述懐そのとき、長老のマハ 下方に行った場所から、そこの ( 一つの ) 仏国土をとっ て、ガンガー河の砂の数ほどの仏国土を過ぎた上方に向は、菩薩の不可思議解脱についてのこの説明を聞いて、 プトラに語った。 かっておきかえますが、それはあたかも大力の男がなっ驚異の念に打たれた。そして、シャーリ めくら めの葉を針の先にさしてもち上げるようなものなのです。「シャーリ。フトラよ、たとえば、あらゆる形像を盲者の しゅじよう ぼさっ 同様に、不可思議解脱にある菩薩は、あらゆる衆生の前に見せても、一つの形すらこれらの盲人は見ることが 力となり、転輪王の姿を変現します。また、護世 ( のできません。それと同じく、不可思議解脱のこの教えが 説かれても、声聞や独覚はすべて盲者と同じで目をもち 神 ) の姿を変現し、シャクラ 乙の姿を、ブラフ「ー ぶつだ しようもん どくかく の姿を、声聞の姿を、独覚の姿を、菩薩の姿を、仏陀のません。不可思議の理由の一つすら理解できません。こ したいだれ の不可思議解脱を聞いて、賢い者ならば、、 姿を変現してあらゆる衆生の力となります。 が無上の正しい悟りに対して発心しないことがありまし 上中下あらゆる種類の十方の衆生の発した声、語った よ、つ、か 声は、そのすべてに特別の力を添加することによって、 機根がすでに破壊され、焼けたり腐ったりした種子に 仏陀の説法、仏陀の声、ダルマ ( 法 ) の声、サンガ ( 僧 ) の声として変現させます。その ( 衆生の ) 声からはまた、等しいような者、この大乗に対しては器ではない ( われ われのような ) 者にとっては、どうしたらよいのであろ ( あらゆる存在は ) 無常であり、苦であり、空であり、 無我であるとの声を響きわたらせます。つまり、十方のうか。この説法を聞いて、あらゆる声聞や独覚は、痛苦 諸仏世尊があらゆる形で説法した、そのすべてがそれらの声を放ち、 ( その声が ) 三千大千世界に響きわたるこ とでしよう。 の ( 衆生の ) 声から聞こえてくるようにするのです。 大徳シャーリプトラよ、以上は不可思議解脱の中にあ ( それに反して ) あらゆる菩薩は、この不可思議解脱を だいかしよう い 2