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検索対象: 世界の名著 2 大乗仏典
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1. 世界の名著 2 大乗仏典

パーリ Upäli ( 優波離 ) が戒律を、アーナンダÄnanda ( 阿難 か教法を、それそれ聞きお・ほえていたままに暗誦し、それ らを参集者が承認してその教義を確認したという。 紀元前四 ~ 三世紀 アレクサンドロス大王のインド侵入紀元前三二七年に、 アレクサンドロス大王がアケメネス帝国の征服を完遂する目的 でインドに侵入した。彼はインダス河畔にまで到達したが、そ こから西方に兵を引き返した。しかし、その結果、イラン高原 から中央アジアの一部に数多くのギリシア人植民地が出現した。 マウリヤ王朝とアショーカ王マガダでは、仏陀の時代以 後も、大国による小国併合が進行したが、やがて ( リャンカ、 シャイシュナーガ、ナンダの強力な諸王朝が続々とあらわれた。 紀元前三一七年ころにチャンドラグ。フタがナンダ王朝を倒して マウリヤ王朝 Maurya を創立した。彼はギリシア人の勢力を ータリ。フトラ ( 現在 西方に遠く駆逐して北インドを平定し、 の。 ( トナ市 ) に都を定めた。この王朝は支配圏をさらに拡張し、 二六八即 チャンドラグプタの孫のアショーカ王 A'0ka ( 前 位 ) の時代には、インドの南端近くからヒマラ・ヤまでのインド 準大陸の大部分と、西はアフガニスタンからアラコシアに至る 版図を有し、インド史上最大の帝国となった。アショーカ王は その偉業の記録とともに道徳的訓戒を法勅として発布し、それ を石柱や磨崖に刻ませた。彼はまた、宗教を奨励し、とくに仏 教を重んじ、自ら仏跡を巡拝したり、インド内外の各地に仏教 の伝道師を派遣したりした。セイロンにはマヒンダ Mahinda がおもむくが、これが南方仏教の発端となった。 第ニ回僧団会議仏陀の没後百十年 ( 一説に百年 ) にして、 ヴァイシャーリー 北部 ) に七百人の比丘が ( 現在のビハー 集まり、第二回の僧団会議を催した。このとき、進歩的な多数 派が、時代と地域に適応するよう戒律の穏健な解釈十項目を提 案したが、長老たちがこれに反対したために、以後仏教教団は、 進歩的な大衆部 Mahäsaffghika と保守的な上座部 Sthavira ・ väda. The 】・ aväda とに分裂した。分裂の原因としては、上座 あらかん 部の理想とする顰者阿羅漢 arhat の人格に対する疑惑をはし めとする教理的な見解の相違も含まれていたと思われる。この こ起一こ 教団の分裂がアショーカ王の治下においてか、それ以後冫 ったかは判明していない。 モッガリブッタ・ティッサアショーカ王の仏教教団に対 する供養をめあてに、資格のない者たちが教団に多数潜人した ために混乱が起きた。王に招かれたモッガリブッタ・ティッサ Mcggaliputta Tissa は上座部以外の非正統的な比丘を追放 し、『論事』 Kathä・ vatthu を著わして正統説を論定した。 紀元前一一 ~ 紀元後一世紀 ギリシア人と仏教アショーカ王の没後、マウリヤ王朝は 衰退し、やがてプシャミトラのシュンガ王朝 ( 前一八七 ~ 一七 五 ) にかわったが、プシャミトラは仏教を迫害した。この王朝譜 は長期の安定勢力とはならず、インドは再び分裂した。くわえ年 て西北インドからはギリシア人が侵人しはじめた。ギリシア人 の建設した・ ( クトリア王国の勢力は、紀元前二世紀中葉にはガ川

2. 世界の名著 2 大乗仏典

アティーシャ上記一二人のうち、年齢的にはラトナーカ ラ・シャーンティ ' か , もっと、も 4 じ、ジュニャーナシュリー・ミ トラとラトナキールティの師弟がこれに次ぐが、いずれも同時 代の人である。三人とヴィクラマシラー僧院の代表的な学者 である。ラトナーカラ・シャーンティ、ジ = ニャーナシ = リ ー・ミトラのふたりは、アティーシャの師であり、ラトナキー ルティはアティーシャよりやや若い。このアティーシャ Atiéa 、 。ハンカラ・シュリージ「一ニャーナ・ a-Sri ・ 本名ディー 冒号 a ( 九八二 ~ 一〇五五 ) は、ヴィクラマシラー僧院の学頭 であったが、チベット王イェシェオ工に招かれて一〇四二年こ ろチベットにはいり、その地の仏数を再興した。彼の著書『菩 提道燈論』は、その後の仏教に大きな影響を与えた。 教の有神論的傾向の影 時輪乗密教はこのころ、ヒンドウ 響を受けて、原初仏Ädibuddha を世界原囚とする信仰を生 んた。また、イスラム教徒の侵入後に密教の一派として時輪 せつけん 乗 Kälacakratantra が成立した。これはインドを席巻し続け るイスラム教徒に対抗するために、仏教徒とヴィシュヌ、シヴ ア教徒との連合を提唱したものである。アティーシャとほ・ほ同 じころにインドで活躍した密教者は数多いが、ナーローパ Nä- ropa ( 一〇一六 ~ 一一〇〇 ) もそのひとりであった。 十二世紀 ーラののち、 ーラ王朝はな ーラ王朝の減亡ラーマパ お三代ないし四代続くが、その勢力はいよいよ衰えた。第十七 代マダナ。 ( ーラ ( 一一四〇 ~ 五五 ) は南方から北進してくるヒ ンドウ教徒、セーナ王朝のヴィジャヤセーナ ( 一 0 九五または 一一二五 ~ 五八 ) に圧倒されて、中部べンガルに追われるに至 ーラの名も存在はするが、事実 った。第十八代ゴーヴィンダ。ハ ーラを最後として歴史上から消減して 上パーラ王朝はマダナ。ハ しまった。 モークシャーカラ・グプタヴァレンドラにあったジャガ ツダラ僧院の学僧モークシャーカラ・グプタ M0ksäkara ・ gupta ( 一〇五〇 ~ 一二〇〇の間のある時期に活躍 ) は、ダル ・ミトラの学業を継いで、 マキールテイやジュニャーナシュリー 『認識と論理』 Ta1 ・ kabhä$äを著わした。また、ダーナシーラ DänaSäIa 、ヴィブーテイチャンドラ Vibhüticandra など、 のちにチへ ・ツトにはいる学僧も、イスラム教徒が来襲するまで ジャガッダラ僧院で生活していた。 インド仏教の減亡イスラム教徒の組織的なインド侵入は 十世紀以来行なわれていたが、十二世紀後半、トルコ系のイス ラム教徒の建国したゴール朝の軍隊は、北インドを巻し、一 二〇一一年にはついにべンガルに達した。一二〇三年にヴィクラ マシラー僧院、さらにおそらくはジャガッダラ僧院も、焼却、 トに流亡 破壊された。仏教僧は四散して南インドないしチベッ した。僧たちが集団生活をしていた各僧院が破壊されたため、 北インドの仏教は指導者と経論を一挙に失い、減亡してしまっ た。南インドにおいては、仏教はヒンドウ教と混合しながら、譜 なお数世紀はほそ・ほそと存続していたと思われる。 年

3. 世界の名著 2 大乗仏典

いにちがう。インドの中観・瑜伽行唯識の両大乗は、シしかし、日本人の魂は、これらを巧みに消化し、真に日 ナに輸入されて、前者から三論宗、四論宗などが誕生し、本的なものに脱皮させ育てあげた。ことに宗派としての 後者からは地論宗、摂論宗、法相宗などが生まれた。少成立の上からいって、日蓮宗にせよ、浄土宗や真宗その しくのちには、真言密教もはいってくる。しかしこれら他にせよ、インドともシナとも、ないしはセイロンなど の南方の仏教とも、まったくちがった性格の仏教をつく はいずれも、移植された輸入仏教、あるいは翻案仏教に あらかんぼさっ すぎす、しかもそれがどこまで正当に、また純粋さをもりあげていった。そこには、阿羅漢や菩薩にかわって、 にんぶ って理解されたかは疑問である。しかしとにかく、これ赤裸々な人間性・凡夫が登場してくる。いわゆる輸入仏 おうせい らに対する六朝時代の研究はすこぶる旺盛で、その結果教も含めて、この「日本的霊性」の完成したのは、平安 が隋唐時代に結実するというように考えたい。すなわち、朝末から鎌倉時代へかけてのことである。 け′こん しかし、思想の系譜からすれば、すべてはインドの大 天台宗や華厳宗の高度な哲学が生み出され、さらに浄土 教の興隆があり、禅宗の創造があった。これらの仏教は、乗思想の発展なのである。仏陀の縁起の思想は、上述の ように空性として展開され、それらがさまざまの縁起論 インドのそれとは非常に異質的なもので、漢民族という 土壌の上でなくては芽をふかなかったものである。天台や実相論として発達した。ところで、たとえば日本語と や華厳の学間もそうであるが、ことに民衆に近づいた禅して囚縁という文字、縁があってなどということば ( 日 と念仏 ( 浄土教 ) は、インド人の思いもかけなかった方本語では、結婚を単に縁組みといったりする ) などは、 向へ仏教を深めていった。それらは、真言密教とともに、本来の縁起とはかなりニ「一アンスがちがっているが、し かしなおこの語は、自然必然性でもなく、単なる偶然性 その後もながくシナの民衆の心をとらえるものとなった。 あや 日本では、最も初期から中観と唯識との思想は、三論でもない、その両者の交差し綾なす生活の機徴を、よく 宗、法相宗の形で輸入された。法隆寺は法相宗の根本道日本人の心に伝え、ある意味で日本的仏教の底流となっ 場であり、そこでは倶舎宗も同時に学ばれた。平安朝にている。 これらの諸種の仏教が生み出した仏教 輸入された天台・真言、その間に奈良朝以来芽生えつづ 翻訳について 文献群は、きわめてぼう大である。イ けた浄土教、そして鎌倉時代になってはじめて導入され ンドの文献にかぎっても、本巻に収めえたところは、そ た禅宗、これらはいずれも輸入仏教ということができる。

4. 世界の名著 2 大乗仏典

書で彼は、ダルマキールティ、およびその伝統を継承し が中心的なものとなる。この流れに属する六世紀のダル げんじよう ーラ Dha1 ・ mapäla ( 護法 ) の思想は、玄奘によって発展させた仏教哲学者の思想を、簡潔ながら内容豊かに シナにもたらされ、法相宗の基本となった。これらの唯まとめあげた。とくに十一世紀の偉大な学僧ジュニャー : ロ思想は、のちに有相唯識説とよばれ、ヴァうハンドウ ナシュリー・ミトラの学説は、大はばに採用されている。 ディグナーガ、ことにダルマキールティ以後の著述は、 やステイラマティなどの代表する無相唯識説と区別され るようになる。 チベットでは盛んに学ばれてきたが、シナや日本の伝統 ディグナーガの知識論と唯識思想をさらに高度なもの的仏教学では、ほとんどまったく知られていない。密教 に完成させたのは、七世紀のダルマキールティ Dharma ・関係の文献を除いて、八世紀以後のシナへは、これらの ほっしよう kirti ( 法称 ) である。これらふたりの活躍は、仏教の思哲学書はほとんど翻訳されなかったからである。しかし、 想界に大きな変化をもたらした。有相唯識と経量部とは この時代の仏教思想家たちが、インドの思想界一般に与 ほとんど区別がなくなり、ダルマキールティとその後継えた影響ははなはだ大きい。七世紀以後のインド哲学は、 者たちは、経量瑜伽総合学派とよばれるようになる。彼ダルマキールティを知らなくては理解できないといって らは、経量部の立場から知識論を展開し、議論が高まるよいほどである。 ディグナーガ、ダルマキールテイやその後継者たちの につれて、究極の真理として外界は認められないとして、 唯識思想に転入するのである。経量部はもともと小乗の著述は、戦後になってはしめて研究出版されるようにな 一部派であったが、 , ! 後明のインド仏教では大乗の一派とったものが多い。欧米、インド、日本を通じて、現代の 考えられるようになった。 仏教学界では、この研究が一つの大きな分野を占めるよ 最後に収録した『認識と論理』 Tarka ・ うになって、多数の学者がいまやそれに従事している。 『認識と論理 bhäiä ( 『タルカバ ーシャーしは、、右のそれにもかかわらす、この系統の思想の全貌はまだ明ら ちょうかん ような七世紀以降の学問の展開を鳥瞰する手引きとしてかになってはいない。モークシャーカラ・グプタのこの かっこう 『認識と論理』は、あまり大部の書ではないが、後期仏 きわめて恰好の作品と思われる。著者は十一または十二 世紀の学僧モークシャーカラ・グプタ M0kiäkaragupta 教思想を体系的に論述したものとして大きな価値をもっ とうび で、本書はインド仏教の掉尾をかざる著述である。このている。ここに収録した翻訳は、日本で最初であるのは ・ 6

5. 世界の名著 2 大乗仏典

いうまでもなく、現代語訳として世界最初のものである。 ったと思われる。しかし、本書の全体は経量部の立場で その内容は三章にわかれる。第一章は確実な認識は知統一されているので、彼を経量部の人とよんでもよいで 覚と推理の両者以外にないことを論じたあと、その知覚あろう。 を中心にして認識の構造を説明する。第二章は推理論で、 概念の本質と確実な推理の条件とを研究する。第三章は シナ、日本の仏教 弁証論である。ここでは、第二章で明らかにされた推理 論にもとづいて、推理の言語的表現である推論式が解説以上は、インドの仏教思想史の線に沿いながら、本巻 どびゅうろん され、それとの関係で誤謬論も展開される。この誤った収録のテキストを概観したものである。インドの仏教は、 論証の例として、他学派の主要理論が次々にとりあけら一二〇〇年ころ、その故国からは姿を消してしまうが、 れ、その誤謬の指摘と批判が行なわれる。そこでこの第シナや日本に受けつがれて、新たな花を咲かせることに 三章では、自我 ( アートマン ) の存在、最高神 ( ィーシ、 なる。そこには独創的な精神に満ちた別の仏教が生まれ ヴァラ ) の存在、概念の実在などをはじめとする、仏教て、新たな黄金期をつくり出す。すなわち、シナではは 以外の諸学派の多くの理論が批判される一方、無常性じめて仏教が輸入されてから約六百年後の唐代 ( 七世紀 ) 、 せつなめっしよら ( 刹那減性 ) の論証、一切知者である仏陀の存在の可能性日本でも同しく輸入以来約六百年後の平安から鎌倉時代 の論証、仏教的な概念論 ( アポー ( ) などの仏教の主要へかけて ( 十二から十一一一世紀 ) 、新たな黄金時代を迎える。 理論が解説される。 これらは、シナや日本という地方的な観点からの黄金期 せついっさいう モークシャーカラ・グプタは本書の最後に、説一切有なのではなく、仏教史全体から見て、まれに見る宗教的 部、経量部、唯識学派、中観学派という、インド仏教思英知の高められた時代なのである。それらについてここ史 想を代表する四学派の理論の綱要を述べている。四学派にくわしく記す余裕はない。たた、インド仏教との関連と にわけることは、当時の一般的な考え方に従ったにすぎについて、一言するにとどめたい。 ないが、とくに経量部に関する叙述が豊富で、その価値 ひとくちに仏教といえば、すべて同質のもののように教 仏 は大きい。モークシャーカラ・グプタ自身は、ダルマキ考えがちであるが、シナの仏教はインドのそれとはまっ ールティなどと同しく経量瑜伽総合学派に属する人であたくちがい、日本の仏教も同じようにシナのそれとは大

6. 世界の名著 2 大乗仏典

ヤ・デ , ーヴァ Arya ・ deva ( 聖提婆 ) は、『四百論』 Catuhsa- taka その他の著述によってさらにこの学派を伸展させた。こ れらふたりはともに「空」の哲学の主唱者であって、仏教内で は有部系のアビダルマ哲学、仏教外ではサーンキャ学派やヴァ イシェーシカ学派などの実在論哲学をしきりに批判した。とく にアーリヤ・デーヴァは、その批判の鋭さがわざわいして、異 教徒に殺害されたと伝えられている。 四 ~ 五世紀 グプタ王朝とインド文化の黄金時代マガダ出身のチャン ドラグプタが中インドを平定してグプタ王朝を創立し ( 三二 〇 ) 、その子サムドラグプタは南インドをも併合してほとんど 全インドを統一した。この王朝の最盛期は五世紀後半ないし六 世紀初頭に及び、文芸、学問、宗教その他各方面においてイン ド文化の黄金時代を迎えた。 経量部の発展アビダルマ仏教最大の勢力である説一切有 ール系とガンダーラ系との分裂がはじま 部の中にも、カシュ、、 った。後者は経量部の影響を強く受け、のちにその代表的著作 くしやらん として『倶舎論』が制作された。経量部は有部から分派した比 喩師たちゃ、クマーララータ Kumäraläta 、シュリーラータ Sriläta 、 ( リヴァルマン H arivarman などによって表象主 義的な理論を発展させたが、三 ~ 四世紀にはかなり有力な学派 に成長した。 後期大乗経典の出現三世紀末から四世紀にかけて、いわ じしようしようじようしんせつ ゆる自性清浄心説や如来蔵思想を説く『如来蔵経』 Tathäga ・ せついっさいう しょ・つまん。きよう tagarbha-sütra 、『勝鬘経』 Srimälädevisi1i 】 hanäda ・ sütra 、 へんさん ねはんぎよう 『涅槃経』 Mahäparinirväpa ・ sütra などが編纂され、また同 げじんみつきよう じころ、唯識学派の根本聖典である「解深密経』 Safi1dhinir- れ・ようかを、よう mocana ・ sütra が成立した。さらにのちに『楞伽経』 Lafi ・ kävatara ・ sütra が出現した。 つけん 法顕のインド旅行シナの僧法顕は、経、律の原典を求め るため、六十歳をすぎた三九九年に長安を出発し、四一三年に 青州に帰来するまで、インド各地を旅行した。 くまらじゅう 鳩摩羅什四〇一年に長安にきた鳩摩羅什 Kumärajiva ( 三四四 ~ 四一三または三五〇 ~ 四〇九 ) は、シナで仏典の翻 訳に従い、中観仏教をこの地へ移人した。 マイトレーヤ マイトレーヤとアサンガとヴァスパンドウ Maitreya ( 弥勒 ) は歴史上の人物か否かが疑われてもいるが、 三五〇 ~ 四三〇年ころの人と推定されている。これに師事した むちゃく アサンガ Asafiga ( 無著 ) は三七五 ~ 四三〇年ころ、あるいは 三九五 ~ 四七〇年ころ、その弟ヴァスパンドウ Vasubandhu ( 世親 ) は四〇〇 ~ 八〇年ころと推定されている。これら三人 のうちの前一一者、マイトレーヤあるいはアサンガによって、 だいじようしよう′ 1 んきようろん ゆがしちろん 『瑜伽師地論』 Yogäcära ・ bhümi' 『大乗莊厳経論」ピ享・ yäna ・ süträlafilkära 、「中正と両極端との弁別』 MadhYänta ・ げんかんしようごんろん vibhäga ( 『中辺分別論し、『現観荘厳論』 Abhisamayälam ・ しようだいじようろん kära などが著わされ、アサンガにはまた『摂大乗論」 Ma ・ häyäna-samgraha その他の著述がある。ヴァス・ハンドウは これらの書のあるものに注釈を施し、また『供舎論』 Abhi ・ dharmakosa ( 『存在の分析』 ) 、『二十詩篇の唯識論』 Vi1héat; ・ ) 48

7. 世界の名著 2 大乗仏典

しお仕えするでありましよう。村や町や、城市、田舎、 にも、ひとりひとりの如米を供養するために、非常に堅 国土、王宮などで、この法門が行なわれ、説明され解説固でこわれない塔 (f トウ ) ーーそれは舎利 (* 翫の ) が収め されるところがあれば、そこへわたくしは法を聞くためられ、あらゆる宝石からなり、大きさは四大州の世界ほ かさはた どで、高さは・フラフマー神の世界に達し、傘や幡や中心 に一族の者をつれてまいるでしよう。信じていない者に に立てられた表柱で飾られている・ーー・をつくったとしょ は信を起こさせ、すでに信じている者には、そのそなえ た法を守護いたしましよう」 う。そして、すべての如来のストウ 1 パを一つ一つつく げだっ って、一劫もそれ以上もの長いド 、それをあらゆる花や 不可思議解脱の徳こう言われて世尊はシャクラに仰 のぼり せられた。「よろしい、インドラよ、おまえの言うこと香や幟や幡をもって供養し、鼓やシン・ハルを鳴らして礼 拝するとしよう。その場合、インドラよ、どう思うか、 はよろしい。如来もそれを喜ぶであろう。インドラよ、 これらの良家の子女は、それによって多くの功徳を生じ 過去・未来・現在の諸仏世尊の悟りは、この法門の中に すべて説かれている。だから、この法門を保持し、あるるであろうか」 ん懸い いはその他、経典を書写し、保持し、読誦し、他に理解 ( インドラが ) 答える。「世尊よ、善逝よ、 ( 功徳は ) た いへん多くございます。その功徳の集まりは、百千コテ させるほどの良家の子女は、過去・現在 ( ・未米 ) の諸 イ劫かかっても説き尽くせないでしよう」 仏世尊を供養したことになるのである。 世尊が仰せられる。「インドラよ、おまえ信じるがよ インドラよ、この三千大千世界が如米で満ち満ちてい 。よく理解せねばならぬ。もしも不可思議解脱を説く ることが、たとえば、甘蔗畑のようであり、葦の林のよ うであり、竹の林、胡麻の畑、アカシアの林のようであこの法門を保持し、あるいは読誦し、理解する良家の子 るとしよう。それらの如来に対して、だれか良家の子女女があったならば、その生しる福徳は、 ( 彼よりも ) は が、一劫あるいはそれ以上も長い間、敬いとうとび讃嘆るかに多いのである。なんとなれば、諸仏世尊の悟りと摩 いうものは、 ( この ) 法から生じるのであり、その ( 仏 し、あらゆる供養物や快適な身の回り品をもって供養す るとしよう。また、これらの如来が涅槃にはいったのち陀への ) 供養は法への供養によって可能なのであって、 かんしょ

8. 世界の名著 2 大乗仏典

の数百分の一ないし数千分の一にすぎない。 ことに仏教訳の訳語にはすでに死語化したものも多いが、なお意味 として重要な教義体系である仏身論、修道論、如来蔵思をもつもの、またもたせてしかるべきものなどもある。 想、仏性論などに関するテキストを、ここに収録しえな訳者たちは、これらの漢訳の訳語をどこまで踏襲すべき かったのは残念である。 かなどについて、しばしば議論を戦わせたが、結局、新 いまでは数十年も前になる、学生のころのことである。しい訳語を用いるにしても、それらの訳語を統一しうる 「いただいて読む本をもたぬやつは、かわいそうやな」までには至らなかった。たとえば dha 「 ma は、外国の学 というある友人のことばを聞いて、はっとさせられた思者は英語でもドイツ語などでも、翻訳に困って dharma ちょうだい い出がある。その意味は、聖典とは「頂戴して」読むべとそのまま用いる場合が多いが、ここでは「ダルマ、と きもの、すなわち全身を投入して読むべきもの、 そ写したり、「法」という古代からあ訳語を用いたり、「存 れをもちえぬやつらは、あわれむべきかな、というので在、「本質」「対象」などの意訳を行なったりしている。 ある。翻訳ということがさまざまな困難を伴うしごとで 日本は古くからの仏教国として考えられやすい。しか あることは、諸種の現代外国文についてもいいふるされしある意味では、日本が仏教に出会うのは現代が最初な たことである。いわんや、これら古代に属する仏典の場のである。というのは、 いままでは漢訳という訳文のみ 合は、サンスクリット疆と、、、 チベット語といい、発を通じ、シナ仏教というインドとはまったくといっても 想法を異にし、社会的背景を異にしていて、現代日本語よいほどちが「ている仏教に導かれて、仏教が考えられ への翻訳には多大の支障が感ぜられる。そのうえ、それてきたにすぎないからである。直接にインドの原典に遭 は宗教的な聖典である。 遇するのは、西欧の学者のインド研究のあとをうけて、 われわれの翻訳が、それらの困難さをよく克服しえたわが国にも仏教学が輸入されてからのちのことである。 史 歴 とは思わない。ことに仏典の場合には、古い漢訳というそれはまだ百年にもならない。 ヨーロッパやアメリカ、 ものがあり、それらの漢訳も含めた漢文によって日本語それに現代インドも加えて、はじめて仏教との出会いを は発達したという歴史的事情がある。そういう性格の現経験しつつあるとき、日本もまたそれとほとんど同じ状教 仏 代の日本語へ、そういう過去をもっ仏典を翻訳すること態にある。世界中がはじめて現代において仏教に出会い は、実は倍加した困難さを感ずるものである。仏典の漢その翻訳に従事している。現代は仏典の翻訳時代なので

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ーラの系統は、有相唯識に発展した。 しんたい ラマールタ paramärtha ( 真諦、四九 パラマールタ。ハ 九 ~ 五六九 ) はアヴァンティのウジャインの人、五四六年にシ ナに渡り、唯識、如来蔵系統の論書を翻訳した。 七世紀 ハルシャ王インドはハルシャ・ヴァルダナ ( 戒日王 ) に よって、一時統一された ( 六〇六 ~ 四六 ) が、その勢力も長く は続かず、再び分裂した。 げんじよう 玄奘と義浄六一一九年に唐の長安を出発した玄奘 ( 六〇〇 ~ 六四 ) は、十六年間にわたる、西域、インドの大旅行を完遂 し、六四五年に帰った。その間、主としてナーランダー僧院で シーラ・ハドラ Silabhadra ( 戒賢、五二九 ~ 六四五 ) その他の もとで唯識思想を中心に学習した。その後、義浄 ( 六三五 ~ 七 一一一 l) は、海路インドに渡ってナーランダーで学び、帰路東南 アジアに滞在したのを含めて、前後一一十五年間の旅行をした。 その他、インドに渡り、その地で死んだシナ留学僧も多い チャンドラキールティ中観派ではチャンドラキールティ Candrakirti ( 月称、六〇〇 ~ 五〇ころ ) が『明らかなこと につちゅうろん ば』 Prasannapadä" 「入中論』 Madhyamakävatä1 ・ a その他 を著わした。彼はーヴァヴィヴェーカを批判して帰謬論証派 の勢いを盛り返した。 ディグナーガに傾倒し、その知識論を ダルマキールティ ほっしよう さらに発展させたダルマキールティ l)har ・ makil ・ ti ( 法称、六 〇〇 ~ 六〇ころ ) が『知識論評釈』 PI ・ amäQavä1 ・ ttika などの、 いわゆるダルマキールティの七論を著わした。彼は経量瑜伽総 こ適用 合学派とよばれる立場にたって、経量部の認識論を唯識冫 し、有相唯識説を完成した。デーヴェンドラブッディ Deven ・ d 「 abuddhi ( 六三〇 ~ 九〇ころ ) 、シャ 1 キャマティ k a ・ mati ( 六六〇 ~ 七二〇ころ ) 、カルナカゴーミン Karnakago- min などが次々とダルマキ , ールティの著書に注釈を施した。 しゅもん 密教の展開古くから存在していた招福除災の呪文は、や がて瞑想を伴った強力な呪文、陀羅尼 d 詩一・ a 言に発展し、民 衆の心を捉えた。この傾向は七世紀になって「空」の理論とヨ 1 ガの行法と結合し、密教とよばれる独立した宗乗となった。 こんごうちょうぎよう 『大日経』 Mahävairocana ・ sütl ・ a や『金剛頂経』類もこのころ しんごん に成立した。密教は真言乗 Mantrayäna 、金剛乗 Vajrayäna などともよばれる。 八世紀 ーラ パーラ王朝と仏教八世紀中葉、べンガルに興ったパ 王朝 Päla は、九世紀初頭にはガンガー河上流地域まで支配し、 ハータリ。フトラに首都を移して全盛期を迎えた。この王朝は仏 教を保護し、とくに密教はその治下で大いに発展した。ゴーパ ーラ王 ( 在位七五〇 ~ 七〇ころ ) は、マガダのオーダンタ。フリ 僧院を、ダルマ。 ( ーラ王 ( 在位七七〇 ~ 八一〇ころ ) はヴィク こんりゅう ラマシラー ( またはヴィクラマシーラ ) 僧院を建立した。とく に後者は規模壮大で、その後の仏教学の中心地となった。 シャーンタラクシタとカマラシーラチベットは先にソ . ン ツェン・ガンポ王によってはじめて統一され ( 六二九 ) 、世界

10. 世界の名著 2 大乗仏典

じゅ を、んしよら・ろ民け ( 『雎識一一十論し、『唯識三十頌』 Triméikä' 『三性論偈』 Trisvabhävanirdeéa などの諸篇を書いた。以上あげたのは すべて、瑜伽行派 Yogäcära または唯識学派 Vijilänaväda の根本論書である。中でも『現観荘厳論』 ( 漢訳されなかった ) と『倶舎論』は、のちにチベットにおける仏教教学の五つの基 本テキストの中に数え上げられた。ただし右にあけた年代を、 四十年ないし八十年古くみる学説や、経歴や思想を異にしたふ たりのヴァス・ハンドウが実在したとする学説もある。 サーラマティ『宝性論』 Ratnagot1 ・ avibhäga ・ mahäyä- nottaratantra の著者であるサーラマティ Säramati はこの ころの人である。この書は、のちに、ヴァスパンドウに帰せら れた「仏性論』などの基礎となり、またアシュヴァゴーシャに 帰せられる . 『大乗起信論』に影響を与えた。 ナーランダー僧院の成立五世紀はじめグプタ王朝の援助 ノ月 . / によって、ナーランダー僧院 ( 現在のビハ トナの南 東 ) がつくられ、次第に発展して大乗仏教の中心地となった。 六世紀 エフタル人の侵入五世紀末にエフタル人が西北インドに 侵入した。彼らは西インドのヤショーダルマン王によって撃退 された ( 五二八 ) が、グプタ王朝は崩壊し、インドは再び長い 分裂の時代にはいった。 ディグナーガ唯識思想から出発し、やがて認識論と論理 学の組織化に努力したディグナーガ Dignäga ( 陳那、四八 0 ~ 五四〇ころ ) は、『知識論集成』 PI ・ amär:asamuccaya ( 『集 じんな 量論しその他を著わして、インド哲学の歴史において画期的 な業績をあげ、その後の唯識派、経量部の思想に大きな影響を 与えた。シャンカラスヴァ 、ン Safikarasvämin ( 五〇 C 一 ~ 六〇ころ ) 、イーシュヴァラセーナ iévarasena ( 五八〇 ~ 六 四〇ころ ) などが、ディグナーガの著書に次々と注釈を書くよ うになった。 中観派の分裂ナーガールジュナの『中論」に対しては多 ーリタ くの注釈がある。四七〇 ~ 五四〇年ころにブッダ。 ( Buddhapälita ( 仏護 ) が注釈した。やがて、ディグナーガの論 理学と経量部思想の影響を受けなハーヴァヴィヴェーカ B ・ しようべん vaviveka ( 清弁、五〇〇 ~ 七〇ころ ) が現われ、『中観心論』 しちゃく Madh} 「 amaka-hrdaya 、その自注『思択の炎』 TarkajväIä' はんにやとうろん 『知恵のともしび』 Pra 」 fiäpradipa C 般若燈論しなどを著わ した。彼はとくにブッダバ ーリタを批判し、中観哲学に、論証 式による弁証法を導入したため、中観派は二派に分裂した。プ ーリタからのちのチャンドラキールティにつながる学派 をびゅうらんしようは を帰謬論証派 Präsafigika 、・ハーヴァヴィヴェーカの創始した 学派を自立論証派 Svätantrika とよぶ。 ステイラマティとダルマパ ーラ唯識派ではグジャラート 地方のヴァラビー王国 Valabhi にいたステイラマティ Sthi ・ あんね ramati ( 安慧、五一〇 ~ 七〇ころ ) が出て、ヴァス・ハンドウ の唯識論書に注釈した。しかし、ディグナーガの系統に属する譜 ダルマパ ーラ Dharmapäla ( 護法、五三〇 ~ 六一 ) が前者と年 傾向を異にする唯識理論を展開した。ヴァスパンドウ ステ ティグナーガ イラマティの系統は、のちの無相唯識に、。