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検索対象: 世界の名著 2 大乗仏典
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1. 世界の名著 2 大乗仏典

には、享受と判別とはたらかせるものというような、 なりたたないからである。しかしながら、「無認識を 多くの心作用がある。 ( 一・九 ) ・本性とするもの」ではあるにしても、虚妄なる対象とし アーラヤ識はそれ以外の ( 七つの ) 諸識に対して原囚 て顕現するという性質があるかぎりでは、それは認識で となるものであるから、「縁 ( 囚 ) どしての識」である。 ある、と言われる。 分類の相いま次に、同じ虚妄なる分別にある分類のそれを縁 ( 囚 ) として起こりつつある ( 七つの ) 識 ( 転 識 ) が「享受に関係あるもの」である。「享受」とは感 相を説明する。 さらに虚妄なる分別は、三界 ( のすべて ) に属する受であり、「判別」とは観念である。識を「はたらかせ ぎよう るもの」とは行破 ) であり、すなわち思考 ( 思 ) 、 む・心作用 ( 心・心所 ) である。 ( 一・〈 注意 ( 作意 ) など ( の諸種の心作用 ) である。 欲 ( 界 ) に属することと、色 ( 界 ) に属することと、 汚染の存在としての相さらに汚染の存在としての相 無色 ( 界 ) に属することとが区別されるのに応じて ( 三 を説く。 界に属する等々と言われる ) 。 おおいさえぎるから、成長させるから、導くから、 同義語の相また同義語の相を説く。 統一させるから、完備させるから、三つのものの判 その場合、識は対象 ( そのもの ) を見ることであり、 別があるから、享受するから、引き起こすから、 それに反してもろもろの心作用はそれのさまざまな 属性を見ることである。 (一・ 結びつけるから、現前のものとするから、苦しませ それらの中で、識 ( すなわち心 ) は、純粋に対象その るから、生あるものは苦悩する。 ( 一 ものを見ることであり、感受することその他の心作用 その中で、「おおいさえぎるから」とは、如実に見る パ心所 ) は、その対象の属性を見ることである。 むみよう ことを無明が ( おおい ) さえぎるからである。「成長さ くんじゅう 生起の相また生起する相を説く。 第一は縁 ( 囚 ) としての識であり、第二のものは享せるから」とは、諸行 ) が ( 過去の ) 行為の熏習 ( 3 慣 ) を識の中におき ( 成長させる ) からである。「導く 受に関係あるものである。すなわち、そこ ( もの ( 1 )

2. 世界の名著 2 大乗仏典

て自己を知りえようか。それというのも、知るものと知 られるものとの関係は、要するに作用の主体と客体との 六自己認識 関係である。そして世間では、主体と客体とは大工と木 自己認識 ( 自証 ) とは、すべての心と心作用とにあるとの二つのように、それそれ異な 0 た個体としてだけ認 められているではないか」と。 自覚のことである。 ( 定義 ) こおける、知るものと知 それに対して答えよう。認識冫 む ( チッタ ) とは、対象を一般的にとらえる認識のこ とである。心作用 ( チャイ , タ ) とは、心の中に生じるられるものとの関係は、作用の主体と客体との関係であ ものと語義解釈され、対象の特殊な性質をとらえる作用ると考えられるべきではなくて、実に、 ( 論理的な ) 確 むとんじゃく で、快、不快、無頓着などの特徴をもっ ( 感情などであ定するものとされるものとの関係として考えられるので る ) 。これらの心と心作用そのものは自覚されるのであある。ちょうど、ともしびがそれ自身を照らすように、 るが、そ ( の自覚 ) の本質は、自己の本性を直観するこ知識も無感覚な物質とはちがって、それ自らの原囚によ とである。それゆえに、この自己認識は、概念知をはなり照明という本性を帯びて生じてくる。だから、自己を 認識するのだと断定されるのである。それについて ( シ れ、迷乱のない知覚であると言われる。 ャーンタラクシタは ) 、 それに対して、ある人々は反論する。「けれども、心 知識は無感覚なものとは相違したものとして生じて と心作用に自己認識があるとはうなずけない。自己自身 いる。この感覚的であることこそが知識の自覚にほ に対して作用することは矛盾しているからである。すな かならない わち、踊り子はどんなによく訓練されていたとしても、 しよう、こん 自分の肩にの・ほることはできない。剣の刃はどんなに鋭と言っている。また、『知識論評釈荘厳』 ( プラマーナ・ヴ アールティカ・アランカーラ ) の著者 ( プラジ = ニャーカ かったとしても、剣自身を切断することはない。 火のかたまりがどんなに盛んに燃えたとしても、火自身ラ・グプタ ) も言う。 ( 認識における ) 主体とか客体とかは想像物にすぎ を焼くわけではない。そのように、心と心作用もどうし 468

3. 世界の名著 2 大乗仏典

ず、真実には存在しない。自己が自己によって自己己認識性によって知られていないならば、どうして知識 を知覚すると言われるのである、 によって限定された対象が理解されようか。それはちょ と。そして、心と心作用とが、それ自身以外のもう一つうど、杖 ( という限定者 ) が認識されないときには、杖 の知識によって照らされるということは不可能である。 をもっている人 ( という被限定者 ) を認識することも理 というのは、まず、ある心と心作用とは、それと同時に論的に不可能であるようなものである。 存在する他の知識によって照らされるということはあり それに対して、トリローチャナ ( 十世咆。 = ャーヤ学派の哲 えない。その場合には、牛の左右の角と同じように、益 ラé師は言った。「たとえ眼そのものは知覚されなくて いろかたち するものと益されるものとの関係がなんらないからであも、視覚の対象である色形は知覚される。そのように、 る。また、それはそれと異なった時間に存在する他の知たとえ知識そのものは自覚されていなくても、対象が知 識によっても照らされない。照らされるべき ( 心と心作られている、ということはありうるであろう , と。 用 ) は各瞬間に減し去るものであるから、 ( 他の知識の けれども、この議論は、目下の主題に適合しないから 生じているときには ) それは存在しないからである。 正しくない。というのは、色形 ( という対象 ) の限定者 さらに、もし知識に自己認識がないとするならば、対であるものは、眼 ( という物質的な感覚器官 ) ではなく 象が知られている、という事態も成立しないであろう。 て、視覚 ( という知識 ) である。そういうわけで、視覚 それは、「その限定者 ( である知識自身 ) が知られてい が自覚されていないときには、どうして色形が知られよ ないときには、被限定者 ( である対象 ) について認識は うか、と言えるわけで、 ( 君の理論は ) いぜんとして批 生じない」という論理にもとづいているのである。すな判されるのである。 ーリラ また、クマ わち、対象は限定されるものであり、 ( その対象が ) 知 ・・ハッタは、知識の非知覚性を説く論 られている、ということが限定するものである。しかも、ために次のように反論する。「感覚器官 ( はそれ自体知識 知られているということは、知識によって限定されてい 覚されないが、それ ) が存在しなければ、色形 ( などの ることにほかならない。だから、もし知識自らがその自対象 ) も明らかにならないということを通して、感覚器

4. 世界の名著 2 大乗仏典

しかしながら、 ( ある対象を ) 最初に経験する場合に実な認識であるし、また推理は、断定機能をその本性と は、思慮ある人は、効果的作用を確認しようと求めながするものであるから、それ自身で確実 ( な認識 ) である。 らも、その効果的作用があるかどうかを疑うことにもと ( 反論 ) 「もし認識の確実性が斉合性にあると定義され づいて、水や火など ( の対象 ) に向か 0 て行動を起こするとすれば、聴覚器冨による認識には、理解された対象 、のである。というのは、たとえ彼自身は、わたくしは疑を獲得させる性能はないのであるから、それがどうして っている、と意識はしていないにしても、肯定的なまた確実な認識と言えるのか は否定的な証拠がないために、それに共存している疑惑 ( 答論 ) この考えはまちが 0 ている。というのは、認識 の確実性は対象の本性を理解することにある。そして、 をどうして除くことができようか。 このように理解することは、外界の効果的作用を実際に したがって、この間題は次のように解決される。すな わち、人は、ある効果的作用について以前に得た経験を獲得することなくしても、可能なのである。 ( ダル「キ ールティはこの点に関して、 ) 伴った、きわめて鋭利な知覚が生じると、それだけでそ 確実な認識方法とは斉合性のある知識であり、その の対象に向かって ( 断定的に ) 行動を起こすのである。 際、斉合性とは効果的作用の存在することを意味す ( しかし ) 知力の鈍い人は、同じ ( 効果的作用 ) を推理 したのちにはじめて行動にうつるのである。 それゆえに、 ( 感覚器官による ) 知覚は、 ( 鋭利な場合と言 0 たのであるが、音声というものは聞かれるだけで には ) それ自身で、 ( すなわち、他の認識によ 0 て確認その目的をはたすものであるから、その場合には、聞か される必要なしに ) 確実な認識であるが、ある ( 鈍い知れるということだけが効果的作用の存在することにほか ならない ( とも説明しているのである ) 。それはちょう こよって確認 覚しかもたない ) 人の場合には、他の認識ー されてはじめて確実性を得るに至る。「ーガ行者の直観ど、太陽、月、雲、空などの場合には、それらが見られ 対るということだけで効果的作用の存在することが証明さ 本章蒭六 ) とは、 ( いずれも外界の「 一一一呼節参照 本章物七 ) と自己を識 ( 象にかかわりのない知覚であるから ) 必ずそれ自身で確れる ( のであ 0 て、実際にそれらに手を触れることはで

5. 世界の名著 2 大乗仏典

のものの空性は妥当しない、 と一一一口うことは正しくない。 しているのではない。それらには自己存在性がないから さらに、 である。なぜかというと、それらは質料囚や補助因に依 ( 3 ) また、ものが他によって存在することが空性の意味存しているものであるからである。もし、ものが本体と であると、われわれは言うのである。他による存在して存在するならば、質料囚と補助囚とを取り除いてし には本体はない。 まっても、それは存在するであろう。しかし、実際には 君はものが空であるということの意味を確かめないで、 ( 1 ) 本「兎のニつの角」にあたる箇所の漢訳には、兎は欠けている。 わたくしのことばに本体がないから、ものの本体は否定 兎の角は実在しないもののたとえであるが、ここでは、同時に実在 されない、 と非難を投げかけているのである。この場合 する二つのもの、たとえば、牛の二角の間に作用がありえないこと を説くのであるから、兎は不必要であるかもしれない。実際、多く には、ものが他によって存在していることこそが空性な の書物において、作用の無のたとえとしては、牛の二角のほうがよ のである。なぜか、本体をもたないからである。実に、 り一般的に見られる。 ( 2 ) 作用はすべて、時間的継起における因果作用としてなりたち 他によ 0 て生じているものは、本体病しをも 0 て存在 この場合、結果が生したときには、原因はすでに存在しないから、 因果作用は二つのものの間になりたっ相互作用ではないーーー同時的 にある二つのものの間に直接になりたっ相互作用は不可能である、 寺 という理論は、後代、経量部によって積極的に主張された。その二 者の相互作用が、両者が時を異にして存在しても、時を同じくして 存在しても、不可能であるという分析のしかたは、本論第一一〇頌の それに酷似している。この分析のしかたは、本論、『方練心論』、 一高 『ニャーヤ・スートラ』のすべてに見られるが、それらを経量部あ ~ 像 るいはその先駆者の思想の反映ととることもできる。 ( 3 ) 他によって存在すること、他によって生じていることは「縁起」越 レ と言われる。これは、あらゆるものは原因をまってはじめて生じ、超 また長さが短さに対してのみありうるように、他のものと相対的に争 ガ のみ存在しうることをあらわす。すなわち、それ自身独立に存在す ナ る自己存在としての本体に対して、自立的にではなく、他に依存し てのみ存在することを言う。それがまた空の意味である。

6. 世界の名著 2 大乗仏典

心は識知し、感受は感じを受容し、想念は対象の姿を把勤 ( 以上で ) 心および心作用が、種類に応じて説明された が、これらについては、さらに次のような名称が説かれ握し、というように ) 作用するから「 ( それそれの ) し ねばならない。 ( 仏曜の ) 教説の中では、それら ( の名かたをもつ、 ( と言われ ) 、等しく和合するから「あい伴 うー ( と言われる ) 。「等しく和合する」とは、どのよう 称 ) をもって、言いあらわされているからである。 にか、と言えば、 ( それを説明して ) 言った 心と、心意と、 ( はたらく ) 心とは同義。 ( 一一 ヴィジ チッタ 五種に、 ( 一一・三四 ) 積み重ねるから心である。考えるから心意である。識 ヴィジュニャーナ 知するから ( はたらく ) 心である。他の人々は ( 言うと。 ( 心と心作用とは ) 五 ( 種 ) を等しくすることによ 。 = うすなわ ) 、 、戈すわ ) の種類によ 0 てさまざまで 0 て、 ( すなわち ) よりどころと、対象と、 ( 対象の ) あ あるから心であり、そ ( の心 ) が、すなわち ( 直後に続りかたと、 ( はたらく ) ときと、 ( はたらくダルマ ) 自体 ( の数 ) とを等しくすることによって ( 等しく和合する ) く心の ) よりどころとなるときに心意であり、 ( 直前に こ ( の「はたらくダルマ自体の数をー等しく あった心をその ) よりどころとするときに ( はたらく ) 参照 。いかなることか。 ( 同一瞬間に ) 心はただ一 する ) とよ 心である、と。 っしかないように、それそれの心作用もただ一つずつあ 心と、心意と、 ( はたらく ) 心とが同義であるように、 心・心作用と、よりどころをもつものと、対象をもるだけである、ということである。 ( 以上で ) 心と心作 つものと、 ( それそれの ) しかたをもつものと、あ用とを広く分別して説明した。 い伴うものとも、 ( 一一・三四 <) 三心とかかわりのない十四種の因果的存在 同義である。な・せならば、「心・心作用」は、 ( 五感およ び識知の ) 器官によるから「よりどころをもっ」と言わ ( 心と ) かかわりのない因果的存在とは、取得と、 れ、 ( 作用の対象として ) 境域をとらえるから「対象を 非取得と、同類性と、無意識と、二つの精神集中と、 もっ」 ( と言われ ) 、また、同じその対象を ( とらえるの 生命 ( 機能 ) と、 ( 四つの ) 相状と、名の集まりな に ) 、種類に応して ( それそれの ) しかたで ( すなわち、

7. 世界の名著 2 大乗仏典

また、先にわれわれは、結論と矛盾した命題を否定す 主張する ) 。 ( 所属性 ) せつなめっしよう ( 4 ) こよっても、 ( 存在性と刹那滅性との必然的関係 ( このをは現在においても、過去・未来の結果を生る論証ー ( 1 ) は証明される ) と言ったので、それを例証しよう。 じるはずであるが、それは不合理である。 ) ( 結論 ) きびゅうかんげんほう ( 2 ) 一瞬に結果を生じもしないし、次第に結果を生じる 帰謬還元法 9 ラサンガ・ヴィ。 ( リヤャ ) は、 ( 直前に述 のでもないものは、効果的作用の能力のないもの ・ヘられた帰謬法の主題所属性を、現在の壺は過去・未来 ( すなわち存在しないもの ) である。たとえば、虚 の ) 作用を行なわないという形に ( 変格し ) 、「能遍の非 ( 3 ) 無存在の ) のように。 ( 必然性 ) 空に咲く花 ( た 認識」を用いた否定的推理として次のように構成しうる。 刹那減的でないものは、一瞬に結果を生じる能力も、 あるときにあるものに作用しないものは、そのとき ( 所属性 ) 次第に結果を生じる能力もない。 そのものに対して効力をもたない。たとえば、稲の ( ゆえに、刹那減的でないものは存在しない。 ) ( 結 芽を生しさせない雑穀が、稲の芽に対して効力をも 論 ) たないように。 ( 必然性 ) この「能遍の非認識」を根拠とする、 ( 存在するもの この壷は現在の時点において、過去・未来の時点に ( 所属性 ) は刹那減的である、という結論と ) 矛盾する命題を否定 属する効果的作用を行なわない。 この壺は現在において、過去・未来の時する論証は、次のことを明らかにする。非刹那減的なも ( ゆえに、 点に属する結果を生じさせない。 ) ( 結論 ) なもの ) からは、 ( 存在性の能遍である ) 次第にまたは 作用効力をもたない ( 過去・未来の ) 瞬間は、 ( 存在一瞬に結果を生じる作用性が排除されてしまう。だから、 性に対する ) 必然的関係から脱落するので、 ( 存在性はそれによ 0 て必然的におおわれる、効果的作用性と定義 される存在性も、 ( 非刹那減的なものから ) 排除されて、 現在の一瞬の効果的作用性にのみ認められ、したがっ ( その矛盾概念である ) 刹那減性に包摂されることにな て ) 存在するものは瞬間的であるという必然的関係が、 る。言いかえれば、 ( 存在性は ) 刹那減性によって必然 上述の帰謬法および帰謬還元法という二つの論証によっ 的におおわれるのであって、ここに存在性と刹那減性と て証明されるのである。 ) 14

8. 世界の名著 2 大乗仏典

マ ) が行く範囲 ( すなわち、生起する範囲 ) がそ ( のダ の ) 相状と、 ( 一一・一一三 ルマ ) の地とよばれる。ここに、大地なる ( ダルマ ) と 必ずともに ( 生起する ) 、とことばが続くのである。お は、その地が ( すなわち生起する範囲が ) 大きい ( ダル よそ、物にせよ、心にせよ、心作用にせよ、 ( 心と ) か マ ) という意味であって、あらゆる心の中にある ( すな いかなる ( ダル かわりのない ( 囚果的存在 ) にせよ、 ) も、それが生起するときは、すべて「囚果関係の上わちあらゆる心に伴 0 て生起する、心作用である ) 。 。し力なる ( 心作用 ) があらゆる心の中にあ それでよ、、、 四 ) とあい伴っ にある ( ダルこの ( 四つの ) 相状、 ( 匸 るのか。 て生起するのである。 感受と、志向と、想念と、欲求と、 ( 内界・外界の ) あるいは取得と ( ともに ) 。 接触と、分別判断と、記憶と、配意と、了解と、 ( 因果関係の上にあるダルマのうち ) 命あるものに属す ( 精神の ) 集中とは、あらゆる心の中にある。 ( = ・一一四 ) ) とともに生起する。他の ( ダ るものだけが取得 ( い← ルこはそうでないから、それと区別するために、 ( 詩これら十のダル「は、心の ( 生起する ) あらゆる瞬間 じゅ に、 ( いつも ) ともに ( 生起して ) ある、と伝承されて 頌に ) 「あるいは」の語が ( おかれている ) 。 いる。そのうち、 ( 一 ) 「感受」とは、苦と楽と、不苦不 楽との三種の ( 感じの ) 受容である。 (ll) 「志向」とは、 ( 意図 ) して心を動かすことである。 (lll) 「想念」とは、 ( 先に ) 「心作用」と言われている ( ~ = 阯一 ) が、その心作表象作用であり、対象の姿をとらえることである。 ( 四 ) 「欲求」とは、 ( ものごとを ) したいと欲することである。 用とは何であるか。 ( 五 ) 「 ( 内界・外界の ) 接触」とは、 ( 感覚および識知 心作用は五種。大地などの別による。 ( = 心作用は五種類である。すなわち、大地なる、大善地の ) 器官と、 ( その対象である ) 境域と、 ( 器官を通じて なる、大煩悩地なる、大悪地なる、小煩悩地なる ( ダル境域に向か 0 て ) はたらく心とが、互いに合することか こである。地というのは行く範囲である。ある ( ダルら生じる ( 三者の ) 接触 ( の状態 ) である。 ( 六 ) 「分別 作 用

9. 世界の名著 2 大乗仏典

れる ) 。たとえば、や蛙やや ( 水にくぐる ) 漁夫な ( それは ) 「抵触される , というのであるか。そ ( の境域、 どの ( 眼の ) ようなものである。ある ( 眼 ) は、どちら対象 ) を越えてさらにその先に ( 作用を及・ほすことは ) ていしよく ないからである。あるいはまた、抵触とは、そこに到達 これらの各種を除いた においても ( 抵触され ) ない。 ( もの、たとえば、母胎の中で死ぬ者の限の ) ようなもすること、すなわち、自らの境域に対して作用を及ぼす のである。ある眠は、夜には抵触されるが昼には ( 抵ことにほかならない ( とも解釈される ) 。 、ところで、いまの場合、 ( 物に属する ) 十 ( 類 ) は、 触 ) されない。たとえば、こうもり、ふくろうなどの ( 限の ) ようなものである。ある ( 眼 ) は、昼には抵触障的抵触として抵触するのであると知る一きである。 相互に ( 他の生起を ) 障碍するからである。 ( したがって、 されるが夜には ( 抵触 ) されない。たとえば、たいてい と一言われたことになる。 ) の人の ( 眼の ) ようなものである。ある ( 眼 ) は、夜もそれ以外の八類は抵触しない、 ひょうねこ やまいぬ 、イ、馬、豹、猫などの 昼も抵触される。たとえば、犬 これら十八類の中で、どれだけが善か。どれだけが悪 ( 眼の ) ようなものである。ある ( 限 ) は、 ( 夜も昼も ) か。どれだけが ( 善とも悪とも ) 言えないか。 ともに ( 抵触され ) ない。すなわち、上述の各種を除い 八類は ( 善とも悪とも ) 一一新えない。 たものである。以上が境域的抵触である。対象的抵触と 八 ( 類 ) とは何か。 ( 直前に ) 「十 ( 類 ) は抵触するも は、心と心作用とがそれそれの対象において ( 抵触され の」と述べた ( 九」。 ること ) である。 同じそれらであり、色形と音とを除く。 ( 一・一一〈 いかなる差別があるか。 それでは、境域と対象とには、 ある ( ダ ~ 「の ) 上に、ある ( ダ ~ 「の ) 作用があると ( すなわち ) 五感覚器官と、かおりと味と感触とである。 き、前者は後者の「境域、である。心や心作用によ 0 てこれら八 ( 類 ) は善であるとも悪であるとも説明できな いから、 ( 善とも悪とも ) 「言えない」のである。他の人 とらえられるものが「対象、である。 という占 ~ から一一一口っ アヴィャーカラナ それでは、 ( あるダ ~ 「が ) 自らの境域に対して、あ人は ( 言うーー ) 応報 ( の因 ) ( 一 、因は必ず善か ) を ) つくらないか るいは対象に対して作用を及ぼしている場合、どうしてて、 ( これら八類はその囚「かである 6

10. 世界の名著 2 大乗仏典

に存在する ( 恒常的な ) 原囚から生じるとするならば、 自我意識ぐ ま ( その他の認識と ) 同時に起こることになっ かんけっ そこには間歇的に存在する原囚からは生じないという不てしまう。 ( しかし、二つの認識が同時に起こるという 合理がっきまとうであろう。また、それは一定の原因をことは、君自身認めていない。 ) もたないものた、と考えるならば、それは原囚なくして 自我というものは自我意識の対象であって、原囚であ 起こるものたというに等しいことになってしまう。このるわけではない、と君が反論するとしても、 ( 認識の ) ような場合にすら、 ( この能証が ) 不定の誤りをもっと原囚でないものは認識の対象となることもできない。し 言うならば、すべての人が承認している ( 火の存在を証たがって、君の議論は過大適用の誤りとなってしまう。 明するための ) 煙という能証なども不定たと言わなくて 次に、 い 0 たい、虚空 ( 一 . しと言われるなんらかの実 はなるまい。両者に差別はないからである。 在するものはあるのか、ないのか。実にそれは存在しな また、もし自我意識が間歇的でない ( 恒常的な ) 原囚 いのである。というのは、抵抗性をもった実体が、ある から生じるとするならば、それは常時起こらねばならな空間を占めているときは、虚空がそこに場所を与えるこ いことになろう。というのは、原囚とは、本性上、作用とはない。他方、実体が占めていない空間においては、 しつつあるものであるからである。現に作用していない その実体が存在しないということたけで場所は与えられ ものを原因とよぶのは、たた比喩的に表現していることているわけだから、虚空がことさらに与える場所はな、 にほかならない。作用しているものと、していないものではないか。しかも、虚空とは、場所を与えるものであ とは、同一とは言えないからである。もし、それらが同ると君は考えている。そうだとすれば、虚空のあるかぎ 一だとするならば、作用していないものも、作用してい いつでもどこでもどんな状態においても、場所があ る本性をもっことになるから、作用しているものである いているということになるはずであるが、そのようなこ ということになってしまう。 とは事実としてはありはしない。そういうわけで、われ また、自我意識が恒常的な存在によって生じるとすれわれは虚空は存在しないのだと知ることができる。しか ろんばく せついっさいうぶ ば、恒常的なものはつねに独立自足的な存在であるから、し、この論駁はヴァイ・ ( ーシカ ( 説一切有部 ) の ( 虚空に 536