ちゅうがんしゃ ( 1 ) 第一部実在論者の中観者に対する反論 ( 中観者の言うように ) もしどこにも、 いかなるも ( 2 ) のにも本体というものがないとすれば、君翁観 ) の ことばも本体をもたないが、それでは本体を否定す ることもできない。 ( 中観者は言う ) 「いかなるものの本体にせよ、それは どこにもーーーその質料囚の中にも、補助囚の中にも、質 料因と補助因とを合わせた全体の中にも、あるいはそれ らと独立なものとしてもーー - ・存在しはしない。だから、 すべてのものは空である。というのは、たとえば、芽は、 その質料因である種子の中にありはしない。その補助因 とよばれる地・水・火・風などの一つ一つの中にも、そ れら補助囚の全体の中にも、質料因と補助因とを合わせ た全体の中にも芽はありはしよ、。、 オし力といって、質料因 と補助因なしに独立に芽が得られるのでもない。 これら のいずれの中にも ( 芽の ) 本体はないのだから、芽は本 体をもたないのである。本体をもっていないから空であ る。この芽が本体をもたず、本体をもたないために空で あるのと同じように、すべてのものは本体をもたず、本 体をもたないから空であると言われる」と。 ( 1 ) 本書は七十の詩頌と一つ一つの詩頌に対する著者自身の解説から なる。第一頌から第一一〇頌は実在論者からの中観者に対する反論で あり、第二一頌以下が著者のそれに対する批判である。ここで著者 の対論者として登場する実在論者には、一一種ある。第一頌から第六 頌では = ャーヤ学派 ( 正理派 ) の理論が展開される。この学派はヴ アイシェーシカ学派 ( 勝論派 ) の実在論的形而上学を継承しつつ、 その上に論理学の体系を構築した。第七頌から第一一〇頌の間には仏 教内部で実在論を代表するアビダルマ仏教者の意見がみられる。 ( 2 ) svabhäva 満訳は「自性」「自体」など。 = ャーヤ学派、ヴァイシ エーシカ学派などは、たとえば、芽は芽という一つの実体として存 在し、その実体にさまざまな属性や一般者 ( 種 ) が内在していると 考える。芽は、究極的・恒常的な原子、すなわち原因の集合からな った結果であって無常であるが、しかも芽には単なる原子の集合以 上に、芽という個物としての全体性 avayavin がそなわっている ので、これも実体と言われる。この実体の、その原因とは別個な独 立存在性を、著者は本体 svabhäva とよんでいる。他方、アビダ ルマ仏教では実体の存在は認めないが、現象の背後にあり、過去・ 現在・未来を通じて不変な本質 ( 法体 ) の存在を主張する。不変不 減な芽の本質が現在という状態において現象しているのが、眼前に ある芽である。この芽の本質は、他のいかなるものとも異なった自 己存在、独立性をもっている。以上二つの実在論の主張する実体と 法体のいずれも、他によってつくられない自己存在性を含意するの超 の で、それを著者は本体とよんでいる。中観者である著者は、すべて のものは他のものによって生起し、他のものと相対的にのみ存在し論 ているのであって、それ自身独立した存在性をもたないという。そ れが、ものは本体をもたない、空である、ということの意味である。
けれども、この外界の対象は、全体性 ( アヴァャヴィ ヴァイシェーシカお これは事実上、結果としての能証 ~ こもとづく推理であ ) の考えているよ ン ) でもなく、他学派 ( よびニャーヤ学派 うな、実体に依拠する属性その他のものでも、九種類のる。この推理は非実在の誤りをもたない。自我意識とい う主題に認識性の存在することは、知覚によって証明さ 実体でも、原子でもないのである。 ( 3 ) そのうちます、属性 ( と運動と一般者と特殊などは外れているからである。また、われわれはいつでも「われ は」という意識をもっているわけではないから、ときど というのは、 ( まもなく述べる ) 界の対象で ) はない。 実体の否定によって、 ( 実体に依拠する ) これらのものきに起こるという、 ( 能証に対する ) 限定句も ( 主題に ) も否定されるからである。また、 ( 属性などの ) 内在す存在すると言える。また対立の誤りもない。能証は同類 る基体である実体が存在しないときには、内在するとい 主題の同類おたと ) に存在することが経験されるからである。 ろんばく ときどきに起こる認識と、 さらに、不定の誤りもない。 う関係も存在しえないはずであるから、その論駁はここ ときどきに存在するその原困との間の必然的関係は、煙 にはとりたてて扱わない。 実体とは、地・水・火・風・虚空・時間・方角・自と火との間と同じように、知覚と非知覚とによって証明 かんけっ 我・意の九種類であるが、そのうち、自我の存在を否定されているからである。もし、間歇的な認識が非間歇的 するために次の推論式をわれわれはたてる。 ( 1 ) 前の詩頌は、本章第一一〇節 ( 五三〇ページ ) に出たものと同じ。 ときどきに起こる認識はすべてときどきに起こる原 あとの半頌は、サンスクリット本に欠けていて、本より補ったも の。われわれが認識しているのは外界の対象自体の形象であり、知 囚より生じる。たとえば雷光の認識のように。 ( 必 識の形象ではないというこの理論 ( 無形象知識論 ) は、次節に述べ 然性 ) られる経量部の有形象知識論と対立するものである。 ( 2 ) この詩頌の後半はサンスクリット本に欠けている。本より補う。論 この自我意識もときどきに起こる認識である。 ( 所 ( 3 ) ヴァイシェーシカおよびニャーヤ学派では、実在の範疇として、 属性 ) 実体、属性、運動、一般者、特殊性、内在性の六種をたてる。以下認 では、これら六範疇のいずれもが、外界の対象として実在するもの ( ゆえに、自我意識はときどきに起こる原囚を前提 ではないと否定される。 する、すなわち恒常な自我の存在を前提しない。 ) ( 結論 )
ってしまった場合に、世間で「非存在ーという発音でよ なんとなれば、 ( 反論者は「存在 , があるというが 彼らによ 0 て ) 妄想された「存在 , は、実は自性か他性ばれるものになるからである。しかし、これらの壺など は、「存在」の体 ( すなわち自性 ) をもって成立してい かのどちらかなのである。しかもそれら両者は、すでに 述べた理由によ 0 て実在はしない。その両者が実在しなるのではない。その場合、現に自性のないものにどうし て別のものへの変化があろうか。それゆえに、「存在で いから、「存在ーもないと決定されねばならない。 ( 反論者が ) これに対して言う。たとえ君によ 0 て「存ないもの」もまた、あるのではない。 以上のようにあらゆる点から考えて、自性と他性と、 在」が否定されたとしても、「存在でないもの、 ( 非性 ) むみよう はある、まだ否定されていないから。したが 0 て、、二者存在と非存在とが不合理であるのに、無明の眼病によっ が相対するという事実からして、「存在でないもの、がて知恵の目がそこなわれたために、誤 0 た 自性、他性、存在、非存在を見るならば、彼らは仏 あるのと同じく、「存在ーもあるであろう。 6 陀の教えにおいて真理を見る者ではない。 ( 中観派が ) 答える。もし「存在でないもの」があれば、 によらい 如来の教説を正しく解釈するという慢心があることに きっと「存在」もあるであろう。しかし、 ( 「存在でない よって、ある人々は「地の自性は堅さであり、感受の もの」が ) あるわけではないことを、次のように語る。 もし「存在」が成立していないならば、「存在でな ( 自性 ) は対象の知覚であり、識知の自性は対象の一つ いもの」は成立しない。なんとなれば、「存在、が一つに対する表象である」というように言 0 て、諸存在 に関して自性を説明する。または「識知と物質 ( 色 ) と 別なものにかわった状態を、人々は「存在でないも は別であり、感受もそれらとは別である」といって、他 の」と語るからである。 ( 五 ) 実にいま、もしも「存在」と名づけられる何かがある性があるという。あるいはまた、現在の状態にある識知 などを「存在ーという点で語り、その同じ識知などが、 とすれば、それが別なものに変化することによって、 過去のものになったとき、「存在でないものーという。 「存在でないもの」ともなるであろう。なんとなれば、 これらの人々は、もっともすぐれて深遠な縁起の真理を 壷などが現に存在する状態から死減して、別な状態にな フメーウフ ぶつ
でもない。 ( その能証の基体が存在しないから、これは、 また、効力のない能証 ( アサーマルティャ ) は、自体非 基体非実在の誤りあるものであると論駁しうるのであ 実在の誤りに含まれる。というのは、能証の効力とは、 能証の自体 ( すなわち本質 ) と別なものではない。そうる。 ) でなければ、 ( 効力のあるときにも ) 能証は実在しない ヴァイシ = ーシカお ) は次のように議論 実際、異教徒たち ( よび = ャーヤ学派 ということになってしまうであろうから。 「善悪の行為の作者であり、その結果の享受者であり、 最後に、過大適用 ( アテイプラサンガ ) は、ある能証が その所証の領域をふみ越えて異類とも結びついてしまう恒常、遍在な、自我とよばれる、身体などとは別個なも ことであるから、要するに、不定の誤りに含ませるべきう一つの実体がある。この自我は、実際には世界に遍在 するものであるが、しかも、生きている身体は、その ものである。 ( 自我が苦楽を ) 享受するための場所であるから、自我 一五自我の否定ーー論駁の一例 ( 1 ) 不完全 nyünatäは、本来は推論式の構成要素の不足を意味し たが、ダルマキールティ以降の仏教論理学では、非実在、対立、不 定およびその下に細分類されるいくつかの誤りを意味する ある主題に、ある所証の性質が存在することを ( ある ( 2 ) 種子という原因があっても、穀物は実らないことがある。たから・ 能証によって ) 証明しはじめたとき、その主題自体の存 すべての現象の生起には、可視的な諸原因のほかに、運命的な不可 視力の作用が加わっている。この不可視力は、人の行為とその余力 在を ( 他の ) 明らかな証拠によって否認しうるならば、 である功徳 ( ダルマ ) ・不功徳 ( アダルマ ) である。そして、功 その能証を基体非実在の誤りあるものとして論駁しうる。 徳・不功徳はア 1 トマンの属性である。したがって、あらゆる場可 においてあらゆる現象が見られることは、そこにはたらいている功 自我 ( アートマン ) は、その属性があらゆる場所で認 ( 2 ) 徳・不功徳という属性の見られること、ひいてはアートマンの遍在 識されるから、遍在するものである、という推理を例証 を意味する。ヴァイシェーシカおよびニャーヤ学派では、アート としよう。この場合、仏教者にとっては、自我そのもの ンは各個人の身体に宿るとともに、それ自体は身体とともに移動し ない遍在者であると考えている。時間的にも、アートマンは過去・ が存在しないのであるから、その属性があらゆる場所で 未来にわたる永遠なものである。 認識されるなどということがなりたたないことは言うま
以外の ) ものを知覚することによって、この ( 壺の非認のによって確認されている ( わけで、さらにそれを証明 よ決定されるのである。すなわち前者はする推理を必要としない ) からである。 識という ) 能証。 したがって、非存在に関する行為こそが、非認識 ( に ( 壷以外の知覚されている ) 対象として、後者は ( 壺以 外の対象を知覚している ) 知識としてではあるが、いずもとづく推理 ) によって、愚か者のために証明されるの れにせよ、命題の否定 ( すなわち単純否定 ) としての認である。すなわち、たとえば、ある愚か者が、サーンキ 識の欠如だけではなくて、当の、否定される対象以外のヤ哲学において承認されている激質 ( ラジャス ) をはじ ( 2 ) ものの積極的な肯定という意味で非認識と言われるのでめとする三要素は、認識されないから存在しないのだ、 ある。というのは、消極的な認識の欠如だけであるなら ( 1 ) インド哲学では、否定は prasajya ・ pratisedha と paryudäsa ・ ば、それ自身いかなるものでもないのであるから、どう pratisedha とに分類される。前者はいわば命題の否定で、対象の ( 1 ) 存在、真理性を単に否定するだけのもの。たとえば、虚空には色が して証明するもの ( という積極的機能 ) でありえようか。 ない、という否定は、虚空には色がある、という命題の偽りである さらに、 ( この積極的な非認識は ) 否定される対象と ことを示すだけである。それに反し、後者はいわば名辞の否定にあ たる。彼は・ハラモンではない 、という否定は、単純な否定ではなく は別なものの認識というだけのことでもない。もしそう て、彼は・ハラモンでない階級の人、たとえば、クシャトリヤ ( 王 ならば、オレンジの色を認識していることによってその ′ラモン 族 ) である、ということを示す。つまり、この場合には、・、 の否定は、実は非・ハラモンの積極的な肯定を意味する。それと同じ 味が否定されるということにもなってしまうからである。 ように、仏教論理学でいう非認識とは単なる認識の欠如ではなくて、 だから、非認識ということは、否定されるものとは別 積極的な認識である。壺の非認識ということは、壺以外のもの、地 な、特定の二つの事実、すなわち、 ( 壺のない ) その場 面その他がその場所において認識されているということである。 ( 2 ) サーンキャ学派は宇宙の根本原理として、プルシャ ( 霊我 ) とプ 所そのもの、あるいはその場所の知識を意味すると確定 ラダーナ ( 世界原因 ) とをたてるが、後者は、純質、激質、闇質を理 される。 本体とするサットヴァ、ラジャス、タマスの三要素からなるとする。論 この三本性は、世界原因から展開したすべての現象に内在する。言識 その同じ理由から、 ( 非認識の推理によって ) 証明さ いかえれば、すべての現象は三要素の中に潜在的に存在し、三本性認 れるものは、非存在ではないこともわかる。 ( 壺の ) は遍在するから、す・ヘてのものはすべての場所に存在するという主 張が出てくる。 存在そのものは壷のない場所を認識している知覚そのも
われこそわが主である。他にいかなる主があろうか。する ) 喩例はないことになる。というのは、 ( 中観者が 賢者は自己をよく調御して、昇天などの幸を受ける自我をもたないものの実例としてあげる ) 壺などのよう ( 5 ) なものにも、実は自我は存在するからである。もしまた、 とも言われているからである。そういうわけで、われわ ごんせつ ( 1 ) 北京版およびアヴァローキタヴラタが引いた原本では、「身体を れは世間の慣行 (lll 一〔説、世俗 ) に従って、自己を一般的 もっゆえに」となっている。遍在する自我も個人我としては身体と ともにあり、行為も身体によってなされうるという意味からは、こ に ( 自我として ) 認めたうえで、承認できないその属性 のテキストも理解できないことはない。しかし、いまはデルゲ版に を否定するのである。だから、 ( われわれの推論に ) 誤 従って、自然に解釈する。行為という運動は、身体をもっ実体では りはない。 ないから、作者や主体ではないように、自我もそうであるという意。 ( 2 ) ヴァイシェーシカ学派、ニャーヤ学派の体系では、認識されるも あるいは、他の方法で推論することもできる。 のは、ことばで表現されるものであり、同時に存在するものである。 感覚器官をそなえた身体は、恒常、遍在ということ 存在とは、認識とことばとの対応物であるというのがインド的実在 論の基本的立場である。著者はそれを意識したうえで、このように ばの意味するもの翁 ) を認識させる特別な原囚では 言っている。 ( 主張 ) ( 3 ) padärtha 漢訳は「句義」。ことばの意味するものの意で、合理 的な概念や名辞の対応物としての実在をいう。範と訳されるが、 知覚されるものであるから。 ( 論拠 ) 範疇に収められる個物をも意味する。 たとえば柱のように。 ( 喩例 ) ( 4 ) 原語の上では、われ、自己、自我は、同一のアートマンという語 であらわされている。 同じようにして、「知られるものであるから , その他 ( 5 ) ヴァイシェーシカ学派、ニャーヤ学派の立場から言えば、たとえ の論拠も述べるべきである。 ば、壺や柱を構成する原子は恒常的なもので、壺や柱のこわれたあ これに対し、自我の存在を主張する人々は次のように とに、また人間の身体を構成することもある。とすれば、壺の原子し は自我を宿す身体の原子と究極的には同じであることになる。漢訳ム 反論する。「心理的、物質的な五要素および身体の中に 者は、この対論者をサーンキャ学派としている。サーンキャ学派での 自我はない、 というこの ( 中観者の主張の ) 意味はいっ は、すべての物質は自我のためにある。その意味でも、壺にも自我宙 ~ があるということができる。なお、心身の要素が外界の物質的存在 たいなんであるか。もし、それらの中に自我はまったく を含むことについては、二八九ページ注 ( 3 ) 参照。 存在しないという意味であるならば、 ( この主張・を例証 2 しようてん
( 1 ) ないのだから、その名称もまた本体をもたず、したがつわれる。 さらに、 て、空であり、空であるゆえに実在しない。その際に、 君が、名称が実在するから本体は実在する、と言うこと すべてのものが空であることはすでに証明された。 は正しくない。 だから、この君の非難はその対象となる主張を欠い さらに、 ている。 ( 究 ) くうしよう 存在しない、 というその名称は、存在するものにつ ここでわれわれは、すでにすべてのものの空性をくわ けられるのか、存在しないものにつけられるのか。 しく証明した。その際に、すでに名称も空であることを 存在するものにあるにせよ、存在しないものにある説いた。君は、 ( 名称が ) 空でないと固執して、もし、 はたん にせよ、君の議論はいずれにしても破綻する。 ( 五 0 ものに本体がないならば、本体をもたないものというこ その、存在しない、 という名称は、、 しったい、存在すの名称さえないであろう、と言い返したのだが、上述の るものにあるのか、存在しないものにあるのか。その名理由で、この君の非難には的となる主張がないことにな 称が存在するものにあるにせよ、存在しないものにあるる。というのは、われわれは名称が実在するとは言いは しないのだから。 にせよ、いずれにしても、その主張は破れる。 そのうちまず、存在するものに、存在しない、という先に君の言った、 名称があるならば、 ( 存在するものが存在しないことに また、本体はあるけれども、それは諸事物にはない なり、君の ) 主張は破れる。というのは、存在しないも のだというのであれば、それならば、諸事物とは別 のそのものが同時に存在するということはないはずであ にその本体が属しているものを説明せねばならない。 るから。他方、存在しない、 という名称が存在しないも のにあるということも、 ( 正しくない ) 。存在しないもの を名づけることはもとより不可能であるから。それゆえ に、名称には実在する本体がある、という君の主張はこ ()C 再出 ) の 争 ( 1 ) 実在論者が第九頌において、「本体がなければ名称も存在しない論 であろう」と言ったことは、「名称には本体がある」ということを 前提にしている。 まと
実在しない対象を見ながらも、まだ目ざめていないため すでに説明した。 対象は実在しなくても、対象の形をも 0 た視覚その他に、真実のままにその ( 対象の ) 実在しないことを悟ら ないのである。 の認識の表象が、どうして生じるかはすでに述べた。 けれども、その ( 潜在余力と ) 対抗するもの、すなわ それから記憶は生じる。 その ( 実在する対象をもたない ) 表象から、記憶と結ち、表象をもたない、超世間的な知識を得て、ひとたび びつき、同一の形をもち、色形などを概念的に表象する目ざめたときには、その ( 超世間的知識に ) 続いて得ら しようじよう 意識が生じてくるのである。だから、記憶が生じるかられる清浄な世間的な知識があらわれ出るために、真実に 従って、対象の存在しないことを悟るのである。その関 といって、対象の知覚を証明することはできない。 ( 反論 ) 「もし、夢の中でと同しように、目ざめている係は ( 夢と目ざめとの場合と ) 同じである。 ときにも、認識がなんら ( 外界に ) 実在するものを対象 ( 反論 ) 「もし人々にと 0 て、自分の心の流れの特殊な としないならば、世間の人々はそのとおりに ( 外界の ) 変化 ( 相続転変差別 ) だけから、ある対象の形をも 0 た表 対象の存在しないことを自分で悟るであろう。けれども、象が生じるのであ 0 て、特定の対象 ( が外界に実在する 実際にはそうではない。だから、すべての表象が夢の中こと ) によるのではないとするならば、そのときには悪 でと同じように、 ( 外界に実在する ) ものを対象として友や善友と交わ 0 たり、正しい教えや悪い教えを聞いた りることによって、人々の表象が、 ( よくあるいは悪 冫。しかなし」 もっていないというわけこよ、 く ) 規定されるということがどうしてありうるのか AJ い、つのは、 ( 答論 ) この議論にも証明する力はない。 目ざめないかぎり、人は夢で見た対象が実際には存 ( 外界の対象がないならば ) 善友や悪友との交際も、彼 らの教えというものも、実在しないはずであるからー ( 一七 o ) 在しないということも悟らない。 ( 答論 ) 交互に影響を及・ほすことによって相互に表 まさしくこのように、世間の人々は、 ( 実在しない ) 象を限定しあう。 ( 一八 虚偽な表象をくり返すことによってしみ込んだ、潜在余 くんじゅう すべての人々の相互間の表象の限定は、彼らの表象が カ ( 熏習 ) の眠りに深く陥り、夢の中でと同じように、
に生じ、そこに存在する快楽を経験するのである。けれるように見える。しかし、それらは実在しないのではな ( 3 ) ども、地獄の守衛などは、このようには地獄の苦しみを いのた」 なめはしない。たから、動物にせよ餓鬼にせよ ( 地獄 ( 唯識派の答論 ) もし君が、彼ら ( 地獄の罪人 ) の ( 2 ) に ) 生まれることはありえない 行為の余力によって、地獄に物質要素が生じ、また ( 反論 ) 「むしろ、彼ら地獄の住人たちの行為の余力に このように変化すると認めるならば、何ゆえにそれ よって、特殊な色、形、量、力を伴ったある種の物質要 は心の所為たと認めないのか。 ( 六 ) 素が生じ、それが地獄の守衛というような名称を得るに 彼らの行為 ( の余力 ) によって、ただ心がそのように 至るのだと言おう。そして、この諸要素が転変して、手転変するのだと、なぜ認めないのか。な。せことさらに、 を振りあげるなどのいろいろな動作をしているように見諸物質要素などを考え出すのか。 え、 ( 地獄の罪人に ) 恐れをいだかせるに至るのである。 さらに、 くんじゅう また、羊のよ 君は、行為の潜在余力 ( 熏習 ) とその果報とが別々 後 うな形をした の場所にあると考えている。いかなる理由によって、 、紀 世 山々が飛んで 潜在余力のあるその同じところに ( 果報もあると ) きたり飛び去 ( 1 ) 説一切有部の学者たちは、地獄の守衛などを実在する生類と考え 獄ったりし、鉄 ている。他方、著者は、地獄もその守衛や住人も、外界の実在とし てでなく、夢のような、心の表象として考えている。 きたシ = 躄刺樹林 ( 鉄てて 館ャールマリー樹の ( 2 ) この答論は、著者がかりに説一切有部の立場に立って説明したも識 一物林で、とげが地獄 ので、唯識派の立場からの答論ではない。 ( 3 ) この反論は経量部のものである。彼らは、説一切有部のように、篇 、、。 ~ " ) ′博 0 作人を ) では、 人間の合理的な知識の対はすべて外界に存在するとする徹底した そのとげが上 実在論者ではなく、一種の表象主義の立場をとっているが、しかし、ニ を向いたり下 外界の実在を否定するには至っていない。、 しわば批判的実在論を説 くもので、その立場は有部と唯識派の中間に位する。 を向いたりす
ンを中心とする南方の諸仏教は、この系統に属するものな様態、人間の行為や外界の運動、要するに悟りの世界 である。大衆部は、長老とは意見を異にする、より進歩のみならず、迷える人間の世界のあらゆる「法 - 。が説か 的な分子の集まりで、その数も多かったので大衆部とい れた。それらはなんらかの意味で実在・有でなければな う名がある。のちに大乗の思想を生み、あるいは少なくらない。弟子たちは、これら存在の「法」を、個々の具 はんちゅう ともそれに重大な影響を与えたのは、この大衆部系統の体的な事実が抽象された範疇の意味においてとらえ、そ 思想であると考えられる。しかし、上座部系統から出たの「法」を分析し、その性格を定義づけていった。この 有部や経量部や正量部なども、思想的な重要な展開をと ようにして存在としての「法」が、あるいは六十七法に げ、大乗が興起したのちにもながく勢力を維持し、大乗まとめられ、あるいは七十五法といし さらにのちには 哲学の形成にも寄与するところ大なるものがあった。 百法というまとめ方も出てくる。右のような哲学を「ア これら諸部派の中でも有部は、小乗時代の思想の代表ビダルマ Abhidharma の哲学」という。 せついっさいうふ 者であるという観がある。有部とは説一切有部の略称で、 アビダルマの哲学は、いわば小乗部派時代の哲学であ その名の示すように、あらゆる存在、すなわち諸法は、 る。とくに上座部系統で発達し、中でも有部がそれを代 過去・現在・未来にわたって実在するという、実在論の表する。法と法との相互の間の複雑な関係をきわめて緻 立場をとる。これに対して、この有部の流れをくみなが密に規定するもので、仏教におけるスコラ哲学である。 ら、さらに発展した経量部 ( 経部 ) では、三世実有を否そこには実在論的な客観性と抽象的な形式主義とがみら 定して、過去と未来は無であり、現在のみが有であるとれる。何ゆえにこのような哲学が発達したか。 いう。しかし、実在論的である点は同じである。これら おそらく、「無我」を明らかにすることが、アビダル の部派の教理は「有」の哲学であることに特色があり、 マ哲学の主目的であったにちがいない。「無我」とは、 後世の大乗教学の「空」の哲学と強い対照を示している。仏教一般、とくに部派時代の仏教の最も重要なはたじると 仏陀は、人生観・世界観をはじめ、しである。しかし「無我ーとは何か。倫理的にはエゴイ田 ( めいもう アビダルマの哲学 いかにして迷妄の世界を去って涅ズムの排除、おのれを無にした無私無欲である。しかし教 仏 槃に到達すべきかを、さまざまな「法」として説いた。 それだけではない。 物心の二面、変化する世界と不変の世界、心のさまざま 無にされるべき自我を、サンスクリ ット語でアートマ四