菩薩 - みる会図書館


検索対象: 世界の名著 2 大乗仏典
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1. 世界の名著 2 大乗仏典

る衆生も ( 同様に ) 予言されたに相違ありません。なんとはあらゆる相が寂減したことです。認識の対象として となれば、如性は、二つであるとか、おのおの別なものまちがって設定されたあらゆるものではありません。菩 であるとかいって言いあらわされるものではないからで提とは、意志作用 ( 作意 ) がすべてはたらかないこと、 あらゆる見解と無関係なものです。菩提はあらゆる分別 す。マイトレーヤよ、あなたが悟りに到達するならば、 そのときにはあらゆる衆生も同じく悟りに到達するでしとはなれ、動きや思いや心の動揺のすべてとはなれてい よう。なんとなれば、あらゆる衆生によって理解されるます。菩提はあらゆるねがいの起こらないこと、すべて さとり こと、それこそが菩提だからです。マイトレーヤよ、あのとらわれることとはなれ、無執着 ( な状態 ) にあるこ なたが完全な涅案にはいるとき、そのときにはあらゆるとです。菩提は法界をすみかとして住することであり、 衆生も完全な涅槃にはいるでしよう。なんとなれば、あ如性 ( 真如 ) に応じて知ることです。菩提は真実の極限 こ - 」ろ らゆる衆生が完全な涅槃にはいらないかぎり、如来も完 ( 実際 ) に住することであり、意も ( その対象である ) 法 全な涅槃にははいらないのです。それはそれら一切衆生もないから無二であり、虚空に等しく平等であります。 が、実に完全な涅槃にはいること、涅槃の本質を有する菩提は生じたり滅したりとどまったり変容したりしない ことを見ぬいているからです。それゆえ、これらの天子から無為であります。菩提はあらゆる人々の心と行動と を ( あなたの説法をもって誤った方向へ ) 偽りそそのか意欲とを知ることであって、認識の場 ( 十一一処 ) ではあ じつけ んのう してはいけません。 りません。菩提は、次の生を引き起こす煩悩やその習気 さとり 菩提について菩提とは、なんびとも ( あらためて ) 慣性として残 ) とはなれているから、まじりけのないもの っているもの そこにはいることもなく、そこからのがれ出ることもな ( 1 ) 漢訳では以下を菩薩品として別章とする。世尊は以上と同様に菩 いものです。マイトレーヤよ、これらの天子たちが、菩 薩たちに病気見舞いに行くことを命じる。 もうそう ( 2 ) 弥勒菩薩、また慈氏菩薩。現在トシタ天にあるが、釈尊の減後五摩 提を ( 上述とはちがって何か特殊なものとして ) 妄想分 十六億七千万年たってこの世界に出現し、その一生の間に釈尊に次維 別しているのを、やめさせるようにしなさい。菩提は身 いで仏となる、弥勒如米となる、と予言されている。このことが次 に問題として、ヴィマラキールティによってとりあげられる。 体で悟るのでもなく、心で悟るのでもありません。菩提

2. 世界の名著 2 大乗仏典

穴セ ) カーシャパよ、たとえば、山の王者であるヒマ璃の宝珠とはならない。それと同じように、カーシャ。 ( ラヤ山に生長する薬草は、すべて私欲もなく、所有の観よ、すべての戒律の学間と、軈潔 ( ー 頭陀。一五三。 ( ) の徳と、 さんまい 心の集中 ( 三昧 ) とを身につけているにしても、声聞は 念もなく、 ( つまらぬ ) 分別もしない。しかし、病気に さとり ぽだい 投薬されるとき、それらはその病気を治癒してしまう。菩提の座 ( 菩提道場 ) にすわり、このうえない正しい完 カーシャ。 ( よ、それと同じように、はじめて発心した菩全な悟り ( 無上正等菩提 ) を得ることが決してない。 このとき、再び世尊が、長老の大カーシャパに ( 九三 ) 薩は、知恵という薬を身につけ、しかも無分別 ( の知恵 カーシャ。ハよ、もしある地方にウシュ 仰せられた。 の薬 ) をすべて身につけ、生きとし生けるものを平等に ( 1 ) トラドウーマカという、頭が黒くあおむけに寝る虫がい 見る心をもって、治療を施す。 . ( ) カーシャパよ、たとえば、新月は祭儀によってるならば、その地方は、災難と苦悩と混乱とに見舞われ 敬われるが、満月であればそれほどたいせつには敬われる。それに反して、カーシャ。 ( よ、ある地方に菩薩がい ない。それと同じように、カーシャ。 ( よ、わたくしを信るならば、その地方には災難がなく、苦悩がなく、混乱 によ カーシャ。 ( よ、それゆえに、菩薩は生きとし生 ・カ / し 仰する人々は、より以上に菩薩を礼拝すべきである。如 来をではない。それはなぜか。如来は菩薩からこそ生まけるものの恵みのために努力修行すべきであり、すべて しゅじよう の衆生にあらゆる善根を生じさせ、あらゆる善根を正し れるからである。 (O) カーシャ。 ( よ、たとえば、だれも月輪を捨ててく体得させるべきである。さらに、知恵という良薬を探 おいて、ますはじめに星の姿を礼拝するというようなこし求め、その良薬をもって四方におもむき、すべての衆 とは決してない。それと同じように、カーシャパよ、わ生のためにまことの治療を施し、まことの治療によって たくしの学道に従って修行した賢者は、菩薩をさしおい衆生を治癒すべきである。 ( 九巴カーシャ。 ( よ、それならばまことの治療とは何 て、声聞を礼拝するようなことはない。 (ßl) カーシャパよ、たとえば、神々も含めて世間のか。欲情に対しては、汚れているという思い ( 不浄観 ) 者が、ガラスの玉をみがいても、決してそのガラスが瑠が治療であり、怒りの心に対しては、慈愛の心が治療で さっ らいはい ふじようかん 214

3. 世界の名著 2 大乗仏典

( ニ九 ) カーシャパよ、比喩を用いた説明を、おまえに こともない。そのことについて、次 ( の詩頌 ) がある。 教えよう。この比喩を用いた説明によって、菩薩は偉大 たとえば、大地はすべての生けるものの生の糧の根 な存在 ( 菩薩大士 ) にふさわしい徳を ( 人々に ) 理解さ 源であり、変化しないものであり、報酬を期待する せることができる。 ことがない。それと同じように、はしめて悟りへの たとえば、カーシャ。ハよ、この大地は生きとし生ける 心を得た菩薩は、このうえない最高の勝利者である ものの生の糧の根源であり、変化することなく、報酬を イ陀になる以前のそのあいだ、 求めることもない。それと同しように、カーシャパよ、 すべての生けるものの生の糧の根源となり、変化す はじめて悟りへの心をおこした ( 発苙〔提心 ) 菩薩は、菩 ることもなく、報酬を求めることもない。彼 ( 菩 おんてき 提の座にすわるまでのその間、生きとし生けるものの生 薩 ) は、 ( わが ) 子に対しても怨敵に対しても、等 さとり の糧の根源であり、変化することもなく、報酬を求める しい心のある者であり、つねに最善、最高の菩提を 探し求める。 、外 ( 三 0) カーシャ。 ( よ、たとえば、水の元素 ( 水界 ) がす の べての草や灌木や薬草や樹木を生長させる。それと同じ 城 舎ように、カーシャ。 ( よ、意欲の浄らかな菩薩は、すべて うるお の生きとし生けるものを慈愛によって潤し、しばし ( こ の世に ) とどまって、すべての衆生のもっているあらゆ る白く浄らかな性質を生長させる。そのことについて、 、二、し気山次 ( の詩頌 ) がある。 またたとえば、水の元素が、草や灌木や薬草や森の啾 在 巨樹や ( 薬草と ) 穀物の類を ( 生長させる ) 。それ 現 と同じように、そのように意欲の浄らかな苙〔薩は、

4. 世界の名著 2 大乗仏典

ぼさっ くり返し聞かれた教えの雲が集まってできた、菩薩のまして ) ある。 じゅもん ことの教えの雨が、生きとし生けるものの上に降りそそ ( 哭 ) カーシャパよ、またたとえば、呪文や薬によっ て制された毒は、人を殺さない。それと同じように、カ ぼんのう ーシャ。 ( よ、菩薩の煩悩の毒も、知恵と巧みな方便とに ( ) カーシャ。 ( よ、またたとえば、転輪王が出現す 制されているとき、人をそこなう能力がない。 るところ、そこには七つの宝もあらわれる。それと同じ ( 究 ) カーシャパよ、またたとえば、大きな都城の中 ように、カーシャ。 ( よ、菩薩が生まれるところ、そこに かんしょ ふんによう ばだいぶんぼう ( 2 ) は三十七種の忸りへの適切な法 ( 三十七菩提分法 ) が生までは ( いやがられる ) 糞尿の山であっても、それが甘蔗 や米やぶどうの田畑では、有効な肥料となる。それと同 れる。 ( 哭 ) カーシャ。 ( よ、またたとえば、宝石 ( 摩尼珠 ) じように、カーシャ。 ( よ、菩薩に熕悩はあっても、それ が ( 一つだけでも ) 得られるような場所が、どこかにあが、一切知であることに対しては有効な養分となる。 金銭ま ( = = ) さて次に、カーシャ。 ( よ、この『大宝積』 ( 「宝 6 るならば、そこには多量の何万カールシャー さの という法門にもとづいて学ぼうとねがう菩薩は、存 ) というあたいの ( 宝石が得られる ) 可能性がある。 それと同じように、カーシャ。 ( よ、菩薩が ( ひとりだけ在 ( 法 ) について正しく修行しなければならない。 シャパよ、その場合、何が存在 ( 法 ) についての正しい でも ) 出現するというような場所が、どこかにあるなら しようもん どくかく ( 3 ) ば、そこには何万という多数の声聞や、独覚 ( の徳 ) が修行なのか。それはすなわち、すべての存在についての 真実の観察である。それでは、カーシャ。ハよ、何がすべ 得られる可能性がある。 ゾラカのての存在についての真実の観察なのか。カーシャパよ、 ( 四セ ) また、カーシャ。 ( よ、たとえば、ミ、 園 ( 雑林園 ) に遊ぶ三十三天の神々にとって、その受け自我がないとみる観察と、衆生がない、命あるものがな 個人がない、個我がない、人間がない、人類がない る快楽や亨楽は、すべて同じである。それと同じように、 とみる観察が行なわれるとき、カーシャパよ、それが中 カーシャ。 ( よ、浄らかな志向をもっ菩薩の正しい膠行は しゅじよう あらゆる衆生にとって ( すべて等しく享受されるものと道であり、存在についての真実の観察であると言われる。 まにまうじゃ 202

5. 世界の名著 2 大乗仏典

しはかの高貴な士の病気見舞いにはまいれません」 あります。 しゅじよう 一切衆生は無自性であるから、それは一切衆生を座と持世菩薩と魔神そこで、世尊は、菩薩のジャガティ ンダラ ( 持世菩薩 ) に仰せられた。「ジャガティンダラよ、 します。 ( 一切法の ) 空であることを悟るのであるから、 それは一切法を座とし、 ( 魔によって ) 動かされないかヴィマラキールティの病気見舞いに行きなさい」 ジャガティンダラも中し上げる。「わたくしは、かの ら、すべての魔をくたくことを座とします。 ( 三界の中 こよまいれません。な・せかといえ へ ) 生まれることをはなれているから、それは三界を座高貴な士の病気見舞い冫。 とし、 ( 人に説いて ) 恐れるところがないから、獅子吼ば、世尊よ、次のことを思い出すからです。 あるとき、自分の家におりましたところ、魔の。 ( ーピ し努力することを座とします。あらゆる点で非難される おそ ーヤスがシャクラ ところがないから、それは ( 十の ) 力と畏れのないこと ) に偽装して、二千人の天女にと ぼんのう りまかれ、楽器をとり、歌を歌いながら、わたくしのい 、 ) とを座とします。熕悩が と仏陀に特有の性格 ( 潭 ( 8 ) 参昭 残存しないから、それは三種の知 ( 三明 ) を座とし、一る場所へきました。そして、わたくしの足に頭をつけて せつな 切知の知が完成しているから、心の一刹那にあらゆるも礼擅して、みないっしょに、わたくしに向かい合って一 方に座を占めました。 のを余すところなく理解するという座です。 ぼさっ ラミタ わたくしはそれを神々の王であるシャクラと思ってい 良家の子よ、上述のように、およそ菩薩がパー インドラ ーをそなえ、人々を成熟させることをそなえ、正しい法たので、彼に申しました。『カウシカ ん・こん の獲得をそなえ、善根をそなえているかぎり、その一挙おいでになりました。欲 ( 界 ) のあらゆる喜びの中にあ さとり っても、放縦であってはなりません。肉体や生命や財産 手一投足はすべて菩提の座に起囚し、もろもろの仏法に などの中にひそむ堅実なものを見いだし、 ( 諸欲が ) 無 起囚し、仏法の中にあるのです』 世尊よ、このように説かれたとき、五百の神々と人々常であることをくり返し考察しなさい』 そこで、彼が申します。『高貴な士よ、これらの二千 とが菩提に対して発心し、わたくしはまた、それに対し 人の天女をお受けとりください。どうかあなたの給仕と て何も言えませんでした。世尊よ、それゆえに、わたく 120

6. 世界の名著 2 大乗仏典

妨害をし、意欲をそぎ、困惑させ、そして説法しないで いんべし 隠蔽すること、 ( 四 ) 高慢であり、優越感があり、他人 けいべっ 成就あれ を軽蔑すること カーシャパよ、これら四つの法があ るとき、菩薩は知恵を失ってしまう。そのことについて ' 次のようにわたくしは聞いた。 次 ( の詩頌 ) がある。 第うしやじよっ あるとき世尊は、ラージャグリ ( ( 王舎城 ) の都城 ( 一 ) 教えを説く師を尊敬しないこと、 (ll) 師であ りようじゅ のそばにあるグリッダクータ山 ( 霊鷲山 ) に、大ぜいの りながら教え ( を説くこと ) について吝かであるこ 比丘からなる僧団といっしょにおられた。八千人の比丘 とを喜びとし、教えを掌中に握りしめておくこと、 ぼさっ たちがいたし、また一万六千人の菩薩たちがいっしょで ( 三 ) 教えを求める人々に対し邪魔をし、 あった。 ( その菩薩たちは ) さまざまな仏陀の宇宙 ( 仏国 意欲をそいでさまざまに困惑させ、勝利者翫の ) の・ 土 ) からきた者で、もういちどだけこの世の生をすます ほめたたえた教えを説かないこと、 ( 四 ) このよう むじようしようレ」う・はだい ならば、必ず、このうえない正しい悟り ( 無上正等菩提 ) に怠慢な者が、いつも優越感をいだいて、他人を軽 を得る者 ( 一生補処の菩薩。一七 蔑して喜ぶこと。 一五。〈ージ汁 ( 2 ) 参照 ) であ「た。 まかかしょ′ノ (l) そのとき世尊は、長老の大カーシャ。 ( ( 摩訶迦葉 ) これら四つの法が、勝利者のいとし子 ( 薩の ) た に = ロりかけられた。 ちに知恵を失わせる、と勝利者はお教えになった。 カーシャ。 ( よ、次のような四つのありかた ( 法 ) があ まことにこれら四つの法を捨て去って、勝利者がお るとき、菩薩は、知恵 ( 般若 ) を失ってしまう。その四 教えになった別の四つの法をこそ学習すべきである。 っとは何か。すなわち、 ( 一 ) 教えと、教えを説く師に ( ニ ) カ 1 シャパよ、次のような四つの法があると、菩 対して尊敬の念のないこと、 (ll) 師でありながら教え薩はすぐれた知恵を体得する。それら四つとは何かと言 やふさ を説き明かすのに吝かであり、教えを掌中に握りしめてえば、すなわち、 ( 一 ) 教えと、教えを説く師に対して おくこと、 ( 三 ) 教えを乞い求める人々に対して教えの尊敬の念のあること、 (ll) 心に物欲がなく、利得とか はんにや

7. 世界の名著 2 大乗仏典

ともしびが点火されても、かのともしび ( の明るさ ) が たくしはヴィマラキールティのこのようなすぐれた神通 減るわけではありません。それと同じく、ひとりの菩薩力を見たのです。そんなわけで、わたくしはかの高貴な が百千の多数の人々を菩提の中に導き入れても、かの菩士の病気見舞いにはまいれません」 すだった ほうえ ( 2 ) 薩の翁〕提 ) 心の記憶は減らないし、減らないだけでな 須達多の法会そこで、世尊は、商主の子のスダッタ く増加するものです。同様に、すべて善の法が他に対しに仰せられた。「良家の子よ、おまえ、ヴィラキール て説かれたとき、説かれるに応じて、それらの善は増大ティの病気見舞いに行きなさい」。スダ ' タもまた中し する。これが無尽燈と名づけられる法門です。 上ける。「世尊よ、わたくしはかの高貴な士の病気見舞 おまえたちがかの魔宮に帰ったなら、無量の天子や天 いにはまいれません。な。せかというと、世尊よ、次のこ 女たちが菩提の心をねがうようにしなさい。そのように とを思い出すからです。 やしき しておまえたちは、如来の恩をよく知る者となり、あら あるとき、父の邸でわたくしは大きな祭り ( の集会 ) しやもん ゆる衆生を ( 真に ) 生かすことともなるでしよう』 を催し、そのためにあらゆる沙門やラモン、貧乏な人、 そこで、天女たちはヴィマラキールティの足に頭をつ 苦難の人、困窮の人、乞食など、物を求める人すべてに けて礼拝し、魔とともに帰 0 ていきました。世尊よ、わ対して布施を行ないました。この大きな祭りは七日間に るおわたり、その最後の日にヴィマラキールティがその席へ ' ま進イきて、わたくしにこう中しました。『商主の子よ、あな ーし寄ダ をメ たのするようなやりかたで祭りを行なってはならぬ。あ 0 ー舎の 3 精杆なたは法による祭り ( 法会 ) を行なうべきです。金銭に 祗の ( 1 ) 以下、一〇一ページ注 ( 2 ) 参照。 者フ 経 ( 2 ) 以上の弥勒、光厳、持世の三人は菩薩であるが、このスダッタは摩 菩薩であるよりも俗人であり、有名な祗園精舎の寄進を行なった歴 史上の人物。須達、須達多。 ス図

8. 世界の名著 2 大乗仏典

(ll) ちょうどそのとき、長老スプーティ ( 須撼 ) も、 その集まりの中にあって座をしめていた。そこで長老ス せいはんにやはらみった とうとき聖般若波羅蜜多に帰命したてまつる。 ・フーティは、席から立ち上がり、一方の肩に上着をかけ へんだんうけん ひざ ( 偏袒右肩 ) 、右の膝を大地につけ、世尊のおられるほう がっしよう ( l) 次のようにわたくしは聞いた。 に向かって合掌して、次のように世尊に申し上けた。 ( 1 ) ん懸い ( 2 ) あるとき世尊の ) は、千二百五十人の比丘 ( 仏教の 修行僧カ 「世尊よ、驚嘆すべきことです。善逝よ、まったく驚嘆 ぼさっ らなる大僧団と、数多くの偉大な菩薩たちとともにシ = すべきことです。正しい悟りを得た尊敬すべき如来によ ラーヴァスティ ( 「ーサラ国の 首都、舎衛城 ) のジ = ータ林 ( 祗園 ) の中に って、偉大な菩薩たちが、最高の援助のしかた ( 摂取 ) ある、アナータビンダダ ( 給孤独。よるべなきも 0 に食事を与える者 ) の庭園におで援護されているとは。世尊よ、驚くべきことです。正 られたことがあった。 しい悟りを得た尊敬すべき如米によって、偉大な菩薩た はち そのとき、世尊は、朝早く下着を着け、鉢と上着をとちが、最高の委嘱のしかた ( 付嘱 ) で ( 仏の教法を ) 委 って、托鋼 ( 信の家で験 ) のために大都シ = ラ 1 ヴァステ任されているとは。 イ ( 舎衛城 ) へ行かれた。さて、大都シ = ラーヴァステ ところで、世尊よ、良家の男子にせよ、女子にせよ、 イを托鉢して歩かれたのち、食事をすまされた世尊は、 すでに菩薩の道 ( 菩薩乗 ) にはいった者は、どのように 午後、托鉢から帰ってきて、鉢と上着をもとへもどし、 生活し、どのように実践し、どのように心を保つべきで 両足を洗い、すでに整えられた座に、足を組み ( 結跏趺しようか、 坐 ) 、身体をまっすぐに保ち、思いを眼前に凝らしてす わられた。そのとき、多くの比丘たちは、世尊のおられ る場所に近づいた。近づいて、世尊の両足に ( 自分の ) 頭を触れて福擅し、世尊の周囲を三度右回りに回「た 難 ) のち、一方にすわ 0 た。 ( 1 ) 「あるとき」を前の文章にかけて、「あるとき次のようにわたくし は聞いた」と読む学者もいる。 ( 2 ) 「よくゆける者」「幸福に至れる者」の意味。仏陀の呼称として、搬 「世尊」などとともによく用いられる。 ( 3 ) 「正しい悟りを得た尊敬すべき」は、漢訳の「正等菩提阿羅漢」 に相当し、仏陀、如来の形容句として、以下にしばしば用いられる。の

9. 世界の名著 2 大乗仏典

ぼだいじゅ ぼさっ さらに、無動如来の菩提樹、また、その無動如来が海の 言う、「大徳シャーリ。フトラよ、それと同じく菩薩も、 しゅじようきょ 衆生を浄め、知恵の光を照明し、大闇を除くためにわざように多い人々の中にあって法を説いていること、また れんげぶつだ わざ清浄ではない仏国土に生まれるのです。しかし、煩十方の衆生に対して蓮華が仏陀としてのはたらきを行な 悩といっしょにあるのではなく、あらゆる人々の煩悩のうこと、また、ジャンプ州から高く三十三天まで宝石の きらめくはしごがかかっており、三十三天の神々は、無 闇を除くのです」 妙喜世界の光景そのとき、この集まりにいた者はす動如来に会い、礼拝供養も、説法を聞くためにそのはし しようもん べて、かの妙喜世界と無動如来とその菩薩たちと大声聞ごによっておりてくること、また、ジャイフ州の人々は たちとを、自分の目で見たいものだと渇望した。世尊は三十三天の神々に会うためにそこへのぼって行くこと、 このような無数の性質を集めている妙喜世界の、水輸を 彼らが心に考えていることを知って、ヴィマラキールテ しきくきようてん はじめとして上のほうはアカニシュタ天 ( 色究竟天 ) に イに向かって仰せられた。「ここに集まっている者は、 至るまでを、陶工がろくろをまわすようにまたたくまに 妙喜世界と無動如来とを見たいと望んでいる。おまえ、 けまん 切りとって、右手に受け、華鬘をささげるようにしてこ みんなに見せてあげなさい」 そこで、ヴィマラキールティは、自分はこの獅子座かのサ ( ー世界へもってこよう。そして、ここに集まって いる人々に見せてやろう、と。 ら立ち上がらないままで、次のことをしようと考えた。 そう思って、ヴィマラキールティは、三味にはいって かの妙喜世界と、その百千無数の菩薩と、天、電、ヤク シャ、ガンダルヴァ、アスラが住んでいるところをとりそのような神通をあらわし、またたくまに妙喜世界を切 まく鉄輪山と、また、河、池、泉、流れ、大海、堀、まりとって右手にのせ、このサ ( 1 世界においた。 そこにいた声聞や菩薩や神や人の中で、天眼などの六 たスメール山やその他の小山とその物見の高楼、また、 せいしん 日月星辰、天、竜、ヤクシャ、ガンダルヴァの住居、・フ神通を得ている者は、 ( 運ばれるのを知って ) 大声で叫 ) よ、われわれはここに ラフマー神の住居とその集まり、また、村、町、城市、 んだ。「世尊よ、善逝 ( 4 ) 参 います。如来よ、どうかたすけてください」 田舎、国土、男、女、家など、また菩薩・声聞の集まり、 ししざ ぼん らしーし さんまい 4

10. 世界の名著 2 大乗仏典

表識 , 表象 401 , 402 , 434 , 436 , 445 , 540 すべてのものは表象のみ 479 , 492 160 ~ 165 118 ~ 120 123 ~ 125 126 , 144 406 , 410 思議解脱章とも名づける 法界 , 法の根源 117 , 126 , 134 , 211 , 407 194 429 105 , 106 , 118 , 布施 70 , 77 , 80 , 92 , 123 ~ 125 , 162 , 192 ・・・菩薩の不二の門 為自比量と為他比量 比量 , 推理 あらゆる衆生の平等性 131 , 145 , 146 , 161 , 176 , 198 , 403 , 542 平等 , 平等性 法性 , 法の本質 82 , 276 , 324 菩薩 69 , 72 , 85 , 87 , 140 , 143 , 153 156 , 159 , 189 , 192 , 200 , 211 ~ 214 146 77 454 , 455 , 475 , 479 , 492 如来への一一から無数の功徳 法施の祭り 二つのもの , 知られるものと知るもの の境涯 真の一一の徳 134 ~ 136 198 菩提 , 悟り 73 , 74 , 117 ~ 120 , 199 , 214 菩提の座 菩提分 , 悟りへの適切な法・・・ 三十七 仏陀 , 諸仏 399 , 400 , 402 , 406 ~ 407 82 , 88 , 90 , 120 , 152 , 菩提分法 93 , 100 , 135 , 202 , 215 , 240 発菩提心 , 発心 , 悟りへの心を起こす 煩悩 86 , 155 , 175 , 202 , 369 , 406 , 411 92 , 94 , 101 , ] 21 , 199 , 213 176 , 210 , 213 , 314 , 323 , 326 , 410 , 530 仏陀に特有な性格 86 , 90 , 210 , 410 仏陀のはたらき 不来の相にして来る プラジュニャーカラ・グフ。タ 468 , 542 分別 , 構想 , 思惟 112 , 117 , 148 , 160 274 , 312 , 317 , 319 , 321 , 324 , 419 , 541 虚妄なる分別 130 , 147 , 399 ~ 406 遍計所執性 , 妄想された自性 284 , 402 , 413 128 175 法 , ダルマ , 存在 , 事物 , もの , 性格 , マイトレーヤ ( 弥勒 ) マンジュシリー ( 文殊 ) 116 , 191 , 399 教法 , 教え 73 , 74 , 82 , 103 , 131 , 無 , 非存在 278 ~ 280 , 286 , 402 , 406 , 410 二つの無とその無の有 制約者 , 因果関係をはなれているダ 化のないもの , 生成しないもの , 無 無為 , つくられることのないもの , 変 無常・苦・無我 109 , 178 , 215 , 414 ~ 416 無語・低言・無説・無表示 164 , 175 無我 145 , 189 , 311 , 410 , 416 , 530 , 535 ルマ 177 , 205 , 210 , 260 , 333 , 400 , 425 137 , 138 , 144 , 188 ~ 190 , 197 , 202 ~ 205 , 210 , 238 , 276 , 313 , 332 , 362 法でもなく法でないのでもない 74 法と縁起と不生不起 存在の真実の観察 事物にそれそれの本体 190 202 ~ 205 238 ダルマは色と心と心所と心不相応 法と無為 362 無尽燈と名づける法門 無体量 , 非存在 無分別智 , 直観知 命根 , 生命機能 ヤ行 唯識派 , 瑜伽行派 122 461 307 , 312 , 317 382 284 , 538 , 541 法 , ダルマなる認識の門 , ダルマなる類 344 , 345 , 347 , 354 宝積経 , 宝積という法門 202 , 280 , 319 方便 99 , 133 , 143 , 177 , 200 ~ 202 , 325 有相唯識派と無相唯識派 541 無相に悟入する 403 法門 73 , 77 , 78 , 81 , 140 , 186 , 187 , 194 この一 - ーはヴィマラキールティに よって説かれたと名づけ , 不可 預流 , 一来 , 不還 , 阿羅漢 74 , 75 , 144 フィ丁 179 , 190 , 285 133 , 140 , 146 , 279 , 314 , 391 , 410 と涅槃 102 , 154 , 161 , 198 , 224 ) ) 4 輪廻 了義経