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検索対象: 正論 2008年10月号
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1. 正論 2008年10月号

ろ。憎むべきなり」とある。厳冬に水道の水が凍る ( これはれでは白人の先住インデアンやアポリジニに対する迫害、圧 昔よくあった ) ことも軍人の所為にされたのでは八つ当りも迫、虐殺、排除、差別とアイヌに対する日本の処遇とが同列 に扱はれることになってしまふ。北米に於けるインデアン、 過ぎる。軍人の立っ瀬はあるまい。「冷静な石 , にしては、 ちと話が支離滅裂すぎないか。半藤は『荷風日記』を全部読豪州に於けるアポリジニと同じゃうにアイヌは北海道に於け る「先住民」と云へるのか。これについて地元旭川の研究者 んだのたらうか 荷風の反骨は「反軍」ばかりではない。昭和二十二年五月や市民から強い疑念と抗議の声が起きてゐる。 鎌田告人氏 ( 旭川市 ) からのお便りによると「多くの反対 三日には「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふ 可し」と憲法を批判してをり、二十五年一月六日には「支意見があるのに、札幌は国会決議採択以降は、アイス 那」の語を論じて「支那の語、今人の云ふが如く華人に対し民族は先住民であるとの視点からのみの報道を繰返し、異論 は全く取り上げない偏向報道を続けてゐます。これは従軍慰 て非礼にあらざるを知るべし」云々と記してゐる。この辺に も触れないと、荷風の人物を正しく紹介したことにはならな安婦、南京大虐殺と同様、歴史の捏造であるとも云へます。 いし、昭和史を語り継ぐことにはなるまいと思ふが、如何でしかも国会決議でさヘアイヌ民族を『日本列島北部周辺、と りわけ北海道に先住し』と云ってゐるものを、八月十一日に あらうか。つまみ喰ひで歴史を語るのは危険である。 初のアイヌ有識者懇談会が開かれたことを伝へるニュ ースでは村上里和アナ ( 札幌放送局 ) が『日本の先住民族ア アイヌ問題で偏向報道 イヌ』とまで云ひ出す始末です。これでは日本は元々アイヌ は第二の慰安婦問題を煽動してゐるのではなからう民族の先住地となってしまひます。異論は全く紹介せす、自 か。去る六月六日「アイヌ民族を先住民とすることを求める分たちの判断を一方的に押しつけるの報道姿勢は許さン れるものではありません」 国会決議、が衆参両院共に全会一致で採択されたことは広く オ 手紙と同送されたビデオを見ると、鎌田さんが偏向だと怒ウ 報じられた通りたが、この決議が大きな間題を含んでゐるこ とは本誌八月号に西村眞悟参議院議員が書かれてゐる通りでる理由がよく判る。同じ日本国民としてアイヌとも仲良くや ある。要するに国会決議は昨年国連で採択された「先住民族ってきてゐるのに、何故は不必要に波を立てようとす 9 ( 平一一〇・ の権利に関する国際連合宣言」を前提としたものなので、そるのだらうか。

2. 正論 2008年10月号

なくても、すぐに家族と会えたのである。するので、皇族や将軍も代を経るごとに裂した。チンギス ・ハ 1 ンの即位から半 一人一人の財産が減っていく。こうして世紀たち、その子孫は一万人を越えてい なぜ帝国は短命に終わったのか 兄弟や従兄弟がライバルになっていき、 た。遊牧民の財産は第一には家畜である 支配層の間で内紛が起こっていったの . が、支配層にとっての財産は領民であ こんなに効率のいいモンゴル帝国だっ る。チンギス・ ーン個人の財産は、四 たのに支配が長続きしなかった理由は、 一一三七年にチンギス ・ハーンが他界子とさらに諸弟にもおおよそ均分に相続 均分相続による継承争いと、この単純なした時、四人の息子のうち長男ジョチはされた。すでに生前に、領民がそれぞれ 原則そのものにあると私は思う。遊牧民すでに亡くなっていた。次男チャガタイ家畜を放牧させることのできる遊牧領地 の君主たるものの条件は、第一に戦争のは峻厳すぎて人望に乏しかったので、 も割り当てられていた。長男ジョチ一族 指揮がうまいこと、第二に掠奪品を公平 1 ン自身は三男オゴディを後継者に指名は今のカザフスタンからロシア方面、次 に分配できること、第三に紛争の仲裁能した。新し ) しハーンが選挙されるまで、男チャガタイは中央アジア、三男オゴデ 力があること、の三つである。戦争は馬末子トルイが摂政の任務を託された。トイはモンゴル草原西部、末子トルイはモ も食糧も武器も自前の出稼ぎで、負けたルイに野望がなかったわけではないだろンゴル草原中央部、諸弟は今の内モンゴ ら投資はすべてなくなるわけだから、戦うが、チャガタイがオゴディを強く支持ル東部を領地として相続した。このあと 争に勝っ君主でなければついていかなしたので、一一三九年春、オゴディが正トルイ家が南宋を征服したので、中国は い。第一一に、戦争での働きを勘案して獲式に第一一代ハ 1 ンに選挙された。オゴデトルイの息子フビライの領土となり、一 得品を平等に分配してくれなければ、やイの治世の十三年間は、チンギス・ 一一七一年に大元という国号を採用した。 はりついていかない。君主に能力がない ンの人格に直接触れた人々がモンゴル帝ロシアはジョチ家が支配した。モンゴル と思えば、遊牧民は財産である家畜を連国の支配層だった時代で、帝国の領土は帝国は分裂したとはいっても、まだュー れて、どこへでも行ってしまえたから、拡大し続け、まだ分裂の兆しは見られなラシア大陸各地の支配者だった。ところ ほんとうに実力主義の社会だったのであ が帝国建国から百五十年以上へた十四世 る。君主の側からみれば、征服戦争を続しかし、第一一代オゴディ・ハ、 ーノが一紀後半、各地でふたたび継承争いが起こ けている間は自分の財産も増え、部下も一一四一年に他界した後は、モンゴル帝国り、内紛によって軍事力が弱まったモン 付いてくるが、征服する対象がなくなつのハーン位継承はつねに紛糾し、とうとゴル帝国の後裔たちは、植民地の反乱を たときが間題である。みなが均分相続をう第五代ハーンを選挙する時に帝国は分鎮圧することができずに草原に撤退した 260

3. 正論 2008年10月号

が貨幣経済に馴染めず、「十錢の銀貨一 辣な請負人たちの思惑が関与していた。活習慣も徐々に廃れたのである。 そのいくつかを要約して紹介すると また幕府はアイヌに対して「外場所か枚を以て一圓の買物をする者があるかと 「アイヌが居場所限りで嫁娶し、外場所らも自由に縁組し、男女とも独身のもの思へば、五圓札一枚を以て三十錢の煙草 の者とは縁組しないのは、請負人どもががないように」「生活全般について内地を買ひ求め、釣錢を取らずに其侭立去る 稼ぎ手が減じるのを防ぐためにしたもの風俗を学びたいものには自由に許す」と言ふ有樣であった」という。また「明 である」「アイヌに雨具、草鞋、履物な「日本語を使うことも許す」「死人が出る治二十四年道廳が授産指導を廃止して以 どを禁じているのは、アイヌと和人の別と家を焼き払い他に移る習わしは止めて来、彼等は再び耕地を捨てゝ放浪の旅に を厳重にし、苛酷に使役する請負人の弊定住すること」「耳環や女子の入墨など上った。 ( 中略 ) 從来の耕作地は、焼酎 風である」「アイヌに日本語を用いるこも好まないものは止めること」などを申一本、酒一 , 升に依って轉々として人手に とを禁じているのは、和人と紛れさせなし渡している。しかも幕府は古来からの渡り、生活の根據を奪はるゝに至り・ : いためで、一一一口語が不通であれば支配人の風習を改めるのであるから、こうした内などのケ 1 スも出てきた。こうしたアイ 悪事を公儀に訴えようがないようにする地式の改革が衣食住の生活に便利なことヌの窮状を救う目的で、明治一一十六 ( 一 ためである」となる。逆説的になるがこを納得させてゆっくりと改俗させるよう八九三 ) 年、加藤正之助によって第五回 うした請負人の差別があったためにアイ請負人に通達しているのである。明治以帝国議会に北海道土人保護法案が提出さ メ語も含めアイヌ文化が三百年の間保持降もこうした改俗の指導は行われたが、れ、アイヌ自身代表を送り法案成立を目 されてきたということもまた現実なので決して強制的でなかったことは、私の母指して国会に陳情したのである。 ある。 この法案がなんら差別的でないこと 親と同世代には口元に入墨をしたアイヌ もちろん幕府は、請負人たちの思惑に女性がまだ存在していたことでも知れは、「北海道の舊土人即ちアイヌは、同 る。 じく帝國の臣民でありながら、北海道の 基づく悪弊を改めるように命じている。 さらに明治政府によって公権力が末端に 明治政府は一貫してアイヌ保護政策を開くるに從って、内地の營業者が北海道 までおよび請負人たちのこうした横暴がとり、彼等に対して授産と教化を進めての土地に向って事業を進むるに從ひ、舊 不可能になり、アイヌが直に和人の文化きた。しかし十分な成果があったとは言土人は優勝劣敗の結果段々と壓迫せられ に接するようになったために、西部氏のい難い。北海道廳編『北海道舊土人保護て、・ : 同じく帝國臣民たるものが、斯の 日き困難に陥らしむるのは、即ち一視同 法則通り、アイヌは言語を失い独自の生沿革史』によると物々交換経済のアイヌ女 230

4. 正論 2008年10月号

誤解、曲解、偏見に基づく批判も少なく うけていた」と断じる最大の論拠は、鈴木氏は同書を引用する際、意図的にか 『静かな大地松浦武四郎とアイヌ』 ( 花忘れたのか、肝心の「主語」を省いてい 鈴木宗男氏による批判も、失礼ながら崎皋平著 ) に書かれた内容にある。氏はる。従って当時のアイヌ虐待が、幕府あ 曲解に近いといえる。民は月刊日本八月月刊日本の論文の中で、同書の次のようるいは松前藩、つまり公権力によってな 号に『我々アイヌ議連が目指したもの』な文章を引用する。 されたもののような誤解を与えている。 と題する論文を掲載。ご自身の経験も踏「シャリ、アバシリ両場所では、女は十鈴木氏は言及していないが、実は同書 まえながら、アイヌ民族がいかに「ひど六、七歳になって夫をもつべきころになは、「番人、「支配人」「奸商、と主語を い迫害を受けていた」かを列挙した。氏ると、クナシリ島へやられ、諸国よりき添え、それが松前藩や幕府によってでは が日頃、「北海道のために頑張ります」た漁夫、船方のために身をもてあそばなく私的になされた蛮行であったことを と訴えて精力的に議員活動をしておられれ、男子は妻をめとるころになると、や明記している。それどころか、同書には ることには敬服するが、今回の論文は道はり雇いに送られて昼夜の別なく責め使松浦武四郎の『戊午日誌』を解説して、れ 民のためになるどころか、日本の歴史をわれ : ・」「また夫婦で島へやられるとき「彼ら ( 支配人や番人 ) がこれまで不法 歪め、道民の顔に泥を塗る内容と断ぜざは、夫は遠い漁場へ送られ、妻は会所やにアイヌを苛責してきた所業や強姦、奸売 るを得ない。以下、氏の論文の看過でき番屋に置かれて番人、稼人の慰み者とさ奪などが露見するのではないかとの懸魂 ない部分について、幾つか反論を試みたれ : ・」「島へ送られてしまえば、かれら念、人別不正の筋 : ・」とか、「自分らの民 が言い伝えるアヲタコタン ( 地獄 ) へ行目の届かないところで、アイヌたちが役開 鈴木氏が「アイヌ民族がひどい迫害をつたとおなじことである。病気にでもな人に真実を告げ、惨状を訴えることを恐 れば、三年から五、六年ぐらいで返されれた支配人らは、一刻も早く山へ帰って 的場光昭氏昭和四 ( 1954 ) 年、 北海道生まれ。旭川医科大学卒。医師。旭ることもあるが、無病で稼ぎができれ妻子や家族に会おうとする彼らを足留め申 ば、男は三十歳、四十歳まで半永久的にして、役人が去るまで帰郷を遅らせた」モ 川医科大学麻酔・蘇生学講座勤務を経て旭 川ペインクリニック病院理事長に就任。そ島で使われ、女は番人の妾とされて : ・ 等の表現で、悪徳商人たちが公儀にアイ の傍ら、地元誌『北海道経済』の巻末ェッ 確かに、ひどい話である。アイヌのヌ虐待が知れることを恐れていたこともネ セー「天定破人、を執筆。西部邁事務所発人々が実際に受けたであろう、同書のよ指摘している。 行の『北の発言』の執筆協力者でもある。 うな惨状を思うと、言葉もない。しかし同じく『丁巳日誌』の解説には、「松

5. 正論 2008年10月号

のである以上、「級戦犯全員無罪、は「日本無罪」なのでその根拠は「ポッダム宣言」に書かれていた訴追対象は国家 というのは、国ではなく明らかに個人だったことと、プレイクニー弁護人が ある。「級戦犯無罪は日本無罪ではない 「この法廷では日本が裁かれているのでもない」と発言した 民と国家を切り離し、どこかに「国家、なる怪物がいると思 っている左翼の発想である。西部邁、またも左翼宣言であことである。 東京裁判研究の先達に言うのも釈迦に説法という気がする る。 が、ポッダム宣言では確かに個人を対象にしていた。しか ところで、『諸君 / 』九月号で牛村圭氏がわしの『パール し、東京裁判はポッダム宣言を無視して制定されたチャ 1 タ 真論』について、次のように評してくれている ーに基づいて開かれたものであり、チャーターには「平和ニ 《私自身は、以下本稿で論じるようにこの小林の半年に及ぶ 議論から学ぶことがあった。一人の研究者として謝意を表し対スル罪、として、「宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦 争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計 たく思う。顧みるに、「パル判決」をめぐる論争は、どうい 画、準備、開始、又ハ遂行 : : : ーと歴然たる国家の行為を裁 う経緯を辿ろうとも結局のところ、「パル判決」は「日本無 実 くことが記されていた。 罪論」か否か、という間いに収斂してきた。戦後日本におけ また、弁護団の方針は一枚岩ではなく、「国家弁護派」とを る「パル判決」受容史を念頭に置くとき、小林の展開した 「日本無罪論」に関わる議論はこの永遠の課題を考察する重「個人弁護派」に分かれていたことも周知の通りで、プレイ知 クニーが弁護した東郷茂徳、梅津美治郎両被告は「個人弁 ち 要な視角を示したと思われるからである》 このように公正に評価してくれることに対して、こちらか護」だった。しかし「国家弁護、に立った清瀬一郎弁護人は らも謝意を表したい。さらに牛村氏は、自身が以前にパ 1 ル冒頭陳述で「本件においては被告を含む日本国家が、検察官学 の指摘する十七か年の全期間にわたって国際法的の犯罪を続め 判決を「日本無罪論」とすることは「浅薄な解釈」だと書い たことについて、「この見方を修正する必要があるように思行していたということが、検察側の根本の主張であるのであを い至っている」とまで書いている。わしはこの知的誠実さをります」と、「被告を含む日本国家」が裁かれているのだと意 書 学者に期待したいのであり、学問というものに失望したくな発言している。 以上のことから、やはり東京裁判は個人ではなく国家を裁 判 いのだ。牛村氏のこの態度はメンツだけでデマを拡散させる いたと見るべきで 、パールは被告の行った「国家の行為」に 権威主義者だらけの学者の中で、わしを甚く感激させる。 ただ残念なことに、牛村氏の主張は「無罪論」は妥当とす無罪判決を下したのであるから、「日本無罪論」という言葉 は決して史実に乖離するものではないとわしは理解している礙 るに留まり、「日本無罪論」とするには疑義を残していた。

6. 正論 2008年10月号

と思う」 の次元であり時代も異なる。こともあろ授業料ヲ給スルコトヲ得」 ( 第七條 ) 、 だが、鈴木氏も認めるとおり、「全てうに開発庁長官を務めた鈴木氏が、こう「第四條乃至第七條ニ要スル費用ハ北海 の和人がそうした訳ではない」。私自身、した時代考証を抜きにして花崎氏の解説道舊土人共有財産ノ収益ヲ以テ之ニ充 祖父母も父母もそのような事を人間としする松浦武四郎の記録を読み、著者自身ツ、若シ不足アルトキハ國庫ョリ之ヲ支 て非常に恥すべきことと身をもって教育も為し得なかった、公正さを欠く引用の出 ( 第八條 ) などと定められたので してくれたため全くそのような経験はな仕方で無批判に同書を宣伝して歩くことある。 かった。アイヌ間題を研究する人は必すが私には納得できないのである。 これに対し、北海道ウタリ協会理事長 手にするであろう『シャクシャインが哭 加藤忠氏は七月一一十八日付の北海道新聞 く』の著者三好文男先生は私たち姉弟の旧土人保護法を読み違えるな 夕刊で「北海道旧土人保護法の下での同 小学校担任であるが、恵まれない境遇の 化政策によって、伝統的な生活からアイ 人々への先生のまなざしの存在もあって 言うまでもなく、幕府などの保護政策ヌ語まで制限、禁止され・ : 」と発言してれ か、小中学校を通じて友人が増えてもそは明治以降の近代日本にも受け継がれいる。それを一一一一口うなら、私にはアイヌがな うしたことは一切目にすることはなかっ た。すなわち明治三十二 ( 一八九九 ) 松前藩の支配になって三百年の間に和人売 た。こうした差別や偏見は実に地域住民年、北海道旧土人保護法が制定。「北海に同化されなかったことの方が疑間であ魂 や個人の品性の間題なのであり、一九六道舊土人ニシテ農業ニ從事スル者、又ハ った。西部邁氏が言われるように「文字民 〇年代までアメリカであったような、白從事セムト欲スル者ニハ一戸ニ付土地一をもっ民族と文字をもたない民族が接す開 人が汽車に乗ってくると黒人は席を立た萬五千坪以内ヲ限リ無償下附スルコトヲる時、後者はその民族性を維持できな なければならぬという社会一般に行われ得」 ( 第一條 ) 、「北海道舊土人ニシテ貧い」という人類文化史の冷徹なる法則 ていた差別とは、全く別なものである。困ナル者ニハ農具及種子ヲ給スルコトヲが、この間のアイヌには当てはまらなか申 ノ モ アイヌ民族に対する虐待や奴隷的搾取得」 ( 第四條 ) 、「北海道舊土人ニシテ傷つたからだ。 この疑問は、幕府の直轄下における が確かにあったことは私も認める。だ痍ヲ受ケ又ハ疾病ニ罹リ自費治療スルコ が、それはアメリカのインディアンやオト能ハサル者ハ之ヲ救濟シ藥價ヲ給スル『請負人に対する論告』と『アイヌに対ネ 1 ストラリアのアポリジニ、さらには植コトヲ得」 ( 第五條 ) 、「北海道舊土人ノする申渡』 ( 『新稿伊達町史』 ) を検討す 9 民地支配下のアフリカの黒人とは全く別貧困ナル者ノ子弟ニシテ就學スル者ニハ ることで氷解する。そしてここにも、悪 2

7. 正論 2008年10月号

会場外の階段に皆さんが並んで待ち始め方々がこの世を去った。改めて、自分の一月ニ十七日 ( 日 ) 十一一時起床。久しぶりに何もない休日。 今為していることの意味を噛み締める。 たとの報告。嬉しい。 十七時、開場。お客さんが続々入って後片付けをして、スタッフと事務所に引雑用、買い物、床屋、古本屋巡り。古本 八冊と二枚。朝比奈隆の日本のメロ くる。どうも一千百席の読売ホールではき揚げた。・疲れが心地よかった。 ディ 1 集と、サラ・プライトマンのクラ 入り切らないことがわかる。急遽、ロビ シックアリア集。夜、白洲正子の「独楽 ーに映像モニターを置き、溢れた皆さん一月ニ十六日 ( 土 ) には御覧いただく事にする。満員で帰ら十時起床。十二時出社。十二時半か抄」を読む。白洲のクールな感受性は、 れた方も多かったようだ。十七時半、監ら、渡部昇一先生と「大道無門、の収自分には無いもので好きだ。三時就寝。 督と出演者の舞台挨拶。広田弘毅役の寺録。「南京の真実 , についての座談。収 田農さんを除き、全員が舞台で挨拶をす録の中で、先生から「水島さんは平成の一月ニ十八日 ( 月 ) 八時半起床。十時出社。十三時、報道 る。皆、気迫を込めて演技した事を話し楠木正成ですね」と言われて恐縮する。 てくれる。良い人たちと出会ったと思映画は順調だが、チャンネル桜の経営はワイド日本の大高さん、前田さん、井尻 う。十八時より、上映開始。一一十一時、相変わらす四苦八苦だ。湊川の戦いにな先生に試写会のお礼。十六時半、日本会 上映終了。拍手が暫く鳴り止まなかつらないよう綱渡りを続ける。十四時半か議、椛島事務総長、松村事務局長来社。 た。観ていた役者たちが、全員、上気しら、国民新聞の山田恵久氏との「爆弾」今年全体の計画等を話し合う。椛島さん は静かだが、断固とした愛国者で尊皇の た顔で製作控室に集まってきた。私に握収録。十六時半、アルジャジーラジャパ 手を求め、出演出来て良かったと出来栄ンの南京映画についての取材。結構細か人だ。いつも一杯やろうと言いながら実十 えを誉めてくれた。そのまま玄関に回い質問だ「た。十八時から、豊島区議の現しない。十八時、阿羅健一著「南京で り、帰っていくお客さんを見送った。沢本橋さんの新春パーティーに出席、応援本当は何が起こったのか」出版記念会に知 山の人から、握手を求められた。その中演説。来週から、英語字幕作業の編集準出席。九段会館。多くの人が参加していの 京 の一人の方が、亡くなられた名越一一荒之備だ。第二部の準備もある。夜中に何かたのは阿羅さんの人柄だろう。私も祝辞 助先生も喜んでおられますよと言ってく楽しい映画を見たくなり、西部劇を一一本で、実際に汗をかいて地道な調査をした画 ーティー終了後、 阿羅さんを称える。 れた。この一年間に数え切れないほどの見る。就寝朝六時半。 宮崎正弘さんたちと飲む。三時、就寝。田 皆さんがこの映画に関わり、何人もの

8. 正論 2008年10月号

9 それか、ら わが武士道精神の光輝ど英国人元共士の報思の物語。 日英両国に咲いた高貴な友を語る ジャーナリスト・めぐみ・りゅうのすけ古隆之介 活動を指揮した海軍少佐、谷川清澄氏き点があることを痛感する。 ( 九十一一歳 ) と対面する。 しかし現在順風満帆に推移しているよ 一歴史を俯瞰できる英国国民 うに見える日英関係にも、一点だけわだ ところで我が国は、近代国家建設にあかまりがある。大東亜戦争中、日本軍の 今年は日英修好条約調印一五〇周年にた「て英国から多くのものを学んだ。一捕虜とな 0 た英国軍将兵の一部が、その あたる。また英国政府は本年を「日英友方、明治 = 一十五年に締結された日英同盟処遇を恨んで今でも反日運動を展開して 好促進年間」に指定している。 は、我が国の独立と発展に大きく寄与し いることだ。往時、世界の四分の一を支 この記念すべき年に大東亜戦争中に日た。とりわけ帝国海軍は英王立海軍にそ配した英国人にと「て東洋の新興国日本 本海軍に命を救われた元英国政府外交官の範を求め、エリートを養成する海軍丘 ( に痛打され、一部将兵がその捕虜にな「号 で元英海軍中尉、サー・サムエル・フォ学校は英国流紳士教育を徹底していた。 たということは、確かに屈辱に思われた川 1 ル ( 八十九歳 ) が十月末に来日し、日 私は訪英する度に英国民が主体的な史であろう。 本人有志と共に恩人、工藤俊作海軍中佐眼を持っことに感心させられる。さらに ただし、これは国際法上、講和条約成平 の顕彰祭を挙行する。またこのときサは国家エリート育成に国力を傾注する気立 ( 昭和一一十七年四月一一十八日 ) をも「 ・フォールは六十六年ぶりに当時救助風に、現在の日本が英国から一層学ぶべて解決済みの間題である。しかし、今の ぃ沈没英兵を救 き助した雷艦長 の工藤俊作 276

9. 正論 2008年10月号

8 記述が見送られた。文科省では「領土問書、『尖閣領有』も明記、文科省が方針」 4 0 2 て 題が存在するのは北方領土と竹島のみと報じた。解説書にすら書かれていない っ で、政府の立場もそうだ。尖閣諸島は日のに、文科省が教科書に特定の事項を盛 本が実効支配しており、領土問題が存在り込ませることができるのなら、そもそ め男日開 , していない . と説明する。その理屈は成も竹島の解説書問題は話題に上らない。 をの邦問 4 半階〉 り立っし、もっともらしい この報道に違和感はある。 だが、素直には受け止めにくい。文科 それはともかく、重要なのは、文科省 天国師 0 開ナ 省は、尖閣諸島を新たに盛り込むことにがタ刊の報道が出た直後に突然、わざわ ロの見講塒野 ついて、当初から明言こそしてこなかっざ「誤報だ」と明言する記者会見を開い 市 野 たものの、領土問題ではない点を踏まえたことだ。私は文科省を担当して三年が 蔵 た記述を視野に入れてはいた。実際、省経つが、一部報道を否定するための会見一 - 武 内では「解説書に尖閣も加えたほうが、 は記憶にない。過去には、「省益」にも 竹島だけ狙い打ちしているのではないと直結する義務教育費国庫負担金や教職員 逆に、教科書に書いてあれば、領土 アピールでき、韓国側の反発も和らぐ」給与の調整額をめぐり、一部報道を否定を守る意識を高めるという意味では、文 という打算的な考え方もあった。だが、する見解文が記者クラブ加盟社に配布さ科省は本来、内心ではこの「誤報」を歓 尖閣は焦点があたらす、書き込まれるこれたりホームページに掲載されたりする迎してよいはすなのだ。 ともなかった。 例はあったが、会見開催は極めて異例わざわざ会見が設定されたのは、文科 私は、文科省の消極的姿勢のほかに、 省を超えたどこかの判断が働いたからで 「媚中派」の福田康夫首相が、多かれ少竹島の領有権問題を記述している現行はないだろうか。文科省はロをつぐむ なかれ影響を与えたと推測している。根の中学教科書はすべて、尖閣諸島とセッ が、中国の意向を過度に尊重する首相官 拠の一つには、毎日新聞報道をめぐる文トになっている。文科省は今回、尖閣諸邸が会見を設定させたのではないかとい 科省の不可解な対応がある。 島を解説書に書き加えはしなかったものう疑念が消えない。ギョーサ事件では、 同紙は、竹島の記述が報じられた七月の、「領土問題ではないから教科書に書日本政府が「中国で被害発生が発覚し 十五日朝刊の直後の夕刊で「中学教科 くな」との意向を持っているわけではな た」との連絡を中国から受けながら、中

10. 正論 2008年10月号

寒を - ー驀ー マ本当はスクールカラーにひかれ 早稲田に行きたかったのですが一浪 の末、中央大学に進学、迷わす放送 研究会に入りました。当時の放送研 究会は入部するのに、試験が課され 倍率が 4 . 5 倍もの狭き門でした。私 はアナウンス部に属しました。もう一 枚は卒業式を終えての白門での ショットです 第を・をト を第を 入社 3 年目でオールナイトニッポ ンのバーソナリティーを任されたこ ろの写真です。私が入社した昭和 39 年といえば、他局の同期にも錚々た るメンバーがいました。文化放送に は土居まさる氏がいましたし、 TBS 一一一一一 には桝井論平、大沢悠里氏などラジ オを盛り上げた逸材ばかりでした、、 , ー、′、 - 三ーー ' 港の見える丘放送 午前 8 時 ~ 10 時 ) く昭和 4 9 年 1 0 月、「朝はおまか せアンコーです」でスタジオを離 れ、横浜市の港の見える丘公園から 放送したときの写真です。ラジオ カーや出前放送局など機動力を駆 使し、聴取者と間近なところまで出 向いてふれあいの場をつくるラジオ ならではの企画でした。左はバリト ン歌手の立川澄人さんです