ば、橋本の言葉は「富江にたぶらかされ『富江・最終章』における真の怪物、そ ではと夢見る始末であった。 また登美恵は作家志望であり、アンとたあげく、初恋をやり直せる ( Ⅱ彼女をれは富江ではなく橋本だと評しえよう。 マリ 1 という一一人の少女吸血鬼をヒロイ新たな妻に迎える ) 妄想に酔っている」なるほど橋本を滅ばすことで、富江は登 ンとした物語を書いているものの、映画ことを表す。けれども「トミエ」を「登美恵の家庭を破壊している。しかし自分 の文脈において、アンは登美恵自身に、美恵」と解するなら、これは「娘への欲を犯したがる父と暮らすくらいなら、父 マリーは富江にはっきり重ねられた。と求を抑えきれなくなったあげく、近親相などいない方がよほどマシではないか。 はいえ富江は正真正銘の怪物なのだか姦に走って何が悪いと開き直った」ことおまけに登美恵は無意識的にであれ、橋 ら、これは登美恵にも怪物性が秘められを表していよう。そして一一つの解釈の差本の欲望に気づいていたと思われる。富 ていることをほのめかす。同じ読みの名異が紙一重にすぎないのは、富江を殺し江が橋本家をはじめて訪れた際、登美恵 前を持っていることが示すとおり、富江た直後、橋本が娘を富江と間違えて首をはコーヒ 1 を買おうと途中で外出する守 と登美恵にはドッペルゲンガー同士の関絞めようとする描写が盛りこまれたことが、戻ってきた後、自分のいない隙に父の 代 に示されるとおりである。 が富江を襲おうとしたのではと疑った。 係がうかがわれるのである。 時 だが富江と登美恵は同年代に見えるのだ一 こうなると、橋本と登美恵の関係も額 から、この疑念の背後には「父は自分をン 面通り受け取るわけにはゆかない。橋本 登美恵を真に救ったのは誰か 襲おうとしているのでは」という不安が は富江にすっと思いを寄せていた以上、 隠されていた可能性が高い。 登美恵が富江のドッペルゲンガーだとす ならば橋本が富江とともに消滅するク登美恵と富江の関係が、登美恵の書い れば、彼は娘にも近親相姦願望を抱いて いたことになろう。現に妻の仏壇を燃やライマックスの意味も考え直さねばならている物語に出てくる少女吸血鬼・アン したとき、肝をつぶして抗議する登美恵ない。この場面は表向き「みすから富江とマリーに重ねられているのも、関連しを の犠牲となることで、橋本が登美恵をて再度注目に値する。アンもマリ 1 も登未 に橋本はこうつぶやいた 「父さんにはトミエがいる。トミエがい ( 殺される運命から ) 救った」ように見美恵が作った存在なのだから、これはけ るだけでいいんだ。母さんのこと、忘れえるものの、じつは「橋本を連れ去るこ「父が自分に欲望を抱いていると察知し物 とで、富江が登美恵を ( 性的虐待の運命た登美恵が、おのれの身を守るべく、闇 てやり直そう」 の分身たる富江を『親父始末要員』とし 台詞の「トミエ , を「富江」と解すれから ) 救った」と受け取れるのだ。
とによって、はじめて未来への道を拓きを忘れることができず、生まれた娘にもったが、幕切れ、彼女の机の引き出しに S とみえ 2 うる。以下ではこの点を、一一〇〇一一年の「登美恵」という名をつける。やがて妻は富江の耳が残されていた。富江は身体 ホラー映画『富江・最終章 5 禁断の果に先立たれた彼は、登美恵と一一人で暮らの一部分からでも元通りに再生できるの 実』 ( 中原俊監督 ) と、二〇〇七年の犯すことになった。ところが登美恵が、かだから、これは登美恵の前にいすれまた 罪スリラ 1 映画『イースタン・プロミっての富江と同じくらいの年齢 ( Ⅱ十代富江が現れることを暗示している ス』 ( デビッド・クローネンバ 1 グ監督 ) 後半 ) に達したとき、富江がまったく年あらすしを見るかぎり『富江・最終 を題材に検証しよう。両作品には「怪物を取らないまま再び出現、橋本に「初恋章』は、「過去 ( Ⅱ富江 ) にとらわれる ことで未来 ( Ⅱ登美恵 ) を危機にさらし 的な存在が『うわべは正常に見えて、じをやり直そう」と持ちかける。 つは病んでいる秩序』を突き崩し、それ人生に不満を抱いていた橋本はこの申た男が、みずから過去に殉じることで未 によって閉塞状況を打破する」構図が共し出に狂喜、妻の仏壇をぶち壊したうえ来を救う物語」と規定できよう。しかる 通してうかがわれるのである。 燃やしてしまう。しかし富江は、本当にに面白いのは、これとは大きく異なる解 『富江・最終章』は、今までも何度か取初恋をやり直したいのなら、別の女との釈をうながす描写が随所に登場すること なのである。常識で考えれば「自分の母 りあげた「富江」シリーズの四作目にあ間に作った娘がいてはならないとして、 たる。同シリーズは不死の生命力を持っ登美恵を殺すように求めた。苦悩の末にと結婚する前に父が愛し、今でも思いを 魔性の美少女・富江が、男を誘惑しては橋本は富江の方を殺し、死体をバラバラ寄せている女 , たる富江は、登美恵にと 破滅に追いやるさまを描くものながら、 に切り刻んで川に捨てるが、不死身の富り決して好感の持てる存在ではない。 にもかかわらす彼女は、富江の美貌や ここで富江の標的となったのは橋本和彦江は平然と復活し、くり返し誘惑を試み という中年男だった。橋本は若いころ富る。さらに登美恵がそれを制止しようと勝気さに憧れるばかりか、父親の手で富 江に憧れていたものの、友人の田島に彼するや、みずから彼女を殺そうと追い回江がバラバラにされたときなど、ひそか 女を奪われたせいで恋を実らせることがすにいたった。 に生首を持ち帰って復活の世話をする。 できなかったのだ。田島はほどなくして登美恵の生命を救うには、自分が犠牲幕切れに映しだされる耳も、登美恵自身 謎の自殺を遂げるので、彼は結果的に命 が箱に入れて大事に保管しているのだ。 になるしかない、そう判断した橋本は、 拾いしたことになろう。 娘を殺すふりをしたうえで富江とともにそれどころか彼女は、富江がもう一度復 橋本は別の女と結婚するにしろ、富江姿を消す。こうして難を逃れた登美恵だ活してきたら、今度こそ親友になれるの
て呼びたした」という解釈を成立させる「親父始末要員」となってもらうのは、「東」というとロシアを指すので、つま のだ。あまっさえ登美恵の考えた物語にまことに適切な人選だったと評しえよりは「ロシア人の約束」を意味する。 は、教会の神父に捕まって縛りあげられう。映画の主題歌「羽根」 ( 安藤希・中物語はある冬の夜、タチアナという十 たアンをマリーが助け出すくだりまで含原俊作詞 ) が、「私は何処にもいない」四歳のロシア人少女がロンドンの街頭で まれる。この展開が「父に犯されそうに「消えるから何もいらない . と歌った後行き倒れるところから始まる。ヘロイン なっている登美恵を富江が助け出す」こで、「新しい私は生きられるはす , とい中毒であり、臨月まで迎えていたタチア う結論にたどりついたのも必然のなりゆナは、運びこまれた病院で死亡するもの との隠喩なのは疑いえまい きではないか。詞。。 こま「触れないでひの、お腹にいた女の子は無事に生まれ 富江が登美恵を殺そうとすることは、 この解釈を打ち消すものではない。登美とりで立てるから」なる一節も見られるた。病院の助産士アンナにより、赤ん坊 恵にとって富江は「父の初恋の相手 , でものの、これなどすばり「自立するからは「クリスティーンーと名づけられる。 自分自身、ロシア系ハ 1 フであるアンナ もあるのだから、それを自分の味方、 触るな ( Ⅱ犯すな ) 。と取れる。 や分身として受け入れるのは、父が母と子供を自立させるのが家族の果たすべは、タチアナの家族のもとにクリスティ 結婚しなかったかも知れない可能性 き重要な機能なのを思えば、『富江・最ーンを送り届けたいと考えた。 つまり自分が存在しない可能性を認める終章』は「今の時代、家族の機能を保守他方、同じロンドンには「トランス・ ことにもつながる。登美恵は富江と出会するには家族を解体するしかない」と語サイベリアン」 ( シベリア横断鉄道 ) な うことで、文字通り「自己の虚妄性を原っている。このテ 1 マをさらに突き詰めるロシア料理店を経営する初老の男セミ 点としたアイデンティティ」を構築しは たのが『イースタン・プロミス』であっオンがいる。彼は犯罪組織「法の泥棒ー じめたのである。 た。同作品はロシア系の犯罪組織がイギ ( この組織は実在する ) の大物メンバ 1 ところがこのアイデンティティこそ、 リスで人身売買を行っていることを題材であり、ロシアの田舎に住む貧しい娘た 登美恵が身を守る切り札となる。存在しにしつつ、「過去や伝統が形骸化してしちを「西欧に来れば豊かに暮らせる」と いうロ約束で誘惑、イギリスに連れてき ない娘を犯すことはできないため、登美まったときに、家族はどうしたら機能を 恵が虚妄だとすれば、橋本の欲求は富江保てるか」という点をめぐる充実した考ては売春させていた。 に向かうほかない。「トミチ同士であ察を展開しているのだ。題名は直訳すれセミオンは一人息子のキリルに家業を る点を差し引いても、父の初恋の相手にば「東方の約束」だが、イギリスで継がせたがっているにしろ、キリルは酒 292
りあげている。そのとき社会党声明は「 : ・学生、労働者だった。 に対し凶暴化した警察官は、暴力団と共謀して野獣のよマスコミの雷同ぶりなら現代だって変わっていない うに襲いかかり、無惨にもかよわい女子学生を撲殺したとえばホリエモンこと堀江貴文が登場したとき、マス : 」とあった。そして朝日ジャ 1 ナルなどのマスコミもコミは彼のメディア改革なるものをどれほど持ち上げた か。彼の標的にされたフジテレビⅡニッポン放送が東京 同様のルポを載せた。 福田さんはその声明やルポを指して、ます「ほとんど地裁と同高裁で敗れたとき、朝日の社説は「いきり立っ すべてが虚偽である。私は警官を弁護する」と宣言すのではなく」と冷笑し、日経の社説は「株主利益を優先 る。そしてその断定の上に冷静にして客観的な常識をせよ」と乗っ取り行為を肯定した。そのホリエモンが失 次々に構築し、マスコミの感傷、憎悪、昻奮、自己陶脚したときは一転して、朝日社説「人の心はお金で買え 酔、固定観念をバッサリと斬り捨てて、その非論理性をぬ , 、日経社説は「一線を越えたか、ライブドア経営、 鋭く衝く。まさに胸がすくような議論を展開しているのである。手のひら返すごとく彼を蹴落として叩いた。時 代は移ってもエセ進歩派の偽善は改まっていない 私が瞠目したのはこの七巻のなかの「進歩主義の自己 偽瞞ーという論文だった。 昭和三十五年「文藝春秋」一月号の発表だが、という ことは福田さんは三十四年の秋に執筆したのだろう。こ の年の三月には社会党の訪中使節団長・浅沼稲次郎が北 京で「アメリカ帝国主義は日中人民共同の敵」といって 演説した。その四月には日米安保改定反対で日比谷公園 し で総決起大会が開かれ、六月に前記のように国会デモでな 樺美智子さんが死ぬ。そういう時代だったことを念頭にと 入れておく必要がある。 世 この論文で福田さんは、大内兵衛、有沢広巳、木村禧 5 八郎、美濃部亮吉、都留重人といった進歩的文化人の名 紙切り林家ニ楽 ( はやしゃ・にらく )
けのためなら安全を犠牲にしても構わないという拝金主義を 浮き彫りにした。翌年一月の「東急イン」違法改造間題で 業業業業業業 は、身体障害者の気持ちを踏みにじってまで利潤を拡大しょ す種霊鬻 うとする経営者の品位のなさがさらけ出された。同じ頃に摘 発されたヤマハ発動機による軍需物資輸出問題では、目先の で営際貨物害 航空空 利益を追い求めるだけで国防のことを一顧だにしない企業の 航航 ッ 「平和ポケ」体質が問題となった。昨年から今年にかけては ミートホープや比内鶏など食品会社の産地偽装や賞味期限改 竄が相次ぎ、船場吉兆や赤福など老舗の不正も明るみになっ ・日守 典型的なのが、ホリエモンこと堀江貴文被告によるライプ のタ ドア事件だ。彼は逮捕前、次のような発言をしたとされる。 2 0 「投資家にとって邪道かどうかは関係ない。するいと言われ ても合法だったら許される」「誤解を恐れずに言えば、人の 心はお金で買えるのです。女はお金についてきます。 まさに拝金主義者の見本のような発言だが、世間は彼を軽しム月 蔑するどころか時代の寵児ともてはやし、自民党に至っては 求物一 衆院選出馬の全面的パックアップまでしたのである。 追合 むろん、以上は極端な例であり、天網恢々疎にして漏らさ ゞ公な ず、悪事をすれば必ず報いがある。 カま だが一方、悪事には至らないまでもモラルを失い、長期的達 展望を欠いた戦後世代の経営者が日本の古き良き経営スタイ ルを次々に排除しているのをみると、やり切れない思いがす るのだ。 営業種目 一般港湾運送業 海上運送業 倉庫業 通関業 外航海運貨物利用運送業 外航海運貨物運送取次業 貨物運送取扱業 内外日東株式会社 0 0- 0 っ 0 0 「イ、 6 -0 0 -0 11 つけ -4 00 -4 ・、 6 -0 0 -0- 0 0- ル 黒海島 大東西 区区 見田一 8 大 3 一市都頭一 浜京埠 3 一横東黒後 1 大備 響品知 東鶴中 区 2 1 市市 ー〒〒 月 / / 浜阪 品一一横大 都タタ 京 / / 引引 流流 0 1 物物幻 黒井〒〒 「店店業業 / 支支営営 社浜京浜神 本横東横阪 772
6 ンヨージ・ブッシュが日本を救った 3 高山正之著 新潮社・一四 00 円 、冫ネ・ニ八 00 円 週刊新潮を手にする読書のなかには高 入江隆則著 山氏の「変見自在 . から読み始めるファ 『敗者の戦後』『グロ 1 バル・ヘレニだりで、かっての時間が「至福であっ ンが多いのだそうだ。 ズムの出現』など、ユニークな着想と た」という強い言葉で語られているの 本書はその名物辛口コラムの傑作選 犀利な論証で知られる文明史家によるが、まず目をひく。〃ふるさとと同 だ。森羅万象、さまざまな出来事を題材 自伝、半生記である。平成十八年七月義語でもある″幼年時代″一般が至福 にしながら新聞の病や日本の病を暴き、 号から十六回本誌に連載された。 であるのか、昭和戦前期というその時 警鐘を鳴らす。「外交に信頼という文字 考えてみると文明史家ほど大きなパ 間が至福であったのか。 はない」「中国には飴より鞭がいい」と ースペクテイプ ( 視座 ) を求められる「厳粛な儀式の感覚」、つまり当時の いわれると確かにそうだなあと思う。 職業はないかもしれない。なにしろ複祝祭日に学校で行われ、そのあと子供 「級戦犯こそ靖国にふさわしい」とい 数の国家をも内側に包み込んで、幾世たち一人ひとりに紅白の饅頭が手渡さ う氏ならではの表現には「よくぞいっ 代にもわたって不定形に動きつづけるれた儀式の、「晴れがましい、この世 た / 」と胸のすく思いだ。いかにクリン 文明を、さらに鳥瞰するのが仕事なのに生きていてつくづく良かったと思 トンが日本嫌いか。彼の政権下、日本企 だから。そうした視座は、どのように う」ような感覚に、それは強く結びつ 業への理不尽な訴訟がどれほど相次ぎ、 いていたという。 号 して獲得されたのか。いや、そもそも 月 ブッシュ政権となりピタリとやんだか。 神ならぬ人間に可能なのか。 考えてみると、多くの人間が一カ所 本書での記述はほば時系列に沿ってに集まり、かっ同じ一つのものを見つ氏ならではの着眼点と論理。それに毒を なされていく。したがって開巻劈頭、めて行われる儀式こそ、自我の壁を薄盛った、逆説的で、挑戦的な記述。読者成 は毎回、この魅力にうならされ、目の覚 昭和十年生まれの著者が幼年期を送っくし、「一人ではない「われわれ」 正 た横浜市・白楽近辺を再訪してみるく 「類の中の個。を自覚させてくれる装める思いを味わえるのだ。 告白 ある文明史家の 精神遍歴