くちびる ピンク色の小さな唇が何かを言う。オレはよく聞き取れなくて、ん ? と首を傾げて先を促 男の子が、弾かれたように顔を上げる。涙でうるうるになった大きな目で、すがるようにオ レを見た。 「お兄ちゃんじゃなきやダメなの ! だってボクは ! 」 男の子が叫ぶように言った瞬間、オレたちの背後から「ちょ : ・つと、君たち : ・」という、息 も絶え絶えな声が聞こえた。 同時に、よろけるような危なっかしい足取りで、こちらに近づいている足音も。 「 : ・木根先生。こんなところまで、どうしたんですか」 振り返って見た竹林の向こう側、学校の裏庭から続く傾斜を、息を切らして登ってくる白衣 跡姿の男がいた。保健室の木根先生だ。 の ネクタイを締めたワイシャツの上に直接白衣を着込む、いつもの格好の木根先生は、急な傾 ス オ斜をかなり急いで登ってきたらしい。はあはあと肩を揺らしながら、上半身を折って息を整え ヴ ンている。 ムオレの横に立ったままの一志が、「木根先生 ? 」と訝しげな声で聞いてきた。 オレはさりげなく一志の手を解き、やっと自由になった右手を軽く振りながら立ち上がる。 いぶか うなが
100 しれない。 「ここなら大丈夫・ : かな : ・ ? はあはあと肩で息をしながら、オレは校舎裏の壁に背中を預けた。 空を見上げるようにして、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。 さんさん 正午の太陽は、校舎のちょうど真上で燦々と輝いている。 その明るい空の下に、うっすらとした暗がりを湛える学校裏の竹林が見えた。間近まで竹林 ひとけ が迫っている裏庭は、昼休みだというのに人気がまったくない。 ちょっと不気味だけど、ここならヒカルに見つからないよな。 はあ、と大きく息をして、オレは青草茂る足元に座り込んだ。 緑の萌える匂いが強くなる。 春の日差しに伸び放題な雑草とは別に、校舎から四、五メートル離れた場所には、申し訳程 にお たた
髪を撫でていた指を止めてしまう。 うる ヒカルが、潤んだ目を上げてオレの名を呼んだ。 オレは、はっとして目を伏せる。青ざめているような気がする頬に指をあて、落ち着け、ま だ解らないんだから落ち着け、とロの中で繰り返し唱えた。 怖い、怖くてたまらない。 オレの中の弱い部分が溢れ出しそうになった瞬間、突風の止んだ竹林を、足を引ぎずるよう にして歩いてくる足音を聞いた。 はっと息を飲んで、後ろを振り返り見る。 奇そこには、青竹に縋りながらこちらへ向かって歩いてくる一志がいた。 にじ えり ス制服の右膝がすり切れて血が滲み、倒れ込んだときに付いたらしい黒土がジャケットの襟ま オで汚している。 ン 考えるよりも先に駆け出そうとして、背中と胸を打った痛みに眉をひそめる。 ム けれどすぐに息をつき、鈍い痛みを誤魔化した。足場の悪い竹林を駆け、一志の元へ辿り着 あふ
渾身の力を振り絞り、ヒカルにまれた手を振りほどく。 息も出来ないような突風が吹き抜ける竹林の中、漆黒の髪を風になぶられながら振り返った ヒカルは、今まで見たこともないほど冷たい目をしていた。 なぐ ぎ史っし オレは思わず息を止め、横殴りの風によろけながらヒカルを凝視する。 濡れたように輝くヒカルの唇が、オレを否定するかのように固く結ばれた気がした。 その声は、耳を過ぎる突風に消されそうなほど遠かった。だけどオレは、反射的に振り返っ て、声のした方を見る。 ここだよっ 奇突風に煽られ、地下茎がうねる土に足を取られそうになりながら駆け出す。あっ、と声を上 スげて転んでしまったが、すぐに起き上がった。 イ 吹き抜ける突風としなる竹林の向こうに、一志がいる。 ヴ ン 一志が、来てくれた。 ム そう思っただけで、胸の奥が熱くなる。 ずっと見ないふりを通してきた気持ちが、水の奥から浮かび上がる泡のように表へ向かって こんしん あお しつこく
ない」と言う。 オレは胸の奥がぎゅっと痛くなった気がして、無理矢理明るい声を出した。 「一志もさ、こんなオレのどこが良くて好きだとか言ってるわけ ? かなり物好きっていう かんちが か、勘違いって言うか」 一志を支えていない方の手で、一つ、二つと指折り数える。そのオレの手を、一志が無造作 にんだ。 そのまま、一志の口元にオレの手が引き寄せられる。 ゆるく開いたオレの指先に、一志がそっとロづけた。 「あっ : ひび もうれつは 思わず唇からこぼれた声は、自分でも信じられないほど甘く響く。突然、猛烈に恥ずかしく 奇なり、慌てて顔を伏せた。 の ス 一志が、オレの手を自分の唇に触れるか触れないかの位置で握り締めたまま、小さく息をつ ヴ ン 「突然、おまえらが消えたとき。きっと、ここだと思った。ヒカルが現れたのはここだったし ム あいつって、昔の人がカミサマって呼んでいたものなのかな」 こどう オレは手をまれたまま、勝手に速くなる鼓動を悟られないように息を殺す。出来るだけ普 あわ
156 両手のひらを床に押しつけ、顔をうつむけてぎゅっと目を閉じる。涙が頬を滑って落ちてゆ 息が苦しい。胸が痛くて、苦しくて堪らない。 もうこんな世界は嫌だ。いつもオレ一人だけが置いていかれゑこんな世界から逃げ出して しまいたい。 「・ : そういうことだから。一志には悪いけど、聖は僕の世界に連れて帰らせてもらうよ」 床に座り込んでうつむいている耳に、ヒカルの落ち着いた声が聞こえた。 視界を閉さして聞くヒカルの声は、前に見た夢の中の声とまったく一緒だ。 迎えに来た。夢の中の声は、オレにそう言った。 「僕は、聖を迎えに来たんだ」 夢と違わぬ、ヒカルの声が同じことを言う。 一志が、押し殺したような深い息をついた。 「聖をどこに連れてくって言うんだ。おまえ、いったい何なんだよ卩 激した声で言い募る。 オレは、心の中の半分以上が空つぼになってしまったような気持ちのまま、頭の上で交わさ つの ほお
後で ! あとで考えるつー 固く決心して、大きく息をついた。 気持ちの隅に押しやった、わけのわからないものの中に、ちゃっかりと昨日の晩、不意打ち のようにキスされた、一志のことも押し込めて。
突然のことに驚いて声が出ず、ぎゅっと抱きしめられたまま息を殺す。一志の胸に押しつけ られたオレの耳に、自分のものとは違う鼓動が聞こえてくる。 今まで他人の鼓動をこんな距離で聞いたことがなかったオレは、それだけで自分の胸もどき どきと鳴りはじめていることに気付く。 ちょっ : ・待てよ卩抱きしめられて、どきどきしてたら変だろ ! 一志は友達だし、 好きって告白されてても、オレは何も返事してないんだしー あせ 焦りまくるオレの耳に、押し殺したような一志の声が聞こえた。 「俺さ : ・、勝手に俺と聖は似たもの同士なんだって思ってた。でも、俺の思い違いだったみた いだ。聖は、俺なんかよりずっと大人なんだな」 「なっ、何言ってんのかぜんっぜん解んないんだけどっ ! それに、オレと一志は全然似てな いじゃん ! 一志はオレより年下のくせに大人っぽいし、背え高いしつ」 焦りまくって言うオレの体を、一志はなお強く抱く。オレはまた息を飲んで唇を噛み締めて しまう。 一志が、ちょっとだけ笑った。 「聖の声って、怒ったり騒いだりしてても、聞いてるとなんか落ち着くよ。こういう声を、 い声って言うのかな」 こどう
170 オレは、きつく手のひらを握り締めたままで唇を噛んだ。 決心しなければ。 ここで逃げ出したら。 手遅れになる前に オレは、勇気を振り絞って顔を上げた。 夕暮れの竹林を渡る風を頬に受け、さらさらと鳴る竹の枝葉の音を聞きながら、大きく息を 「ごめん、やつばりオレ : ・」 そこまで言って、言葉を切る。 ヒカルが苛立ったようにオレの手を引いた。 「まさか行かないなんて言う気じゃないよね卩オレと一緒に行けば、お父さんとお母さんは 間違いなく助かるんだよ ! 」 ヒカルの言葉が胸に突き刺さる。 オレの唇は、今にも「行くーと動きそうになる。
かずし 「・ : で、どうして一志までオレんちにいるの」 オレはリビングのソフアに座り、隣にびったりとひつついて座っているヒカルの肩に手をか けながら聞く。 斜向かいのソフアに年然とした顔で座 0 ている一志が、ますます不機嫌な顔にな 0 てオレを 睨みつけた。 「おまえ・ : 、そういうこと俺に聞くのか ? 俺があの胡散臭い保健室の先生に説明させてる横 で、勝手に子供預かる約束なんかして」 かわいそう 「だって、ヒカルはこんなちっちゃいのに、一人暮らしなんて可哀相じゃない」 オレが言うと、隣に座っているヒカルが、そうそう、と大きくうなずく。 あき 一志はこれ以上ない、 というくらい呆れた顔をして、はあ、と息をついた。「おまえはそう いうやつだよ」って、嫌味を言うのも忘れなかったけど。 にら 、つさんくさ