170 オレは、きつく手のひらを握り締めたままで唇を噛んだ。 決心しなければ。 ここで逃げ出したら。 手遅れになる前に オレは、勇気を振り絞って顔を上げた。 夕暮れの竹林を渡る風を頬に受け、さらさらと鳴る竹の枝葉の音を聞きながら、大きく息を 「ごめん、やつばりオレ : ・」 そこまで言って、言葉を切る。 ヒカルが苛立ったようにオレの手を引いた。 「まさか行かないなんて言う気じゃないよね卩オレと一緒に行けば、お父さんとお母さんは 間違いなく助かるんだよ ! 」 ヒカルの言葉が胸に突き刺さる。 オレの唇は、今にも「行くーと動きそうになる。
パとママはどうしてるの ? 仕事 ? 「一人暮らしって、 オレの言葉に、ヒカルが大きくうなずく。あごを上げて頭上を見上げた。つられてオレも目 を上げる。 竹林の枝葉の陰に、銀色に輝いている真昼の大きな月が見えた。 「パパもママも忙しいんだ。だからね、ボクは早く一人前のオトコにならなくちゃいけない の。これはテストなんだよ。だからね、聖お兄ちゃん。しばらくボクと一緒に暮らして ? こ 可愛らしく首を傾げて聞いてくる。オレは反射的に、うん、とうなずいてしまった。 しよっだく あれ、ちょっと待て。可愛いさに負けて承諾しちゃったけど。今、一志と木根先生は、ヒカ ルがオレと一緒に暮らすのか否かで話をしているところだったような : ・。 オレは、「やったー ! 」と、両手を上げて喜んでいるヒカルに懐かれながら、しやがみ込ん かたわ 跡だ姿勢のままで傍らの二人を見上げた。 二人は、オレとヒカルの間で同居の約束が整ってしまったことに気づきもしないで、熱い議 イ 論を戦わせている。 ヴ ム なっ
154 。今のままの『月の ~ こじゃ、カが足りなくてお父さんたちを助けられるかどうか解らな ヒカルの言葉は、その意味の半分も解らない。 けれど、ヒカルの言っていることは嘘ではないと解る。 一晩で十歳分成長し、木根先生の血族が昔から護ってきたと言っていた、ヒカルの言葉な ら、どんなに非現実的でも嘘だと切り捨てることは出来ない。 神社でお奉りしている神様は目に見えませんが、木根家で護っているものは目に見え ます よみがえ 木根先生の言葉が、今さっき聞いたような鮮明さで甦ってくる。 神社に奉られている神様のように、ヒカルに願えば望みが叶うんだろうか。 無事でいて欲しい、と。 あきら 仕事で家を空けてばかりで、そんな両親に期待することを半ば諦めて。不満も不安も見ない ふりをして、楽しいことだけを考えるようにしていた。 でもそれは、二人がオレのすぐ側にいてくれなくても、元気にしているんだと思っていたか ら出来たことだ。 さび 小さい子供でも無いのに、一人じゃ寂しいなんて言えないから。二人が元気で、大好きな仕 まっ かな
138 窓際のデスクの方へ向かいながら、オレの顔を見ずに言う。 あるじ 「彼らは、この土地に主を捜しにやってくるんですよ。彼らの主になれるのは、『月の声』を 持つ者だけです」 「月の声卩 その言葉をどこかで聞いた気がして、オレは記憶をたぐり寄せた。 ヒカルじゃなくて、もちろん一志でもなくて、もっと別の、どこか暗い場所 「・ : 夢で見たんだ」 つぶや ロの中で呟いた言葉は木根先生には届かなかったようだ。 先生は、窓際のデスクに着き、椅子をこちらに回転させた。一度かけた眼鏡をゆっくりとし はず た動作で外す。 左右微妙に色の違う茶色の目で、怖いくらいまっすぐにオレを見た。 「聖くん、私は君がこの学校に入学してきたときから、君が『月の声』を持っていることを知 っていましたよ」 「それってどういう・ : 、木根先生卩」 叫ぶように言 0 たとき、複数の声が廊下に鏘いていることに気付いた。
175 ムーンヴォイスの奇跡 ひらめくように、そう思う。 叫ぶヒカルの声の調子は、子供のものと一緒だ。 もしかしたらヒカルは、『月の声』を持っというオレを、はじめて会った時から主と定めて いて。オレの気持ちが一志に傾いていることに気付き、一志やオレと同じくらいの年齢にまで 姿を変えただけなのかもしれない。 すべ がてん そう考えると、ヒカルが取っていた態度全てに合点がいく。ヒカルが言う一言葉は、どれも子 供の本音だ。 だからオレは、ヒカルの誘いに最初、うなずいてしまったのかもしれない。 オレもヒカルみたいに、自分の本音をありのまま人にぶつけてみたい。そう、普段は意識し ない心の底で思っていたから うつむいて唇を噛んだオレの耳に、唐突にヒカルの強い言葉が聞こえた。 「ダメだよ」 顔を上げてヒカルを見る。ヒカルは、強情を張る子供のように、まっすぐにオレを睨みつけ てきた。 と、つとっ
「あのさ、その話はまた今度 : こ なんとか表情だけを笑顔にして、軽く首を傾ける。 一志が、オレを見下ろして軽くため息をついた。 「オレが聖を好きなの、そんなに迷惑」 「あ・ : 、迷惑とか、そういうんじゃなくて」 首を横に振りながら、慌てて言葉を探す。 うかが 一志が、キレイなだけに感情が窺えない無表情になり、オレからすっと目を逸らした。 「別に、気い遣わなくてもいい。俺が勝手に聖を好きなだけだしー 「待てよ、オレは : ・」 とっさに言ってしまうが、その後の言葉が続かない。 跡オレはいったい、一志になにを言いたいんだ卩 のぞ いらだ の 苛立つように思った瞬間、竹林越しに覗く空に閃光が走った。 い′手ま イ 「なにつ、稲妻卩」 ン直後にやってくるはずの雷鳴を嫌い、両手で耳を塞ぐ。 ′」うおん ムしかし、空を裂くような轟音は聞こえない。代わりに地鳴りのような音が竹林の奥から聞こ たて えてくる。突然、突き上げる縦揺れが来た。 つか せんこう ふさ
168 このままヒカルと行ってしまったら、オレは自分を騙し通しで終わってしまう。 「でも・ : 」 かっとう 言葉になった葛藤が、勝手に口からこぼれる。 いぶか ヒカルが、訝しげにオレの顔を覗き込んでた。 オレの腕を掴み、「早く [ と言う。 ひんし 「僕達の世界に行くって声に出して言って ! もし今、聖のお父さんとお母さんが瀕死の状態 だったら、一刻も早く奇跡を起こさなくちゃ助けてあげられないよ ? 死んでしまった人に は、奇跡は届かないんだからね。生き返らせることは出来ないんだからね卩 オレははっと顔を上げる。真剣な目をしているヒカルと向き合った。 「・ : まだ、オレの後ろに父さんと母さんは、お別れには来てないよね : うこ 震える声で聞いてしまう。 ヒカルが、 はっきりと大きくうなずいた。 「来てない。でも、いっ来てしまうか解らない。次の瞬間には来てしまうかもしれない。早く 僕たちの世界に行かなきや、手遅れになるかもしれないんだよ」 たた 畳みかけるような言葉に圧倒され、行く、と言いたい唇が動きかける。けれど、オレはどう だま
164 「聖が僕に命じてさえくれたら、奇跡は起こせるよ。だから気をしつかり持って」 「でも、二人とももう・ : 、死んじゃってたとしたら : ウこ 言葉が咽につかえて、上手く声にならない。咳き込んだオレの背中を、ヒカルがゆっくりと 撫でてくれた。 大丈夫、ともう一度言う。 「聖の後ろには、まだお父さんもお母さんもお別れに来てない。だから、まだ大丈夫」 「本当・ : 卩」 微かな希望が胸に差し込む。 けれど、大丈夫だと言ってくれたヒカルは、すぐに暗い表情をした。 「でも、二人が怪我をしているのか、それが命に関わる怪我なのか、今の僕には解らない。 こじゃ、聖の『月の ~ にに宿る力が足りなくて、遠くを視ることさえ出来ないんだ。まず、聖 を僕達の世界に連れて帰らなくちゃ、命じられても大きな奇跡は起こせない」 「奇跡・ : 」 言葉を繰り返しながら、オレは保健室で聞いた木根先生の話を思い返した。 ヒカルは、この土地に『月の ~ にを持つ者を探しに来ると言っていた。そしてオレは、その 『月の亠こを持っていると。 かす こ
166 ひび その響きには、甘い酩酊感があった。 この世界から逃げ出すこ ヒカルと一緒に異界に行ってしまえば、不安で怖くてたまらない、 とが出来る。 しぼ 飛行機事故に巻き込まれた父さんと母さんの続報を、身を絞るような思いで待っこともしな オレが持っている『月の声』でヒカルに命じれば、奇跡が起きて一一人は助かる。 一人っきりで家の中で、 二人が無事でいてくれるなら、オレはもうここで待たなくていい。 待ち続けなくてもいいんだ。 「ヒカル、オレ : ・」 ヒカルの世界に行く、そう言いかけて言葉を切る。 胸の奥底に、ちりつと熱いような痛みが走った。 ずっと見ないように、見ないようにと気をつけていたもの。わけが解らないという言葉で誤 あいまい まか 魔化して、曖昧なままにしておきたかった感情が、今になってはっきりとオレの中で形になっ てくる。 ヒカルの世界に行ってしまったら、もう一志と会えなくなるんだ。 そう思った瞬間、息が出来なくなるくらい、胸の痛みが強くなった。
られつ れている言葉の羅列を聞いていた。 ヒカルの声も一志の声も、言葉自体は聞き取れるのに、ぎちんとした意味に変換されない。 頭の中をただ通り過ぎるだけだ。 ヒカルが微かに息を吐く。うつむいて床に両手をついているオレの肩に、そっと手のひらを 乗せた。 「僕は僕だよ。こっちの世界での呼び名は、いろいろありすぎるみたいだけどね。僕達は、こ もら の土地に人間が住み着いて以来、一世代に一人、『月の ~ こを持つ人間を貰い受けている。僕 が見つけた『月の声』は聖だ。だから連れて帰る」 「勝手なこと言うなー 一志の声と共に、床に何か叩きつけられる。 ふた 奇オレは目だけで遠くの床の上に散らばった、リモコンの本体と蓋、飛び出した黒い乾電池を ス見た。 イ リモコンが壊れても、 (--> の画面は何ごとも無かったかのようにニ = ースを続けている。飛 ヴ ン 行機事故の続報は流れてこない。 ム オレの肩に手を置いているヒカルが、微かに笑った。 「勝手なことじゃないよ、聖が承知したんだから。『月の声』は、僕達に命じることが出来る