336 帆を操る一一十人ほどの下級船員のほとんどが、ナーザニンを狙う殺し屋だった。もう拉 ゅうよ 致する猶予もないらしい サトラップ 依頼主は疑いようもなく、ナ 1 ザニンの義兄である。後継者のなかった州長官がやむな あいしよう く十余年前に養子にとった甥であり、愛妾だ。野心あふれる青年にとって、後から生ま れた実子ナ 1 ザニンは、約束された州長官の座をおびやかす障害物としかうつらない。 男たちは上級士官を拘束し船を支配すると同時に、ナ 1 ザニンのいた船室にもなだれ込 んできた。 ナーザニンは短剣を握り、けなげにも立ち向かう態勢をとった。 「さあ来い 敵にたいして、ぐっと構えてみせた。 なんとも勇ましい だが相手は、こうした道の専門家である。手早くかっ確実に仕事を終えることしか頭に ない。逃げる道もない。 さすがに強気のナ 1 ザニンも、もう最期かと覚悟を決めかけたそのときだった。 拍子抜けするようなのどかな声がした。 「おや ? 不思議な構え方をするなあ」 見ると、扉にもたれて、マティアがにこにことおかしがっている。 ねら
324 薬が完全に切れたせいだろうか。ナーザニンの両目がしだいに生気を帯びてきた。 ( いい目だ ) あんど と、マティアは安堵した。もう何年かしたら、きっと手のつけられないやんちゃな貴公 子になることだろう。 一方、マティアの柔らかな声と明るい口調も手伝って、ナ 1 ザニンも結論をくだした。 もともと勘の鋭い少年である。 ひきよう ( この人は、卑法な男じゃない 一つ、どうしても気になることがあった。 ナーザニンは思いきって、きいてみることにした。 「ねえ、お前の名前は ? 「マティアだ」 「ねえマティア、あの男から、何か父上にことづからなかった ? マティアは首をひねった。 「いや、何も」 「そう。ちょっと気になってーーナ 1 ザニンは薬を盛られてる間、何かあの男に喋っ ちゃったんじゃないだろうか」 どうしてマケドニアくんだりまで行くことになったのか、あの男にあらいざらい話した かん しゃべ
と強がったものの、ナ 1 ザニンも多少の力不足を感じたらしい 初めて表情を暗くした。 「最初に、いやだってきつばり言えばよかったんだな」 マティアは胸を痛めた。 「言えなかったのか」 ナ 1 ザニンはうなずいた。 「最初は、きっとナーザニンが何か悪いことをしたから、その罰なんだと思ったんだよ」 マティアはうんざりと首を横に振った。 し」、つ なんとも理解不可能な世界だった。少年愛だの嗜好が高尚だのと説くにやけた男色家 は、カシモフも含めて皆ことごとく息の根を止めてやりたい。 ぎやくたい 「そんなのは、ただの虐待だ」 ア と、マティアは吐き捨てた。ナーザニンもうなずいた。 「ーーそうはっきりとわかったのは、ティッサフェルネスが誰だか知らないけど仲間を一 の 緒に連れてきた夜だよ。ナーザニンが、あれほど悪いことをしたはずがない 影 何日か、ろくに歩くこともできなかったあの屈辱と悔しさ、その他もろもろを思い出し 光 て、子供は唇のあたりを震わせた。 「でも、女の子だから、仕方ないのかと思ったんだよ。こういうものなのかなって」
328 逃亡することはできなかった。 くさり あの盲目の娘が鎖につながれているかぎり、マティアはカシモフのもとで仕事をするし かない 突然、ナーザニンが声をあげた。 「そうか、じゃあハリカルナッソスに戻ったら、マティアをその女の人と一緒にナーザニ ンがもらいうけるよ」 マティアは涙が出そうになった。 「優しいことを言ってくれる王子さまだな。なんていい子なんだ」 「できないと思ってるね」 マティアはうなずいた。 どれい この時代のカリア州では、奴隷の個人的なやりとりは大変むずかしい仕組みになってい た。一度買い上げた奴隷は、使い捨てるのが常識である。奴隷の譲渡や交換は、主要産業 にたずさわる奴隷商人の権益に反するからだ。 カシモフが簡単に首を縦に振るとも思えない。 だが、なんとかしてみせる、とナ 1 ザニンは言った。 「おせつかいで言ってるんじゃない。ナ 1 ザニンはね、前に一度だけ、卑怯なことをした んだ」 けんえき ひきよう
はが ハミルは自分が情けなくて歯噛みした。 やしき あの警備の厳重な邸なら、絶対に大丈夫だと信じていた。ナ 1 ザニンが自分から外に飛 やしき び出さないかぎり、拉致されるはずがない。そしてナーザニンはハミルの帰りをあの邸で ずっと待っていたはずだ。十歳まで自分を女の子として育ててきた父親を、なぜかひどく 恨んでいたノ 、リカルナッソスには絶対に帰らないと、何度も何度も言っていたではない カ ( ナ 1 ザ ) 門のところでしゃんと立って見送るナーザニンの姿はまだ鮮明だった。しまった、し まったと 、ハミルは我を忘れるほど自分を悔やんだ。 どうしてナーザニンを一人置いてきてしまったのだろう。自分を引き止めているリュシ アスがもどかしい ア「リュシアス」 「待て。もうマケドニア領内にはいないだろう。追うとすれば船だが」 影たか、どういう目的でナ 1 ザニンを追うのだ。 サトラップ 宮殿から誘拐され、地中海じゅうを連れ回されていたカリアの州長官の子ナーザニン が、ようやく救出されてハリカルナッソスに戻ったのだ。ナーザニンがリュシアス邸にい たという事実だけでも表ざたにされればやっかいなのに、このうえリュシアスがマケドニ
まとも 風は真艫ーーー ナ 1 ザニンとマティアを乗せた船は、一路ハリカルナッソスにむかって滑るように島を 離れた。 船倉に腰をおろしてからも、ナーザニンは不思議でならない。どうしてマティアはカシ モフから逃げないのだろう。 マティアは繰り返した。 「焼き印つきだからだよ。見ただろう ? 「でも変だよ」 人質をとられているといっても家族ではなく、本当に縁もゆかりもない娘らしい ア「なんで逃げないのさ」 「焼き印つきだからさ」 のと、堂々巡りである。 二人が並んで腰をおろしている船倉は薄暗い。 光 エーゲ海のどこにでもいるありふれた運搬船だった。オリープ油の匂いが船底に染みつ にお
330 自分に言い聞かせるかのような言い方だった。 「だいいち、逃げたらマティアが困るでしよう」 「もっともだ」 それに、とナーザニンは真顔になった。 「ナ 1 ザニンは女の子じゃない。男だ。一人前の男なんだ。もうあいつのおもちやじゃな 勝手にはさせない」 逃げずに戦う、という。 「あいっ ? 「ティッサフェルネスだ」 サトラップ カリア州の州長官ーーーナーザニンの父親である。 たが州長官といえば、その地域の王に等しい。戦うには最悪の相手だ。おまけに実の父 親ときている。 「どうやって戦うつもりだ」 かわいそうかなとは思ったが、たずねてみた。 連れ戻す以上、そこらへんのことをもう少しはっきりさせておかないと後味が悪い。 「策はあるのか、味方はいるのか」 「そんなもの」
316 「それにしては、さっきの主人にたいそうな口のきき方をするんだね」 皮肉げにたずねるナ 1 ザニンに、マティアはきわめて申し訳なさそうに弁解した。 「敬語が苦手でね」 「あいつの手下で働くのは楽しい ? 」 「まさか」 「人質にとられているのは家族 ? マティアは首を横に振った。ナーザニンの服が見つからない。 「違うが、同郷の娘だ」 「恋人 ? 「いや、縁もゆかりもない娘だ。ハ リカルナッソスの市場で初めて会った」 「でも人質なの ? マティアは見つけ出した服をナーザニンに投げてうなずいた。 が、ナーザニンは納得がいかない。 大切な家族を人質にとられているからこそ、主人の家から逃げられないのが 『焼き印つき』の宿命だった。縁もゆかりもない娘では、人質にならないではないか。 少年はむきになった。 「どうして逃げないのさ」
船がカリア州の制海権内に入ると、約束した小島にちゃんとした船がナーザニンを迎え にきた。 二人はオリープ油臭い運搬船から乗り移った。 「ナーザニンさま、ご無事で何より」 「女物の服は着ないー と、ナ 1 ザニンは用意された服を突き返した。 サトラップごりようせん 州長官の御料船である。 選びぬかれた材質の木材に、彫刻が至る所にほどこされている。調度品も見事だ。食事 ぶどうしゅ アも葡萄酒も申し分なさそうだ。 どれい だがマティアは奴隷であるから、ナーザニンの部屋がある上層階には出入りできない。 の船底をうろついているうち、鼻がうごめいた。 ( 妙だな ) 案の定、乗り移ったとたんに広い甲板が抜けそうな騒動になった。 にすることになる。 かんばん
334 りんとした表情が頼もしい マティアは嬉しかった。 ナ 1 ザニンにそんなことはできないとわかってはいたが、それでも、こうして他人に気 遣われたのは何年ぶりだろう。 「ありがとうよ、王子さま」 うふっと照れたような笑顔を見せたナーザニンを見て、マティアは思った。陰ながらで 何かこの少年の力になれないものだろうか そして、そんなふうに思えることが嬉しかった。 まだ自分も、すさみきってはいないらしい 「仕事をしてて、こんなにいい気分になったのは初めてだな」 「そうなの ? ひとみ とたんにナーザニンは好奇心いつばいの瞳をくりくりさせた。 「じゃあ、いつもはどんな気分で仕事するの ? 「もちろんーー」 死に神と恐れられる男は、その大きな肩をすくめてほればれするような笑顔を見せた。 「最低最悪の気分さ」 だが、その言葉に反したマティアの鮮やかな仕事ぶりを、ナーザニンはこのあとすぐ目 うれ