はが ハミルは自分が情けなくて歯噛みした。 やしき あの警備の厳重な邸なら、絶対に大丈夫だと信じていた。ナ 1 ザニンが自分から外に飛 やしき び出さないかぎり、拉致されるはずがない。そしてナーザニンはハミルの帰りをあの邸で ずっと待っていたはずだ。十歳まで自分を女の子として育ててきた父親を、なぜかひどく 恨んでいたノ 、リカルナッソスには絶対に帰らないと、何度も何度も言っていたではない カ ( ナ 1 ザ ) 門のところでしゃんと立って見送るナーザニンの姿はまだ鮮明だった。しまった、し まったと 、ハミルは我を忘れるほど自分を悔やんだ。 どうしてナーザニンを一人置いてきてしまったのだろう。自分を引き止めているリュシ アスがもどかしい ア「リュシアス」 「待て。もうマケドニア領内にはいないだろう。追うとすれば船だが」 影たか、どういう目的でナ 1 ザニンを追うのだ。 サトラップ 宮殿から誘拐され、地中海じゅうを連れ回されていたカリアの州長官の子ナーザニン が、ようやく救出されてハリカルナッソスに戻ったのだ。ナーザニンがリュシアス邸にい たという事実だけでも表ざたにされればやっかいなのに、このうえリュシアスがマケドニ
278 しまった、とハミルは腰を浮かせた。 あわててリュシアスが腕をつかまなければ、この血相を変えた若者は、そのままどこか へ飛んでいってしまっただろう。 「落ち着け、どうするつもりだ」 「ハリカルナッソスだ」 サトラップ ナーザニンは連れ去られたのだ。父親の州長官か、それとも義兄のしわざか。ベルシア の西端、カリア州の相続争いにまたしても巻き込まれたに違いない。一刻も早く、カリア 州の州都ハリカルナッソスに行ってやらねば 「帰るのはいやだと言っていたんだ」 リュシアスはハミルの腕をつかまえたまま、ミエザから飛んできた使者に詳しい事情を 説明させた。 「拉致されたというのか ? 警備にぬかりがーー」 「いえ、手落ちがあったとは思えませぬ。四日前のことです。とにかく白昼、部屋から忽 ぜん 然といなくなられてしまい、事故ではないかとほうばう捜させましたが、手がかりさえ見 つかりません」 男は意味深長な目でリュシアスを見た。リュシアスは暗い表情になった。 ( 内部の犯行ーー・妻のキュンナがひそかに手引きしたとでも言うのか ? ) こっ
まとも 風は真艫ーーー ナ 1 ザニンとマティアを乗せた船は、一路ハリカルナッソスにむかって滑るように島を 離れた。 船倉に腰をおろしてからも、ナーザニンは不思議でならない。どうしてマティアはカシ モフから逃げないのだろう。 マティアは繰り返した。 「焼き印つきだからだよ。見ただろう ? 「でも変だよ」 人質をとられているといっても家族ではなく、本当に縁もゆかりもない娘らしい ア「なんで逃げないのさ」 「焼き印つきだからさ」 のと、堂々巡りである。 二人が並んで腰をおろしている船倉は薄暗い。 光 エーゲ海のどこにでもいるありふれた運搬船だった。オリープ油の匂いが船底に染みつ にお
こうして多少の難儀はあったものの、ナーザニンを乗せた船はハリカルナッソスの港に 無事戻ってきた。 マティアは別れ際、甲板の上でナーザニンにこう言った。 水平線に、日が沈みかけている。 「忘れるな。俺は味方だ」 アナーザニンはきよとんとした。 「味方 ? の「ああ。しがない焼き印つきだし、二度と王子さまには会えないかもしれない。無力だ が、それでも俺は間違いなくお前さんの味方の一人だ。忘れるなよ」 ナーザニンはうなずいたが、どこか変な顔をしてつぶやいた。 「味方、か」 るまで床におろしてやるつもりはない。 別の殺し屋が標的を探して扉を蹴り開けた。 「取り込み中だ ! マティアに一喝され、男たちは鳩が豆鉄砲をくらったような顔になった。 かんばん
302 みよう 粗末な扉を開けると、閉めきられた漁師小屋の中は薄暗く、妙な具合に暖められてい る。 プラチナ 横になっていたらしいカシモフが寝台の上から声をかけてきた。寝乱れた白金色の長 髪がさらと流れた。 「遅かったな」 ロの中でかんでいるのか、アンジの葉が甘ったるく匂う。 どれい 男奴隷マティアは、外套を脱いだ。 船からおりたばかりで、潮の香がきつく染み込んでいる。 「風に嫌われた」 元来は陽気な男だが、カシモフの前では極端に言葉が少なくなる。 この男色家の主人が、体質的に好きでない。 ベルシアの西端、カリア州の州都ハリカルナッソスを飛び出したマティアの船は、渡る 七 ◆かいと - っ にお
としたら、リュシアスやハミルに迷惑がかかる。ナーザニンはそれを気遣ったのだった。 マティアは言った。 「俺が今回受けた指示は、受け取った王子さまを無事にハリカルナッソスに連れ帰れとい うそれだけだ。カシモフが何かほかに言ってたかな 結婚なんかさせないというあだつほいせりふを思い出し、マティアが食傷ぎみの表情に なった。ナーザニンが心配顔になった。 「どうしたの ? 「消化の悪いものを食うと、こうなるんだ。どうやら胃の腑が弱いらしい 「そんなふうには見えないけどね」 「そうかい ? 」 ともかくナーザニンの表情が和らいだ。安心できたらしい ア「あなた、いい人だね」 マティアは顔をほころばせた。 の「出会う人みんながみんな、そう思ってくれれば嬉しいんだがな」 「ねえ、あんな男から逃げて、自由身分になりたいと思わないの ? 貧乏だって、奴隷よ 光 りはずっとましだよ」 「そりやそうだ」 うれ どれい
332 「ばか言え、男だろうが女だろうが マティアはロをつぐんだ。 自分がいやになった。説教をたれてどうなるというのだ。 「彼が好きだったんだよ」 と苦笑して、ナーザニンはひざを抱え込んだ。 「彼しかいなかったんだーーナーザニンはね、いつもあの部屋で一人だった。ティッサ フェルネスはたまにふらっとやってきては、話をしたりして優しくしてくれたんだ。父親 面して、ナーザニンが大きくなるのを、それはそれは楽しみにしてた。だからナーザニン ばかだね、信じてたんだ。彼があんなこ は、いつでも彼が恋しかった。大好きだった とをするまでは、本当に彼が大好きだったんだよ」 長いまっげが涙で湿った。 「ナーザニンは女の子じゃない。男なんだ。もう一人前の男なんだーーあいつのおもちゃ じゃないーー逃げずに戦う」 マティアは深く息をついた。 船底に大きな揺れはない。船は滑るようにハリカルナッソスにむかってエ 1 ゲ海を南下 している。 波を切るかすかな音に、甲板で男たちがうなる海の歌がまじった。切ない響きだった。 かんばん
328 逃亡することはできなかった。 くさり あの盲目の娘が鎖につながれているかぎり、マティアはカシモフのもとで仕事をするし かない 突然、ナーザニンが声をあげた。 「そうか、じゃあハリカルナッソスに戻ったら、マティアをその女の人と一緒にナーザニ ンがもらいうけるよ」 マティアは涙が出そうになった。 「優しいことを言ってくれる王子さまだな。なんていい子なんだ」 「できないと思ってるね」 マティアはうなずいた。 どれい この時代のカリア州では、奴隷の個人的なやりとりは大変むずかしい仕組みになってい た。一度買い上げた奴隷は、使い捨てるのが常識である。奴隷の譲渡や交換は、主要産業 にたずさわる奴隷商人の権益に反するからだ。 カシモフが簡単に首を縦に振るとも思えない。 だが、なんとかしてみせる、とナ 1 ザニンは言った。 「おせつかいで言ってるんじゃない。ナ 1 ザニンはね、前に一度だけ、卑怯なことをした んだ」 けんえき ひきよう
312 「ハリカルナッソスに帰れるのが嬉しくないようだ。マケドニアに連れてこられた経緯も いっさいわからないとよ」 扉が閉まった。 「へえ」 と、マティアはわかったようなわからないような、あいまいな声を出した。 ゅうかい 誘拐されていた子供がようやく家に帰れるというのに、嬉しくないという。だがなんと なく理由はわかりそうなものだ。 ( どうやらまた気の重い仕事のようだな ) 気が晴れ晴れとする仕事など今まであったためしはないが、女子供がからむとなおさら 気が重い。 まだアンジの葉の匂いが甘ったるく残っている。 マティアは天井を仰いだ。 ( 窓はないのか、このばろ家、くそ ) ふと、運ぶべき荷物を見てどきりとした。 サトラップ 州長官の一人息子ーーナーザニンが、ばんやりと目を開いてこちらを見ている。 ナーザニンといえば誘拐されるまでの十年間、用心のため女の子として育てられていた ひとみ そうだが、たしかに少女と言ってもとおるだろう。幼い大きな瞳は、まっげが濃く影を落 にお うれ
346 それが、最後のせりふになった。 さんばし 桟橋に迎えにきた輿に乗り込むとき、ナーザニンはもう一度だけマティアを振り向い ひとみ た。そしてそのきらきらと輝く瞳で、小さくうなずいてみせた。 なぜ、あのとき、少年の必死の覚悟を読み取ることができなかったのか。 マティアには、そのあと何年たっても悔やまれることになった。生まれもった気質は、 ちょっとやそっとのことでは変えられない。父親から逃げずに戦うといったん決めた以 上、ナーザニンが味方が現れるのを悠長に待ったり、泣いて勝負をごまかしたりするよう なことはありえなかった。 ナーザニンは、実の父親から逃げずに戦い、ひたすら勝利をおさめるために、一人ハ 「帰りの便は、ちょっとばたばたしたけどな」 ううん、とナ 1 ザニンは首を横に振り、近づいてくる陸地のほうを振り返った。 ナーザニンが生まれ育ったハリカルナッソスの壮大な宮殿が、少し離れた丘の上にタ日 をあびてそびえ立っている。 十歳の少年が、まるで覚悟を決めたようにつぶやいた。 「潮時だったんだよーー こし