あき 今夜はとても眠れそうにない、とため息をつくから、ルデトは呆れてしまった。 きようだい この兄妹はまるで恋人同士のようで、ときおり目に余るものがある。 「お前らちょっとおかしいぞ」 と忠告すると、マティアはまったくだ、と目を細め、腰面もなく言った。 「フィエ 1 ラは俺の宝だ」 そして、ちょっと肩を落としてつぶやいた。 「だけど、お前になら、やってもゝ しいと思ってたのにな」 ルデトは虚をつかれた。 小さなフィエーラが女を失うことにまで、考えが回らなかったのだ。 「すまん」 「ばか。このくそ真面目。そこで謝るんじゃない ア マティアは草の上にごろりとあおむけに寝転がった。 ラ「俺だってティナに何度か悪さをした。なあ ? 」 の赤くなってうつむいたティナに、マティアは片目をつぶってみせた。 「いつまでもフィエーラ、フィエーラじゃまずいから妹離れしようと思ったんだが、結局 まね 光 ティナに嫌われただけだったな。つまらん真似して、俺のほうこそすまなかった」 謝られたティナが驚いた。 い、なけ
むろん、ルデトと二人だけの秘密だ。 いちじく 「無花果食べる ? ティナ姉さま」 「ううん、あとでね」 フィエ 1 ラはもぐもぐとほおばりながら首をかしげた。 「マティアもルデトも遅いねえ。何してんだろう ? 」 むじやき ティナは無邪気なフィエーラの肩を抱いた。 妹同然にかわいがってきたフィエーラ。自分が突然いなくなったら、さぞさびしい思い をさせるに違いない。 長老会議が終わった。 一番最初に集会所を飛び出してきたルデトは、心配顔で待ちわびていたティナに明るい 笑顔を見せた。 長老たちの寛容な結論がおりたのだーー仕方がない。若者にはよくあることじゃ。マ きようだい ティアとフィエーラの兄妹には、それぞれふさわしい相手をよそから探すことにしよう。 なあに、二人とも評判の若者だから、よき相手がすぐに見つかるじやろう。 ルデトのあとから出てきたマティアは、ついさっきまでだったティナの鼻をつま むなり笑いながら言った。 けんか 「ルデトと喧嘩して泣きついてきても、間に入ってなんかやらないからな」
「だがな兄弟」 と、マティアは不意に真面目な顔になった。 、なずけ 「ティナは生まれたときからの訊婚だ。いくらお前に頼まれたからって、猫の子じゃあ るまいし、簡単にやるわけにはいか ものの道理だ。 む、とルデトが困った顔になった。 マティアは完全におもしろがっている。 「そんなにティナがほしいのか ? 」 ルデトはやむなくうんとうなずいた。もう格好をつけている場合じゃない。 隣にいたティナのほうが、恥ずかしくて真っ赤になった。 「そうか」 ほまえ 微笑んだマティアに、驚いた様子はなかった。 ばりばりとこめかみのあたりを指でかきながら、 「痛いなあ」 と、少し離れたところで無心に花摘みをする妹のフィエーラを見つめた。 「俺がティナに婚約を解消されるのも痛いが、それは仕方ないとして、お前に婚約を解消 されたフィエーラがいったいどこに嫁に行くことになるのか : : : 」
ア目を覚ましていたらしく、父コテラスがかすれた声を出した。 「来たか」 の ティナはただうなずいた。 影 どうき 動悸が大きくなり、声を出せばうわずりそうだった。ティナは唇をかんで心を静めた。 光 コテラスがつぶやいた。 「とうとう来たなーーアンフィポリス周辺の状況が、思った以上に切迫しているのかもし 系に生まれた従妹フィエ 1 ラをそばに置き、住民の気持ちを一つにするためおもしろいよ うに利用しているという。 「アル・フィエーラを ? フィエーラは、好戦派の男たちの頭の中ではまだ十一一、三歳の子供として生きている。 どう考えてもおもしろくなかった。ルデトのすることなすこと、愚直なトラキア人とし ては応すぎるのだ。 まっさっ 「裏切り者のルデトは抹殺するべきだ」 強い声が、他の部族から上がりはじめた。 そのルデトが、戦陣に現れたという。
打ち消しがたくマティアの胸を支配し続け、ことあるごとに熱く胸を焼いた。 やごて その熱さときたら、カシモフの押した焼き鏝の比ではない。 自分の名を叫び続けるフィエーラの最後の泣き声が聞こえ、マティアはあわてて伏せて いた視線を遠くへ投げた。あわてたナーザニンは謝った。 「ごめん」 しゅんとした。 「つらいことを思い出させたね」 マティアは笑った。 なんとも感性の鋭い少年である。 「いいんだ。俺だって未練があって、仕事でよその街に行くたびにちらちらと捜してはみ どれいしようふ るんだ。だが、奴隷か娼婦に墜ちた妹を簡単に見つけ出せるほど、この世界は狭くない アよ」 「無事だといいね」 の「そうだな」 妹フィエーラは、生きているかどうかわからない 光 やしき だがカシモフの兄の邸にいる盲目の娘は、マティアが逃亡すれば間違いなく殺される たしかに今生きているものを、使えないから処分するというのだ。
「問題は、長老会議だ」 応援するからな、と優しい顔に書いてある。 しかし頭が切れて商人肌のルデトは、木材貿易を手広く広げてハトウー族の財政を一手 に担っているフィエーラの父のお気に入りだったし、一方、頭のてつべんからつま先まで 武人タイプの勇敢なマティアカノ ゞ、、トウー族の戦闘指揮官であるティナの父のお気に入り であることに変わりはない。 つまり、ルデトがフィエーラと一緒になり、マティアがティナと一緒になることは、そ れまでハトウー族にとって、まったく筋の通ったわかりやすい話だった。 本人たちが、一番そこらへんの事情をよくわかっている。それをそっくりくつがえそう アというのだから、たしかにエネルギーのいる話である。 ラ召集されたハトウー部族の長老会議が終わるのを待ちながら、ティナは外で胸のつぶれ のる思いたオ 影 族頭の一人であるティナの父は昨夜、二人の言い分を一応は認めてくれた。 光 だが長老たちの意見はどう出るかわからない。 会議の結果が思わしくなければ、今夜、荷物を持って村を出る心づもりができていた。
「まあ待て。今からお別れのキスをするところだ」 ティナもあわてたし、ルデトはもっとあわてた。 「ばか言うな。早くティナを放せ」 ) なずけ 「いやだ。今はまだ俺の婚だ」 おうじようぎわ 「お前、往生際が悪いぞ」 マティアはティナを抱きすくめたままおかしそうに言った。 「だって、どうせお前のことだ。長老会議でちゃんと認められるまでは手を出せずにじっ とがまんしてるんだろう ? 真っ赤になったルデトが、問答無用でマティアに跳びかかっていった。 じゃれあう二人の横で放り出されたかたちになったティナは、呆れてしまった。 ( いったい : : : 大人なんだか子供なんだか : : : ) ア騒ぎに気づいたフィエ 1 ラが摘んだ花を放り出して、おもしろがって草むらを駆けおり ラてくる。 の「フィエーラも ! フィエーラも ! 」 とびよんと勢いよく跳び込んできた最愛の妹に、マティアは見事に押し倒された。しばら くねだられるままに草むらの上を転がったあと、笑い転げている彼女をひざの上に抱え直 して、髪についた葉っぱをとってやりはじめた。 あき
閉じた。 ( 小さな泣き虫フィエーラが、不思議な女性になったものだな ) ルデトの体が、少し休ませてくれと言っている。 いっからそんな泣き言を言っていたのだろう。 「フィエ 1 ラ」 「何 ? 「ーーーフェニキアの神話を知っているか」 「神話 ? 「ああーーータニトの伝説だ。処女神タニトは、フェニキア神話の聖母ーー聖なる母で、別 の名をーー 言葉が途切れた。 「別の名を ? ー サラはルデトの端正な顔立ちをのぞきこんだ。 ルデトは、泥のような眠りに引きずりこまれていた。 その夜おかしなもので、普段夢など見たことがないルデトが、サラのひざの上でフェニ
282 ところが、念のためにランプをもっと奥まで差し入れると、ルデトの長身が寝台の上に 腰をおろしている。 サラはばあっと笑顔になった。 「ルデト ! 」 ルデトは顔を上げた。 「フィエーラ ? 」 飛んでいったサラは抱きっこうとし、あやうくスープを取り落としそうになった。ラン プとスープを寝台の横の台に置いて、あらためてルデトに抱きついた。 が ) とう ルデトは分厚い外套を着たままで、それでなくても大きな背中には手がまわらない。 「ごめんね、やすんでた ? 「びつくりしちゃった」 首にしがみついて、涙ぐんだ。 「よかったーー」 ルデトは謝った。 「すまない、 一息ついてからすぐに顔を出すつもりだった」 街道の、乾いた埃の匂いがする。 ほこりにお
( 失恋、か ) みれん とたんに未練たらしく浮かぶティナのさまざまな姿を、マティアはあぶでも追い払うか のように頭から振り払おうとした。フィエーラがびつくりした。 「どうしたの、マティア兄さま」 マティアは切ない笑顔になった。 「ま、お前がいるからいいかな」 うれ なんだかわからないが、フィエ 1 ラは嬉しかったらしい 「うん。 と、満面の笑みを浮かべた。そのかわいいこと。 ( まいったな、これじゃあ、いつまでたっても妹のお守りだ ) そしてふと、真剣な表情になってつくづくとティナを見た。 「本当はこの何か月か、気が気じゃなかった」 ルデトが首をかしげた。マティアは晴れ晴れとした表情で言った。 「なんだかお前たちが、お互いの気持ちをこのまま無理やり圧し殺しちゃうんじゃないか と思ってな」 「マティア」 マティアは片目をつぶって微笑んだ。 ままえ