とに軽々しく誰とでも練習するわけにもいかん」 ハミルは寝袋から顔を出した。 アレクスの声が低くて、よく聞き取れない。 「なんの心得だって ? 」 「女を抱く心得だ」 ああ、とハミルが知ったかぶりの変な声を出した。 「女ね」 アレクスは頭を上げてハミルにたずねた。 「あれは、ぶつつけ本番で大丈夫なものなのかな ? 」 大丈夫さ、と答えた ( ミルの声がちょ「と上ず「た。 ( ミルは一つ払いをして言「 ア「大丈夫、体がひとりでにことを進めてくれる。心配することはない」 「そんなもんかな」 「そんなもんだ」 と、もったいぶって答えたハミルは、寝袋の中に深々ともぐり直しながら言った。 光 「おい、俺はもう寝るからなーー」 するとアレクスがそっとたずねた。
ア目を覚ましていたらしく、父コテラスがかすれた声を出した。 「来たか」 の ティナはただうなずいた。 影 どうき 動悸が大きくなり、声を出せばうわずりそうだった。ティナは唇をかんで心を静めた。 光 コテラスがつぶやいた。 「とうとう来たなーーアンフィポリス周辺の状況が、思った以上に切迫しているのかもし 系に生まれた従妹フィエ 1 ラをそばに置き、住民の気持ちを一つにするためおもしろいよ うに利用しているという。 「アル・フィエーラを ? フィエーラは、好戦派の男たちの頭の中ではまだ十一一、三歳の子供として生きている。 どう考えてもおもしろくなかった。ルデトのすることなすこと、愚直なトラキア人とし ては応すぎるのだ。 まっさっ 「裏切り者のルデトは抹殺するべきだ」 強い声が、他の部族から上がりはじめた。 そのルデトが、戦陣に現れたという。
あたりはもう西日もあたらなくなり、視界がきかなくなりつつあった。何十、何百もの 盛り土が、ものいいたげに闇にとけようとしている。 突然、ティナが悲しみに襲われたのは、ささいなことに気づいたからだった。 ティナは、遠ざかる墓地を振り返った。 墓を守るものなどいない。 ( 春になれば、ここは皆、草原に埋もれてしまう , ーー ) 土盛りも、名を書いた石さえ見失うに違いない。風がわたる新緑の草原が、ティナには 見えるようだった。 ( もう、父上には会えないのだ ) あえかな吐息とともに、肩からカが抜けていった。ティナは我知らずのうちに、この地 に連れてきてくれた男に感謝したくなっていた。 打「すみませんでした」 唇が震え、細く柔らかな本来の女らしい声がもれた。 のとたんに声がつまり、涙があふれかけた。 驚いたのだ。 ( 私に、まだこんな声が出せたなんてーー ) リュシアスがあわてて手綱を引いた やみ
290 将来、親友の妻となるべき女性の髪だった。一度でいい、あのきっちりと編まれた豊か な髪を根元から解き放ち、日の光の下、指で梳いてみたい。 たぐい 大人になった今、ルデトはその目でいろいろな金銀細工を見てきた。宝石、貴石の類も きんし 見る機会が多々あった。磨きぬかれた金塊、目もあやな異国の装飾品、錦糸でほどこされ ししゅう こうち た刺繍、大理石の巧緻な象眼細工ーー それでもなお、少年のころの信念は少しも揺るがない。 ( ティナ ) 風に揺れるあの人の金の髪ほど、そして、その髪に縁取られたあの人の笑顔ほど、光満 ちあふれるものはない 「おはよう」 リュシアスは笑顔で声をかけながら、天幕の入り口を開いた。 まぶしい朝の光がさしこんで、ティナは目を細めた。 「おはようございます」 なんとも言えぬまろやかさを帯びた声だった。ティナの本来の声なのだろう。リュシア スは思わず彼女を見て笑んだ。
348 土間から続く屋根っきの裏庭では、晩餐の準備だろうか、いろいろな肌の色の奴隷たち が忙しげに働いている。マティアを見て声をかけてくるものも何人かいた そばの井戸端で足を洗い、台所かたにまわると、土間の隅の暗がりに、一人の痩せた少 女が座って豆をさやから出していた。 何週間か前にマティアが別れを告げたときも、まったく同じ場所に座り、まったく同じ ことをしていた。豆の種類まで同じに見える。 ひとみ 琥珀のような二つの瞳が、大きく美しく見開かれている。 が、焦点は合っていない。 マティアが声をかけようとしたとき、豆が一つ、手の中から飛び出した。 少女はあわててあたりを手探りで捜しだした。とっさにのばした手がほかの奴隷に踏ま れた。皆、目の回るほど忙しいのだ。豆は見つからない。 少女は盲目だった。 マティアが拾ってそっと手の中に握らせると、驚いた少女は大きな手を探ってそっとた ずねた。 「マティアさま ? 」 マティアは驚いた。まだ声を出していない。 「よくわかったな」 ばんさん
日だまりのべンチで、パピルスの書き物を読んでいた少年ルデトは顔を上げて驚いた。 「どうした」 何かあったか、と心配したのは、やはりティナの様子がおかしかったからだろう。 ティナは急に疲れを覚えて、ルデトの隣に座り込んだ。 「マティアがこのごろおかしいのよ」 「なんだ、諶。新同士の痴話喞嘩か」 ルデトの声はまだ変声したばかりで、マティアほど太く響かない。 ティナはなんと説明したらいいものか、ちょっととまどった。 ア「そうじゃないの。なんだか体をもてあましてるみたいで : ・ ラそれだけで、ルデトは何事か察したらしい。彼もマティアと同い年だからわかるのだろ のっ 影 だが、何も言わなかった。ティナはちょっと顔を赤らめながらも言い切った。 光 「あんなの、ただの好奇心だわ」 ルデトはまたパピルスに視線を落とすと、急に大人びた口調になった。 な日々を送っていたのである。
なんで自分はこんなところにいるんだろう。 だか、リュシアスの表情が異様に硬くなった。 アレクスは驚いた。みるみる怒りの表情を浮かべたリュシアスカノ 、ゝ、、ミルの腕をむんず とっかみ、問答無用でその場を離れたからだ。 なごやかな空気は一 ~ 転した。リュシアスはハミルを誰にも声が届かないところまで引き ずってくると、声を圧し殺して問い詰めた。 「こんなところで何をしている。まさかお前、アレクスに仕官するつもりじゃないだろう な」 ハ、、、ルはいわ」 0 リュシアスが何をそんなに怒っているのかわからない。 「いや、べつにそういうつもりじゃないんだ」 アちょっとした行きがかりで : : : と説明しようとしたハミルを、リュシアスは乱暴にさえ ラぎった。 の「ちっとは親の身になって考えろよ」 「親 ? 」 光 これにはハミルもむっときた。ムフさら親がどうのこうのなんて、こうるさいことは一言わ れたくはない。説教なんてまっぴらだ。
104 それに、とコテラスは表情を硬くした。 「他族の手にかかれば、やつは殺される」 うなずいたものの、ルデトを思うだけでティナの心は千々に乱れた。 ( 情けない ) とは田 5 , つ。 だが、この揺れをどう抑えることができるだろう。数か月前にフィエーラの件で再会し みけん たときもこのざまだった。普段のように眉間のあたりに力をこめ、男らしく相手をにらみ しゃべ つけることができそうもない。声にも震えが出そうで、いっそ自分は喋らないほうがいし だろうと心を決めるしかなかった。 ルデトの声がした。 おじうえ 「叔父上、ルデトです」 「入るがいし 入り口の幕を払って、ルデトの長身が天幕の中に入ってきた。 寝台の上に座る父コテラスに寄り添うように立っていたティナとまず目が合い、ルデト は布い顔になった。ティナがまた痩せたのが明らかだったからだ。
フィエーラにはよくわけがわからない。 まあるい目を、さらに丸くして兄マティアにたずねた。 うれ 「どうしたの ? ティナ姉さまはどうしてこんなに嬉しそうな顔をしているの ? 何かい いことがあるの ? お祭り ? しばらくそうして笑いあっているうち、ふとルデトが何か忘れていたことを思い出した やしき かのように、ティナの手を引いて邸に入った。 歩調が妙に速い。 「どうしたの ? 客用の食器がおさめられた戸棚の陰で突然ルデトが身を屈め、そっとそっと唇が重ねら れた。 女中たちの声がふっと遠くなる。 アしばらくして、ようやく安心できたルデトが満足げに腕の力を抜くと、ばんやりした ラティナの体がそのままへなへなと床に崩れそうになった。 の驚いたルデトは支え直した。 「ティナ ? 光 そんなに急にキスをしたり、力を抜いたりしないでほしい。 きつばりと文句をつけたいところだったが、ティナは声さえ出せなかった。
「何か聞こえましたか」 アレクスがうなずいた。 おび 「怯えている」 低く言い放った声は、ハミルと同じ年ごろだとはとても信じられないほど余韻を含んで 四人は、岩棚の下で火を細くおこし、夜露をしのいでいる。 ふくろう 夜の森は、確かめるまでもなくしんと静まり返っていた。梟の声さえない。足元の焚き び 火の音だけが、やたらに大きく聞こえた。 ( 静かだな ) ここにはなぜか、アレクスと二人の部下しかいない。 いくさ が、戦の最中にはぐれたなどといううらぶれた様子はなかった。どうやら若い司令官が ていさっ 自ら偵察に飛び出して、日のあるうちに陣に戻れなかったというところか。 ア キ雰囲気では、まだこのあたりで本格的な戦闘は繰り広げられていない。 ( これからどうする ) の たいまっ 影ハミルは考えた。部下の男たちは、松明を高くかかげたハミルをこのあたりの猟師か何 光かだと思い、情報を得るためにここまで連れてきたのだろう。 が、アレクスは今や、自分が誰か見抜いている。 よいん りようし