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検索対象: 光と影のトラキア
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1. 光と影のトラキア

られた傷がもとでの失明だった。 どれいがかり 奴隷係は嘆息した。 「こりゃあ、処分するしかないな」 ( 処分ーー ? ) てかせ マティアは、このとき初めて手枷足枷の鎖を振り回して大暴れした。 多分に、自暴自棄になっていたに違いない。たまたま兄の邸に遊びにきていたカシモフ がこの騒ぎを聞きつけ、おもしろがって現れた。 カシモフは一目でこの屈強の男奴隷が気に入った。 「助けてやろうか」 と、男たちに押さえつけられているマティアにもちかけた。 「なあに簡単さ。お前が焼き印つきになればいし 「焼き印つき ? 「そうだ。そうすれば娘を人質として生かしておける , ーー」 カシモフにとっては娘なんかどうでもよかった。この自分好みの男奴隷の胸にじりじり 、うっすらあがるであ と焼き印を押しあて、うめき声をあげさせてみたい。肌を焼くい ろう火煙を想像し、カシモフはもういてもたってもいられなくなった。 家の当主である兄にねだった。 くさり やしき

2. 光と影のトラキア

「マティアさま 少女は手を放そうとしなかった。微笑んだマティアは、少女の頭にそっと頬を寄せた。 「元気だったか ? マティアは知っている。この小さな頭の中では、いつも二つの思いがせめぎあっている のだ。 一つは、マティアが自分のことなど見捨て、もう二度とここへは帰ってこないのではな いかという不安だった。マティアが戻らなければ、盲目の自分など即刻処分されることに なる。もともと二人には縁もゆかりもない。マティアの逃亡は当然考えられることだっ た。マティアが自分のために焼き印つきになったことのほうが、普通なら考えられないこ となのだ。処分されたくはないーー死ぬのは怖い。 そしてもう一つ彼女を苦しめていたのは、マティアにたいする罪悪感だった。マティア アが焼き印を押されたうえ、意に染まぬ非情な仕事を続けなければならないのは、自分が人 キ 質にとられているためにほかならない。自分さえいなければ、マティアは自由になれる。 の この二つの感情が、お互いをぎりぎりのところでせめぎあい、傷つけあいながら、優し 影 い少女の胸をたえず苛んでいた。 マティアもそのことをよく知っている。 あたりの目をはばかりながら腰の袋を取り出したマティアは、いたずらつばく言った。 さいな ほまえ ほお

3. 光と影のトラキア

もないのに目が見えない奴を飼「ているのかと、貴族仲間に笑い者にされてはたまらん からな」 にらみつける気さえおこらず、マティアは気を抜いた。 カシモフ兄弟のような卑劣な人間に、奴隷として買われてしまった自分の不運は、自分 で背負うしかない 「もう行け、心配しなくても、こんな下種なことは誰にも口外しない」 「おかしな男だ」 あざわら カシモフは嘲笑いながらマティアのそばに戻ってきた。 「同郷とはいえ、見も知らない女のために焼き印を押されるとはな。きさまは、これほど 自由にエーゲ海を往来できながら、俺の家から逃亡しようとは思わないのか ? 「思わん」 「あのトラキア娘を処分されるから ? マティアは顔を上げた。 「処分という一一 = ロ葉を使うな。奴隷だって人間だ。家畜じゃない」 「だが、縁もゆかりもないんだろう ? そのうえ目がつぶれているときている。なんの価 値もないー 「人間の価値は量れるものじゃない」

4. 光と影のトラキア

314 『焼き印つき』とは、それぞれの特殊能力を生かして自由に行動ができる男奴のこと 自分の裁量で一人で船に乗ることも、異国に渡ることさえできる。 だが、主人の家に自分の大切な家族を残しているので、逃走することは不可能だった。 ようしゃ 一人で逃亡すれば、残された家族は容赦なく処分される。一種の人質である。たいていの 場合、人質となるのは奴隷の妻子だった。 くさり この種の奴隷になれば、普通の家奴隷のように鎖につながれることはないが、奴隷であ る証拠に、胸に主人の家紋の大きな焼き印を押された。だから俗に、『焼き印つき』と呼 ばれている。 マティアはその『焼き印つき』奴隷だった。 「逃げられないんだね ? 「そうだ」 と、マティアは自分の服の前をあわせた。 カリア州あたりの奴隷は、アテネの奴隷と違って金をためて自由身分を買い戻すことも 許されない。

5. 光と影のトラキア

120 自分はおそらく、もう半分死にかけているに違いない

6. 光と影のトラキア

「あなたが憎い すまない、とリュシアスは謝罪した。 「憎んでいい。殺したいなら殺してもかまわない。だからそのかわり、もう髪を切らない と約束してください。そんなふうに髪を切っちゃいけない。そんなふうに自分で髪を切っ たって、なんにもならないじゃないか」 「安心できるんです」 「違う、不安から逃げおおせた気になるだけだ。髪がのびたらまた不安になるのでしょ う。いつまでその髪を切り続けるつもりです」 「でも、時がたてば , ーー」 「時はたった。もう十分だ」 わかりませんか ? と、リュシアスもティナを見つめた。ティナはリュシアスをただ見 ア上げた。 「そうやって髪を切ることで、あなたは逆に痛みを心の中にためこんでいるんだ。痛みを の外に吐き出せば、もっと楽になれる。やってごらんなさい。もう、大丈夫です。怖い目に 妣は二度とあわさない。もう、大丈夫だから ばんやりしているティナの肩に手を置こうとして、リュシアスは自分の手が血でひどく 汚れていることに気づいた。

7. 光と影のトラキア

と、カシモフはこともなげに言う。 マティアは吐き気を覚えた。 「失せろ」 「はいよ ) 素直に引き上げかけたカシモフだったが、扉を開けたところで、何か思い出したように 振り返った。 やしき 「ところで、『焼き印つき』のマティア君よ。きさまの女は、まだ俺の兄の邸にいるん だったかな ? 」 マティアは怖い顔になった。 自分の保身を考えたとき、カシモフはマティアに必ずこの質問をする。一応釘をさして 口止めをしておこうというわけだ。マティアはすっとばけこ。 ア「さあな」 「おや、あの目のつぶれたトラキア美人は、お前の妹だったかな ? それとも恋人 ? ー の「違う」 するとカシモフは、ますますおかしそうな顔になった。 光 違うはずはないと思っている。 「ほう、お前。ー リこま縁もゆかりもない女だというのか。ではやはり処分するとしようか。用

8. 光と影のトラキア

重心を失ったアレクスの体が、宙を舞った。 たた 体が地面に叩きつけられたところで目を覚ました。 寝台からは転げ落ちているし、もっと驚いたことに、本当に涙まで流している。 ( なんて夢だ ) こんなに自分の寝相の悪さに驚いたことはない。悔しくて、そのままそばで寝ているハ ミルのところまで這いずっていった。だが寝惚けているせいか、手足に力が入らない。夢 で疲れきってしまったのか。 地面の上ではあるが、何枚かの毛布にくるまったハミルは健やかな寝息をたて幸せそう しやく アに熟睡している。癪にさわって揺り起こそうとした。 「ハ、、、ル か、触れた暖かい毛布が、アレクスの餅にまた睡魔を呼び寄せた。アレクスは ( ミル まくら を枕に、再び意識を失いかけた。 「ん ? ようやくハミルが半分目を覚ました。

9. 光と影のトラキア

この人は、その大切な父親を失ったばかりなのだ。 どうしてやることができるだろ一つ。 「行ってみましようか」 どう ? とティナを見た。ティナは首をかしげた。 「どこへー 「父上の墓前に。お疲れだろうが、またいっこの地に来られるかわからない。だいたいの 場所ならルデトから聞いておきました。多分あの辺だろうと、自分には見当がっきます」 「だが」 「カビュレの村は、今日の午後には無人になっているはずです。トラキア軍は解散した。 ルデトも今ごろアンフィポリスに発っているはずです」 ティナの心に風が吹いた。 ア「そう」 「父上に、ちゃんとお別れしたほうがいい」 の リュシアスが返事を待っと、しばらくして、ティナは小さくうなずいた。 影 しやく 癪だったが、この男のもっ不思議な包容力が、ようやくじわじわと伝わってきたのかも しれない。 こうして、ちょっと想像もしていなかったなりゆきだったが、リュシアスはティナを連

10. 光と影のトラキア

218 るのだ。人間、生まれがよく、かっ学術的探求心が強いと、こういう手に負えないことを しかちである。ハミルはうんざりした。 ( ナーザニンもよくこういう顔をするんだよな ) 仕方なく答えてやった。 「父の身の回りの世話をしていた女性だよ」 アレクスが驚いて目をみはった。身分ある男性の身の回りの世話、といえばこの時代、 とぎ 夜の伽の意味も含める。 あいしよう 「父親の愛妾に横から手を出したのか」 「違う」 と、ハミルはきつばりと否定した。 「出そうとしたが , ーー」 最後までいかなかった、という後ろ半分のせりふは、アレクスが聞き取れないくらい小 さ 2 、こもった。 あのときのことを思い出すたびに、ハミルは自分がわからなくなる。 たしかにサラが好きなはずなのに、どうしてあの夜、あの人相手にあんなことになった のか、今でもよくわからない。 「どうしようもなかったんだ。こう、体が勝手に動いて