分がいる。 身をのけそらせた。内に籠もっていた叫びが、ついに外にほとばしった。瀕死の獣がだすよ うな掠れた悲鳴だった。 じゅうまん 頭の奥が軋みをあげる。内臓に大量の膿が溜まったような不快感が体に充満する。サーリフ の命令に逆おうとしているためだ。 身をよじるような苦痛が増加していく。 ( もう、いやだ ) 体を縛める鎖を引き千切るように、アンジェラの上から離れる。筋肉が削ぎ落とされるよう な痛みが襲ってくるが、身をひるがえして足を踏みだす。 宴腕を一気にのばして短剣を突きだす。その先には、サーリフがいた の フ 切っ先は敵の肉まではとどかなかった。服に触れるまえに強烈な腕の一撃が顎を襲い、体が 一はじきとばされた。 骨が砕けたのかもしれなかった。顔面から響く激痛で、意識が遠のいていく。それでも、満 子 兇たされたように心が昂揚していた。 の 人 「カテリナ ! 」 アンジェラは叫んだ。驚きと喜びが二重になって心が奮いたっていた。カテリナは勝ったの かす うみ ふる ひんし
湖面からの高さは、五階か六階ほどに匹敵するだろう。 風がふくと、振り子のようにゆっくりとゆれる。 アスカニオだった。後ろ手に縛られてつるされていた。恐怖に顔を緊張させている。身がす くんで暴れることもできぬようだ。 その足下には滝壺がある。 突起に結んだ縄のもう一方の端はサーリフがたっ岩の足場にまでのびていた。縄は小さな岩 の突起に結びつけられていた。 縄を切れば、高みから湖に落下することになる。 しぶき 視線を少年の真下に移動させた。白い飛沫が飛び散る水面には岩がっきだしている。 宴 ( はやくこい。ギヴァ ) 彼はもうひとりの兇王子が現れるのを心待ちにしていた。 オッソ 一ヴァイサルの〈骨〉などどうでもいいのだ。目的はギヴァそのものなのだから。 ( 今度こそ阿片漬けにするか。それとも : : : ) 子 兇どんなにその瞬間を思い描いただろう。いつも邪魔に入るヴァレージがいないこのときを。 のラ・ファミリア 人〈家〉の個室でひとり眠りながら、身を焦がした。ヴァレージがギヴァの部屋を訪れている のではないかという疑念が体を駈け巡った。長身の兄が小柄な弟に身をよせ、肌を触れ合わせ さいな る。ふたりが体を重ねた映像がサーリフを苛みつづけた。 ひってき
奴らはとっぜん襲ってきた。父は即座に殺された。女であった母と彼女はなぶりものにされ はが 数人がかりで手足を押さえられ、服を剥された。いくら絶叫しても、獣と化した男たちはた だ欲望を満たしつづけた。男どもの荒い息が耳に焼きつく。体の上を固い指が這い回る。体も 心も引き裂かれていった。気づいたとき、母は息絶えていた。 忘れることはできない。 うら 世を怨み、人を憎んだ。 すさ 荒みきった自分を救ってくれたのは、アンジェラだった。 りゅうみん さまよ 流民にまざって、各地を彷徨っていた。身も心も荒れ果ててデ、ンペイにたどりついた。あ 宴のままならば、売に身を落とすか、のたれ死ぬしかなかっただろう。ティマイオスの教会に ほどこ フ いったのは、貧民にわずかながらも施しがあるときいたからだった。小さな碗一杯の汁であっ たが、それで一日の飢えをしのいだ。 サ 教会の隅で、貧しい人々と身をよせあっていると、ひとりの修道女が近づいてきた。 子 兇それがアンジ = ラだった。 人「どこからきたのです ? 」 彼女は手を握ってきた。薄汚れた手であったのに、なんの躊躇いもなかった。 最初は、かまわないでくれと、手を払った。 こ 0 ためら
122 行き場のない怒りが胸中で暴れまわる。 なんで自分が襲われなくてはならないのか。両親を殺されねばならないのか。だれにも守ら さまよ れず身ひとつで各地を彷徨わねばならなかったのか。 うら こくあく 男が憎かった。自分を酷悪な境遇に叩きおとした連中を憎み、怨んだ。どうしようもない感 情が体を灼く せいじゃく おきあがると、天幕をでた。手に剣がある。静寂が教会の庭を包んでいる。自分の足音だけ たか がやけに響く。昂ぶった気持ちのままに大股になってしまう。 距離をおいたところでたちどまった。 ふる たんれん 剣を抜いて、揮いはじめた。鍛練の素振りだった。剣を振る。なにもないはずの闇の空間 に、敵がいると思い描き、そこを斬る。相手が素早い突きをくりだしてくると想定し、身をか わしながら、突く。闇にうかびあがる敵の姿は、黒い長い髪をもち、黒衣に身を包んでいた。 酷薄そうな切れ長の目がこちらをにらんでくる。 ギヴァとかいう、出自のわからぬ男だ。死体をあやつる悪魔の使者だ。 ( アンジェラ様には手をださせない ) 額に汗がにしんでくる。吐く息が荒くなる。 この荒れた世には、彼女のような人が必要なのだ。これ以上、自分のような女をつくらない ためにも。 や 0 しゆっじ
270 ふところ サーリフの懐に入りこむ。アンジェラを己のものにしようとするだろう。狙うならそこだ。 ( それがだめだったら ) 覚悟はできている。 ( ヴァイサル ) ギヴァが倒したという〈兇王子〉の名だった。 ( どうやって倒したか、ギヴァは教えてくれなかったけれど ) アンジェラにはわかっている。ギヴァがあやつる死体は悪鬼のような速さで動く。いま垣間 をいくらサー 見た〈兇王子〉に匹敵する動きだ。間近で彼に動かされた死体が攻撃を加えれま、 リフでも : めくば ギヴァに目配せした。 彼ならその意味がわかるはずだ。黒い兇王子は痛みをこらえた顔のなかで、目を見開いた。 そうはく 身がわずかだけまえに動く。顔色は蒼白だ。傷は深いのだ。 「だめだよー だめだ、アンジェラ様 ! 」 アス、カニオの叫びが湖の岸から響いてきた。 サーリフと目をあわす。笑顔のままだ。きっと満足しているのだろう。ギヴァをはいつくば らせ、神に身を捧げた女で遊ぶつもりなのだろう。 一歩一歩たしかめながら歩いていく。
指で頬の下をぬぐった。その動きさえ優艶だった。 「ギヴァ殿、もう少し話をききましよう。この方はあなたの兄弟なのですよ」 「そう、そうだよ。ギヴァ、信じてくれ」 アンジェラがサーリフの横に身をのりだす。 彼の唇の両端があがった。笑顔が戻ってきた。 とっぜんサーリフはアンジェラの頬を張った。強烈な一撃で小柄な体が吹き飛んでしまう。 体から切り裂かれた衣の端が剥がれた。太股や腕や肩が露になった。 低い笑いが、うずくまって動かない修道女に浴びせられる。いっ終えるともなく笑いつづけ 「莫迦だなあ。僕が悔い改めるわけないたろう えいり すみきった鋭利な声がギヴァの傷をさらにひろげるように思えた。笑いをはさみながら声が でる。 「アンジェラ、自らわが足下にくるんだ。聖女の身を、神ではなく、兇王子に捧げろ。そうす れば、ギヴァやアスカニオを助けてやってもいいよー ( この男はなんでここまで酷いことができるのだろう ) しび アンジェラは腕で胸を抱くようにした姿でよろけながらたちあがった。うたれた頬は痺れて ゅうえん あらわ
抵抗はできなかった。逆らったら殺される、と思った。 ( やめろ。サーリフ ) 声とともに、体が離れた。 床に腰を落としている全裸の少年を、新たな人物が見下ろしていた。 よこしま ( おまえの邪な道へこの子をひきこむな ) ヴァレージだ。ギヴァの絶叫をきいて、助けにきてくれたのだ。 ビオンド サーリフは背に流していた金髪をなびかせながら、去っていった。憎しみに満ちた目線をヴ アレージに残して。 ソヴラノ・ヴォルトウォーゾ 考えれば、〈快楽の宗主〉の歪めた顔を見たのは、あのとき一度きりだったような気が 宴する。 フギヴァは〈家〉で身を守るためにも兇王子にならねばならなかった。いつもヴァレージが守 一つてくれるわけではない。兇王子としての力を得れば、自分を害する者から身を守ることがで きる。 子 兇何度となく、サーリフとの暗闘があった。いくらギヴァが拒絶しようとも、笑っていた。 人 ( いっか、おまえをはいつくばらせてやる ) あんたん 暗澹たる記憶を封じこめるように、意識をいま目前にいる強敵に集中させる。 いまもギヴァを襲撃しにきたというのに、顔には笑みを浮かべていた。
ごとき表情だ。 ぞうお カテリナが足をひきずりながら近づいてくる。顔には憎悪がある。歯の音がきこえるほどに 唇をかみしめている。剣でギヴァを斬る気のようだった。 「まって。まってよ」 アスカニオだ。ギヴァの背後からでて、女騎士のまえに両手をひろげて立ち塞がった。 「ギヴァが見せたカだけで悪魔呼ばわりするのはおかしいよ。ギヴァのカで皆を助けたんじゃ オしカー 拳を顔の横に握って身を沈めて、あらんかぎりの声を絞りだした。 「怪我人さえ襲ってくる傭兵のほうがよほど悪魔に近いよー 宴カテリナにつづいて剣をかまえて歩みよってくる修道会の騎士たちもいる。 ファンジェラは身をひるがえして皆にむいた。ギヴァとアスカニオを守るように両手をひろげ サ 「やめなさい。目のまえに起こったことだけに惑わされて、人を責めてはなりません」 子 兇皆の足がとまる。 人「この方が見せたカはたしかにおそましいものかもしれません。ですが、この方が私たちを救 ってくれたのですよ」 横目でギヴァを見る。 こし
228 若い公女が体力で勝ったのだ。疲労で息が荒くなった公妃の突きをはね上げてかわすと、が らあきになった胴に一撃を放った。 帷子に守られた身は剣を防いだが、衝撃までは跳ね返すことができずに倒れた。その肩ロへ ちしぶき 剣がふりおろされる。肩当ての内側へ刃が食い込み、血飛沫が散った。 絶叫とともに、公妃は肩を押さえながら床をのたうちまわった。身をひっくり返すたびに赤 い液体が零れる。丸い赤い点が撒き散らされる。 声は絶え絶えになる。 「サーリフ様」 公女は剣をすてると、乱れた髪も服もなおそうともせずに歩いてくる。 物欲しそうに顎をつぎだして左右に動かす。目を細めていれば、男の気を引くと思っている のか。幾筋かの髪が顔を覆った。 「サーリフ様ー 「よけいなことをするから」 サーリフは公女の頬を逆手で打った。勢いによって小柄な体は床に転げた。 頬を押さえて動かなくなる。肩を震わせて泣きだした。 背後に控えている女たちがくすくすと笑っている。 オンプラ 「〈影〉、いるんだろう。でてきなさい」 から
かいません。これ以上の乱暴は、神がお許しになりませんよー 信じがたかった。暴力に酔っている狂暴な敵に無防備な身をさらし、説き伏せようとしてい とな た。そんなことができるわけがない。飢えた獣に神の教えを唱えたところで、襲われている修 道女のようになぶりものにされるか、殺されるのが落ちだ。 「神だって」 騎兵は馬をなだめながら、憎々しげにロ許を歪めた。 「神様は、どう許さないというんだい ? 「そうです。神はあなたがたの行為も天でご覧になっています。はやく剣をおさめなさい。懺 悔するのです。このような乱暴をしたことも、いままでの罪も」 けさぎ 宴笑い声とともに指揮官は、腕をふりあげた。アンジェラを袈裟斬りにする気だ。 フ 剣は空を斬った。 一彼女の身は、地面にあった。切っ先から離れた場所に、小さなもうひとつの体と重なって転 子かっていた。 彼女に跳びついて、刃が迫るまえに地面に押し倒したのだ。 兇アスカニオだった。 , 人兵士はよけられたことに怒ったのか声を荒らげて、馬をふたりによせる。 ギヴァは跳躍しようとした。兇王子の跳躍力をもってすれば、敵をとめることなどたやす 1 人 ざん